2014年6月29日日曜日

聖ペトロ 聖パウロ使徒の祭日

今日のペトロとパウロの祭日は、聖人の中でも特別な日として主日よりも優先されます。

当教会で受洗した信徒のうち、ペトロ、パウロの霊名は57名にものぼるそうです。

勝谷司教様のモットーである「力は弱さの中でこそ充分に発揮される」(Ⅱコリ12:9)この言葉は、パウロに対しての主の答えでした。

今日の勝谷司教様のお説教では、ペトロとパウロの二人の弱さについて、その弱さの中ではたらかれる神の力についてのお話がありました。


ミサの後に行われた教会運営委員会には、
赴任後はじめて後藤神父様にも出席いただきました。

2014年6月22日日曜日

キリストの聖体

58年ぶりの14日間連続の雨を記録した札幌でしたが、
今日は日中、本当に久しぶりの青空が広がりました。

御ミサの後、カテドラルホールで永遠の名作「汚れなき悪戯」の鑑賞会が行われました。修道院で育った孤児のマルセリーノ坊やの奇跡の物語。感涙したのではないでしょうか。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『ピエタと呼ばれている「師イエズス会」の函館出身のシスターから手紙や小冊子が時々寄せられます。その小冊子に、師イエズス会のシスターの詩が紹介されていました。
聖体がテーマになっているその詩を紹介します。

今日この手にご聖体を受けました
今日この手でご聖体を食べました
一日一緒に、天の父よと祈りました
命あれば、明日もどうぞこの手にご聖体をください

短い詩ですが、ご聖体を大切にして祈り続けるシスターの心が、この短い言葉の中に込められています。聖体の前で今日も欠かすことなく祈りが続けられていることと思います。
キリストの聖体の祝日を迎えています。
年配の信者さんは、この日を迎えるとかつての札幌での行事を思い起こしているのではないでしょうか?
札幌ではかつて、聖体の祝日の日に藤学園の講堂で聖体大会が行われていました。さらに、もっと以前には聖体行列も行われていたようです。

聖体は、イエス・キリストの最後の晩餐を起源とし、主の祭壇の前に一致して祈る私たちとミサは深く繋がっています。
聖書で語られる聖体の聖典については、皆さんも何度も読まれていることでしょうし、今日も聖書で聖体のことが語られています。
一コリント10章と11章は、非常に分かりやすく印象的に聖体のことが語られており、今日の第2朗読では、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかること」と書かれています。現代ではミサという言葉で儀式を表していますが、昔はこの聖書の言葉のとおり、「パンを裂く儀式」とも言われていたそうです。
コリントの手紙の11章では、「主の晩餐の制定」について書かれており、私たちは聖週間の聖木曜日には毎年耳にしている御言葉になっています。さらに後半では、”ふさわしく”主の晩餐にあずかることにも触れられています。
私たちは、”ふさわしく”ミサにあずかっているのでしょうか?
信徒の心構えとして、”ふさわしい”というのは、どういうことを指すのか考えてみたいと思います。
教会には、最後の晩餐を記念するパンがミサの中でいつも用意されます。神の恵み、神の救い、神の赦し、というパンが私たちにいつも用意されています。キリストを求めて、近づこうとしている人々に対して、私たちはふさわしい心で、キリストに近づきパンをいただくことになります。
ですから、ふさわしい心構えというのは、まずキリストに近づく、近づきたいという心のことを言うのかもしれません。私たちは共同体の中で自分にも人に対しても、それを妨げてはならないということが言えるのかもしれません。キリストに近づき一致し、パンをいただきたいというその心こそが、まず最初に”ふさわしい”心構えであるかもしれません。
ミサは本来、キリストに向い一致する食事を現しています。一致を拒む心があるとすれば、それは決してふさわしい心とは言えないと思います。だからでしょうか、ミサを始める最初の祈りの部分で、自分の罪を認め心を清める祈りが用意されています。
今日、キリストの聖体を祝いながら、ふさわしい心を持って、聖体に近づこうとしているか、私たち一人一人の心を黙想してみましょう。
そして、教会共同体の中ばかりでなく家庭の中でも、一致は大切にしていかなければなりません。
今日は、そういう意味でも、キリストの聖体に繋がる私たちの一致ということを振り返る一日でありたいと思います。』

2014年6月16日月曜日

三位一体の主日

三位一体の祝日は、1334年 教皇ヨハネ22世により全世界の祝日として制定されました。
私たちは、「父と子と聖霊」の御名によって洗礼を受けました。
今日、私たちが十字を切る度ごとに、この恵みを思い起こすことにしましょう。

後藤神父様が宮前町教会の主任司祭だった数年前に、ご自身で集められたり、信徒の皆さんから募集した「三位一体」のイコン(御絵)をカテドラルホールに飾りました。
イコンのコピーを木片に貼り付けたり、額に飾ったりすることで、また違った味わいになります。そのテクニックをそのうち伝授して下さるそうです。ご興味のある方は、ぜひ神父様にお声がけください。


今日の主日ミサの後藤神父様のお説教をご紹介します。


『三位一体のことをお話しするのは簡単なことではありません。そのこともあり、一年の中でも三位一体の主日ミサのお説教は少し気が重くなります。
皆さんは、三位一体の意味をどのように理解しているでしょうか?
私自身も公教要理や神学校で学びましたが、今日の主日を迎えて三位一体を言葉で表す事の難しさを改めて感じています。
全能の神を言葉で表すのが難しいように、三位一体を説明するのは永遠を説明することと同じように難しいことです。究極的には神を信じるか信じないかに繋がることだと思います。
北一条教会に赴任して一ヶ月が経過しましたが、最初の主日ミサの日は「母の日」で、今日の三位一体の祝日は「父の日」、そして着任する直前は「こどもの日」でしたので、家族としての共同体を思い起こす三位一体の祝日を迎えています。
神は三位一体であるということを十分に理解しようとするなら、誰しもそれはどのような意味なのだろうかと疑問を持つことは当然です。それほど三位一体は難しい教義であると思います。しかし考えてみると、難しい教義がそこにあるにも関わらず、私たちは毎日のように三位一体を神に向かって祈っています。
私は真理を理解することは重要なことだと思いますが、単純に受け入れること、信じることも信仰を生きる上ではとても大切なことだとも思います。

今日のヨハネによる福音(ヨハネ3・16-18)は大変短い福音でした。ヨハネ福音書は、御父を啓示する御子の福音書とも呼ばれています。何故かと言うと福音のなかでは、神を表す父という言葉が122回も使われています。これは他の福音に比べ圧倒的に多い数になっています。マタイ福音書では44回、マルコ福音書では5回、ルカ福音書では17回となっていることからも分かります。また、父という言葉と同時に、子という言葉も私たちはよく聞きます。子については、神の子、人の子、私を愛する子とか、ダビデの子という言葉も旧約の中では見られるように、様々な表現が使われていますが、ヨハネ福音書でだけ「ひとり子」という表現が4回使われています。またイエス自身を表す「わたし」という一人称も際立って多く使われています。これらのことからもヨハネ福音書が御父を啓示する福音と呼ばれる所以が分かります。
「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」私たちが何度も何度も聞いたことがある御言葉です。私たちの信仰は三位一体の祝日だけではなく、あらゆる機会に御父と御子と聖霊とに常に導こうとされる神がそこにまします。主の御言葉に従い、その御業にならう努力も必要になります。
私たちの信仰生活はどうでしょうか?
旧約では次のような物語が展開します。モーセに導かれていた民のように、神を信じると言いながらも道を誤り罪を犯してしまう民がそこにはいました。ひとり子であるイエスを見つめ、全ての人の僕にならなければならないと願いながらも、遣えるために身を低くされたイエスを忘れ、自分を優先してしまうことの多い私たちの信仰がそこにあるのではないかと思います。そのような罪を犯す私たち一人一人にも神は常に聖霊をおくり、私たちの行いを変えてくださる恵みをもたらしてくださっています。7つの聖霊の恵みを私たちに与えて下さっているその神こそ、三位一体にまします神ということでもあるのです。三位一体の偉大なる神の深い愛と慈しみは、今日の福音にも描かれています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
こう父なる神を表現しています。
信じる者に対して、三位一体の偉大なる神は罪に対してさえも限りない深い愛を示してくださいます。私たちはその神を信じ、その神を見つめながら生きています。
私たちは、生活の中で何を優先させているでしょうか?
時々考え込んでしまうこともあります。どちらかというと裁く方に心が向いてしまうのが私たちではないでしょうか?裁くことではなく、隣人の苦しみを分かち合ったり、赦しあったり、助け合ったりするほうの心を大切にしたいと願います。
私たちを憐れみ、慈しみの手を常に差し出してくださる三位一体の神の深い配慮に今日は感謝して、私たちの新しい歩みが始められるように祈りたいと思います』

2014年6月8日日曜日

聖霊降臨の主日

今日は聖霊降臨祭をお祝いする主日です。復活節は50日間お祝いしますが、その最後の日曜日が聖霊降臨の主日です。聖霊降臨祭は過越祭から50日目にあたることから五旬祭(ペンテコステ)とも呼ばれます。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『昨日のニュースでは、安倍首相がバチカンを訪れフランシスコ教皇と謁見し訪日を要請したところ、教皇様は「ぜひ日本を訪れたい」と前向きな考えを示したということが報道されていました。先日当教会で講演された京都の司教様がお話されていた高山右近の列聖の実現にも期待が持たれるのではないでしょうか。
 教皇様は、バチカンを訪れる巡礼団の信者の皆さんに講話を続けておられます。そのことがカトリック新聞で毎週記事になっています。聖霊降臨が近づいたこの3週間ほど前からは、聖霊についてお話を続けられています。聖霊には七つの賜物があり、上知、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬という言葉が使われており、かつては公教要理でも触れられてきました。
 最初に教皇様が話された賜物の一つは、「聡明」についてでした。この賜物は信仰と洗礼を通して、神の祈りに与かることによって得られる、というお話をされたようです。神の愛の計画が、人生の中でどのように示されていくか理解できるようになるために、聡明の賜物が私たち一人一人に与えられるという内容でした。そして先週は「知識」の賜物のお話があり、神が創造したこの世界を前提として、環境汚染による自然破壊に触れて、創造を通して神の愛の偉大さや、神の全ての被造物との深い関係こそが、人々が理解する助けとなるのだ、そのためにこの「知識」の賜物を私たちは大切にしていくべきなのだ、というお話をされました。聖霊の七つの賜物は、私たちは洗礼をとおして既にいただいているのですが、堅信の秘跡によって洗礼の時にいただいた恵みがさらに深く力強いものとなっていきます。
 
 さて、今日は聖霊降臨をお祝いする主日ですが、皆さんは聖霊降臨をどのようなイメージで捉えているでしょうか?
 聖霊降臨は、主の復活から7週間後に起こった出来事です。7週間の間、イエスの復活の姿を目の当たりにした弟子たちは、それまで支配していた不安から、深い信仰へと変えられていきました。使徒行録によるとイエスは40日間、弟子たちと共にいたと書かれています。
 イエスは聖霊について、既に最後の晩餐のときに弟子たちに話されていました。地上の生活を終えて父なる神の元に帰ったときには、あなた方に聖霊を遣わすと約束されていました。その約束の実現が今日の聖霊降臨の出来事につながっていきます。弟子たちは聖霊降臨によって新しい賜物をいただき、聖霊でいただいた恵みがさらに深められ、そして強められ、新しい出発の準備をすることができました。聖霊降臨を迎えた今日からの福音は、福音宣教に情熱を持ってはたらく弟子たちの姿が語られていきます。
 イエスの目的はただ一つでした。この地上においては、父なる神の世界を教え、説き、愛を持って導き、この地上での生活を終えて父である神の元へ帰るということでした。弟子たちは、主イエスが父なる神と共にいると理解したときに聖霊をいただくことになりました。今日のヨハネの福音では、復活したイエスが弟子たちの前に現れ平和の挨拶をした後、息を吹きかけられたとあります。イエスは最後の晩餐で約束した聖霊を息を吹きかけるという行為で実現されました。
 また今日の福音の最後では、聖霊の罪の赦しについてを、私たちに深く語りかけています。罪を犯すことは、私たちを神そして教会共同体からも遠ざけてしまうということを心に留めておく必要があります。だからこそ罪に打ち勝つには、神の息吹を受け、罪の根源となる悪しき心を変えていかなければならないと思います。
 私たちは、聖霊を受けた弟子たちを見つめながら、主がどんなときでも私たちと共にいてくださる、そして主が私たちにも聖霊を遣わして下さったことを確信して、信仰の喜びを歩み続けたいと思います。』


御ミサの後、年2回の大掃除が行われました。
今回は、たくさん方のお手伝いをいただきました。
大掃除が終わった後、B地区の皆さんが用意していただいた昼食をいただきました。


秋の大掃除もよろしくお願いします!

2014年6月1日日曜日

主の昇天

6月に入りました。北海道では最も過ごしやすい、さわやかな季節を迎えました。
どうか、心の中もさわやかな6月の日々を過ごせますことを。

さて、先月当教会に着任されました後藤義信神父様の霊名は、ドン・ボスコです。
ドン・ボスコは、1815年にイタリアのピエモンテ州で生まれ、キエリの大神学校で哲学と神学を学び司祭叙階しました。その後、もっとも貧しい青少年のために生涯を捧げることを決意し教育事業を始め、1859年にサレジオ会を設立、学校事業、社会事業を通じて多くの人々を導いた方です。

先週の主日ミサの後、後藤神父様の歓迎会を行いましたが、今月号(6月号)の「かてどらるの鐘」の巻頭言に神父様の着任のご挨拶を掲載しておりますのでどうぞご覧になってください。
⇒かてどらるの鐘6月号

神父様にお願いして、今日のミサの入堂前にお写真を撮らせていただきました。
霊名のドン・ボスコのように、どうかこれから私たちをお導きください。



 今日も後藤神父様は、穏やかな語り口で、分かりやすく主の昇天の意味をお話して下さり、先週、京都教区の大塚司教様から伺った高山右近の話とも合せ、
昔、遠藤周作の「イエスの生涯」を読んだ時に覚えた問いの答えが、数十年経って見えたような気がしました。

後藤神父様のお説教の概略です。

『み心の月を迎えました。皆さんは主の昇天をどの様にイメージしていますか?主の昇天は、地上での使命を終え、父なる神のもとへ帰られたことを表しますが、聖書では昇天と言う言葉は使われず、天にあげられた、と言う言葉が用いられています。昇天に働いた力は神の力であり、聖書はそのことを出来事として事実として伝えています。キリストの昇天は天にあげられて神の右の座についた、人間として神に栄光の状態に上げられ、御父のもとで最高の栄に賛美されている、ことを表しています。そして私たちがいつの日かこの地上の生活を終えるとき、(救いに招かれるとすれば)キリストの昇天によって導かれた天に、私たちも導かれるという希望がそこにあり、今日の聖書のみ言葉の中にある「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束が叶います。私たちは父なる神を仰ぎ、イエスと共に神の国に招かる、そこに希望を置いてこの世の生活を歩まなければなりません。
今日の(聖書と典礼の)集会祈願の祈りをどの様に受け止めましたか?今話したことが祈りとして書かれています、もう一度読み直してみましょう。
「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いて下さいました。主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています。キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください。」
キリストの昇天に、私たちの未来の姿が重ならなければ、希望が見えてこない、永遠の命の世界を受け止めることが出来ない。私たちの信仰の行く末をこの祈りの言葉の中で語っています。私たちの信仰は、今日の祈願の言葉がすべて常にあり、現実として祈って生きているのであれば、もっと力強い日々を送ることが出来ます。
現実は、希望を失う事が度々あります、その中でも私たちはキリスト者として、教会の教えを常に心に留めなければなりません。
地上においては、肉の欲、飢えの欲、生活の奢りから解放されるように努めなければなりません。来世において、キリストの光栄に預かる為に、天国に向かって心を向けなさい。
十字架の死を目の当たりにして希望を失った弟子たちは、復活のイエスに出会い、40日間に亘り生活を共にし、教えを説かれ、その教えを通して、イエスの励ましによって大きく成長しました。昇天を前に、イエスは弟子たちを祝福し言葉を残した。その中の「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」の言葉は、今生きる私たちも、弟子たちを通してその使命を引き継いでいます。
私たちの信仰の中で大切にしなければならないのは、この神の国を、私たちがこの世で実現し、すべての人とひとつになって世界に築くこと、そして最終的にひとり残らず神の国に入ることです。
教会のために働き、教会とともに喜び、教会とともに苦しみ成長する事を基本としなければなりません。それなのに、私たちはしばしばこの大切な教えを忘れてしまうことがあります。教会もまた、様々な課題を背負って苦しむ時期があります、しかし、どんな時でも、どんな激しい波にさらされようとも、キリストは私たちと共にいて下さることを忘れてはなりません。そのことを心にして、希望を見出し、祈り、支え合い、その使命の答え、一歩ずつ前に歩みを進めて行かなければなりません。
主の昇天の出来事は、弟子たちを通して私たちの使命を自覚させることですが、私たちと共に主がいて下さることも決して忘れないことです。
6月の一つひとつの祝祭日を通して、私たちの信仰が更に成長できるように祈りを捧げたいと思います。』