2021年4月24日土曜日

復活節第4主日 

 復活節第4主日 湯澤神父様の「福音への一言」を聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音への一言】

2021年4月25日 復活節第4主日(ヨハネ、10章11~18節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  「主は、善い牧者、私は乏しいことがない」という言葉はよく聞き慣れ、よく口ずさんだ典礼聖歌集の歌詞で、『詩編』の23編の第1節からのものです。残念ながら、コロナが流行ってから、聖堂で他の聖歌と共に歌われることがなくなってしまいました。この歌詞は、神様を牧者に例えています。しかし、旧約聖書の中で神様を牧者に例えることは、あまりありません。

  もともと神様を牧者に例えることは、『創世記』や『詩編』などで用いられていますが、それほど頻繁に用いられてはいません。それは、おそらく遊牧をしていたころから生まれた神様のイメージだったのでしょう。そして、草を探して旅をしているアブラハムなどの時代は、このようにイメージしやすかったのでしょう。神様は、草を探して旅をしている自分たちと常に共にいて導き、守る方でした。

  しかし、イスラエル人は、囲いの中の素直な羊というよりも、強情で言うことをきかない人々でしたし、その指導者としての王様たちも、神様に従って正しく守って導く羊飼いのイメージに似つかわしいものではありませんでした。こうした変化の中で、相応しいイメージとして用いられなくなってしまったのかもしれません。

  しかしだからと言って、このイメージが聖書の中で用いられなくなってしまったわけはありません。「主は羊飼いのように羊の群れを飼い、その腕に小羊を集めて、懐に抱き、乳を飲ませる羊を導く」とイザヤが書いているように、むしろ理想的な羊飼いを神様は与えてくださるという希望が生まれてきます。それは、理想的な王としてメシアの思想です。彼(理想的メシア)は、散らされている羊を、口笛を吹いて集め、その一人ひとりを心にとめてくださる方です。

  こうした理想的な羊飼いのイメージは、マタイやマルコやルカなどでも描かれていますが、特にヨハネの福音書では、今日の福音のように「善き牧者」として描かれることになります。先にも書いたように旧約聖書ではあまり頻繁に出てくるイメージではありませんが、羊飼いとしての神様のイメージは、今日の福音のように、それはヨハネにおいて集約され、完成されていきます。

  ちなみに、この『ヨハネの福音書』の終わりで、キリストはペトロに羊の世話をゆだねていきます。しかし、その羊は「あなたの羊」「ペトロの羊」と呼ばれることはありません。常に「私の羊」と言われます。旧約時代、神だけが唯一の羊飼いでしたが、この世にあって常に導くのはキリストです。真の「善き羊飼い」であるキリストに結ばれてこそ真の神の羊なのです。「善き牧者」としてのキリストとの結びつきを見直すとともに、その指導に従っていきましょう。  湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


いのちの源である神よ、

  良い羊飼いであるイエスは、限りない愛をもって

  わたしたちのためにいのちを投げ出してくださいました。

  主イエスのもとに一つに集められたわたしたちが、

  主の愛に近づくことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 使徒言行録 4章8~12節


そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。

「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが

取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、

その人が何によっていやされたかということについてであるならば、

あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。


この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、

あなたがたが十字架につけて殺し、

神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、

イエス・キリストの名によるものです。


この方こそ、

『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、

隅の親石となった石』

です。

ほかのだれによっても、救いは得られません。

わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、

人間には与えられていないのです。」



第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2節


御父(おんちち)がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。

それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、

事実また、そのとおりです。

世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。


愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、

自分がどのようになるかは、まだ示されていません。

しかし、御子(みこ)が現れるとき、

御子に似た者となるということを知っています。

なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。



福音朗読 ヨハネによる福音書 10章11~18節


狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。

――狼は羊を奪い、また追い散らす。――

彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。


わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、

羊もわたしを知っている。

それは、父がわたしを知っておられ、

わたしが父を知っているのと同じである。

わたしは羊のために命を捨てる。

わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。

その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。

こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。


わたしは命を、再び受けるために、捨てる。

それゆえ、父はわたしを愛してくださる。

だれもわたしから命を奪い取ることはできない。

わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、

それを再び受けることもできる。

これは、わたしが父から受けた掟である。」


2021年4月17日土曜日

復活節第3主日 福音メッセージ

  復活節第3主日 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




 【福音メッセージ 松村神父様】

弟子たちの前に復活された主が現われ、まざまざとそのあり様を見せつける今日の福音書は、宣教のときに伝えるべき確信が語られている。不思議な出来事で私たちにはどう頑張っても口では証明できない出来事。だから宣教のときに人に伝えるのはとても難しいと感じる。イエスは復活の出来事の根拠をモーセの律法と預言の書と詩編、すなわち私たちで言う所の旧約聖書の言葉を神が実現するというところに根拠を置く。すなわち神は言葉を実現する方であるという信仰である。復活の出来事は神の直接介入であり、マリアの受胎とイエスの誕生と受難と死を通して行われるが、私たちが直接イエスの死と復活に直接介入することがらは、良くも悪くもわたしたちの罪という行為であった。だから第一朗読の使徒言行録でも第二朗読のヨハネの手紙でも、悔い改めが描かれている。洗礼者ヨハネが語るように悔い改めの呼びかけこそが宣教の具体的な第一声なのだろう。

さて、悔い改めとは何かといわれると戦々恐々としてしまうのが人間の悲しい性である。しかし、私がいつもゆるしの秘跡で強調するのは、罪を犯したならば神の手の届くところまで戻っておいで!ということに尽きると感じる。一度闇を味わってしまうとそれは甘―い蜜で、周りが見えなくなり抜け出せなくなってしまう。まるで麻薬を連想させられる。身近なところで皆さんがよく知るトンチの一休さんにも『水あめの毒』という話があるが一度眺めてみるといいかもしれない。人間の悲しい性とずるがしこさが代表されていると思う。さて、光の届くところ、いつでも引き返せる範囲でなければ、私たちは独りで抜け出せない。悔い改めとは自分の立ち位置を自覚し、一人で振り返り神の光のもとに戻る行為。だからこそいつも光を見て、光が薄まったと感じると戻ることをしなければならない。私たちの目を開かせる回心の呼びかけ。『耳のあるものは聞きなさい』というイエスの言葉はまさに光そのものなのである。それと同時に一人で立ち戻れなくなる怖さをも想定しておかなければならないだろう。

さて、人類が回心すると何が起こるのだろう。それは誰かがではなく自分自身が低くされ、他者に奉仕し、嫉妬や妬みが取り去られ、人を尊重し、自分は謙虚になり、人を喜んで愛せるようになる。善の循環。この歯車がかみ合ったとき、私たちは常にキリストの平和と真の幸せが訪れる。神の国とはそのような状態なのだろう。これを目指す福音宣教への働きこそ、私たちの使命であり、言動指針になるのだろう。私たちはキリストに選ばれた弟子。自信と誇りをもっているからこそ自ら悔い改めることが恥ずかしいことではなくて、喜びの出来事なのだろう。難しい言葉ではなく、やさしい態度と言葉で人に接していくことから始めましょう。


【聖書朗読箇所】

救いの源である神よ、
  あなたは御子キリストの復活によって、
  全世界を罪と死の支配から解放してくださいました。
  あなたに呼ばれ、一つの民とされたわたしたちをみことばによって強め、
  主の復活をあかしする者としてください。
   集会祈願より

第1朗読 使徒言行録 3章13~15、17~19節

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、
わたしたちの先祖の神は、その僕(しもべ)イエスに
栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたは
このイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、
その面前でこの方を拒みました。
聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。
あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、
神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。
わたしたちは、このことの証人です。

ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、
指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられた
メシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。
だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。


第2朗読 ヨハネの手紙一 2章1~5a節

わたしの子たちよ、
これらのことを書くのは、あなたがたが
罪を犯さないようになるためです。
たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、
イエス・キリストがおられます。
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、
全世界の罪を償ういけにえです。

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、
神を知っていることが分かります。
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、
偽り者で、その人の内には真理はありません。
しかし、神の言葉を守るなら、
まことにその人の内には神の愛が実現しています。


福音朗読 ルカによる福音書 24章35~48節

二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに
イエスだと分かった次第を話した。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。
亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、
わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、
彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、
必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、
言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。
「次のように書いてある。
『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、
その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。


2021年4月11日日曜日

復活節第2主日 神のいつくしみの主日

ミサの中で洗礼志願式が行われました。

洗礼志願者は、松村神父様からの「洗礼を望みますか?」との問いかけに「はい、望みます」と答え、手渡された使徒信条を唱えた後、最後に神父様から塗油を受けました。

これから、5月23日(日)に予定されている洗礼式に向けて仕上げの勉強に入ります。頑張ってください。


ウルバン神父様の福音メッセージと、聖書朗読箇所をご紹介します。



【福音メッセージ ウルバン神父】

“ことはない、わたしです”!

もう夜になりました。いくつかの油ランプに照らされた薄暗い部屋に、弟子たちが集まっていました。暗い沈んだ顔をもって、互いを慰めることもできなかった。もうすぐ自分も捕まえられると心配して、門を固く閉じたのです。朝早く夫人たちに“イエスが生きている”とい言われたのに信じませんでした。マグダラのマリアにも、エマウスから帰ってきた弟子にも知らされたのに、信じませんでした。主はペトロに現れたと聞いた時、小さい希望が沸いてきたが、やはりもペトロ言葉をさえも疑いました。狼を恐れている羊の群れのように震えていました。

その時、部屋は優しく輝かされて、声が聞こえた:シャローム、恐れることはない。懐かしい声でした。見ると、イエスはそこに立っていました。嬉しく飛び上がるはずでしたが、恐れながら隠れようとした。イエスを見ても怯えて信じませんでした。“来て、私の傷を見て触れてみなさい”と聞いた時、一人また一人がイエスにゆっくり近づいて傷を触れました。とうとう心の中に暗闇が消えて希望が沸いて来ました。それで皆は主を囲んで、イエスの姿をあちこち触れて喜びにあふれた。それでもまだ疑いが残りました。“食べるものがあるか”と聞かれたとき、イエスには焼いた魚が渡たされました。その食べた残りが手から手へ渡された時、最後の疑いが消えました。その時の騒ぎ、その時の喜びを、私たちはなかなか想像できないでしょう。イエスが生きていることの大喜び。

ところが一人の弟子はその夜、皆と一緒にはいなかった。トマでした。生き生きして、喜びに溢れた弟子達に“イエスは生きている、本当に生きているよ”と言われた時のトマの答えを、私たちはみなよく知っています。“私は自分の指を手の傷に入れなければ、信じることはできません”と。今の時代の私たちはどんな目でトマを見ているでしょうか、この”疑うトマ“を?

どうして”疑った“でしょうか?どうして深い穴の悲しみや絶望に落ち込んだでしょうか。皆よりもイエスを愛したからです。弟子の中で一番偉くなりたいと思ったこともないし、イエスの胸に横たわろうともしないし、ただ皆の後ろに立って、イエスを見ることだけでも幸せで、イエスを失うことを一番恐れていました。

“私が行く所へあなた方は付いて行くことはできない” と言われた時、“あなたがどこへ行くか私たちには分かりません”と心配しながら聞いたのは誰だったでしょうか。主は“エルサレムへ行こう”と言って、弟子たちはイエスを止めようとした時、トマは一人で付いて行った、皆に呼び掛けて“行きましょう、死ぬことになったら、一緒に死にましょう”と。

復活の夜、イエスを愛する弟子トマは主の傷を調べたでしょうか。いえ。トマは喜びの涙のうちにイエスの服を触れて、”私の主よ、私の神よ“と呼びながら、自分のすべてをイエスの手に渡した。これはイエスを愛する弟子トマでした。

私たちも同じ心を持ってイエスに言いましょう:“私の主よ、私の神よ”。



【聖書朗読箇所】

あわれみ深い神よ、
  あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、
  水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。
  年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、
  信仰に生きることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 4章32~35節
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、
一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、
すべてを共有していた。
使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、
皆、人々から非常に好意を持たれていた。

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。
土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、
おのおのに分配されたからである。


第2朗読 ヨハネの手紙一 5章1~6節

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。
そして、生んでくださった方を愛する人は皆、
その方から生まれた者をも愛します。
このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、
その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
神を愛するとは、神の掟を守ることです。
神の掟は難しいものではありません。
神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。

世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
だれが世に打ち勝つか。
イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。
水だけではなく、水と血とによって来られたのです。
そして、“霊”はこのことを証しする方です。
“霊”は真理だからです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。

イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、
わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、
彼らと一緒にいなかった。

そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、
トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない。」

さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。

それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、
それはこの書物に書かれていない。

これらのことが書かれたのは、
あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

2021年4月4日日曜日

「復活徹夜祭」~「復活の主日」

主の御復活おめでとうございます!



4月3日(土曜)18:30からの復活徹夜祭と、4月4日(日)9:00からの復活の主日ミサの様子をご紹介します。

復活の主日ミサでは、先日助祭に叙階されたジョルジュ桶田達也新助祭が、初めてお説教をされました。


 【復活徹夜祭】

光の祭儀

洗礼の約束の更新


勝谷司教 お説教

勝谷司教 お説教

『私たちが厳しい現実に直面したとき、それぞれがとる態度は様々です。理解しがたい現実に遭遇して、そこから逃げることなく現実を受け入れることにより、その苦しみにどういう意味を与えるのか。そこに信仰者とそうでない人との違いが表れてきます。

 多くの場合、厳しい現実が私たちにとって選択の余地なく襲いかかってきます。その現実を前にして、私たちはただ受け入れしかいられない存在なのでしょうか。言い換えるならば、私たちの人生はそのような偶然に左右されるようなものなのでしょうか。確かに自分では選びようのない現実があります。何故と問うことの出来ない不問に襲われることもあります。

 与えられた状況に私たちに何の落ち度も責任のないことも多いでしょう。そして、苦しい現実を誰かのせいにしたくなることもあるでしょう。しかし、与えられた環境に責任がなくても、そこでどう生きるかは私たちの自由に委ねられており、その選び取った生き方には、私たちに責任があるのです。私たちはそのことを「召命」と呼びます。広い意味での「召命」です。すなわち神は私にそこで生きるように召しておられる。

そこで生きるようにと神が望んでおられるなら、必要な助けも神は必ず与えてくださると違いない。たとえ今の苦しみに私が意味を見いだすことが出来なくても、選びようのない現実であるならば、神が私をそこに召しておられる。だから必ず知らぜらる意味があるのです。

 そして、そのことを保証するのが、主の復活です。限られた今と言う時間の中では見えないものも、永遠の時間の中にある復活の主が私の人生を知り、愛し招いてるのです。その主が言われます。「恐れるな、私はすでに世に打ち勝つ。」。私たちは復活の信仰によって、初めて苦しみを積極的に選び取り、捧げることが出来るようになるのです。この確信に基づいて私たちはたとえ厳しい現実であっても、そこで生きることを選びとるのです。偶然でもなく、仕方なくでもなく、そこに神の招きを見ており、その生き方を選び取るとき、人生の意味が変わってきます。

 人生が偶然によって左右されているのではなく、はっきりとした愛の招きがある。その愛に守られ、与えられた今の自分があるのだ。そう悟ったとき、厳しい現実を前にして どれほど自分の無力を感じても、それに直面し乗り越えていく力を私たちは得ることが出来るのです。

 空の墓での天使のメッセージは次のようなものでした。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。」。ガリラヤとは弟子たちの生活の場です。復活の主は遠くにいて私たちを招いているのではなく、まさに多くの困難や苦しみの現実生活において、私たちと共にあり、そこに生きる力と希望と与えてくださるのです。』


【復活の主日】


桶田助祭のお説教


桶田助祭のお説教

『先ずもって、御復活おめでとうございます。
そして、今日この時皆様の前にこうして立たせて頂いておりますことに感謝を申し上げます。お蔭をもちまして去る3月24日、終身助祭の叙階をさずけていただくことが出来ました。あと20日しますと69歳をむかえる私のようなものの召命をお許し下さいました勝谷司教様、召命を希望した後に図らずも再婚することになった私達夫婦を注意深く見守りお導き下さいました養成担当司祭の皆様、仕事を持ちながら最初の一年は週末の2日間、二年目の昨年はビデオによる聴講と変則ずくめの私を戸惑いつつも受け入れて下さいました東京カトリック神学院の指導司祭と千葉さんをはじめとした神学生の皆様、そして、常日ごろ何くれとなくお気遣いいただき、お声掛け下さり、お祈り下さいました北一条教会の皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

札幌教区の終身助祭の初穂として、お仕えすると共に、後に続く方々のために一年でも長く勤めてまいりたいと思っております。今後ともお声かけとお祈りを賜りますようお願い申し上げます。

さて、本日の福音についてであります。私は先ほど、御復活おめでとうございますと言い、皆さんはそれにお応えになりました。何故でしょうか。何故私たちはめでたいといえるのでしょうか。そうです、私たちは知っているからです。2000年前の中東イスラエルにイエス様がお生まれになり、私達のために十字架でお亡くなりになり、死者の中から復活され、そのことによって私達の罪が洗い清められ、私達が解放され、私達がこの人生を生きながら、過行くいのちの中で永遠のいのちを生き始めることが出来ることを知っているからです。何故でしょうか。何故私たちは知っているのでしょうか。そうです、2000年の長きにわたり、この福音を喜びをもって述べ伝え証しし続ける数限りない方々がいるからです。その一人ひとりの生きざまは絶え間なく繋がり集り、あたかも歴史の中のキリスト教という名の大河のごとく滔々(とうとう)と今の私達の目の前に横たわっています。

この大河の源流の2000年前の今朝の様子を福音書は伝えています。わずか1週間前の日曜日に多くの支持者の歓呼の声に迎えられながらエルサレム入場を果たされたイエス様が、突然逮捕され、裁判にかけられ、死刑判決を受け即日処刑されてしまいました。幸い弟子たちは逮捕を免れましたが、エルサレムには不安と不穏な空気が漂っており、弟子たちは散り散りに隠れ家に身を潜めています。そんな中、人目を忍んで女性たちが動き出します。そしてつい先程、暴かれた墓を発見します。イエス様のご遺体がありません。誰に持ち去られたのでしょうか。すぐに思いつくのは狂信的な信奉者の仕業か、イエス様の崇敬化を恐れる体制側の仕業と言うところでしょうか。

まるでサスペンス劇場のような出だしです。今朝の時点で、ほとんどの使徒たちはまだ復活の可能性すら思い至っておらず、復活のイエス様との出会いにはしばらくの時が必要でした。

ひるがえって、2000年後の今朝、ここにお集りの皆さんにお聞きします。皆さんはイエス様が復活されたことをご存知です。では、あなたの復活のイエス様はどこにいらっしゃいますか。お会いできていますか。イエス様と共に在ってこその復活祭の喜びです。

お会いできている方は幸いです。これからも共に歩みながら共にあるイエス様を証して下さい。
はぐれている方は、見えるイエス様のしるしを探しましょう。見えるものを通して、見えないものを見いだすのです。ヒントは「人」です。

これからの復活節に洗礼志願者の方々と共に主を探し求め五旬祭までには再びお会いさせて頂きましょう。志願者の方々と共に聖霊を受けさせて頂けることを目指しましょう。

かつて、聖ヨハネ・パウロ2世教皇は、次のように述べられました
「喜びなさい、イエスがこの世に来たから。
喜びなさい、イエスが私たちのために十字架で死んだから。
喜びなさい、イエスが死者の中から復活したから。
喜びなさい、イエスが洗礼によってわたしたちの罪を洗い清めたから。
喜びなさい、イエスが私たちを解放したから。
喜びなさい、イエスが私たちの主であるから。」
そして、最後にお命じになりました
「この喜びの伝令者になりなさい。」

今日一日、イエス様の御復活をおおいに祝いましょう。
そして明日から、一人ひとりが各々の生活の中で喜びの伝道者となる新たな一歩を踏み出せますよう、主のお恵みを願いながらミサを進めてまいりましょう。』


レイ神父 福音メッセージ

『マグダラのマリアについて聖書で読むときには、常にイエスとの関わりで語られると知っておくことが大切です。最初の登場では、イエスは7つの悪霊からマリアを癒されました。その後、マリアはイエスに従う女性たちのグループに加わりました。

マグダラのマリアの話は私たちへのひとつの模範となります。彼女が罪人であったか、そうではなかったかはわかりませんが、はっきりしているのは、マリアがイエスに出会った人生のある時、彼の神聖さ、力強さ、愛情深さに心を奪われたということです。それは彼女の側からすると絶対的な忠誠を伴う関係性でした。彼女は最後までイエスの受難を分かち合い、そしてその死に際して、あきらめることさえ拒みました。

イエスが復活した時、最初にマグダラのマリアに現れたというのも、ですから驚くことではありません。それはあたかも彼女の忠誠と愛に対する褒美のようです。しかしそれよりもイエスはマリアに一つの使命をお与えになります。他の弟子たちに、まことにイエスは蘇りあとでガリラヤで皆に会うと知らせなさい、と告げられます。

イエスからの私たちへメッセージは「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカによる福音書10:27)です。マグダラのマリアは心からイエスを愛したことで、完全に具体的に実行した美しい手本です。ゆえにマリアはイエスが同様の人々を皆、報いて祝福される模範となるのです。』




2021年4月3日土曜日

復活の主日

 主の御復活、おめでとうございます!



4月4日 復活の主日 福音メッセージをレイ神父様からいただきましたので、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ from レイ神父様】

ヨハネによる福音 20章1-9  4月4日

マグダラのマリアについて聖書で読むときには、常にイエスとの関わりで語られると知っておくことが大切です。最初の登場では、イエスは7つの悪霊からマリアを癒されました。その後、マリアはイエスに従う女性たちのグループに加わりました。

マグダラのマリアの話は私たちへのひとつの模範となります。彼女が罪人であったか、そうではなかったかはわかりませんが、はっきりしているのは、マリアがイエスに出会った人生のある時、彼の神聖さ、力強さ、愛情深さに心を奪われたということです。それは彼女の側からすると絶対的な忠誠を伴う関係性でした。彼女は最後までイエスの受難を分かち合い、そしてその死に際して、あきらめることさえ拒みました。

イエスが復活した時、最初にマグダラのマリアに現れたというのも、ですから驚くことではありません。それはあたかも彼女の忠誠と愛に対する褒美のようです。しかしそれよりもイエスはマリアに一つの使命をお与えになります。他の弟子たちに、まことにイエスは蘇りあとでガリラヤで皆に会うと知らせなさい、と告げられます。

イエスからの私たちへメッセージは「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカによる福音書10:27)です。マグダラのマリアは心からイエスを愛したことで、完全に具体的に実行した美しい手本です。ゆえにマリアはイエスが同様の人々を皆、報いて祝福される模範となるのです。


【聖書朗読箇所】

全能の神よ、

  あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、

  永遠のいのちの門を開いてくださいました。

  主イエスの復活を記念し、

  この神秘にあずかるわたしたちを、

  あなたの霊によって新たにし、

  永遠のいのちに復活させてください。

   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節


そこで、ペトロは口を開きこう言った。

「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。


あなたがたはご存じでしょう。

ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、

ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。


つまり、ナザレのイエスのことです。

神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。

イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、

悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、

それは、神が御一緒だったからです。


わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、

特にエルサレムでなさったことすべての証人です。

人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、


神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。


しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、

つまり、イエスが死者の中から復活した後、

御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。


そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として

神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、

力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。


また預言者も皆、イエスについて、

この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、

と証ししています。」



第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節


さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、

上にあるものを求めなさい。

そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。


上にあるものに心を留め、

地上のものに心を引かれないようにしなさい。


あなたがたは死んだのであって、

あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。


あなたがたの命であるキリストが現れるとき、

あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。



福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節


週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、

マグダラのマリアは墓に行った。

そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。


そこで、シモン・ペトロのところへ、

また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。

どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」


そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。


二人は一緒に走ったが、

もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。


身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。

しかし、彼は中には入らなかった。

続いて、シモン・ペトロも着いた。

彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。


イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、

離れた所に丸めてあった。


それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。


イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、

二人はまだ理解していなかったのである。



聖木曜日~聖金曜日

4月1日(木)と2日(金)の18:30から、聖木曜日(主の晩餐の夕べのミサ)と、聖金曜日(主の受難の典礼)の祭儀が、勝谷司教様、松村神父様、レイ神父様、桶田助祭の共同司式により執り行われました。

【聖木曜日】

レイ神父様のお説教をご紹介します。

『私たちは、聖ヨハネがイエスの「時間」と呼んでいるもの、彼の救いの業の最高点、新しい脱出、この世界から父への彼の通過、それをとおして、彼が神と私たち人間との間の新しい関係になることをもたらしました。

 この新しい「脱出」を分かち合うことは、私たちの究極の解放であり、物質的なものへの奴隷化や些細な自己利益から私たちを解放し、寛大に愛する自由を私たちに与えます。

 限りない愛をとおして、イエスは彼自身の全く利己的でない心の中で、すべての人間の利己心とそれによって人間の罪を克服しました。まさに、父が私たち全員に持って共有してほしいと願っているこの愛は、イエスの脱出のまさに中心です。イエスが私たちの間で生かされ続けたいのは、まさにこの自己を与える種類の愛です。

 最後の晩餐で弟子たちといっしょに、彼は十字架で私たちのために死ぬことを予期し、パンと葡萄酒の秘跡のシンボルに身をまかせました。 それ以来、私たちの聖体の祭典(祭儀)は、私たちが主の救いの愛の行為に参加するための生きた記念碑です。

 それは新しい「脱出」を分かち合い、自己懸念の孤立から解放され、神が私たちに望んでおられるように、完全な人間になるようにするための私たちの方法です。』


主の晩餐の夕べのミサが終わった後、ご聖体は仮祭壇に移され、十字架と御像は紫布で覆われました。



【聖金曜日】




十字架の顕示


十字架の礼拝



松村神父様のお説教をご紹介します。

『今日は十字架に架かったイエス様の目線から少し思い起こしてみましょう。

  イエス様の目の前の人々は、自分を十字架につけろと叫んだ一人です。エリサレム入城の時に、喜びの叫びをあげていたにもかかわらず、自分を十字架に導いたのです。多くの人の心の中は罪に汚れていました。神のみ旨よりも律法学者や祭司たちの政治的動きに惑わされて、回りの雰囲気に流されてしまった人々。多くの弟子たちも逃げてしまい、限りなく孤独な状態で十字架に上げられました。
  唯一、一緒に十字架に架かった犯罪者の2名、十字架の傍らにいる最愛の弟子と婦人たちが、イエス様からすると僅かな慰めだったかもしれません。

 しかし、イエスは目の前のすべての人々に目差しをおくります。天の父にご自身の息を返されて祈ります。自分の役割が終えることへの絶望ではなく、すべては神の今後の導きに多くの期待をよせて、目の前のその人々の罪の赦しと、これからへの救いの希望を残すことを祈りました。
 十字架上でのイエスの目差しは、痛みと苦しみの中で、私たち一人ひとりに神の霊が与えられる希望を、そして別れを惜しみながらも、なんとやさしい目差しであったのだろう。
 この世をけっして恨んではいませんでした。神の力とこの愛が、聖霊の導きに希望しかなく、私たちはその目差しに包まれています。  
 今日、この後、「十字架の礼拝」をしますが、逆に十字架のイエスに私たちは見守られています。イエスは私たちに将来を委ねたのではないでしょうか。信仰、希望、愛、この三つに基づいて私たちの歩みに必要なキリスト教の倫理が与えられます。
 今日はイエスの目差しから、この希望ということを心にしっかり留めながら、イエスの受難を思い起こしてみたいと思います。』