2015年7月20日月曜日

年間第16主日

今日の御ミサは、後藤神父様と療養を兼ね来日されているバングラデシュのロザリオ神父様の共同司式で行われました。


そして、神学校も夏休みに入り、前日、福岡から帰ってきたばかりの佐久間神学生が侍者として参加してくださいました。向こうに比べると、こちらは寒いくらいと言っておりました。佐藤助祭、蓑島神学生、梶沼神学生のお三方も追って帰札されるとのことです。夏休みは9月16日まで、涼しい北海道で鋭気を養いリフレッシュしていただきたいと願っています。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の朗読は先週に引き続いた内容で告げられています。
先週は、二人ずつ組になって伝道に出かけた弟子たちが、今週はイエスの元に戻ってきて報告するという内容になっています。
イエスは弟子たちの話を聞きながら、彼らの様子を注意深く見ていたことと思います。そして、疲れ果てた様子を察して、人里離れた所で休ませようとしたことが告げられます。弟子たちに対するイエスの思いやりが感じられる場面です。
マルコの福音によると、権能を授かりイエスの代理者として、弟子たちもイエスから離れて自分達だけで活動を始めていますが、イエスのように全てがうまくいったわけではないと思います。
「使徒たち」という用語は、マルコの福音ではこの箇所でだけ用いられています。この使徒たちという言葉には、権威を認められた代理人という意味も含まれているそうです。
この権威は、もともと弟子たちが持っていたものではなく、任命されることによって与えられたものであるということに大切な意味があります。私達の今日の教会においても、司祭は権能を司教から授かっている部分もあり、それを大切にして奉仕していかなければなりません。
弟子達は、イエスへの報告をしながら、イエスの配慮によって人里離れたところで休息を取ることになります。私は聖書のこのような場面において、イエスの人に対する優しい心遣いといったものを感じます。
弟子達は派遣に遣わされ伝道にあたったときに、どのような心境であったのでしょうか?私たちも時に同じような思いをしますが、説教というものは、必ずしも簡単なものではありません。初対面の人々に話をするというのは気遣いも必要ですし、今の時代で言うならばストレスも感じたことでしょう。知り合いとなら、多少の冗談も交えながら気楽に話せるのですが、慣れない土地で見ず知らずの人に、神の御国のことを話すというのは難しいことだったと思います。宣教といえども、弟子達にとって初めての体験はきっと疲れることだったのでは思います。そのような弟子達を思いやって、イエスは休ませようと人里離れたところに導いたわけです。しかし、群集から離れさせようとしたにも係らず、群集は弟子達を追いかけるようにして大勢やってきました。そこで、イエスは弟子達に取って代わって、イエス自身が群集に話をするというのが今日の御言葉で語られています。
集まった群集を見たイエスは「飼い主のいない羊」、すなわち霊的にも病んでいる群集を見て深く憐れみを感じたというように表現されています。
イエスの深い憐れみ。憐れみという言葉は聖書には頻繁に出てきます。サマリア人の話、放蕩息子のたとえ話など、憐れみは隣人となることに欠かせない、愛情に満ち溢れた人間の心を現すものです。しかし、「憐れみ」という言葉は、私達日本人には深く思いやることが出来ないこともあります。それは、日本語の表現の「憐れみ」には、人を卑下するような意味合いも持っているからです。
人の腹の底、心の深みから湧き上がる深い同情を意味するのが聖書でいう「憐れみ」、愛の心であると思います。
イエスのこの深い憐れみの心によって、人々はさらに神の国を知り、神の深い心に触れていこうとしています。
私たちは現代社会において、聖書の言う憐れみの心をもっと深めていかなければと思います。
全てのキリスト者は、キリストの証し人でなければなりません。それが宣教する人の心につながっていきます。平和の使者でなければならない、キリストの平和を伝えるためにも。
今日の弟子達の姿をとおして、私たちも平和を告げるものとして、宣教者として、自分達の使命を果たすことができるように祈りたいと思います。』