2015年5月17日日曜日

主の昇天

「主の昇天」を迎え次の主日からは年間の季節が始まります。
私たちの共同体も総会を終え、新しい体制でスタートが切られます。
今日の御言葉をとおして私たちに出来る福音宣教を考えましょう。



今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日の「主の昇天」の祭日は、本来は木曜日ですが、日本では守るべき祝日とはなっていないため、復活の第7主日の今日に「主の昇天」を迎えています。復活節が今日で終わり、来週からは年間の季節に移ります。私たちの教会でも先週、教会総会があり新たなスタートが切られています。
私たちの現実は、苦しみや悩みが日々、日常的に起こっています。私も時々お御堂で祈りますが、いつも感謝の祈りばかりではなく、悩みを抱えながら祈りを捧げるときもあります。そういう時に聖堂の壁画に描かれているゲッセマネの園で十字架の死を前にした苦しみの中で祈りを捧げるイエスの姿に、慰めや励ましを感じることがあります。
マルコ福音書は、ガリラヤから始まりガリラヤでイエスの昇天で終わります。マルコ福音は全16章で構成され、福音書の中では最も短いものです。イエスの誕生からイエスの洗礼そして荒れ野での40日間の黙想と断食という第1章から、今日の福音の第16章の最後へと続きます。このイエスの断食と祈りの40日間という数値は、今の私たちの典礼にも引き継がれています。灰の水曜日から主日を除いた40日間の四旬節を過ごし、復活の主日から40日間後の「主の昇天」まで典礼の季節を生きています。主の昇天を迎えている今日、この主の昇天に託されたみ言葉を黙想したいと思います。
イエスは弟子たちとの最後の日、「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」このように命令して天に昇っていきました。
弟子たちはその言葉をどのように受け止めたのでしょうか?
長い間、イエスと生活を共にしてきた弟子たちにとって、イエスとの別れは寂しさや不安の気持ちがあったと想像できます。しかしイエスは、辛い時、悲しい時にもみ言葉を宣べ伝える使命を弟子たちに託しました。弟子たちに託したということは、私たちにもその大切さを命令されたということなのだと思います。
イエスの話される言葉は、時に私たちの思いを遥かに超えるものがたくさんあります。私たちの価値観からすると、イエスの言葉はあまりにも大き過ぎたり重過ぎたりするのかもしれません。全ての人に福音を宣べ伝えなさいという言葉も、弟子たちにとっては大き過ぎる命令ではなかったでしょうか。自分達の力の無さを嘆いていたことと思います。でもイエスはその時、聖霊を派遣し弟子たちを励ましました。その助けによって、弟子たちそして私たちも勇気をもって、宣教に専念することができるのだと思います。ですから私たちが聖霊を信頼しなければ、聖霊の助けを願わなければ、私たちの宣教は力不足に終わってしまうのかもしれません。
福音宣教とは、私にとってどういうことだったのだろうかと、今改めて思い起こしています。それは、私自身の召し出しともつながっていたと思います。私は函館地区において、二十歳のときに初めて教会を訪れました。そこから私とキリスト教との関係がスタートしました。初めて訪れた教会は小さな共同体で、そこにおられたのはフランスからきた宣教司でした。そうした出会いから始まり、それから私はどんどんキリスト教に惹かれていくようになりました。パリミッションの神父様との会話をとおして、何故、神父様が祖国から遠く離れたこの田舎の地に来られたのか、こんなにも一生懸命に宣教生活を頑張っておられるのかと不思議に感じていました。その背景には、イエスの「全世界に行って福音を宣べ伝える」というメッセージがあったのだと思います。そのような司祭の情熱、信仰の姿をとおして、私の中に種が蒔かれていたのかなと思います。
皆さんにとって、福音宣教を行うというのはどいうことなのでしょうか?
私たちの福音宣教は、小さいながらもいろいろな形となって現れていると思います。教会の中でも時々感心することがあります。平日のお御堂で椅子の座布団をひとつひとつ並べ直している方々がおられます。初めて教会を訪れた方が聖堂に入ったとき、そのきちっと並べられた座布団を見ることで、心が和み祈りをする気持ちも深まっていくのではないかと思います。小さな行為かもしれませんが、間接的には福音宣教につながっていくのではと思います。このように、私たちにはいろいろな形で出来ることがあるのではないかと思います。私たち一人一人が、小さな行いを大切にして実践していくことで、共同体もより活き活きとしていくことでしょうし、共同体の外とのつながりも深められていくような気がしています。イエスが昇天して姿が見えなくなるまでは、イエスは自ら語り、自ら手を伸ばして、病む人、貧しき人に近付いていきました。慰め癒すのもイエス自らが行うのを弟子たちは身近に見てきましたが、主の昇天の後、弟子たちは自分達がイエスの行いを受け継がなければなりませんでした。しかし、自分達の不足するところは聖霊が助けて下さる、その約束を信じて、弟子たちは力強く歩み出そうとしています。
私たちの福音宣教、それは主の昇天で最後にイエスが託された命令から始まっていきます。福音を宣べ伝えるということは、自分の信念やイデオロギーを伝えるということではないはずです。また、教会を大きくするためでもありません。政治的な影響力を大きくするということでもないはずです。あくまでもイエスを伝えること、人々とイエスとの触れ合いを育てていくこと、それが求められる福音宣教の姿だと思います。人々とイエスとの出会いの場の仲介者として教会があり、そして私たち一人一人が置かれているような気がします。キリストの期待に応えるために、私たちは常に自らの思いを警戒しなければなりません。そして、世界の真実、それをいつも正しく聞き取ることができるような感性を磨いていかなければならないと思います。』