4月1日(木)と2日(金)の18:30から、聖木曜日(主の晩餐の夕べのミサ)と、聖金曜日(主の受難の典礼)の祭儀が、勝谷司教様、松村神父様、レイ神父様、桶田助祭の共同司式により執り行われました。
【聖木曜日】
レイ神父様のお説教をご紹介します。
『私たちは、聖ヨハネがイエスの「時間」と呼んでいるもの、彼の救いの業の最高点、新しい脱出、この世界から父への彼の通過、それをとおして、彼が神と私たち人間との間の新しい関係になることをもたらしました。
この新しい「脱出」を分かち合うことは、私たちの究極の解放であり、物質的なものへの奴隷化や些細な自己利益から私たちを解放し、寛大に愛する自由を私たちに与えます。
限りない愛をとおして、イエスは彼自身の全く利己的でない心の中で、すべての人間の利己心とそれによって人間の罪を克服しました。まさに、父が私たち全員に持って共有してほしいと願っているこの愛は、イエスの脱出のまさに中心です。イエスが私たちの間で生かされ続けたいのは、まさにこの自己を与える種類の愛です。
最後の晩餐で弟子たちといっしょに、彼は十字架で私たちのために死ぬことを予期し、パンと葡萄酒の秘跡のシンボルに身をまかせました。 それ以来、私たちの聖体の祭典(祭儀)は、私たちが主の救いの愛の行為に参加するための生きた記念碑です。
それは新しい「脱出」を分かち合い、自己懸念の孤立から解放され、神が私たちに望んでおられるように、完全な人間になるようにするための私たちの方法です。』
主の晩餐の夕べのミサが終わった後、ご聖体は仮祭壇に移され、十字架と御像は紫布で覆われました。
【聖金曜日】
十字架の顕示
松村神父様のお説教をご紹介します。
『今日は十字架に架かったイエス様の目線から少し思い起こしてみましょう。
イエス様の目の前の人々は、自分を十字架につけろと叫んだ一人です。エリサレム入城の時に、喜びの叫びをあげていたにもかかわらず、自分を十字架に導いたのです。多くの人の心の中は罪に汚れていました。神のみ旨よりも律法学者や祭司たちの政治的動きに惑わされて、回りの雰囲気に流されてしまった人々。多くの弟子たちも逃げてしまい、限りなく孤独な状態で十字架に上げられました。
唯一、一緒に十字架に架かった犯罪者の2名、十字架の傍らにいる最愛の弟子と婦人たちが、イエス様からすると僅かな慰めだったかもしれません。
しかし、イエスは目の前のすべての人々に目差しをおくります。天の父にご自身の息を返されて祈ります。自分の役割が終えることへの絶望ではなく、すべては神の今後の導きに多くの期待をよせて、目の前のその人々の罪の赦しと、これからへの救いの希望を残すことを祈りました。
十字架上でのイエスの目差しは、痛みと苦しみの中で、私たち一人ひとりに神の霊が与えられる希望を、そして別れを惜しみながらも、なんとやさしい目差しであったのだろう。
この世をけっして恨んではいませんでした。神の力とこの愛が、聖霊の導きに希望しかなく、私たちはその目差しに包まれています。
今日、この後、「十字架の礼拝」をしますが、逆に十字架のイエスに私たちは見守られています。イエスは私たちに将来を委ねたのではないでしょうか。信仰、希望、愛、この三つに基づいて私たちの歩みに必要なキリスト教の倫理が与えられます。
今日はイエスの目差しから、この希望ということを心にしっかり留めながら、イエスの受難を思い起こしてみたいと思います。』