2022年10月29日土曜日

10月30日 年間第31主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第31主日 C年 2022年10月30日 松村神父

今日の福音、有名なザアカイについての物語について次のような見方をしたことがある。最初ザアカイは木の上にいる。イエスは下を歩く。見下ろすザアカイと見下ろされるイエス。次にイエスの呼びかけでザアカイが降りてくると、ザアカイは背が低いので最初はイエスを捜すところから始まり、そして見つけるとイエスを見上げる。イエスは背の低いザアカイを見下ろす。最後にイエスとザアカイは共に家に入り椅子に座り食卓に着くと、ほぼ同じ目線となる。

ここで大きく変わったのはイエスによる呼びかけであろう。「人を見下すのではなく、地に足を付けてごらん。ザアカイに自らの行動を通して伝えたかったのは、人を見下ろすのではなく、与えられた自分を受け入れ、すべてを見上げる姿勢、すなわち尊敬の念をもって見る事ではないだろうか?ということ。自分の存在、体格、性格、職業、どれをとっても決してよろしくはない。しかし、「それが事実で、それが自分そのもの」であるという劣等感を捨てて、受け入れたザアカイの心は晴れやかになり、解放感に心が満たされたのではないだろうか。イエスは「今のあなたが、あなたそのもの。自分を愛するように隣人を愛せ」ということを思い出し、「自分を愛することの大切さ」を伝えたとも読み取れる。そしてそこに衝撃的な一言。「あなたの家に泊まります。」というイエスの呼びかけ。そこで湧き起る衝動は、自分の心をつかんだ主が、私を選ばれたことへの喜び。出エジプト記には過ぎ越しによる救いが現されているが、ここでは主が目の前で立ち止まられる出来事。同じ目線に立ち関わるイエスとの体験は、多くの弟子が体験した出来事。それは弟子以外の他の人々にも与えられていたのではないだろうか。そしてこの選びこそ召命そのものでもあろう。選ばれた者はすぐにその使命に気づかされる。ザアカイの使命は、受けた恵を返すこと。しかもそれをさらに実践にまで高め「財産を半分施し、また罪を犯した場合は4倍にしてでも返済し、赦しを願う」こと。

ザアカイの人間性はこの福音書では最初は見た目だけであったが、徐々にその姿が内面にまで掘りさげられ、イエスの前で丸裸にされた。そしてなすすべもなくあらわにされた人ザアカイは、最後にイエスに語ったことは回心による信仰宣言だった。イエスが最も望んだ結果だったに違いない。無くした1枚の金貨が返ってきた出来事と同じである。

私たちはミサで定型文の信仰宣言を唱えています。しかし、他の場では祈りとして、私たち一人一人の信仰宣言があってもいいのではないか。喜びの・赦しの・栄光の信仰宣言等。長い信仰宣言でなくても私たちのつたない言葉が、「イエスは主である」ということを語れる言葉は、すべて信仰宣言であることに気づかされる。今日の第一朗読の知恵の書の一文一文が、私たちにその信仰宣言の語り方を伝えるために描かれているように感じられる。

さぁ、今日も私の中から湧き起るイエスへの想いを信仰宣言にして捧げてみようじゃありませんか。


【聖書朗読箇所】

いつくしみ深い神よ、

  あなたは失われたものを探し救うために、

  ひとり子を世にお遣わしになりました。

  きょうここに集うわたしたちが、

  救い主であるイエスを迎える喜びに満たされますように。

集会祈願より


第1朗読 知恵の書 (知恵 11章22-12章2節)

(主よ、)

御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、

朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、

回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

あなたは存在するものすべてを愛し、

お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

あなたがお望みにならないのに存続し、

あなたが呼び出されないのに存在するものが

  果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

  あなたはすべてをいとおしまれる。

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。

主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、

罪のきっかけを思い出させて人を諭される。

悪を捨ててあなたを信じるようになるために。


第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (2テサロニケ1章11-2章2節)

(皆さん、わたしたちは)いつもあなたがたのために祈っています。 どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、 また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、 わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、 あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。

 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、 そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、 主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、 すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ19章1-10節)

(そのとき、)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。 この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、 背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。 そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 これを見た人たちは皆つぶやいた。 「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。 また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 イエスは言われた。 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

2022年10月14日金曜日

10月23日 年間第30主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第30主日 C年 2022年10月23日 レイ神父

ファリサイ派の人と徴税人のたとえ

この福音の箇所はファリサイ人と徴税人のたとえ話です。このたとえでは二人の態度の際立った対比がされています。まず、ファリサイ人の態度は自身や世間のイメージを高く評価し、自らの罪のことは意識していないということがわかります。

次に徴税人の態度は自分の罪を深く意識し、それを悔やみ、神の憐れみを必要としていることがわかります。この全く異なった二人の態度の結果は、徴税人は義とされて家に帰り、一方でファリサイ人はそうではなかったとあります。義とされるとはどういうことでしょうか?それは徴税人は明らかに罪悪感を持っており、真理に根差していたのです。かれは憐れみを必要としている事をわかっていたしそれを懇願して、それを受け取ったのです。彼は自分にも、他人にも、神にも嘘はつかなかったのです。彼は自分が何者かがわかっており、そしてこの真実により神は彼を高めたのです。徴税人が義とされたのは、彼の人生における罪の許しとそして神からの憐れみを授かることだったのです。

ファリサイ人の方は皆に見えるように立ったことで、ある意味自分自身は気持ちよく感じていたかもしれません。自分の正しさを確信していましたが、しかしそれは正しさではありませんでした。ただ自分が正しいと思っていただけです。彼は嘘に生き、そしてその嘘を信じており、他人にもその嘘を信じ込ませようとしていたかもしれません。しかし事実はそのままです。ファリサイ人は不正であり、そして真に義とされません。

この箇所からくみ取るべきことは真理に生きる大切さを深く悟ることです。誤った自己認識をするものは自分をだまし、そして他人さえもあざむくかもしれません。ですが神をだますことはできませんし、おのれの魂の平安を得ることもできません。わたしたちは皆自分たちの罪や弱さを謙虚に認め、そうすることで唯一の救いである神の憐れみを乞うのです。.

この徴税人のことを今日は黙想しましょう。「神様、罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18章13節)あなたの祈りにしてください。神の憐れみが必要だと認め、神の義のうちに神の憐れみによってあなたを高めましょう。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな神よ、

  わたしたちが自分のありのままを差し出すとき、

  あなたは大きな愛をもって受けとめてくださいます。

  ともに祈るわたしたちが、あなたにすべてをゆだねることができますように。

集会祈願より


第1朗読 シラ書 (シラ 35章15b-17,20-22a)

 主は裁く方であり、

人を偏り見られることはない。

貧しいからといって主はえこひいきされないが、

虐げられている者の祈りを聞き入れられる。

主はみなしごの願いを無視されず、

やもめの訴える苦情を顧みられる。

御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、

その祈りは雲にまで届く。

謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、

それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。

彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、

正しい人々のために裁きをなし、

  正義を行われるときまで。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 4章6-8,16-18節)

(愛する者よ、)わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。 世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、 決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、 だれにでも授けてくださいます。

 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、 皆わたしを見捨てました。 彼らにその責めが負わされませんように。 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、 すべての民族がそれを聞くようになるために、 主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。 そして、わたしは獅子の口から救われました。 主はわたしをすべての悪い業から助け出し、 天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。 主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ18章9-14節)

(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、 イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。 一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。 『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、 姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者 でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、 胸を打ちながら言った。 『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、 あのファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

10月16日 年間第29主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第29主日 C年 2022年10月16日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音も、ルカだけが残している個所です。ルカは、イエス様が「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるためにこのたとえ話を残したと記しています。そして、最後にこうした強い信仰があってほしいというイエス様の望みを付け加えています。

  ところで、今日の第一朗読は、『出エジプト記』から採られています。イスラエル民族は、シナイ山で神様と契約を結んで神の民として歩み始めました。しかし、まだ神様に助けてもらう必要がありました。同時にまた、自分の力で歩まなければなりませんでした。つまり、異民族から食べ物や水を奪う必要がありました。つまり、勝利できる部族や民族を選び、戦いを挑み、食べ物や財産を略奪しなければなりませんでした。そうしないと生きていけないからです。その最初の相手がアマレク人でした。アマレク人にしてもイスラエル人にしても生きるか死ぬかですから必死で戦います。ここではモーセが手を挙げている間は、優勢に戦えていますが、疲れて手を下すとアマレク人が優勢になり、一進一退の戦いが続いたと記されています。夕方までこの戦いは続きましたが、ここでは象徴的な形が記されています。イスラエル人にとって手を上げるとイスラエル人は優勢となり、疲れて手を下すと劣勢になった、と。モーセが手を上げることは祈りの一つの形だったのです。つまり、モーセとその助け手たちは、一日中モーセと共にいて、祈り続けたことになります。

  この話しは、裁判官を訪れて願い続けた婦人の姿にどこか似ています。神を畏れず人を人とも思わない裁判官は、冷徹で非情な裁判官というよりは、ある意味では公正な裁判官と言えるでしょう。何ものにも左右されない公正さを持ち合わせています。そこに一人の婦人が尋ねてきます。この裁判官は、最初は婦人の訴えを取り上げようとはしませんでしたが、婦人の執拗さに、ついに取り上げることにしました。

  最初のアマレクの出来事もこの婦人の出来事も、物事の善悪を問う話ではありません。一日中祈り続けたモーセと従者のように、ひっきりなしにやって来る婦人。この祈り続ける姿をイエス様は問題にしたかったようです。そこには頼り切る姿、絶えず祈る姿を見ることができます。

イエス様は最後に言います。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と。十字架を目の前にしてのイエス様の言葉であることを心に留めましょう。その時、イエス様を、そして神様を信頼し、頼る心をもって十字架に、また御父に迎うことができるでしょうか。徹底的に、頼れるでしょうか。イエス様の言葉は、単に祈り方を教える言葉ではなく、もっと厳しい言葉のようですね。        湯澤民夫


【聖書朗読箇所】

信じる者の力である神よ、

  あなたは呼び求める者の願いにこたえてくださいます。

  わたしたちが祈りと信頼の心をもって、あなたに近づくことができますように。

集会祈願より


第1朗読 出エジプト記 (出エジプト 17章8-13)

 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、 モーセはヨシュアに言った。

 「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。 明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」

 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。 モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、 手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 モーセの手が重くなったので、 アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。 モーセはその上に座り、 アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。 その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 3章14-4章2節)

 (愛する者よ、)あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。 あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。 この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、 あなたに与えることができます。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、 人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、 十分に整えられるのです。

 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られる キリスト・イエスの御前で、 その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。 折が良くても悪くても励みなさい。 とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ18章1-8節)

 (そのとき、)イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、 弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 ところが、その町に一人のやもめがいて、 裁判官のところに来ては、 『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。 しかし、その後に考えた。 『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから 、彼女のために裁判をしてやろう。 さもないと、ひっきりなしにやって来て、 わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。 「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、 彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。 しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

2022年10月8日土曜日

10月9日 年間第28主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第28主日 C年 2022年10月9日 松村神父

水平社宣言100年にあたり、現在シンポジウムが数度行われ改めて忘れてはならない事が思い起こさせられています。さて、この水平社宣言とは北海道の人にはなじみがないと思います。なぜならばその宣言は部落差別に対して、強い思いのなか部落の人々がその人権を主張し、社会を変えようとした宣言であるからです。蝦夷全体がそもそも部落のようだという人もいるほど、私たちはすでにその中で生きていますし、江戸以降の歴史が薄い北海道にとって認識が薄いのは致し方ありません。せいぜい松前藩によるアイヌ民族迫害やオホーツク沿岸に居住されていた北方少数民族ぐらいしか脳裏をよぎらないことでしょう。しかし誰しも差別を身近なものとして、そこに向かって思いめぐらすことなく世界の家族の共存の道はありません。

今日の聖書では重い皮膚病の人を中心に描かれています。「ハンセン病」と呼ばれ、かつて日本では「ライ病」と呼ばれていた人。「ライ」は差別用語にもなり、家族親族まで忌み嫌われていきました。

少し話は変わりますが、先週、私の恩師である元東京カトリック神学院の院長を務めた東京教区の寺西英夫神父様が亡くなりました。寺西神父からは神学生時代に随分と心の助けをいただきました。その中でも神山復生病院に一緒に行った時の事を思い出します。

まだ入学して間もない私にとって、初めて見たハンセン病の一人の患者さんは驚く姿をされていました。目は白濁、鼻は崩れ落ち、手足の指は無く、口も裂けていました。寝たきりのその患者さんは80代。その方のもとに寺西神父と共に二人で会いに行ったのですが、寺西神父は当たり前のように枕元に近寄り、ティッシュをつまんで零れ落ちるよだれをふきながら優しく声をかけられました。もちろん今の時代は感染することはありませんが、衝撃が走り近寄ることに恐れが生じました。しかし寺西神父の姿によって、気が付いたら足をさすりながら自己紹介を始めていました。その間僅か10秒ほどでしょうか。

この寺西神父の姿を見て患者さんに磁石のように引き寄せられた体験は、患者さんへの自己の感情や意識した壁を越えられたといった問題ではなく、神父さんの姿の中から勇気や力が湧いたことを思い出させられました。

理屈で整理することが得意な私にとって、引き寄せられた体験は初めてだったかもしれません。この差別を受けている人たちへの関わりとは、自分の能力や態度ではなく、私たちに与えられた神の態度とその恵みに突き動かされる衝動なのでしょう。神学生になって間もない頃のこの体験は、貴重なものでした。

今日の福音では異邦人のみが感謝のためにイエスのもとに戻ります。この出来事は信仰生活が長いから、年長者だから、信仰に熱心だからという“言い訳や主張”を否定し、神から受けた恵みを“受け止められるセンス”を求めていることが語られています。

たった10秒の中に起きた自分の中での出来事を、その後何度も何度も反芻し考えていく中で、センスの無い私でも寺西神父を通して自分の中に起きた神体験は今も忘れることはありませんし、忘れてはならないと感じています。そしてそのことに限らず、同時に差別を受ける人々がまだ大勢居り、私にさらに心の開放を求めている主がおられることも忘れてはならないことが語られていると感じました。


【聖書朗読箇所】


いつくしみあふれる神よ、

  あなたはすべての人をいやし、豊かないのちを与えてくださいます。

  ここに集うわたしたちが感謝の心を一つにして、賛美の祈りをささげることができますように。

集会祈願より


第1朗読 列王記 (列王記下 5章14-17)

  (その日、シリアの)ナアマンは神の人(エリシャ)の言葉どおりに下って行って、ヨルダン(川)に七度身を浸した。 彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。 「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。 今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。 わたしは受け取らない」と辞退した。 ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 ナアマンは言った。 「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。 僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物や その他のいけにえをささげることはしません。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 2章8-13節)

 (愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 わたしの宣べ伝える福音によれば、 この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 この福音のためにわたしは苦しみを受け、 ついに犯罪人のように鎖につながれています。 しかし、神の言葉はつながれていません。 だから、わたしは、選ばれた人々のために、 あらゆることを耐え忍んでいます。 彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 次の言葉は真実です。

 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

  キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

  キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

  キリストもわたしたちを否まれる。  わたしたちが誠実でなくても、

  キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を否むことができないからである。」


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17章11-19節)

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、 「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。 彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。 この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。 「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

2022年10月1日土曜日

10月2日 年間第27主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第27主日 C年 2022年10月2日 レイ神父

この命令を行うのは難しいです。私たちはたいてい上手に何かをしたり、義務を果たしたときには褒められ認められることを求めます。私たちは注目されたいのです。これは普通のことですが、とても謙虚といえる反応ではありません。謙虚さには様々な程度があり、最もへりくだった人が上記の一節を繰り返し、それを意味することができるのです。

まず、神のご意志は私たちにとって良いものであると気づかねばなりません。それは私たちに愛の義務を課します。神の意志を果たすとき、そのことだけを喜ぶべきです。なぜならそれは良いことだからです。神の意志を果たすそのことは私たちの喜びの源となります。他人から認められることではありません。

一方、他の人の良さを見てそれを認めるのは良いことです。その人たちのエゴを助長するためではなく、良いことがなされたと神を称えるためにするのです。そして他の人から私たちの生きざまに神のご意志が成し遂げられた、と認められたとき、私たちはその賞賛を自分のプライドにするのではなく、神は良いものであり、神の意志がなされつつあるのだと直に認めなければなりません。私たちは「しなければならないこと」が出来たことに感謝すべきです。

神のご意志に聖なる義務として従うことで、私たちはそれをより完全に果たすことができます。神の意志を果たすことが何か途方もないことのように思えるとき、私たちは正しいやり方をしていないのかもしれません。それは愛からの任務であり、なすべき当たり前の行為であると見なされるとき、神の意志により完全に従うことはたやすいのです。

この謙虚さについて今日は黙想しましょう。「私どもは取るにたらない僕です。しなければならないことをしただけです。」そう言ってみましょう。そのつもりでいましょう。そしてこの言葉をあなたの日々の神への奉仕への基礎にしてみてください。そうすることであなたは聖性への「高速コース」につくのです。


【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたはすべての人を招き、信仰の道を歩むよう支えてくださいます。

  キリストの名のもとに集うわたしたちが、信じる心をたえず新たにし、

  福音をよりどころとして生きることができますように。

集会祈願より


第1朗読 ハバククの預言 (ハバクク1:2-3,2:2-4)

 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、 あなたは聞いてくださらないのか。 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。

 どうして、あなたはわたしに災いを見させ 労苦に目を留めさせられるのか。

暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。


主はわたしに答えて、言われた。

「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。 定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。 それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (Ⅱテモテ1:6-8 ,13-14)

(愛する者よ、)そういうわけで、わたしが手を置いたことによって あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 神は、おくびょうの霊ではなく、 力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 だから、わたしたちの主を証しすることも、 わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。 むしろ、神の力に支えられて、 福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、 わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 あなたにゆだねられている良いものを、 わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17:5-10)

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 主は言われた。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、 この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、 言うことを聞くであろう。

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、 その僕が畑から帰って来たとき、 『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、 わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。 お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。 自分に命じられたことをみな果たしたら、 『わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」