2015年1月25日日曜日

年間第3主日

今日のマルコの福音(マルコ1・14-20)は、先週とおなじように召し出しがテーマになっています。

1月31日は、後藤神父様の霊名「聖ヨハネ・ボスコ司祭(ドン・ボスコ)」の記念日です。今日のミサ後、阿部運営委員長から後藤神父様へお祝いの記念品が手渡されました。
「霊名の祝日」おめでとうございます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『「イスラム国」による日本人の人質事件は、ご家族の心境を察すると心が痛みます。
私たちは平和を願いながらも、その実現はいかに難しいものかと思い知らされます。
誰もが平和を願っているはずなのに、争いごとが絶えない現実に、私たちに出来ることは祈ることしかないような気がします。
聖書の中でもイエスは「二人、三人と祈る中に、私はそこに来られる」と話されています。
 「明日のことに思い煩うな」という聖書の御言葉がありますが、思い煩わずにはいられない私たちの現実があります。本当に私たちが大事にすべきことは何であろうか、と考えていかなければならないと思います。
今日のマルコの福音は、先週と同じように召し出しについて描かれています。
私たち信者にとって御言葉は大切なものです。同時にミサ聖祭も非常に大切なものです。信仰の祈りがそこにあるからです。
 ミサの中では”わたし”という個人的な祈りばかりでなく、”私たち”そして”教会”の祈りが捧げられます。
 ミサの始まりでは告白があります。この告白は個人的な告白になります。「兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」ここには”わたしは”という個人的な祈りがあります。
でも、この告白の祈りが終わった後、司祭が唱える宣言のことばは、「全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、」につながっていき、一人一人の祈りが、共同体の祈りへと変わっていきます。そしてミサの集会祈願へと入っていきますが、今日の集会祈願の祈りの内容もまた、私たちは大切にしなければなりません。
 集会祈願は、私たち教会共同体の祈りとして神に捧げる祈りとなっています。
今日の集会祈願は「いのちの源である神よ、移り変わるものごとに心を奪われがちなわたしたちに、あなたは変わることのない救いの喜びを与えてくださいます。ここに集うわたしたちの心を新たにし、キリストに従って歩む者としてください。」という内容でした。神の国のことよりも、この世の平和だけを願ってしまうなら、それは決して永遠のものではない、ということになるような気がします。また、「ここに集う私たちの心を新たにしてください。キリストに従って歩む者としてください。」このように祈ってましたが、私たち一人一人が真剣にそのことを心に留めて祈っていたでしょうか?主の祭壇の前に、一致して、祈る私たちが本当に一つになっているでしょうか?
喜びや悲しみを繰り返しながら私たちは毎日を歩んでいます。
 1週間に一度の主日ミサの際、私たちはミサの前に聖堂に入ったとき、小さなホスチアを別の器に移しています。その時にどんな気持ちがそこにあったでしょうか?自分の心が本当に奉献されるように願っているでしょうか?ホスチアはまだ御聖体にはなっていませんが、一人一人が捧げるパンとして、それは神の御体、聖体に変わるものとして、捧げられようとしています。でも、その大切な捧げものに私たちの心はつながっているのでしょうか?私たちが捧げた大切なパンは、私たちにまた戻ってきます。私たちの捧げた小さなパンが、祭壇の上で聖体となり、そのパンが裂かれ、信仰の糧となって、私たちのもとに帰ってきます。共同体の一人一人の願いや祈りが、そのパンの中に入って、キリストに結ばれて、そこからまた一人一人に帰ってきます。もしかすると、ある一人の人が捧げた喜びの祈りが託されたそのパンが、私のもとに帰ってくるのかもしれないし、ある人が捧げた悲しみの祈りが、パンの中に込められて、もどってくるのかもしれません。私たちに裂かれたパンの中には喜びも悲しみも入ってキリストにつながっているという意味で、私たちはキリストによって一つになります。
 ミサについても考えることがあります。ミサが終わって聖堂を出た途端に、信仰の話よりも私たちの現実の話の方に心が向かってしまい、ミサに参加したという満足感だけで帰られる人も多いような気がします。私たちにとってミサとは何なのだろうか、何を大切にしているのだろうか?ということを考えさせられます。でも、答えはなかなか見つからない、言葉では言い表せられないというもどかしさを感じます。言葉に出来ない恵みを感じながらも、現実の方に心が向かってしまうというのが正しい言い方かもしれません。
でも、私たちはもう一度確認しておきたいと思います。
ミサでは、一人一人の捧げる祈りが、一つとなって、共同体の祈りとなって、キリストに向かう。一人の悲しみの祈りも、他の人が捧げる希望や喜びの祈りも、一つとなって、祭壇を囲むみんなの祈りとなるということを。
 神の国とは、聖パウロのことばを借りると、食べたり、飲んだりすることではなく、聖霊によって与えられる正しさ、平和、喜びである、と言っています。
 今日の集会祈願の祈りをもう一度心に留め、私たちの信仰がさらに成長するように祈っていきたいと思います。』

2015年1月24日土曜日

障がいと共に歩む札幌大会 -第3回サポーター研修会-

 今年の8月22日~23日に札幌で開催される日本カトリック障害者連絡協議会・札幌大会(障がい者と共に歩む札幌大会)に向けた準備が大詰めを迎えています。
 実行委員会では、大会の運営を支えるボランティアスタッフ(サポーター)を募集し、これまで2回の研修会を行ってきました。昨年の10月26日に開催したプレ大会では、大会参加者の約半数に及ぶ70名のサポーターが、会場、受付、案内、広報、通訳などの担当部門に分かれ運営を支えました。今回で最終となるサポーター研修会は1月24日午後から札幌市北区にある藤女子大学で行われ、約130名の参加者が本大会へ向け熱心に話し合いを行いました。


 研修会では高橋幸夫実行委員長の挨拶に続いて、菊地秀治事務局長からプレ大会の総括、そして本大会までの活動計画について報告があり、その後各担当部門に分かれ協議を行いました。今後は、それぞれの部門を中心に準備を進め、8月の本大会を迎えることになります。


 大会担当司祭である場崎洋神父様は、集まったサポーターへ向けて、
「私たちは教会をとおして聖霊の働きによってお互いに協力し合いながら、大会へ向けて神様が与えて下さった“時”を祝いたいと思います。大会当日には、参加者の皆さんを喜びで迎え、そして閉会にあたっては最後の一人まで見送って、心から祝いの宴に与かっていただきたいと思います。私たちの小さな力は、計り知れなく大きく人々の中に入っていくことと思います。」
という言葉で締めくくられました。

2015年1月18日日曜日

年間第2主日

今日から年間の主日に入り、典礼色が緑に変わりました。
今日の福音朗読(ヨハネ1・35-42)では、イエスの召し出しに対する弟子たちの姿が語られます。

今日、ミサの中で赤ちゃんの洗礼式が行われました。

おめでとうございます!




後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週の「主の洗礼」祝日後の月曜日から、年間の季節に入っています。典礼色も緑に変わりました。
毎年、年間第2主日はヨハネの福音から始まることになっています。イエスの召し出しに対する弟子たちの姿が描かれます。来週のマルコ福音書も同じようなテーマが語られます。この年間の季節の始まりは、イエスの召し出し、福音宣教ということが何よりも大切なテーマとして聖書が私たちに語られます。
今日の2人の弟子たちは、既に洗礼者ヨハネの弟子であったことが、窺い知ることができます。そしてヨハネから、「見よ、神の子羊だ」と呼びかけられ、イエスに付いていく状況が語られます。弟子たちにイエスは一つの問いかけをしました。「何を求めているのか」。そして呼びかけます「来なさい。そうすれば分かる」。イエスの呼びかけに付き従うことによって、イエス自身の生き方、考え方、イエスの生活そのものを見つめることになります。イエスとのこの出会いから始まり、ペトロとアンデレの兄弟はイエスに従うことになり12人の弟子の一人になりました。彼らはまだ、イエスのことを十分に知らないなかでスタートしましたが、イエスと共に歩むことによって、一層イエスの魅力に心ひかれていきます。そして同時に信仰も備わっていきます。さらに自分達の使命を自覚し、信仰の喜び、生きがいを見いだしていきます。
私たちも洗礼をいただいて、信仰の恵みを生きています。
私たちの信仰の喜びは、いつどんな時に感じているでしょうか?
よく「信仰の喜び」という言葉を使いますが、私たち一人一人にとって信仰の喜びをいつも見出すことはとても大切なことです。
洗礼者ヨハネは、イエスのことを「神の子羊」と例えましたが、皆さんは「神の子羊」をどのように考えていましたか?
私たちの教会の祭壇の真上に飾られているシンボルが「神の子羊」です。私たちの教会でも「神の子羊」は、一番大切な場所に彫られています。


子羊は、キリストの贖いの犠牲を表すものです。これは旧約の預言者エレミアが「ほふり場に引かれていく子羊」と表わしています。犠牲の贖いとして、その命を差し出す子羊の姿がそこに見えてきます。子羊は素直で従順な逆らう事のない命を生き続ける、それが預言者エレミアが聖書の中で描いています。
一般的に旧約の中では、子羊は「苦難の僕」というテーマの中に登場します。それはまるで新約では、キリストの姿を指し示すかのようなイメージを持っています。
また、旧約の中では「過ぎ越しの子羊」も描かれます。それは出エジプトの箇所を思い起こすことと思います。
イエスが神の子として、また新しい過ぎ越しの子羊としてヨハネは理解し、弟子たちに付き従うようにと言い送り出しました。ヨハネはイエスこそ罪のために最後の生贄になるということを旧約聖書の背景をもって、「世の罪を取り除く神の子羊」と表現をしたと解釈されています。
私たちは「神の子羊」の理解を深めながら、私たち一人一人の信仰がそこに結ばれていくことができるよう願っています。』

2015年1月11日日曜日

主の洗礼(祝日)

今日は「主の洗礼」の祝日です。

私たちは洗礼を授かって、神の民そして神の民の共同体の一員となりました。
この祝日に洗礼について黙想してみましょう。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『最初に洗礼について考えてみたいと思います。
今日ミサに訪れている人の多くは、洗礼を既に受けられていると思います。
私たちは教会で洗礼を受けていますが、
私たちにとって洗礼とは何でしょうか?どんな意味を持っているのでしょうか?
ご両親が既に信者であれば、子供が生まれるとまもなく洗礼を授けます。
ですか長い信仰生活を送っていても、自分の洗礼の時の記憶を持っている方は、意外と少ないと思います。幼児洗礼であるとなおのこと、洗礼の時の記憶が全くない中で信仰を生きておられる方もいます。そういう状況で洗礼を考えるということは簡単なことではないと思います。
教会には七つの秘跡があります。
信仰生活を生きるうえでの要となる七つの秘跡は、
洗礼、聖体、堅信、赦し、結婚、叙階、病者の塗油になります。
この秘跡は、それぞれ人間の一生に関わる神の恵みを表しています。
神の見えない恵みを見える”しるし”として表しているもの、それが秘跡という言葉で表されています。
神を信じて祈っている私たちの信仰そのものが、その秘跡を求めさせていると言っても言い過ぎではないと思います。
唯一の神を信じ、復活を信じ、イエスの教えと教会の導きに従って生きるために、私たちは信仰者としてふさわしい神の子として罪の赦しを願います。
そして、教会共同体として、神の民の共同体として、共に祈る信仰が生まれていきます。
最終的には、神の平和な国へと招かれることを何より願っているのは、私たちであり私たちの信仰ではないでしょうか?
イエスは弟子たちを選び、いつも「あなた方」と呼びかけながら教え導かれました。そこにも共同体を示しているイエスの思いが表れています。
それは教会の始まりでもありました。弟子たちの招きは、12人の弟子たちの選びは、一つの教会共同体の始まりを表すものであったとも言われています。
神の家族として、一つの共同体を為して、イエスは神の国を多くの人々に知らせていました。
私たちも洗礼によって初めて教会に属する信者となります。そして、教会には守るべき主日と祝祭日があることを教えられ、教会に足を運ぶようになります。
主日のミサは特に信仰を生きるための重要な聖なる日として私たちはそれを守ろうとしています。日曜日にこうして集い、祈るのはその表れです。
何故皆さんは日曜日に、ミサに来ているのでしょうか?
それは主日を大切にするという聖書の教えに深く結ばれて、毎日曜日教会に足を運び、イエスの聖体に養われているのです。
主日の日曜日を大切にするということも聖書に基づき、また教会の共同とつながっています。そこからカトリックの信徒の信仰があり、その前提にはまた、父と子と聖霊の御名によっての洗礼がありました。
私たちの洗礼は、いつも三位一体の神との深い結びつきによって生かされている、また生きているのだと思います。
イエスは弟子たちに、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けなさいと言いました。私たちは洗礼を受けようと希望する人に対して、そのことを準備させ、勉強し、長い時間教会の教えに基づいて学んで洗礼に至ります。
洗礼において大切なことを今一度お伝えしておきます。洗礼において神の子となるということは、神の民の一員となる、そして神の民の共同体の一員となるということであり、それは一般的に教会共同体といわれているものです。
信仰は”神と私”との個人のつながりとの考え方もあるのですが、同時に”神と私たち”共同体との深いつながりの中に信仰があるということも忘れてはなりません。
洗礼についてパウロは、「キリストに結ばれるために、洗礼はキリストの死と復活の過ぎ越しの神秘に与かることである」と聖書で語っています。
キリストはどうして神の子であるのに、洗礼を授けられたのだろうか?と疑問に感じるのではないでしょうか?私も長いことそのような疑問が心の中にあります。
単純で素朴な疑問かもしれませんが、皆さん方の中にもそんな疑問を感じる方もおられるのではないかと思います。
キリストの生き方、キリストの教え、その姿を見ていくときに、なるほどキリストは私たちと同じように生きられた方、そんなことを私自身実感するようになりました。
キリストは神の子であるからといって、特別な生き方をしたのではなく、私たちと同じように、私たちの傍に近づき、私たちと同じ立場に立って、生きられた方。特に貧しい、罪を犯した、救いが必要な人にいつも駆け寄って来て下さり、私たちと一緒に歩いて下さった方。キリストは神の子でありながら身分を低くして、私たちと同じように生きられた方です。それだから私たちはキリストを身近に感じることができたのだと思います。
ヨハネは洗礼を授けるにあたって、罪の告白、そして回心することを呼びかけていました。新しく生まれるために、新しい出発をするために。ですから、自分の前に神の子である救い主であるイエス・キリストが現れたときヨハネはためらいます。このとき聖書ではヨハネはこう話されました。「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私のところに来られたのですか?」このように、ヨハネはキリスト思い止まらせようとしています。でもキリストこう話されました。「今は止めないで欲しい。正しいことを全て行うのは、我々に相応しいことです。」こうイエスが話されたので、ヨハネは言われたとおり洗礼を授けたのでした。
先ほどもお話したように、イエスは私たちと同じように生きられた方、それがキリストが私たちに示された姿です。罪に苦しみ、赦しを願い、痛悔する人間との連帯関係、深いつながりにご自分を位置づけられているイエス・キリストの姿が常に聖書をとおして私たちは見ることができます。そして死を受け入れ、しかも十字架の死に至るまで父の御旨に従うものとなられた方、それがイエス・キリストです。
まさにキリストの生き方は、洗礼のときにも表れたと同じようにして、一貫してその命を捧げるときまで、私たちと同じ人間の姿を示されました。
上から人間を救おうとはなさらず、むしろ下から一緒に苦しみ、一緒に悩みながら私たちに救いをもたらしたイエス・キリスト。今日の第一朗読では、イザヤの言葉がそれを表現しています。「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(イザヤ42・2-3)。
キリストは、自らを罪人と痛悔する人々に、深くつながれることを位置づけて、人を決して差別することはありませんでした。神の愛はまさにそのことを象徴しています。
キリストの洗礼を黙想するとき、自分の罪の悔い改め、心の回心を学ばなければならないと思います。キリストが私たちと深くつながってくださるならば、もっと私たちは心からの赦しを願い、洗礼の時の精神に生まれ変わらないとならないと思います。
同時に私の愛する子となるために、キリストの姿から謙遜を学んでいかなければならないと思います。新しい一年の日々がスタートしています。傲慢な心を変えて、私たちがひたすら心から祈ることができるようキリストの洗礼を思い浮かべながら、信仰を見つめて歩んでいきたいと思います。』


御ミサの後の教会学校では、ボーイスカウト26団主催の「餅つき大会」に参加しました。
寒い中でしたが、みんなで一緒に餅つきをしました。
つきたてのお餅でお雑煮を食べました。おいしかったねー。







2015年1月4日日曜日

『主の公現』の祭日

新年最初の日曜日、今日は『主の公現』の祭日です。
『主の公現』の祭日は、本来1月6日と決められていますが、日本の場合は移動祝日として扱われ、今年は新年最初の日曜日である1月4日でした。ちなみに、日本司教団が決めた日本における守るべき祝日は、すべての主日、主の降誕(12月25日)、神の母聖マリアの祭日(1月1日)となっています。




集会祈願:信仰の光によって歩むわたしたちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いて下さい。
その日、啓示に気がつかないシオンの人たちだけでなく、啓示を拒絶したヘロデ大王にも主の栄光は輝いていました。
1月1日は100人を超える方がミサに与り、ミサ後は外国籍信者の皆さんと、有志の方が作って下さった雑煮を食して、新年を喜び、神の御母としての聖マリアを祝い、世界の平和を祈りました。そして、主の公現の今日のミサには200人近い方が集い、馬小屋の幼子イエスに神を見て、イエスのうちに現された神の栄光を讃えました。

勝谷司教様が、教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び(The Joy of the Gospel)」を引用し、「2015年 年頭司牧書簡」を発信されておられます。書簡には、教区の現状を鑑みて以下のような記述がありました。
・宣教者を支える共同体たれ、出向いていく教会共同体たれ
・行き詰ったように見える教会の現状は、本来の教会の在り方を模索するよう変革を迫る神のご計画である
・現状をチャンスとして失敗を恐れずにチャレンジするとき、別の未来が開ける
「信徒は横溢する信仰心によって隘路を歩め!」との下知と受け止め、献堂100周年の準備を進めたいと思います。

<後藤神父様の説教概要>
『主の公現の祭日の朗読、福音は毎年同じ個所なので、何十年と言う信仰生活の中で、何十回と同じ説教を聞かれたと思います。欧州では守るべき祭日として1月6日に祝われますが、日本は宣教国なので社会的事情を考慮して移動の祝日として日曜日と重ねて祝う事になっています。
私は主の公現の祭日には特別な思い出があります。イタリアにいる時に、降誕祭から公現祭までの2週間を、ドイツの片田舎の小さな教会で過ごしたことがあります。ドイツの教会では公現祭ミサが終わると、子どもたちがグループを作り3人の博士を選び、街に出掛け各家を回って寄付を募ります。午前中から活動を始め、夕方まで掛かって寄付金を教会に集めます。教会は集めた寄付金を貧しい人たちに奉げます。博士たちが贈り物を持って幼子に奉げた出来事を基にしたもので、教会らしい善意と愛徳を示す活動として印象深く心に残っています。日本では見られない光景です。私たちも周囲の人たち、恵まれない人たちのために気持を表すことが大切です。
公現祭の今日一つの星が遠い国から3人の占星術の学者を呼び寄せ、礼拝するように導きました。その時から救いのわざが公にされたことによって「主の公現」と言う言葉になりました。ギリシャ語のエピファネイア、ラテン語のエピファニアの「現れる」が語源です。
イエスが神の子である、救い主であることを明らかにし、博士たちに、飼葉桶の中に神の子、幼子イエスを見出させました。
私たちは、信仰の中に何を求め歩むのか?何に導かれ歩みを進めるのか?私たちの心の中に、神を示す星をしっかりと見つめて、一人ひとりの信仰を神に向け歩み出すことが、新年に相応しい公現祭の意味だと思います。
第1朗読では、イスラエルの民に苦難の終わりを告げ、主の栄光に照らされた時代の訪れを予言しています。
第2朗読では、その神秘は異邦人にも、福音によってイエス・キリストにおいて約束されたものを、私たちと一緒に受け継ぐもの、同じ体に属するもの、同じ約束に与る者になると、パウロが強く主張しています。
占星術の学者たちも異邦人でした、異邦人がキリストを探し求めて見出しました。ですから、博士たちを黙想する事が私たちの信仰を更に強くします。星に導かれた博士たち、この星こそ神からの招き、私たちの神への憧れを表す星です。今、私たちのうちに住まう幼子、イエス・キリストは、神の光で私たちを包み込み、全ての人に上に燦然と輝きます。この星の輝きを見分けるためには、心の清さ、純粋さが必要です。私たちの心が曇っていては見出せません。信仰の光に照らされ、純粋な心を持って神に向かう事が本当の光に出会う、救い主に出会うことになります。
「信仰の光によって歩むわたしたちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いて下さい。」
新しい1年を歩み始めた私たち、この祈りの言葉を謙虚に心にとどめ、忘れることなく、日々の祈りの言葉の最後にこの祈りを付け加えて行きたいと思います。
主の公現の祭日、博士の姿を黙想しながら、本当の主であるその教えに導かれて、救い主との出会いを深めて行くことが出来るように祈りましょう。』


今日のミサには、神学生の佐久間さん、箕島さんも侍者として参加くださいました。お二人とも明日、神学校に戻られるそうです。また、今日は子供たちの侍者も勢揃いしました。
後藤神父様の提案で、祭壇前で記念写真を写しました。


風邪が大流行しているようです。くれぐれもお体をご自愛ください。

2015年1月3日土曜日

1月1日 神の母聖マリア

新年明けましておめでとうございます。
今年も皆さまにとって幸せな一年でありますようお祈り申し上げます。

神の母聖マリアの祝日である1月1日は大変穏やかな天気に恵まれ多くの方がミサに参加されました。ミサは勝谷司教様、後藤神父様、森田神父様による共同司式で行われました。




御ミサでの後藤神父様のお説教では、今日の「世界平和の日」にあたり教皇様の言葉も引用しながら「新たな平和な社会をつくりだすのは、わたしたち一人ひとりでなければできない。」と 強調され、年の初めの祈り、希望、願いも今日だけに 終わらせることなく、常に思い起こし、持ち続けたいと 促されました。

ミサ後は、カテドラルホールで有志の方による「お雑煮」がふるまわれ、活気ある新年のスタートとなりました。


また、勝谷司教の年頭司牧書簡が発表され、配布されました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。

『新年あけましておめでとうございます。
昨年は函館で新年を迎えましたが、今年は札幌でとても穏やかな元旦を迎えました。
気象のニュースをみますと日本海沿岸の地域の中には、暴風雪警報が発令されている
ところもありますが、幸い、札幌は昨日から降雪もなく元旦を迎え、暖かい一日に
なったような気がします。
天候が穏やかですと私たちの心も平和で穏やかになるような気がします。恵みも感じ
ます。皆さんとともに一年を迎えることができましたことを感謝したいと思います。

今、世界中の教会は神の母マリアを祭日とし、世界平和をこの地上に祈る日と決めま
した。
つい8日前、「いと高きところには、栄光神にあれ、地上には平和、御心に適う人に
あれ」
神様の照らしを受け、イエス様はそこに眠っていました。天使が現れ、神を賛美しな
がら、歌が夜空に響いたと聖書は伝えていました。
主の降誕から8日目にあたる今日、幼子は神の民の一員となり「イエス」と命名さ
れ、神の祝福を成就します。神の恵みと祝福がイエスの生涯をとおしてすべての人に
告げられる日となります。その幼子といっしょにこの一年を歩む私たちです。今、新
年を迎えて皆さんはどんな祈りをもって、この一年を歩き出そうとしていますか?皆
さんの心の中で新しい一年の始まりにあたってどんな願い、祈り、希望が見えている
のでしょうか。新年の幕開け、神の祝福のもとにこの一年の新しい歩みがあります。

世界の平和を祈る日でもあります。教皇様は改めて互いの平和を祈りあい、世界の平
和を祈って新年の喜びをともに分かち合うことができることを願います 今日、祈る
私たち一人ひとりの聖なる心からの祈りをいつも忘れることなく、この一年持ち続け
たい、思い起こしていたいそんなことを考えます。どうぞ、皆さん、今日一日、祈
り、希望、願い。今日だけに終わらせることなく、胸の中にとどめて、常に思い起こ
して、私たちの信仰の祈りとして、この一年と
もに歩みつづけられるように、私たちの信仰もまた照らしを受けたいと思っていま
す。
神が一人ひとりを呼び集めてくださったこの教会から、私たちがひとつになって、心
から祈り、その願いをもって新しい一歩を踏み出すことができるなら、それはどんな
に素晴らしいことでしょうか。そういう心も持ち続け互いに支えあうことができるな
らば、この共同体にどんなにか大きな力をもたらすことでしょうか。

世界平和を祈るこの日、わたしたち日本にとって、戦後70年を迎える一年ともなっ
ています。多くの人々は戦争体験を忘れようとしています。もちろん、若い人々は戦
争を知らない世代です。でも、繰り返し繰り返し戦争の悲惨さは、報道、テレビを通
してていつも私たちの上にふれられ、わたしたち自身が本当に平和を願い、そのため
の努力をしていかなければ、いつまたどんなことが起ころうとも、不思議ではないよ
うな世界だと思っています。
すべての人の平和を願い、その希望を持ち続け、神が照らすわたしたちひとり一人の
道を、その恵みの光の中で歩き続けなければならない。そのように召されていると言
えると思います。
わしたちが今日、この元旦の日、心の扉を開いて捧げる祈りが神の意向に適い、わた
したちに勇気をもたらし、励ましを与える日々となるように。

昨年暮れに選挙がありました。アベノミクスが囁かれても日本の社会では多くの人が
職を失い、若者さえ生活に希望を見失ってしまうような、混乱した状態が続いている
のが今の私たちの国でもあります。日本の政界、そして国際政治の社会の中にあって
もたくさんの不安がそこにうずまいているとも言えると思います。でも、夢や希望は
私たちの中から消えることはありません。私たちが神への信頼を失わない限り、神は
私たちをひとりも失うことなくいつも招いておられることを、わたしたち一人ひとり
は知っているからです。
教皇様もメッセージの中で、呼びかけています。新たな人類の社会をつくり出してく
ださい。新たな平和な社会をつくり出すのは、私たち一人ひとりでなければ作り出す
のはできない。そのことを心に誓い、行動することによって、社会は平和へと一歩一
歩近づいていくものと信じています。

今、新年をむかえて新たな出発を願い、祈っていると思います。社会の国の基本は家
庭にあると良く言われます。家庭が小さな基本のひとつであると、良く言います。そ
れぞれの家族の中の連帯を強め対話を大切にして平和と愛を証し出来る、そういうひ
とりひとりになり、家族がひとつになるなら、社会は変わっていくものと信じます。
わたしたち一人ひとりの平和はもちろん大切なことですが、まず家族のなかにいつも
平和が訪れる、そして家族を中心とする人間社会の中にもその光が届けらるように、
平和な光が満ちていくように努力していくことを誓いましょう。

マリア様を通して平和を祈る今日、聖マリアを模範とし、マリアのように目の前に起
こっている出来事をいつも心に留めて祈らなければなりません。幼い子供たちが 安
心して眠ることができる社会、世界を実現するのは私たち自身であるという決意をも
とに、この一年がスタートとなればと願います。
すべての人の上に、私たち一人ひとりの上に、世界中の人々の上に、神の祝福と恵み
を祈りましょう。新年を迎えた皆さん一人ひとりの上にも良き年が巡ってきますよう
に。

もうひとつ加えたいと思います。私たちの喜びのクリスマスが1週間前にありまし
た、まだ喜びのうちに包まれています。これまでにも何度か触れてきましたが、私た
ちが祝うクリスマスのうちにあっても、隣人の中に社会の中ではひもじい状況の中
で、その日を迎える人がいるということを忘れないでいたいと思います。つらい状況
におかれている人は、私たちの周りの世界にも大勢います。年末の飛行機事故に遭遇
した被災者、家族もまた同じ思いでこの1年を迎えたに違いありません。  

マリアにならい、どんなときにも友人を思いやる心を大切にできるようになりたいも
のです。貧しく暗く寒い状況の中で幼子を私たちに示してくださった神に、その父な
る神は幼子を通して私たちの歩むべき道をも示そうとしてくださったように考えま
す。自分の置かれた状況を見つめながら今の幸せを神に感謝し、平和のために歩むこ
とができますように。天使の賛美の声が今もなお、わたしたちにその喜びの声、賛美
の声を届けてくれています。
「地には平和が訪れますように。御心に適う人に幸せがきますように。」このみこと
ばを心に留めながら新しい一年を歩み出しましょう。』