2015年7月8日水曜日

年間第14主日

まだ朝晩は涼しいのですが、7月に入り北の大地にもイタドリの白い花の季節が近づいています。そして、北一条教会は献堂100周年の標語も決まり、新しいスタートに向けて歩み始めました。

神よ、変える事の出来るものについて、それを変えるだけの勇気を与えて下さい、
変える事の出来ない物については、それを受け入れる冷静さを与えて下さい、
そして、変える事の出来るものと、変える事の出来ないものとを、識別する知恵を与えて下さい。

今日のミサに与り、ニーバーの祈りを思い出し、北一条教会共同体の在り方についてあらためて考えています。



<後藤神父様の説教概要>
今日のみことばは、故郷に出向いたイエスの話です。誰にでも生まれ育った故郷があり、ほろ苦さや、良き思い出があると思います。故郷を離れた人にとって、その郷愁はよりつより強いかも知れません。私も高校卒業まで生まれ育った羽幌の炭鉱町のことをよく覚えています。高校生の時に炭鉱は閉山され、住む人は徐々に少なくなり、高校を出て暫くしてから故郷に戻った時には、家々は荒れ果て、街に人はいなくなっていました。今日、イエス様が故郷にお帰りになった時の出来事を、自分の過去の出来事と重ねて思いを巡らしました。
イエスはベツレヘムで生まれ、ガリラヤ湖から20数キロ離れた小さな田舎町のナザレで育ち、30歳を過ぎた頃に12人の弟子を招き、神の国を知らせるために宣教に旅立ちました。そして、故郷のナザレに戻った時に思いがけない拒絶にあいました。それは、ファリサイ派の信仰的拒絶でもなく、ヘロデの政治的拒絶でもない、小さな町で共に育った地縁血縁のある故郷の人々からの拒絶でした。故郷の人々はイエスに、自分たちの知っているマリアの子のイエスに、安息日に説教をするイエスに、自分たちの狭い考え方では理解できない神の愛を語るイエスに、拒絶を示しました。でも、故郷の人たちは、信仰に熱心な人たち、預言者の言葉を大切にしてきた人たち、神に忠実だった人たちです。そうして考えますと、昔も今も、宣教というのは大変なことです。預言者の立場で考え、乱れてしまった信仰の世界を立て直すことは簡単ではありません。今日のみことばは、その点を私たちに改めて考えさせてくれます。
マルコは「人々はイエスにつまづいた」と話されています。「つまづき」は今日の聖書の共通のテーマとして語られ、第1朗読では「神に背き逆らう反逆の民」という言葉で表し、第2朗読では「思い上がり」という言葉につながります。私たちは変わるもの、朽ち果てないものをしっかりと見つめなくてはなりません。イエスを理解しようとするとき、自分の故郷、即ち自分中心の秩序、規則に固執することなく目を開いていることが大切なのです。自分たちの習慣、仕来り、慣習に固執する故郷の人たちにとって、イエスの業、教えは受け入れ難いものでした。新しい世界に心を開くことが無い神の民が、如何に不忠実で頑なであったかを物語ります。故郷の人たちの先入観は不信仰をもたらし「つまづき」となり、イエスを追い出す事になってしまいました。それはある意味で、イエスを十字架に追いやった人々の世界とつながっています。私たちも頑なな心のままでいるならば、思い上がりの心を変えられず、イエスを十字架に追いやった人々と同じ場に立ち続けることになるかも知れません。その点でも、心の柔軟性が私たちには大切なのです。
私たちにとっての信仰の故郷である北一条教会も、次に変わって行かねばなりません。今、教区100周年を迎えるにあたり、司教様からのメッセージでは、信仰の振返りと宣教を考えることが語られていますが、私たちは今一度、自分たちの信仰生活を振り返りながら、新しい出発を模索している地区や教区に目を向けて歩み出さねばなりません。先週の全道司祭会議でも教区100年の話をしています、皆さんと一緒に、来年に向けて新しい歩みが出来ればと思います。その意味でも私たちは柔軟な心をもって、今までの歩みを見つめながら、新しい歩みに向かって行きたいと思います。
み言葉を通して信頼を深め、いつもどんな時でも神に仕える民となることができるように心から祈りたいと思います。