2019年3月31日日曜日

四旬節第4主日

この日の福音朗読では「放蕩息子のたとえ」をとおして
罪人の回心と神の救いについて語られました。


この日のミサは、後藤神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。

『3月の最後の日は日曜日になりました。4月の1日は明日に控えていますが、新年度というイメージを私はしています。節目の時と思いますが、日本の中では学校においても新年度と言いますし、年号で言っても1月1日は大きな節目ですし、教会の典礼で言いますと待降節、新しい1年の始まり、節目となってきます。私たちはどこに重要なポイントを置いているでしょうか。
 四旬節もそういう意味では新しい年度、私たちの新しい出発というふうに考えても良いかもしれません。それは回心をもって復活祭を迎える新しい出発、教会の典礼の季節を私たちは今生きているのだと思います。今日は少し長い福音書でしたが、放蕩息子のその内容は、十分に皆さんの心の中に理解されている話ですが、何度聞いてもそれぞれに感動を受ける内容がそこにあります。私は、求道者の時に受け止めた思いとは変化してきていると思います。信者になったころは放蕩息子の姿をとおしてその回心に至る道。そして、お父さんと出会って赦されたその時の、お父さんの愛の深さにとても感銘を受けて、感動をしたりしていました。前半、中盤、そういう感動すするシーンを思いうかべていましたが、どこかで自分の思いは後半に出てくるお兄さんの心情に随分近いような気がして、感動している自分がどこかで冷めてしまう、そんな思いを良く感じていたことが思い出されます。
皆さんはどうでしょうか。放蕩息子の放蕩三昧の生活と悔い改めの道すがらお父さんに抱かれて赦されたときの姿は、本当に感動的なたとえ話です。後半のお兄さんの心情を見ているとき、何となくこの話が矛盾したり、つじつまがあわなかったり、納得出来なかったりで、そんな思い出をわった人もたくさんいるのではないでしょうか。

 灰の水曜日から始った「四旬節」から四回目の日曜日を迎えました。復活の主日までは、ちょうど真ん中にあたります。四旬節の残された日々は三週間。復活の神秘を喜びのうちに待ち望み、心を清めて歩むことを私たちは願い、祈りながら四旬節を歩んでいます。
 教皇フランシスコは今年の四旬節のメッセージの中で「備えの道を旅するように」わたしたちは招かれていると述べられています。多かれ少なかれ、人間の心に潜むおごりは、わたしたちの節度を失なわせ、欲望に従ってしまうという傾向を持って過ちを犯すことが良くあると思います。罪は悪の根源であるともいいますが、大きな過ちは神からも、人々の関係、他者からも交わりを疎外してしまう要素をもっています。そのため、教皇様は、神の恵みを取り戻すためにも、四旬節の日々は復活祭への歩みであり、悔い改め、回心、ゆるしをとおして、キリスト者としての心を取り戻す日々であるとも述べているのです。
 さて、今日のみことば第一朗読で "過越祭"を祝ったイスラエルの民が 過去の「断食」の荒野の生活の苦しみから解放され、神に導かれた新しい未来への旅立ちを表しています。新年度ではありませんが、新しい旅立ちというテーマが今日の福音のたとえ話につながります。ルカの福音書で悔い改め、回心、ゆるしをとおして神に立ち帰るという放蕩息子の姿が、過去の生活から解放され新しい出発へと浮き彫りにされています。

  教会の共同回心式でも、このルカの福音書の「放蕩息子」の聖書の話でよく使われますが、それは「ゆるしの秘跡」の重要なポイントがこのたとえ話の中にあるからです。四旬節でもありますので今日は、この聖書のことばを味わいながら、ゆるしの秘跡について話していきたいと思います。
 ゆるしの秘跡を受ける場合に大切な事を考えて見ましょう。まず、「ゆるし」をいただく前に大事なことの一つは良心の糾明です。自分の過去の行いを、自分の良心に照らして、神の前で立ち止まって考え、どんなことがあったのか、どんなことが良かったか、どんなことが反省すべき材料としてあったのか。それが良心の糾明になります。今日の福音の中で放蕩息子は「我に返って言いました。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』もう息子と呼ばれる資格はありません。」この部分が良心の糾明というテーマに繋がっています。自分の過去に犯した罪を反省し、お父さんの所へ行って(告白)言おうと家に帰ることになります。この経緯の中に、ゆるしの秘跡の中で最も大切な二番目の悔い改めと罪を避ける決心があるのです。もう同じ罪は犯したくない。お父さんははたして自分をゆるしてくれるだろうかと緊張しながら帰ってきます。三番目は、罪の告白です。緊張しつつも懐かしい家に帰ってくると、お父さんが待っていてくれ抱きしめてくれましたが、この時、告白がありました。息子は言いました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても 罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と罪を告白しています。告白があり、その上で罪のゆるしをいただくことになります。罪の告白をし赦しをいただきながら償いもいただきます(与えられます)。私たちの教会の中で行われているゆるしの秘跡の中での司祭は、ゆるしを求める人が自分の罪を悔い改め、再び神に立ち帰る決心をした者を抱擁し、ゆるす父なる神の似姿なのです。これが罪のゆるしということになります。
 司祭は償いを与えますが、償いはひとり一人違ったものですが、償いの行為はどんな意味をもっているでしょうか。信者が秘跡にまします神のみ前でたてた個人的な約束のしるしでもあり、新たな生活を始めるしるしでもあるようです。神のあわれみと恵みによって、主の平和と喜びを再び得た感謝の祈りともなるのが、この償いの祈りになります。わたしたちの四旬節の新しい歩みが、今日告げられているみ言葉から「放蕩息子のたとえ」話をとおして導かれていると思います。今日いただいたみ言葉を味わいながら、黙想しながら、私たちも新しい出発を出来るように準備が出来たらと思います。

 そういう中で改めて今日のたとえ話を思い起こします。息子の過ちを少しも問うことなく、お父さんである「父なる神」は喜びを表した、このたとえ話。子どもを温かく迎え祝ってくださる天の父は私たちのお父さんになります。神とわたしたちを見つめる事ができるのではないでしょうか。たとえ話の中でも感銘を受けます。神様の愛がいかに私たちに深い愛をもって手を差し伸べてくださっているか。どんなに私たちが過ちを犯したとしても、それを赦してまた私たちを引き上げてくださる。また、神様との新しい関係をもって歩ませてくださる。物語を読んで、触れて、感動したり、感銘したりするのですが、神はいつでも待っていてくださるということを、忘れてしまうことが多い私たちのようです。
 先週の黙想会でも場﨑神父さんは、私たちに話をしてくださっています。祈っていても、自分の都合で祈ってしまうことが多い私たち。どんなにしても私たちは一生懸命自分の信仰をもって神様に心を向けているつもりであっても、時に自己中心的に考えたり、祈ったりしていることに気づきます。祈っているようでも、神を見ていない私たちがいることもあるかもしれません。

 今日あらためて放蕩息子のたとえ話を黙想しながら、四旬節の歩みをもう一度新しい決心をもって再出発したいと思います。秘跡を大切にし清められ、喜びと希望を見失うこ とがないように、悔い改めをもって、神のもとに立ち帰る喜びを、再び私たちひとり一人が生きることが出来るようにように、ミサをとおして神の力、聖霊の力をいただきたいと思います。』

2019年3月24日日曜日

四旬節第3主日 「黙想会」

四旬節第3主日のこの日、場崎洋神父様をお招きして四旬節黙想会が行われました。

主日ミサは、場崎神父様と後藤神父様の共同司式により行われました。


場崎神父様のお説教をご紹介します。

『イエスが生きていた時代の福音書の中に書かれている事件、そしてそれ以外の事が起きたに違いありません。今日語られた福音もそうです。これを現代風にニュースでかかったとしたら、どういうふうに伝わるでしょうか?
「皆さんおはようございます。7時のニュースをお送りいたします。昨日午前10時頃、エルサレムの東側の神殿で、神殿にお参りしていたガリラヤ人たちがローマ兵によって殺されました。詳細はまだ明らかにされていませんが、神殿を汚していたローマ兵と衝突したものと思われます。
次の事件です。一昨日、エルサレムの地下水道、その出口に建っているシロアムの塔が崩壊し18名の死者が出ました。原因は塔の土台の不具合によるものです。現在調査中です。」
そして、そこで殺されたガリラヤ人。そして事故で死んだ18人。この出来事が伝わっていた。もちろんイエス様も知っていました。当時の人々はいろいろなニュースを聞いて、「あの人たちは何で死んだんのか?きっと悪いことをしたのに違いない。罪を犯したからに違いない」そう思っていたんです。私たちも普段のニュースを聞いた時に、どう思うでしょうか?「あの人がこんな事件を起こした。ああ、あの人は悪い人だった。」 あるいは見知らぬ人が癌になった。「きっとあの人は罪が重かったから、罰を与えられたに違いない」 あるいは「なぜ、私が病気になるの? きっと神様が罰を与えたんだ」そのように思ってしまうんです。

イエス様がそれに対して、どう思っているのか?
私たちも東日本大震災の時に、1万5千人以上の人が死んだ時に、なぜ罪のない人たちがそうなるのか?
罪を犯したからそうなったのではない。
あなた方が回心をするために、神様はその業をなさったのだ。
それでは亡くなった方たちはどうなったのか?
それは神様が全部保証してくださいます。
永遠の宴、平和な国へ招いてくださいます。
その出来事をとおして、あなたはどう自分を神様に向かわせたのか?ということを私たちに問われているわけなのです。
そしてイエス様は、回心をしなければ、私たちは決して神様のもとに立ち返ることが出来ないとおっしゃいました。

気仙語の訳者である山浦さんが、洗礼のことを「水潜る(くぐる)」というふうに表現しました。それは、流れる川の中に自分を沈めて、そして息を止めるぐらい、そして一度死んで、そして生き返る。その思いで回心に与るのだということです。もともと洗礼、すなわち洗礼者ヨハネの時の悔い改めの洗礼の古来の意味は、私たち一人一人が穴だらけの小舟なのだ。それを川の底に沈める。すると川が流れて、そして私たちの穴だらけの傷の所に全部神様が、癒し、そして清めてくださるのだ。そして私たちは新しく生きるのだ。ということです。

私たちは、いつも日々の生活の中で清められている。清められているのだけれど、私たち自身が清くなりたいと思う決心がまだまだ遠い。そういう中で、私たちは四旬節の間で、神様に回心する。清めてもらう。そしてまた人をも清めることが出来る方に、祈り求める。それが四旬節における大きな恵みです。
”わたし”だけではありません。”わたしたち”が一緒になって、清められて、天国の宴に招かれることを切に願いながら、今日の日を過ごしてまいりたいと思います。
「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」』


ミサの後、「黙想会」が行われ、場崎神父様の講話をお聴きしました。


私たちが日々習慣のように唱えている「主の祈り」に込められた回心についてお話されました。
講話の最後は、次のように結ばれました。
「いつも皆さんの中から、泉が湧き上がってくる。そして清められていく。そして信者であっても信者ではなくても、皆さん平等に神様の愛がそそがれる。それは、神は善い人の上にも悪い人の上にも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるからだ。そして詩編の51編に「雪よりも白くなるように」それは、今まで以上に清くされるように、というように祈るわけです。私たちは日々、淀みの水ではなく、いつも清められていく自分がここにいて、神から愛されて、祝福されているということを心に留めて、歩んでいきたいと思います。」

場崎神父様、体調がすぐれないなか、私たちを回心に導いてくださるお話をいただき本当に有難うございました。

2019年3月21日木曜日

ボナヴェントゥラ 蓑島克哉助祭の司祭叙階式

3月21日(木・春分の日)午前11時より、当教会聖堂でボナヴェントゥラ 蓑島克哉助祭の司祭叙階式が勝谷司教の主司式により行われました。
叙階式には、36名の司教・司祭団と500名近い信徒・関係者が参列しました。




蓑島新司祭の心温まる挨拶(動画)



叙階式ミサでの勝谷司教のお説教をご紹介します。

『札幌教区の信者の皆さん、そしてご親族・友人の皆さん、蓑島さんは間もなく司祭団に加えられます。 彼がどのような奉仕の務めを行うために叙階されるのかを共に考えてみましょう。 聖なる神の民全体は、キリストにおいて、王である祭司の民とされています。 確かにそのとおりです。 しかし、わたしたちの大祭司イエス・キリストは、自ら何人かの弟子をお選びになりました。それは、彼らが教会の中で、キリストの名によって、人々のために公に祭司の務めを果たすためでした。キリス トは御父から遣わされましたが、ご自身も使徒たちを世に遣わし、彼らとその後継者である司教たちを とおして、師であり、祭司であり、牧者であるご自分の務めを引き続き果たしていくようにされたので す。そして、司祭たちは司教団の協力者として立てられ、祭司の務めによって司教と結ばれて、神の民 に奉仕するよう召されています。この兄弟は、十分に考えたうえで、今、司祭団の中で祭司職を果たすために叙階されようとしています。それは、師であり、祭司であり、牧者であるキリストに仕えるためであり、キリストの奉仕職によって、そのからだである教会は、神の民、聖なる神殿として築かれ、成長していきます。
この方は、福音をのべ伝え、神の民を司牧し、とくに主の奉献による神への礼拝を司式するために、永遠の大祭司キリストに似た者とされ、司教の祭司職に結ばれて、新しい契約の真の祭司として聖別されます。
司祭に叙階される蓑島克哉さん、あなたは師であるキリストにおいて、司祭として教え導くという聖なる務めに携わる者となります。自分自身が喜びをもって受け入れた神のことばを、すべての人に分け与えてください。そして、神のことばを黙想し、読んだことを信じ、信じたことを教え、教えたことを実行するように心がけてください。そして、あなたの教えが神の民の糧となり、日々の行いがキリストを信じる人々の喜びとなって、ことばと模範をとおして、神の家である教会を築いてください。また、あなたはキリストにおいて、人々を聖なる者とする務めを果たす者となります。この奉仕職によって、信者の霊的奉献は、キリストの奉献に結ばれて完成されます。キリストの奉献は、あなたの手をとおして信者とともに祭壇の上で、秘跡として祭儀のうちにささげられるのです。ですから、自分が行うことをわきまえ、それを生活の中で生かし、主の死と復活の神秘を祝う者として、自分自身あらゆる悪に対しては死んだ者となり、新しいいのちのうちに歩むよう努力してください。
あなたは、洗礼によって人々を神の民に加え、ゆるしの秘跡によってキリストと教会の名のもとに罪をゆるし、聖なる油によって病者を助け、聖なる祭儀を司式します。また、神の民と全世界のために、感謝と願いをこめて、日々定められた賛美の祈りをささげます。こうして奉仕の務めを果たすとき、あなたは自分が神に仕える者として人々の中から召され、人々のために立てられたということを思い起こしてください。そして、自分のことではなくキリストのことを考えて、永遠の祭司キリストの務めを、まことの愛のうちに、喜びをもって果たしてください。
最後に、頭であり牧者であるキリストの務めをそれぞれの立場で果たし、司教と心を合わせ、司教に従って、信者たちが一つの家族となるよう努力してください。こうして信者たちを、キリストによって、 聖霊のうちに、父である神のもとへ導くことができるのです。そして、仕えられるためではなく、仕えるために来られ、失われていたものを探し求めて救いに導くために来られた、よい牧者キリストにならって生活してください。』

2019年3月17日日曜日

四旬節第2主日 「洗礼志願式」

この日のミサは、後藤神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。

福音では「主の変容」の場面が朗読されました。


この日行われた洗礼志願式には5名の入信志願者が臨まれ、神父様の前で洗礼の意思を表明し、正式に洗礼志願者となりました。
約1ヶ月後の復活徹夜祭には、皆さんが揃って洗礼の恵みに与れることができるよう祈り支えましょう。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『「灰の水曜日」から始まった【四旬節の典礼】は、主の復活までの主日を除く40 日間に定着するまでは色々な変遷を経ていると伝えられています。しかし、キリストの受難を思い起こして、それを生きる期間としての四旬節。そのことは、復活をもって切り離すことは出来ないこと。初代教会の時代から「主の日」に信者が集まり、主の復活を記念を行っていたということは、カタコンベの壁画にも描かれており、そのことが推測ができるようです。
 また、四旬節を過ごしながら主の受難と復活に信 者を固く結びつける意味合いからも洗礼式が行われるようにもなりました。四旬節の目的、期限は、すべてのキリスト者の生活がこの過ぎ越しの秘儀にあったのです。罪のゆるしを受けて、新しいいのちを得て、復活されたキリストの姿にあやかることが出来ますように。そういった新しい出発に向けての準備でもあることは、この四旬節の精神でもあります。四旬節、皆さんはどんな日々を過ごされていますか。
  今日は、説教の後に洗礼志願式を行い、洗礼の準備を進めている受洗予定者を紹介することになります。

 さて、先週のイエスに対する悪魔の誘惑の話から、今日はイエスの変容の話 に変わりました。黙想をする中で単純にキリスト者の信仰に対して精神的にも肉体的にも、四旬節の日々を過ごすなかで、霊と肉において変容してゆくことが語られているように思えました。今日のみ言葉、イエスの姿が変わったという出来事は、どの福音書でも語られています。イエスは弟子たちに「エルサレムに上って苦しみを受け、殺され、三日目 に復活することになっている。」と話しています。そのことを誰にも話すなと戒め、さらに「それでもわたしについて来たい者は、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」と話されましたが、それから八日目に起こった出来事でした。
 イエスは高い山に上られ祈っておられる時に、その姿は変わったと聖書は記しています。この現場に立ち会ったのは限られた弟子で、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけでした。でも一緒にいたはずの三人の弟子はひど い睡魔に襲われていて、ぼんやりしていたかのようでしばらくは、目の前で起きていることが良く分からなかったのです。40日にわたって悪魔の誘惑を退けたイエスを思うと、誘惑に負けるなという声が響いて来るようです。神の恵みをいただく時にでさえ、うっかりしてもらい損ねている私たちは、弟子たちとそう変わらないかもしれません。復活祭に向かう四旬節の準備の大切さがココにも描かれているような気がします。

 ベトロはおぼろげな意識が目ざめる中で、ことの重大さを知り悔やんだことでしょう。とっさに叫んだのが「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。」そして、「仮小屋を三つ建てましょう。」いかに慌てふためいていたかが分かります。聖書には、ペトロが「自分が何を言っているのかわからなかった。」とはっきり書かれています。 ペトロの失敗、ぼやっとした性格。イエスの忠実な弟子として、はまだまだが時間を必要としたペトロ、ほかの弟子でした。そういう姿は私たちとほとんど同じ。そういうことを私は黙想する中で感じています。
 
 今日呼びかけているみ言葉で、「イエスの変容の出来事」は、私たちに恵みを受けとるために「心の準備」がいかに大切かを伝えていると思います。「自分の十字架を背負いなさい」ということは、祈ることを大切にし、十字架の輝きを知るために、己を捨てる生き方も大切にしなければならないと、四旬節の中で考えるように話されていると思います
命の大切さ、十字架の神秘を理解することの大切さ。自分の十字架を背負ってイエスに従うことの大切さ。そのために時には、自分を捨てるという覚悟も持たなければイエスの忠実な弟子にはなれないということ。四旬節の歩みを私たち一人ひとりが考え、イエスにより深く繋がっていきたいと思います。』

2019年3月10日日曜日

四旬節第1主日

回心と愛のわざに励み、イエスの荒れ野での試みを思い出し、試練や誘惑を受けとめ乗り越え、四旬節の準備をいたしましょう。


今日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『典礼の紫色は待降節と、そして今始まった四旬節の間に着ることになります。先週の「灰の水曜日」から、四旬節が始まっています。
灰の水曜日の儀式に与った方は、みな額に灰を受けます。灰を受けながら四旬節の精神というものを心に刻まれたと思います。
四旬節の典札を通して、わたしたちがよりいっそうキリストの死と復活の神秘を深く悟ることができるように祈りましょう。そして日々、キリストのいのちに生きることができるよう四旬節を過ごしていきましょう。

四旬節のテーマは、「苦しみを経て 栄光へ」ともいえるかと思います。このテーマを今日の第一朗読の「申命記」が最初に語ります。試練は、イスラエルの民が苦しみの時代を超えて、エジプトを脱出しモーセによって紅海を渡り、砂漠を越えて40年間と言う長い時の流れを持って試みられ、その後、嗣業の地 に導かれたことを伝えます。試み、試練の時には民は神から与えられたマンナについてつぶやき、また、みことばから離れ自分たちの思うままに生きたいと神に仕えることを忘れ、過ちを犯してしまいました。

四旬節のテーマは新約にも引き継がれ、今日のルカの福音では、イエスの荒野での40日の悪魔の試みにも重なってきます。イスラエルの民の過ちがイエスの三度の誘惑と重なり 考えることができるのです。マンナのつぶやきは、「人はパンだけで生きるのではない」とイエスは悪魔の誘いを退けます。みことばから離れたイスラエルの民は偶像礼拝の過ちを犯しますが、「あなたの神なる主を礼拝し、ただ主のみに仕えよ」と悪からの妥協を許さず退けました。さらにイスラエルの民が砂漠で渇きをおぼえ、水が欲しいと神を試みましたが、イエスは「あなたの神である主を試みてはならない」とその誘惑を退けたのです。
試練の中に起こってくる悪からの誘惑は、今のわたしたちにも起こりうることです。イスラエルの民が犯した三つの誘惑の過ちは、イエス・キリストの悪魔から受けた三つの誘惑と重なりますが、新しい民の頭である救い主イエス・キリストを証明することにもなりました。その救い主は、受難、死と復活をもってわたしたちを救いへと招いているのです。
教会が四旬節の典礼の精神を思い起こさせるのは、復活秘義にあずかるために、古い衣を脱ぎ捨て、キリストを着ることでもあるでしょう。
心に刻みたい祈りは、四旬節の初めにありました。
「いつくしみ深い神よ、四旬節の務めに励み、清い心で復活祭を迎え、御子の過越の神秘を祝うことができますように(灰の水曜日、灰の式 I )。
「四旬節の努めに励み、罪のゆるしを受けて新しいいのちを得、復活された御子の姿にあやかることができますように」(同、または灰の祝別 II )。この祈りは、四旬節が始る灰の水曜日の典礼儀式で使われた祈りになります。

四旬節に入り最初の日曜日である四旬節第1主日には、A,B,C年の各年ともイエスの洗礼の後、聖霊によって荒れ野に導かれ、そこで悪魔から誘惑を受けてそれに打ち勝った記事が今日も読まれましたが、この内容は誰でも知っています。
現代社会でも「試み、試練、誘惑」は誰もが体験しますが、この世に生まれすでに洗礼を受けたわたしたちもまた、試練や誘惑の場に生きているように思います。そして、避けることのできない試みの現実が日々わたしたちに訪れてきます。そういう時に私たちは、どんな選択をし、どんな決断をして歩んでいるでしょうか。
避けることのできない試みの現実がありますが、終末的な試みの場を通して約束の地に導かれる神の民として、私たちがキリスト者としてよい決断を持って前に進まなければなりません。

今日のみことばでは、そうした三つの誘惑の物語をもって私たちに黙想を求めています。、当時の人々は 預言者を通して伝えられた戒め、勧めとして思い起こして、黙想をしていたと伝えられています。私たちも二千年前のキリスト者と同じように教会が示している四旬節のテーマを心に刻んで歩んでいきたいと思います。

四旬節の「苦しみを経て栄光へ」というテーマで始まった四旬節、回心と愛のわざに励み、イエスの荒れ野での試みを想い出して、試練や誘惑を受けとめ乗り越え、そして復活祭の準備に一人一人がお互いに祈り合って今日のミサに与りたいと思います。』

2019年3月7日木曜日

灰の水曜日

この日、灰を受けた私たちは四旬節を「悔い改め」「罪の償い」「神への立ち帰り」の心で過ごしましょう。

この日のミサは、佐藤神父様と後藤神父様の共同司式で行われました。



佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「灰の水曜日」で、今日から四旬節に入ります。この紫色の祭服は、私が司祭叙階の時に四種類全部揃えたもののひとつですが、紫というのはほとんど使われることがなく、この四旬節と待降節の期間に使われるので、非常に珍しいと思います。ただ、今日は久しぶりにクリーニングをして着るものですから、アルバにまとわりつく感じです。逆に、新鮮な感じをしております。
 今日の「灰の水曜日」で私たちは灰を受けるわけですが、そのしるしによって私たちは四旬節の間中、悔い改めなさい、罪の償い、そして神に立ち帰れ、これを思って過ごせるようにこの灰を受けるわけです。

 第一朗読、ヨエルの預言の始めに「あなたたちの神、主に立ち帰れ」という言葉がありましが、これが端的に四旬節の意味を表しています。すでに洗礼を受けておらえる皆様にとっては、改心と罪の償いを意味しますし、これから洗礼を受ける方にとって洗礼の準備を意味するわけです。洗礼の準備とは復活祭に向けての準備といえます。洗礼志願者が復活徹夜祭で洗礼を受けた後、洗礼を受けている私たちは「洗礼の約束の更新」を行います。そしてその「洗礼の約束の更新」をとおして、私たちも洗礼を受けたと時のことを思い出し、神から離れることのないようにします。もし、神から離れていたなら、この四旬節の期間に悔い改めて、神に立ち帰るように心がけるのが良いと思います。

 福音の中でイエスは次のように言っておられます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。…祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。…断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。」と、あります。これらこういうことをすることは、神の前で神を試す行為であると思います。
  私たちはこの四旬節の間、祈りをしますし、施しをします、善い行いをします。断食もします。そのときに決して人に見てもらおうとか、と思うのではなくて、これが当たり前のことなんだと思うように歩んでいってもらえると良いと思います。施しをすることで既に報いを受けているのだ。祈ることで既に報いを受けているのだ。断食することで既に報いを受けているのであって、そこで人に見られたからといって何になるのかということです。普通のことであって、そして人に誇ることではないと、心にとめていただきたいと思います。

 第二朗読、Ⅱコリントの手紙でパウロは、「神と和解させていただきなさい」と言っています。私たちに求められているのは、神に立ち帰ることであり、神と和解することです。
四旬節に入り、今日、灰を受けるために集った私たちは、自分の心が神に向かっているのだろうかと考える良い機会を与えられています。
  このような神の恵みに感謝して、今日引き続き、灰の式に入っていきたいと思います。』

2019年3月3日日曜日

年間第8主日

死よ、お前の勝利はどこにあるのか(一コリント15・55より)

今週「灰の水曜日」を迎えます。今日の福音でイエスは「隣人を咎める前にまず、自分の過ちを正しなさい」と諭されました。



後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『1年の典礼の季節の中で「年間」の季節が一番長い季節ですが、年間の季節は毎年、四旬節、復活節がちょうど中に入ってきますので、前半の年間の季節と復活節が終わった後の年間の季節と、ふたつの季節に分かれています。今日は年間の前半の季節の最後の主日になります。今週の水曜日(6日)から新しい典礼の季節、四旬節が始まろうとしています。四旬節を迎えると、皆さんもきっと春が来る、復活節を迎えるという思いの中で、春も来るんだと、長い信仰生活をしている人は感じているのではないかと思います。

 3年間(C年)の前半の最後の主日である今日のみ言葉。いろいろなテーマでイエスが弟子たちにたとえ話で語られました。イエスの弟子たちに対する心は近い将来、ご自分の後継者として教えを正しく、忠実に生きることを願い、その弟子たちが力強く復活の証し人として生きること、そういう思いであったと考えます。そうしたことを考えて、今日のみ言葉を味わう時に、たくさん語られるたとえ話の理解が深まるような気がします。
 自分の後継者として相応しくあって欲しいと弟子たちに語ったたとえ話。盲人の案内のたとえ、目にあるおが屑を使った人を裁く過ちの話し、実を結ぶ木の話など、次から次へと話されました。キリストの証人として、人を導く者になるならば、相応しい道案内人にならなければならない。案内をしながら、共に穴に落ちては困る。そして、あなたがたは師であるイエスに勝ることはないにしても、相応しい弟子になることが出来る。そのためには努力もしていかなければならない。
 イエスの目には、弟子たちの中にはまだまだ努力をしなければならないものが見えていたのかも知れません。先週のみ言葉を借りるとすれば、思いおこすと、裁くことはできたとしても、赦すことも、与えることもまだまだ十分に出来ていない弟子たちであったようです。時々、弟子たちはイエスに仕えていながら、非常に狭い考え方で人々を追い払おうとしていました。時にはペトロもそうでした。イエスの言葉にほんの少しでしたが、疑いを持ってしまった。あの網を下ろしなさいと言われた話の時に、ペトロはまだ十分な信頼を持てないでいた。また、弟子たちの中には、イエスの右に座るのは誰だろうか。そんな思いで、自分の立場に執着する弟子たちもいたように語られています。狭い考え、利己心に左右されて自分の立場を優先しまう弟子たち。そういう生き方がイエスの目には、見え隠れする弟子たちの心がありました。正しくない、道を外れたことを企てる心などを表す「よこしまな気持ち」。それは時に律法学者たちがたびたびイエスをおとしめようとしていたときに現れていたものでした。でも、その「よこしまな気持ち」は弟子たちの中に時々湧き上がっていたようです。

 今日のみ言葉の中でも厳しいイエスの呼びかけがありました。弟子たちに向かって「偽善者よ!」と呼びかけています。隣人を咎める前にまず、自分の過ちを正しなさいと諭されました。他人に教え、他人を導く第一の条件は、自らをよく知ることであり、自らを改め清めてこそ、キリストの弟子にふさわしい者になる。そして、心の内からあふれる言葉は、「話しているその人を現す」ともいわれます。
 それは第一朗読のシラ書でも語られていました。「話し方で、人は試されるのであり、心の思いは、話しを聞けばわかる。」と語っています。話す前にまず自ら実行することが求められ、その人の生き方に関わっているというのです。弱い私たちです。心の目が常に開かれてイエスに信頼するものであり、良き実を結ぶための人になっていかなければと思います。けっして偽善者であってはなりません。
 それでも、自分を見つめていると弱い自分が目に浮かびます。第二朗読のパウロが励まして応えてくださっています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないよう にしっかり立ち、主の業(わざ)に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(1コリント15:58)。

 わたしたちは、日々の生活の中で自分の十字架を背負って歩いています。試練においては、神に信頼して信仰に励むことが大事になります。弱さの中にあって主が励まし、力を与えてくださいますように。そう祈りを続けなければと思います。
 復活祭の準備となる四旬節が、今週の6日、「灰の水曜日」から始まろうとしています。教会が奨めている四旬節の精神はどんな精神でしょうか。回心と愛のわざに励むように と、毎年のように教皇様は全世界に繰り返し呼びかけられています。「償い」という言葉も良く四旬節に使われている言葉です。「灰の水曜日」は特別な日になります。「大斎・小斎」という言葉を皆さんは思い起こしていると思います。満60歳に達するまでの成人、健康な人は「大斎・小斎」を守る日とされています。大斎とは、一日に一回だけの十分な食事をとり、その他はわずかな食事をすることとされています。これは満14歳から60歳までの健康な人が守って欲しい、守るべき義務としての大斎とされています。また、小斎は肉を控えるという伝統的な考え方になっています。
 四旬節中は全世界の教会と連帯し、小さき人たちとの共感を大切にして「愛の献金」の奨めも続いています。日々の償いは各自の判断で、愛の行為に換えて行うことも「償う」といえると説明されています。愛と償いのわざを積極的に進めていくことが出来るように、この四旬節もまた神様の力と後押しを願いながらと思います。』