2014年8月10日日曜日

年間第19主日 ・ 洗礼式が行われました

台風11号が四国そして本州に上陸し、各地で猛威をふるっていますが、
札幌は、昨日、今日と束の間の好天に恵まれています。

先週の6日から平和旬間が始まりました。平和を思い、考え、祈る月です。

今日は教会にとって喜ばしい日となりました。
赤ちゃんの洗礼式が行われたのです。
後藤神父様にとっても、この教会で初めての洗礼式ということでした。
神父様からは、
「新しい人生をスタートするこの赤ちゃんが、神の祝福のもとに、神の家族の一員となって、私たちと共に神の国を目指して歩む成長を遂げられるように祈りたいと思います。」
という祝福の言葉が贈られました。
おめでとうございます!



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『8月に入り広島や長崎の原爆投下という悲惨な出来事を思い出させる月です。
私たちにとって8月は、改めて平和というものを考える月になります。
原爆投下の時間に合わせて、この北一条教会の鐘も鳴り響きました。
鐘の音は、私たちの心に届いていたでしょうか?
鐘の音と共に、平和への祈りが私たちの心の中にあったでしょうか?

この6日から平和旬間が始まっています。
そして、昨日(9日)は、札幌地区主催の平和講演会が北11条教会で行われました。
今回、講師として招聘されたのは、テレビでもおなじみのエコノミストで大学の先生である浜矩子さんという方でした。ご本人もカトリックの信者だということです。
エコノミストらしく「グローバル時代の福音的な生き方」という副題が付けられており、今の日本の経済政策に対し鋭い批判を展開しておりました。また、今の宰相から見えてくる人間軽視や富国強兵を想起させる動きは、憂慮する事態だというお話もされていました。
私たち自身も政治の動きに対しては、注意していく必要があろうかと思います。

また、教皇様も先日、バチカンに来られた人たちにメッセージを発せられました。
その日は、歴史上最も悲惨な戦争であった第1次世界大戦勃発の日から100年目を迎えた日でした。
教皇様は「今こそ、戦争を止めて下さい」というメッセージを発せられました。

平和を考え、平和を願う8月を迎え、私たち一人一人は、どのように平和を思い、考え、祈っているでしょうか?

私たちの心の中には、平和を祈る心と同時に、平和からは程遠い思いや不安が去来することがあります。
ですから、本当の平和とは、私たちの心の中に作られていかなければなりませんし、身近な社会で実現していかなければならないと強く感じます。
心の中の不安、心の中の騒々しさというものは、神へ心が向かうことから離れさせ、違う方向に向かわせてしまいます。
それは、今日の福音の場面に出てくるガリラヤ湖の弟子たちの姿からもうかがえてきます。
吹き荒れる強い風で、足元に波が寄せてくるとイエスから心が離れて、心は恐れ怯えてしまったペトロは、その途端、湖から少しずつ沈んでしまうという事態になりました。
恐れが信頼よりも心を支配したとき、益々沈んでいく状況を作ってしまう、それは私たちの毎日の生活の中にもあるような気がします。
私たちは、箱舟のこの教会に入って、世の荒波に向かって歩む日々を送っています。
この教会は、箱舟の底を模して作られましたが、まさに私たちはこの教会と共に旅する人生を歩んでいます。

私たちを取り巻く社会、そこには混沌とした世界もまたあります。
平和から程遠く、不安をもたらす荒れ狂う嵐のような動きも起こっています。
世界の中を見渡すと、そうした状況に今置かれている地域もたくさんあります。
イエスから目を離すと、沈み込んでしまう信仰、そこから私たちはいつも「助けてください」と叫ぶばかりかもしれません。
様々な困難にぶつかり、くじけそうになりながらも、イエスの言葉、「来なさい」というその言葉に私たちは救われる思いです。
ペトロも「信仰の薄い者」と言われながらも、イエスに向かって一歩を踏み出したとき、そこに道が開かれイエスが待っていました。
信じること、信頼すること、それこそ私たちが忘れてはならない心だと思います。
私たちの信仰が、揺らぐ事のない、しっかりした信仰に成長するように、今日もまた共に祈っていきたいと思います。

この後、私にとってもこの教会での初めてとなる洗礼式が行われようとしています。
新しい人生をスタートするこの赤ちゃんが、神の祝福の元に、神の家族の一員となって、私たちと共に神の国を目指して歩む成長を遂げられるように祈りたいと思います。
また、その家族も祝福されますように、成長を見守りながら祈っていきたいと思います。
それでは、只今から洗礼式を始めます。』


洗礼式の様子です。
洗礼を受けたのは、ご夫婦でいつも教会共同体のために献身的にご奉仕されている柳澤様ご夫妻のお孫さんです。



おめでとうございます!

現在、札幌教区からは4人の神学生が神学校で学ばれていますが、皆さん夏休みで北海道に帰省されています。
今日は、佐藤神学生が侍者と聖体奉仕者の奉仕をされました。
閉祭の前に、ご挨拶がありました。



2014年8月3日日曜日

年間第18主日

先週までの福音は、天の国のたとえ話が続いていきましたが、マタイ福音書も14章に入り、イエスの宣教の姿が語られていきます。


後藤神父様は5月に着任以来、教会運営委員会や小集会の場でよく「皆さんはどう思われますか?」「皆さんでもう一度考
てみて下さい!」とお話しされます。
私たちの北一条教会共同体は多くのテーマを抱えています。その大半は(幾つかは?)主任司祭の一言で解決すると思いますが、後藤神父様は札幌教区の今年のテーマの一つ「信徒主体の教会共同体」を進める事を常にお考えなのだと思います。
今日配布された広報誌「かてどらるの鐘8月号」の巻頭言では、「わたしたちを運ぶ箱舟・教会の旅は続いています」と結ばれています。たとえそれが最適解ではなくても、私たちが自ら考えて、共同体内の其々の役割を行動に移す事の大切さを、旅する教会のマイルストーンとしての「信徒主体の教会共同体」を、お示し下さっているのだと思います。

今日のお説教の概要をご紹介します。

『年間主日の約半分が過ぎ、そして8月を迎えました。
今日の福音では、パンの奇跡を通してイエスの宣教の姿がより浮き彫りになります。また、今日の集会祈願には「わたしたちがあなたのことばに聞き従い、まことのいのちに生きるものとなりますように。」とありますが、これは第1朗読のイザヤの預言「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。」と結びついている事からもわかりますように、祈りは様々な個所で結ばれています。
共観福音書に共通の奇跡は数多くありますが、パンの奇跡はヨハネ福音書を含めた4つの福音書に共通(ヨハネ6:1-14、マタイ14:13-21、マルコ6:30-44、ルカ9:10-17)していて、如何に初代教会の人々がパンの奇跡に深い関心を寄せていたかが伝わってきます。また、マルコとマタイは4000人の空腹を満たす内容でも共通(マタイ15:38、マルコ8:9)して書いています。其々の福音書を比較すると微妙に異なります。マタイ14章では、ヨハネが捕えられたと聞いてガリラヤに退くイエス、そして、後を追って来た大勢の人たちを憐れんで自ら近づこうとしているイエス、が描かれています。他の福音書では、イエスが集まって来る人々を受け入れた、という表現ですが、マタイでは、イエスから近づいて行った様子が描かれています。
病人を癒し、神の国の話を語るイエス、熱心にイエスの話に耳を傾ける群衆、弟子たちも群衆を諭し見守りますが、空腹という現実、自然の法則は「うら悲しく」という状態を作ってしまいます。弟子たちは、その現実において無力でした、自分の十字架を背負う事すら出来ない現実において無力でした。容易に適わない事と、私たちの信仰の生活がどの様に関わるか?について黙想できます。
今日のみ言葉は「あなたがた弟子たちの手で彼らに食べ物を与えなさい」と言われている。パンを割くイエスの手、そして割いたパンを群衆に与える弟子たちの手、「手」とは奉げる手でもあります。5000人を前に僅か5つのパンと2匹の魚、それがイエスの手によって神に奉げられた時、人々を充分に満足させるものに変えられました。神に奉げる手を私たちは大切にしているでしょうか?持っているものを神に奉げる時、神は全く違った価値あるものに変えて下さいます。私たちの手、神様に届けられる信仰を大切にしたいと思います。
今日のみ言葉を黙想しながら、弟子たちの奉仕を通して、厳しい状況になっても恵みを与えて下さるイエスとの関わり、不測の苦しみにイエスを信頼して心を向ける時に、私たちの心が豊かになります。神のみ言葉に信頼する時、神の慈しみが生きる道を切り開いて下さいます。
賛美の祈りを唱えたイエス、パンを割いて渡したイエス、そのイエスの姿が主の晩餐の時のイエスに繋がります。寝食を忘れてイエスを見つめ、そして心を向けた群衆に倣って、私たちも聖体のイエスに近づきましょう。
聖体を通して、聖体の恵みによって、新たな歩みを始める事が出来るように祈ります。』



御ミサの後、地区集会が行われ、いろいろな話し合いがされました。
聖母被昇天のミサは、祝日である15日に行うべきなのか?それとも、これまでどおり主日に振り替えて行うのがいいのか?(今年は、8月17日の主日に行うことになりました)
8月31日にはチャリティバザーが行われますが、外国人信徒との交流は今後どのように進めていったらよいのか?
巡礼の旅を計画していましたが、どのように進めるのか
10月の白石墓地合同墓参は、今年は当教会が担当教会になっています。役割分担も考えていかなくてはなりません。
そして、2年後には、北一条教会の献堂100周年を迎えます。どのような形でこの記念すべき年を迎えるのか?
今後もたくさんの行事が控えています。忙しさに流されることなく最も大切な「共同体の一致」を見失わないようにしていきたいのものです。


今日の午後13時から白石墓地で、今年帰天された中江洋神父様と荒木関巧神父様の納骨式が勝谷司教様の司式で行われました。
「教区の良心であった中江神父様、そして知恵であった荒木関神父様。両神父様が帰天されたことは教区としての大きな損失でした。」という勝谷司教様のお言葉がありました。






2014年7月20日日曜日

年間第16主日 「毒麦のたとえ」

今日の福音(マタイ13・24-43)は、先週の「種蒔きのたとえ」に引き続いて「毒麦のたとえ」が語られました。

後藤神父様のお説教では
「良い種を蒔いた畑の中に蒔かれた毒麦。毒麦はある程度成長しなければ良い麦と見分けがつきません。早めに悪い麦を抜こうとしては、良い麦さえも抜いてしまうかもしれません。良い麦を一本でも抜いてしまわないように刈り入れまで待つこと、これは一人の犠牲さえも出さないという神様の慈しみと愛、そして忍耐強く私たちを待っていてくださる神様の姿が表されています。」




今年もカルチャーナイトに参加しました

7月18日(金)は教会として8回目のカルチャーナイトに参加しました。

17:30~21:00まで教会を

一般市民の皆様に自由に出入りしていただく

催しで、お向かいのTYhや市民ギャラリーなど

今年も百以上の文化施設、教会などが

参加しています。

北一条教会には約100名の方が入場され

ミサやミニ・コンサート、交流広場で

過ごされました。

ミサには、教会が初めてというご家族や

50年前に当教会で幼児洗礼を受けられた方も参加され、

司式された森田神父様も歓迎のお話をされました。

ミニ・コンサートには今年は童謡を歌う会が加わり

聖歌隊、オルガン演奏とともに楽しいひとときでした。

カテドラルホールには今年も交流広場が設けられ

絵手紙作成に加わる方、喫茶コーナーで談笑される方で

終了時間ぎりぎりまで盛り上がりました。

初めてカルチャーナイトを体験された後藤神父様からは

いろいろ企画のアイデアをいただき、

また、来年に向け、感謝のうちに終了しました。

福音の喜びが多くの市民の皆様にお伝え出来たことを

あらためて感謝し、種々ご尽力いただきました教会員の

皆様にお礼を申し上げます。(担当窓口 宣教養成部・石井)


聖堂でのミサ聖祭


カテドラルホールでの絵手紙作成と展示


聖歌隊による童謡の合唱




2014年7月14日月曜日

年間第15主日 カ障連「ボランティア(サポーター)研修会」

7月13日(日) 藤女子大学でカ障連札幌大会実行委員会主催の
「ボランティア(サポーター)研修会」が行われました。
当教会からも十数名が参加し、場崎神父様の講話に熱心に耳を傾けました。



午前中の講話に続き昼食を挟んで、グループにわかれ分かち合いが行われました。

その後、14時半からは場崎神父様の司式によりミサが行われました。
神父様のお説教では、ミレーの絵画「種を蒔く人」のエピソードを交えながら、蒔かれた種(主の御言葉)が豊かな実を結ばれるよう私たちに語りかけられました。




ともに主の食卓に招かれた私たちが、どのように生きていかなければならないのか、あらためて考えるよい機会となると同時に、カ障連札幌大会に向けて、私たちの心が一つに結ばれるような研修会でした。

2014年7月6日日曜日

年間第14主日

 神の愛、イエスの無限の愛のしるし、御心を讃える「イエスのみこころの月」が終わりました。
また、先週は年に一度の司祭大会を終え、5月にご着任された後藤神父様も一息つかれたのではないかと思われます。
 今日の福音はイエスのみ心の祭日と同じ個所(マタイ11・25-30)が読まれました。
 「重荷を背負う者は、イエスの軛によって安らぎを与えられる。」
「軛」を国語辞典で調べると、①車の轅(ながえ)の前端に渡して、牛馬の頸の後ろにかける横木。
②自由を束縛するもの。「―を逃れる」 と言う説明がありました。「軛」というと旧約の「バビロンの軛」のように②の束縛のイメージが強いのですが、当時のファリサイ派の指導者も「軛」として人々に律法の遵守を求めていました。重荷を負う者には、「律法の遵守を果たせない弱い者」という意味が含まれていて、今の世の中に当てはめると、社会の様々な環境の中で苦しむ人々とも言え、イエスを信じイエスの負いやすい軛による心の憩いが必要な人たちです。
「重荷」を調べてみますと、ギリシャ語では「ポルティオン」とあり、これは「自分に与えられた任務、責任、義務」を表わすそうです。




後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

10章までは、イエスの宣教に対する人々の反応が描かれていた。
イエスは父である神を、神の愛の恵みを告げ知らせようとしたが、その時代の社会は大変厳しく、傲慢、自惚れ、が蔓延し、名声的な富、社会的な地位を求める社会が横たわっていた。指導者である律法学者や、ファリサイ派の人々により、律法を盾に貧しい人々、苦しむ人々に重荷を負わせる状態が続いていた。
その様な中で、イエスの掟は重くない、愛に満ち、心地良さと開放感を与えるものだった。
重荷を負って苦労している人は、皆、私のところに来なさい、辛い状況の中でイエスの言葉は人々を優しく包み込む。イエスの御心は、神の前に幼子のように素直な人々の心に特に届いて行った。イエスの言葉は人々の心の奥にまで届き、謙虚で耳を傾ける人々、虐げられ、苦しむ人々に救いをもたらした。神により頼み、神に信頼し、素直に心を開くしかない弱い人々に、イエスは救いをもたらす人として受け入れられた。
イエスの御心は私たち一人ひとりが神に信頼し、神と平和を分かち合うこと、私たちの求める安らぎは、イエスの御心を通して与えられる。イエスの学び舎に入ると、そこに私たち一人ひとりの信仰者としての心の安らぎがあるような気がします。私たちの信仰において神を信じ尽くすことが出来たら、私たち誰もが抱えている不安よりも希望が心を満たす。心の片隅に、自分自身を満たす希望が信頼から生まれる。

2014年6月29日日曜日

聖ペトロ 聖パウロ使徒の祭日

今日のペトロとパウロの祭日は、聖人の中でも特別な日として主日よりも優先されます。

当教会で受洗した信徒のうち、ペトロ、パウロの霊名は57名にものぼるそうです。

勝谷司教様のモットーである「力は弱さの中でこそ充分に発揮される」(Ⅱコリ12:9)この言葉は、パウロに対しての主の答えでした。

今日の勝谷司教様のお説教では、ペトロとパウロの二人の弱さについて、その弱さの中ではたらかれる神の力についてのお話がありました。


ミサの後に行われた教会運営委員会には、
赴任後はじめて後藤神父様にも出席いただきました。

2014年6月22日日曜日

キリストの聖体

58年ぶりの14日間連続の雨を記録した札幌でしたが、
今日は日中、本当に久しぶりの青空が広がりました。

御ミサの後、カテドラルホールで永遠の名作「汚れなき悪戯」の鑑賞会が行われました。修道院で育った孤児のマルセリーノ坊やの奇跡の物語。感涙したのではないでしょうか。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『ピエタと呼ばれている「師イエズス会」の函館出身のシスターから手紙や小冊子が時々寄せられます。その小冊子に、師イエズス会のシスターの詩が紹介されていました。
聖体がテーマになっているその詩を紹介します。

今日この手にご聖体を受けました
今日この手でご聖体を食べました
一日一緒に、天の父よと祈りました
命あれば、明日もどうぞこの手にご聖体をください

短い詩ですが、ご聖体を大切にして祈り続けるシスターの心が、この短い言葉の中に込められています。聖体の前で今日も欠かすことなく祈りが続けられていることと思います。
キリストの聖体の祝日を迎えています。
年配の信者さんは、この日を迎えるとかつての札幌での行事を思い起こしているのではないでしょうか?
札幌ではかつて、聖体の祝日の日に藤学園の講堂で聖体大会が行われていました。さらに、もっと以前には聖体行列も行われていたようです。

聖体は、イエス・キリストの最後の晩餐を起源とし、主の祭壇の前に一致して祈る私たちとミサは深く繋がっています。
聖書で語られる聖体の聖典については、皆さんも何度も読まれていることでしょうし、今日も聖書で聖体のことが語られています。
一コリント10章と11章は、非常に分かりやすく印象的に聖体のことが語られており、今日の第2朗読では、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかること」と書かれています。現代ではミサという言葉で儀式を表していますが、昔はこの聖書の言葉のとおり、「パンを裂く儀式」とも言われていたそうです。
コリントの手紙の11章では、「主の晩餐の制定」について書かれており、私たちは聖週間の聖木曜日には毎年耳にしている御言葉になっています。さらに後半では、”ふさわしく”主の晩餐にあずかることにも触れられています。
私たちは、”ふさわしく”ミサにあずかっているのでしょうか?
信徒の心構えとして、”ふさわしい”というのは、どういうことを指すのか考えてみたいと思います。
教会には、最後の晩餐を記念するパンがミサの中でいつも用意されます。神の恵み、神の救い、神の赦し、というパンが私たちにいつも用意されています。キリストを求めて、近づこうとしている人々に対して、私たちはふさわしい心で、キリストに近づきパンをいただくことになります。
ですから、ふさわしい心構えというのは、まずキリストに近づく、近づきたいという心のことを言うのかもしれません。私たちは共同体の中で自分にも人に対しても、それを妨げてはならないということが言えるのかもしれません。キリストに近づき一致し、パンをいただきたいというその心こそが、まず最初に”ふさわしい”心構えであるかもしれません。
ミサは本来、キリストに向い一致する食事を現しています。一致を拒む心があるとすれば、それは決してふさわしい心とは言えないと思います。だからでしょうか、ミサを始める最初の祈りの部分で、自分の罪を認め心を清める祈りが用意されています。
今日、キリストの聖体を祝いながら、ふさわしい心を持って、聖体に近づこうとしているか、私たち一人一人の心を黙想してみましょう。
そして、教会共同体の中ばかりでなく家庭の中でも、一致は大切にしていかなければなりません。
今日は、そういう意味でも、キリストの聖体に繋がる私たちの一致ということを振り返る一日でありたいと思います。』

2014年6月16日月曜日

三位一体の主日

三位一体の祝日は、1334年 教皇ヨハネ22世により全世界の祝日として制定されました。
私たちは、「父と子と聖霊」の御名によって洗礼を受けました。
今日、私たちが十字を切る度ごとに、この恵みを思い起こすことにしましょう。

後藤神父様が宮前町教会の主任司祭だった数年前に、ご自身で集められたり、信徒の皆さんから募集した「三位一体」のイコン(御絵)をカテドラルホールに飾りました。
イコンのコピーを木片に貼り付けたり、額に飾ったりすることで、また違った味わいになります。そのテクニックをそのうち伝授して下さるそうです。ご興味のある方は、ぜひ神父様にお声がけください。


今日の主日ミサの後藤神父様のお説教をご紹介します。


『三位一体のことをお話しするのは簡単なことではありません。そのこともあり、一年の中でも三位一体の主日ミサのお説教は少し気が重くなります。
皆さんは、三位一体の意味をどのように理解しているでしょうか?
私自身も公教要理や神学校で学びましたが、今日の主日を迎えて三位一体を言葉で表す事の難しさを改めて感じています。
全能の神を言葉で表すのが難しいように、三位一体を説明するのは永遠を説明することと同じように難しいことです。究極的には神を信じるか信じないかに繋がることだと思います。
北一条教会に赴任して一ヶ月が経過しましたが、最初の主日ミサの日は「母の日」で、今日の三位一体の祝日は「父の日」、そして着任する直前は「こどもの日」でしたので、家族としての共同体を思い起こす三位一体の祝日を迎えています。
神は三位一体であるということを十分に理解しようとするなら、誰しもそれはどのような意味なのだろうかと疑問を持つことは当然です。それほど三位一体は難しい教義であると思います。しかし考えてみると、難しい教義がそこにあるにも関わらず、私たちは毎日のように三位一体を神に向かって祈っています。
私は真理を理解することは重要なことだと思いますが、単純に受け入れること、信じることも信仰を生きる上ではとても大切なことだとも思います。

今日のヨハネによる福音(ヨハネ3・16-18)は大変短い福音でした。ヨハネ福音書は、御父を啓示する御子の福音書とも呼ばれています。何故かと言うと福音のなかでは、神を表す父という言葉が122回も使われています。これは他の福音に比べ圧倒的に多い数になっています。マタイ福音書では44回、マルコ福音書では5回、ルカ福音書では17回となっていることからも分かります。また、父という言葉と同時に、子という言葉も私たちはよく聞きます。子については、神の子、人の子、私を愛する子とか、ダビデの子という言葉も旧約の中では見られるように、様々な表現が使われていますが、ヨハネ福音書でだけ「ひとり子」という表現が4回使われています。またイエス自身を表す「わたし」という一人称も際立って多く使われています。これらのことからもヨハネ福音書が御父を啓示する福音と呼ばれる所以が分かります。
「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」私たちが何度も何度も聞いたことがある御言葉です。私たちの信仰は三位一体の祝日だけではなく、あらゆる機会に御父と御子と聖霊とに常に導こうとされる神がそこにまします。主の御言葉に従い、その御業にならう努力も必要になります。
私たちの信仰生活はどうでしょうか?
旧約では次のような物語が展開します。モーセに導かれていた民のように、神を信じると言いながらも道を誤り罪を犯してしまう民がそこにはいました。ひとり子であるイエスを見つめ、全ての人の僕にならなければならないと願いながらも、遣えるために身を低くされたイエスを忘れ、自分を優先してしまうことの多い私たちの信仰がそこにあるのではないかと思います。そのような罪を犯す私たち一人一人にも神は常に聖霊をおくり、私たちの行いを変えてくださる恵みをもたらしてくださっています。7つの聖霊の恵みを私たちに与えて下さっているその神こそ、三位一体にまします神ということでもあるのです。三位一体の偉大なる神の深い愛と慈しみは、今日の福音にも描かれています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
こう父なる神を表現しています。
信じる者に対して、三位一体の偉大なる神は罪に対してさえも限りない深い愛を示してくださいます。私たちはその神を信じ、その神を見つめながら生きています。
私たちは、生活の中で何を優先させているでしょうか?
時々考え込んでしまうこともあります。どちらかというと裁く方に心が向いてしまうのが私たちではないでしょうか?裁くことではなく、隣人の苦しみを分かち合ったり、赦しあったり、助け合ったりするほうの心を大切にしたいと願います。
私たちを憐れみ、慈しみの手を常に差し出してくださる三位一体の神の深い配慮に今日は感謝して、私たちの新しい歩みが始められるように祈りたいと思います』

2014年6月8日日曜日

聖霊降臨の主日

今日は聖霊降臨祭をお祝いする主日です。復活節は50日間お祝いしますが、その最後の日曜日が聖霊降臨の主日です。聖霊降臨祭は過越祭から50日目にあたることから五旬祭(ペンテコステ)とも呼ばれます。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『昨日のニュースでは、安倍首相がバチカンを訪れフランシスコ教皇と謁見し訪日を要請したところ、教皇様は「ぜひ日本を訪れたい」と前向きな考えを示したということが報道されていました。先日当教会で講演された京都の司教様がお話されていた高山右近の列聖の実現にも期待が持たれるのではないでしょうか。
 教皇様は、バチカンを訪れる巡礼団の信者の皆さんに講話を続けておられます。そのことがカトリック新聞で毎週記事になっています。聖霊降臨が近づいたこの3週間ほど前からは、聖霊についてお話を続けられています。聖霊には七つの賜物があり、上知、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬という言葉が使われており、かつては公教要理でも触れられてきました。
 最初に教皇様が話された賜物の一つは、「聡明」についてでした。この賜物は信仰と洗礼を通して、神の祈りに与かることによって得られる、というお話をされたようです。神の愛の計画が、人生の中でどのように示されていくか理解できるようになるために、聡明の賜物が私たち一人一人に与えられるという内容でした。そして先週は「知識」の賜物のお話があり、神が創造したこの世界を前提として、環境汚染による自然破壊に触れて、創造を通して神の愛の偉大さや、神の全ての被造物との深い関係こそが、人々が理解する助けとなるのだ、そのためにこの「知識」の賜物を私たちは大切にしていくべきなのだ、というお話をされました。聖霊の七つの賜物は、私たちは洗礼をとおして既にいただいているのですが、堅信の秘跡によって洗礼の時にいただいた恵みがさらに深く力強いものとなっていきます。
 
 さて、今日は聖霊降臨をお祝いする主日ですが、皆さんは聖霊降臨をどのようなイメージで捉えているでしょうか?
 聖霊降臨は、主の復活から7週間後に起こった出来事です。7週間の間、イエスの復活の姿を目の当たりにした弟子たちは、それまで支配していた不安から、深い信仰へと変えられていきました。使徒行録によるとイエスは40日間、弟子たちと共にいたと書かれています。
 イエスは聖霊について、既に最後の晩餐のときに弟子たちに話されていました。地上の生活を終えて父なる神の元に帰ったときには、あなた方に聖霊を遣わすと約束されていました。その約束の実現が今日の聖霊降臨の出来事につながっていきます。弟子たちは聖霊降臨によって新しい賜物をいただき、聖霊でいただいた恵みがさらに深められ、そして強められ、新しい出発の準備をすることができました。聖霊降臨を迎えた今日からの福音は、福音宣教に情熱を持ってはたらく弟子たちの姿が語られていきます。
 イエスの目的はただ一つでした。この地上においては、父なる神の世界を教え、説き、愛を持って導き、この地上での生活を終えて父である神の元へ帰るということでした。弟子たちは、主イエスが父なる神と共にいると理解したときに聖霊をいただくことになりました。今日のヨハネの福音では、復活したイエスが弟子たちの前に現れ平和の挨拶をした後、息を吹きかけられたとあります。イエスは最後の晩餐で約束した聖霊を息を吹きかけるという行為で実現されました。
 また今日の福音の最後では、聖霊の罪の赦しについてを、私たちに深く語りかけています。罪を犯すことは、私たちを神そして教会共同体からも遠ざけてしまうということを心に留めておく必要があります。だからこそ罪に打ち勝つには、神の息吹を受け、罪の根源となる悪しき心を変えていかなければならないと思います。
 私たちは、聖霊を受けた弟子たちを見つめながら、主がどんなときでも私たちと共にいてくださる、そして主が私たちにも聖霊を遣わして下さったことを確信して、信仰の喜びを歩み続けたいと思います。』


御ミサの後、年2回の大掃除が行われました。
今回は、たくさん方のお手伝いをいただきました。
大掃除が終わった後、B地区の皆さんが用意していただいた昼食をいただきました。


秋の大掃除もよろしくお願いします!