2023年3月17日金曜日

3月19日 四旬節第4主日

 山谷神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ】 四旬節第4主日 A年 2023年3月19日 山谷神父

今日の福音は奇跡のお話しですね。以前、ルルドの奇跡を興味本位で取り上げていたテレビ番組を見たことがありますが、この中でカトリックの神父さんがインタビューに答えていて、「奇跡があったことよりも、むしろ奇跡を体験した人がその後、どのように生きたのかが大切だ」と言っていました。

今日の福音はヨハネ9章の盲人の癒しでした。イエスと出会い癒しの恵みをいただきます。普通の奇跡物語のパターンではこれで終わりですが、今日のお話しの特徴は、癒しの恵みをいただいた人の後日談が語られています。むしろこちらの方がメインのストーリになっています。同じように後日談が語られているのが5章のベトザタの池の癒しです。今日のシロアムの池のお話しと、ベトザタの池のお話しは非常によく似た展開で語られ、対をなしていると見ていいでしょう。ですから、二つの物語を比較することで、ヨハネ福音書が伝えようとするメッセージが見えてきます。

ベトザタの池の癒しでは、癒しの恵みをいただいた人は、ユダヤ人から尋問され、結局イエスのことを裏切るかたちで終わっています。ところが今日のシロアムのお話しでは、ファリサイ派の人々から尋問されますが、臆せず反論し、結局会堂を追放になり、イエスを信じてイエスを礼拝する形で終わっています。同じような展開でありながらも、二人の癒やされた者の結末は全く異なるものになってゆきます。ここでヨハネ福音書は、イエスとの出会いが癒しというご利益で終わるのか、それともイエスとの関係がご利益を超えた深い絆を結ぶ出会いにまで深まるのかを問いかけているのでしょう。

5章のベトザタの池のお話しよりも、今日のシロアムの池のお話の方が圧倒的に長いお話になっています。それは、癒やされた者のその後の歩みを丁寧に描いているからです。イエスは泥をこねて彼の目に塗りました。泥をこねるのは創世記で神が人間を土から形作るお話しを暗示しており、新しい人間の創造という意味があります。そして、シロアムの池での洗いは、洗礼を意味しているでしょう。洗礼を受けて新しく生まれた彼は光をもらいました。しかし、彼にはまだイエスは見えていません。ベトザタのお話しもシロアムのお話も、癒しの後、イエスは一旦その場を立ち去り隠れてしまいます。このような描き方は、真のイエスを探すという意味があります。表面的なイエスとの出会いから、もっと深くイエスと出会うためにイエスは一旦見えなくなっているのです。

シロアムの池で癒やされた盲人は、再びイエスと出会い、「信じます」と答えてイエスを礼拝しました。イエスを信じたために彼は会堂から追放され、ユダヤ人の社会では生きられない者にされてしまいます。しかし、そのような試練に会っても、彼はイエスとの離れられない絆を結んで行ったのです。ご利益を超えた、イエスとの真の絆が結ばれていったのです。私たちのイエスとの関係も、都合のいい時だけの関係で終わっていないでしょうか。



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは御子の苦しみと死によって、ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。

  キリストを信じる人々が、信仰と愛に満たされ、主の過越を迎えることができますように。

集会祈願より



第1朗読 サムエル記 (サムエル上16章1b,6-7,10-13a節)


(その日、主はサムエルに言われた。)「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」


彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」


エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。

「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」

「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」


エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。



第2朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙 (エフェソ5章8-14節)


(皆さん、)あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。

光の子として歩みなさい。

――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――

何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。

実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。

しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。

明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ9章1-41節)


(そのとき、)イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」


イエスはお答えになった。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」


こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。

そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。


近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。


そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」


人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」


ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。


そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」

彼は「あの方は預言者です」と言った。


それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。

「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」


両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」


両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。

両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。


さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。

「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」


すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」

彼は答えた。

「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」


そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」


彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」


彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。


イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

彼(は、)「主よ、信じます」と言って、ひざまず(いた。)

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」


イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」