2015年7月12日日曜日

年間第15主日

札幌では、昨日、今日と真夏日を記録しました。
暑さに慣れていない北国の私たちには少しつらい毎日です。体調管理には気をつけましょう。

今日の御ミサの最後で、初聖体と洗礼に向けて勉強を始めている3人の子供たちが紹介されました。主のお導きがありますように。そして、彼らを教会で見かけたら声をかけて応援しましょう。



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

イエスは弟子たちと共に、村々を廻って神の国を述べ伝えていましたが、今日の御言葉では、イエスに選ばれた12人の弟子たちは、2人づつ組になって宣教に派遣されるという場面が語られます。
今までは、イエスが中心で、イエスの宣教の様子を見聞きしてきた弟子たちでしたが、修行が終わったということでしょうか、弟子たちはイエスから離れて自分達で宣教をすることになりました。どのくらいの日数をかけて村々を廻ったかというのは定かではありませんが、小さな旅をするということだったのだと思います。
当時の旅について記された伝承があります。準備するものとして、食料、頭に巻くターバン、そして帯に隠して多少のお金も用意していたようです。また、寒さ対策として多少の着替え、険しい砂漠や山を歩くために杖が必要ですし、当然履物も必要であったようです。特に杖は旅には欠かせないものであったようです。杖はただ足を支えるためにだけではなく、危険な時には、動物を追い払う道具としても必要であったようです。当時は宗教的な旅人に対しては、異邦人であっても食事程度の寄付をしたと言われています。
このように当時としての一般的な旅の準備があったようですが、弟子たちに対しては、厳しい制限が為されているかのようです。今日の御言葉では、杖一本のほかは何も持ってはならないと命じられます。イエスからは普通の旅とは違うということを厳しく命じられたようです。パンも、袋も、お金も持たずと福音では記されています。
宣教の心構えとしては、何が重要であったのかということが、黙想することで見えてくるような気がします。
自分のために十分な備えをせずに、神を信頼して神に任せて旅立ちなさい、それがあなた方に託された使命であり宣教であると、イエスから言われているようです。
私たちは、宣教というときに、どのようなことを考えるでしょうか?
私たちは、伝道、福音宣教というと、専門的な勉強をされた司祭や修道士、シスターたちにお任せしたいという気持ちが強いような気がします。神学を専門に学んだわけではない弟子たちが、宣教に遣わされる姿が聖書の随所で見られます。イエスとの出会いによって、神を知り信仰の喜びを知った弟子たちは、その喜びを福音宣教に向けて出かけていくというのが、当時の宣教の姿だったのではないでしょうか。そういう意味では、私たちも信仰の喜びに促されて、自分たちの信仰の中にある喜び、大切なものを伝えるということが出来るなら、それは立派な福音宣教につながっていくものなのだと思います。
今年、教皇様は使徒的書簡を発行しています。そして、私たちの司教である勝谷司教様も年頭書簡の中で「出向いていく教会」というメッセージを出しています。
今、教区は100周年を迎えるにあたって、どんな取組みが大切なのかということを、考え、話し合い、分かち合うようにとの司教様からのメッセージが出されています。私たちは常に信仰の喜びを持って、神のみ言葉を伝える、神の国を告げ知らせる、神の愛を生きるということが、求められるような気がします。
教皇フランシスコは、使徒的勧告の「福音の喜び」という本の中で、「出向いていく教会」というタイトルの中で、こう話されています。
「弟子たちの共同体の生活を満たす福音の喜びは宣教の喜びです」
喜びに満ちて派遣されていく弟子たちの姿は、今日もまた、私たちの御言葉として語られました。弟子たちは常に信仰の喜び、福音の喜びを体験して、それを外に現そうとしています。
福音宣教、それは常に、イエスの宣教命令によって、私たちは従っていかなければなりません。マタイの福音の最後にも述べられているように、「あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授け、あなた方に命じておいたことを全て守るように命じなさい。」この箇所は、復活したイエスがご自分への信仰をこの地上の隅々にまで広めるようにという命令でした。あらゆる場所で、あらゆる国で福音を述べ伝える、それが派遣という形で現れてくるものです。
心構えが何よりも大切ということではないでしょうか。
私たちにとっての福音宣教の心構え、皆さん一人一人にとっての心構えはどんなことでしょうか?
私たち一人一人が自分に託されたその使命を生きるために、信仰の喜びを伝えるために、どんな心構えを持たなければならないでしょうか?
「出向いていく教会」という言葉が度々出されています。しかし、出かけなければならない宣教ばかりではなく、迎える宣教もあるような気がします。今週の金曜日は、カルチャーナイトということで、私たちの教会にも初めて訪れる人々がおられるかと思います。そのような人々を迎えるということも福音宣教につながることではないでしょうか。
弟子たちは御言葉を伝道し、神の愛を伝え、神の教えをさらに共同体として生きるように進めていきました。それは当時の人々にとって、神の裁きを受けることがないように、神の国に招かれるようにということが強い願いでしたが、今の私たちの信仰の中においては、裁かれるよりも神の愛を生きるという事のほうが大切にされなければいけないということが、教皇様も現代の教会も呼びかけています。愛を生きるということの大切さ、それは隣人一人一人を差別することなく大切にするということであり、命を大切にするということだと思います。
今日遣わされた弟子たちの姿を黙想しながら、私たち一人一人の福音宣教を考えていきましょう。