2021年12月26日日曜日

クリスマスミサ

 12月24日 18時30分から行われました「主の御降誕(夜半)のミサ」の松村神父様のお説教をご紹介します。


 



主の御降誕(夜半)のミサ(18:30) 松村繁彦神父 説教


 今日のミサの冒頭でキャンドルサービスをしました。闇の中で一人一人がローソクを持って闇を照らす。その闇を照らすローソクがたくさんになればこの聖堂も随分明るいものだと感じます。この私たちのローソクの光を思い出しながら、暗闇の中の光について考えてみたいと思います。

 この光についてですが、今日の聖書朗読の後半の羊飼いから見つめてみたいと思います。羊飼いは遊牧民ですから、定住する家はありませんでした。当然多くの羊を養っている関係で当時のユダヤ教の常識、その常識とは神殿に定期的にお祈りにいく、神殿税を払うのが誰もが課せられた義務でした。でも、職業的には遊牧民ですから、街のなかに羊を連れて歩くわけにはいかないわけです。彼らにとってユダヤ教の常識を守ることは出来なかった。当然彼ら羊飼いは職業差別を受けるのです。あいつらは守らない人間たちだ。そしてたくさんの羊の群れを養っている羊飼いは、一般社会のコミュニティからは阻害され、コミュニケーションも無く、彼らはただ住むところ、生きるところだけでなく、精神的にも追いやられて、阻害されていた。人間として差別を受けていたのです。

 でも、羊飼いと羊の関係というのは、イエス様の宣教の場面ではたくさん出てきます。イエス様は神殿で働く人たちをたとえることはありませんでした。常に羊と羊飼いの関係性の中で、特にルカ福音書ではそれを物語っているのです。イエス様の視点からしたら街の人よりも羊と羊飼いのその関係性の中に価値を見いだしていたといえるだろうと思います。この羊と羊飼いの関係をイエスはお生まれになって実現しようとした。だから天使の群れはどこにでたか。イエスが生まれて最初にこのお知らせがあったのはどこなのか。羊飼いだったことは非常にこのイエスの生涯、これからの歩みに向けて光り輝くものを設定

するものに重要な役割を担っていました。イエスが最初に天使を送ったこの羊飼い、非常に今日は重要な部分として描かれています。羊飼いはそれまで孤独の闇、阻害された闇の中に生きていく、そこに主の天使が光を持ってやってこられた。最初に光が当たったのは闇だったということです。その象徴として今日羊飼いが表されています。

 また、イエス様がお生まれになったその場所というのも「飼い葉桶」というふうに描かれています。イエス様は立派な王様として暖かい布団の上ではなく、藁の敷き詰められた「飼い葉桶」に寝ています。「飼い葉桶」というのは家畜の餌箱です。人間の余ったものをそこに置いておかれるし、人間の食べないようなものがそこに置かれている。人の目から見て捨てるようなものが「飼い葉桶」に置かれている。そこにイエスが置かれたというのも、人の目には重要ではないというところにイエスが置かれた。つまり、羊飼いも「飼い葉桶」も 私たちの価値観の外、私たちが考える常識的な思い、感覚の外に神様は置かれた。

 このことが特にクリスマスの中で闇という言葉を通して私たちに象徴的に表していると思います。つまりそれは何を言いたいかと言うと私たちの胸に手を当ててみる。私たちの心の中に、疑っているもの、隠しているもの、人に表せないもの。いろんな悩みや苦しみやつらさ、汚さ、醜さ。こういうものにイエス様は光を当てようとするのです。あまり光を当てられて表に出されて困るものもありますね。私たちのそういう心の中に、何らかの希望を与えようと、神様はイエス様を私たちに与えてくださる。この私たちの闇の部分にイエスが手を差し述べようとする。社会の中では大変なことというのは、きっとみんな小さなことでひとつやふたつあるかもしれません。ましてや罪を犯した人などは、これをだしたら大変なことになることがあるかもしれません。でも敢えて神様はそこに踏み込んで、そこに何らかの希望を与えよう、何らかのこれからの夢を与えよう、だからカトリックは人の死を決して喜べない。そこに一人でも生き生きと生きることを望まれる。死刑制度の廃止もこの中で置かれています。私たちはどんな犯罪者でもどんな人でも立ち直り立ち戻り、そういう希望、闇にまだ救いがあると、投げかける神様の思いがある。

  私たち人間は弱く、ずるく、汚く、醜くそして失敗を犯し罪をつくり、逃げる存在であると自分の中に自覚します。それでも天の御父は私たちを信用し続ける、与え尽くす、愛し何度も立ち直ろうとする私たちの罪を赦して迎え入れてくださる。放蕩息子のことを思い起こせばまさに神の愛、それが私たちの闇に与えられている愛だと気づかされます。

私たちが良く知っている「ブラックホール」。すべてを飲み込むと言われているもの。私たちには贖えない、常識的にも贖えないけれども、神様はそれでも分かっていても光を与え続けどんどん送り続ける。私たちの醜い心を汚い部分においても、改善する余地がないかもわからないけれど、神様はそこに光を与えて、必ず光が勝つと自身をもって私たちを導こうとしている。これが神様の深い慈しみの愛であり、そしてその愛をイエス様は自分の身体をもって、宣教活動を通して現そうとしてお生まれになった。

 この神様の深い愛が今日、私たちの闇の中に誕生した。単に幼子が生まれたということではなくて、闇に飲み込まれそうな中でも光を与えて、必ずその闇が光によって希望が見い出されることを今日、私たちは祝っています。主の御降誕の祝いとは毎年の出来事ではなくて、まさに私たちが今持っている心の闇、そういうところに光を見出そうとする。そして神様ならばそこに必ず希望が与えられる。何らかの次へのステップが私たちに与えられる。過去の出来事ではなくて、今の私たちの心の中に生まれることを毎年毎年確認をし、自分の胸に今年どうだったのか、これからどうなのか、それを思いお越しながら私たちが誓える大きなチャンスを頂いている。毎年、毎年、このチャンスを頂いていることに気づかされて、私たちはへこたれることなく、そしてむかし教えられた教えではなく、今日生き生きと与えられている恵として、今日の日を私たちは喜びを持って迎えたいと思います。

 私たちはいつもいつも慰められている。周りに気づかれていないところを理解し、包み込もうとする神様の愛。今日、私たちはともに歩もうとしている。そして常に、そしてすでに与えられている愛を私たちは誇りとする。この御降誕のお祝いは、実は主イエスのご誕生のひとつのシーンでは無く、私たちの心の中に今日またイエスがいることを、愛の神がおられることを思い起こす日です。

   同じように私たちも他者に対してどれだけ光となって生きるのか、闇を包み込みそしてそこに苦しみながら共に歩み、そしてゆるしあっていく励ましあっていく。これは主の御降誕によって生まれた出来事だと、私たちはそのきっかけを大事にして歩んでいきたいと思います。私たちにはその能力、その恵がすでに与えられている。そのことを誇りに思いながら、本当に今日私たちの中に、一人一人の中に生まれたイエスの光を感謝をこめて祈り、そして感謝を込めて今日の御ミサを捧げていきたいと思います。                                                                        


2021年12月24日金曜日

12月26日 聖家族

ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】

聖家族の祝日、 12月26日  “子よ、なぜこんなことをしたのか”    ウルバン神父

もう旅の四日目の午後になりました。本当に長い道でした。百何十キロ歩いた後、旅人は疲れ果て、埃だらけになったが、一歩一歩、歩き続けました。母マリアの目は先頭にいる子供達のほうへ行って、若者の中に歩いている息子を見た。夫ヨゼフに「御覧なさい、うちの子、本当に良くできた力のある子ですね」と。「へー、本当にいい子、とっても立派だよ」との答えがあった。親の心は疲れを忘れるほどの喜びと神への感謝でいっぱいでした。親のプライドも顔の微笑の中に現れた。三人家族にとっては幸せな旅でした。

「ほら、オリブ山が見えた。もうすぐエルサレムだよ」と、声があった。その時、皆に力が戻って来て、大きな声で祈り、疲れを忘れ、「サー、皆で主の山に登ろう..」と歌いながらオリブ山の頂上についた。目の前にあこがれの町、夕日に照らされた偉大なる神殿が見えた。感動的な有様でした。その時、多くの人は感動の内に手を上げて大きな声で神を賛美し、また涙の内に聖なる土に平伏した。皆は山の上でしばらくの間、この聖なる町、神の都の雰囲気を味わって、心の深いところまで飲み込んだ。

12才の子はその時何をなさったでしょうか、何を感じたでしょうか。だれも、父母も息子の中の激しい動きを知りませんでした。自分はもう小さい時から、まだ暗いうちに外へ行って雑草の中で座って、神様に祈って、「アバ、父よ、パパ」と呼んでいた。すでにご自分がどこから来て、メッシアであることを知っていた。「アバ、父よ、今来ました。望むとおりに何でもします」と祈って、山から下りて神殿、我父の家に近づいた。今、自分の時が来たと信じて、もうそこから離れませんでした。親は皆と共にいると思っていた。

里帰りの時が来た。一日歩いた後、初めて子供がいないことに気がついた。心配と恐れのあまり、叫びながら暗い夜にエルサレムへ戻っていたが、次の日も一日中、大都会の群衆の中で探しても、子供はいなかった。「もうシメオンに “この子の為にあなたの心は剣で抜かれる” と言われたとおりになったか。もう子供が取られるのか」と涙の内に考えた。

三日目に、行く所もなくて神殿へ泣きに行った。神殿にいると全く思わなかった子は、そこにいた。「なぜこんなことをしたのか。心配して探したのです」と母が泣きながら言った時、謝りのない答えがあった「なぜ探したのか。我父の家にいるのは当たり前だと知らないのか」両親はその意味を分からなかった。母は「我愛する子、あなたはいったい誰でしょうか」と心の中で考え、大きな目で息子を見ていた。その時12才のイエスは”時はまだ来ていない“と知って、何もなかったように明るい顔をして父と母と共に帰っていった。

聖家族に喜びと深い親しみがあったのに、涙と行き違いもあった。私達の家族はまだ聖なるものではないから、親しみと助け合いがあっても、傷つけ合いと分裂もよくありますが、ところが、もし家族の皆が悪の道を歩いたとしても、あなただけでも祈って神を信頼する心があれば、家族に聖なるものがある。あなたの祈りは一人、一人を失なわらせないで、命とのつながりであり、いつか必ず一つに結ぶ。許す心、受け入れる心、信じる心があれば、私達は自分の生活、自分の家族に神の力を見る。神様が生きて、弱い私たちを愛しているからです。 



【聖書朗読箇所】


恵み豊かな父よ、

あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。

わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、

あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節


ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。

主に願って得た子供なので、

その名をサムエル(その名は神)と名付けた。


さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと

自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、

ハンナは行こうとせず、夫に言った。

「この子が乳離れしてから、

一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。

そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」


乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、

麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、

その子を連れてシロの主の家に上って行った。


この子は幼子にすぎなかったが、

人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。


ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。

わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。


わたしはこの子を授かるようにと祈り、

主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。


わたしは、この子を主にゆだねます。

この子は生涯、主にゆだねられた者です。」

彼らはそこで主を礼拝した。



第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節


御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。

それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、

事実また、そのとおりです。

世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。


愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、

自分がどのようになるかは、まだ示されていません。

しかし、御子が現れるとき、

御子に似た者となるということを知っています。

なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。


愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、

神の御前で確信を持つことができ、

神に願うことは何でもかなえられます。

わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。


その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、

この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。


神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、

神もその人の内にとどまってくださいます。

神がわたしたちの内にとどまってくださることは、

神が与えてくださった“霊”によって分かります。



福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節


さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。

イエスが十二歳になったときも、

両親は祭りの慣習に従って都に上った。


祭りの期間が終わって帰路についたとき、

少年イエスはエルサレムに残っておられたが、

両親はそれに気づかなかった。

イエスが道連れの中にいるものと思い、

一日分の道のりを行ってしまい、

それから、親類や知人の間を捜し回ったが、

見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。


三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、

話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。


両親はイエスを見て驚き、母が言った。

「なぜこんなことをしてくれたのです。

御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」


すると、イエスは言われた。

「どうしてわたしを捜したのですか。

わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、

知らなかったのですか。」


しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

それから、イエスは一緒に下って行き、

ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。

母はこれらのことをすべて心に納めていた。

イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。


2021年12月18日土曜日

12月19日 待降節第4主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】

2021年12月19日 待降節第四主日(ルカ、1.30-45)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、誕生物語の中の「聖母のご訪問」として知られる個所です。聖書を見ると、とても具体的で人間味が溢れ、身近で微笑ましい感じがします。エリザベトは、身ごもってから半年以上も経って、そろそろお腹の中の赤ちゃんが動き出し、お母さんとしてはますますお腹の中の子の存在が実感できる状態です。他方、身ごもったばかりのマリア様の方は、理由が分かりませんがガリラヤから、ユダまで長い旅をしながらそのエリザベトに会いに来ます。一人でトボトボというのは、危険極まりありませんから、もしかしたら巡礼団に交じって旅をしてきたのかもしれません。

  一方は、子供のできない老夫婦で、アブラハムとサラがモデルになっています。子供を産めない女性は一人前の女性と見なされない。そのために負い目を感じ、悩む女性の例は、サムエルの母親のアンナなど他にも旧約聖書には、幾組か出てきます。他方、まったく新しい誕生の形がマリア様の例です。結婚状態であっても、まだ同居、同棲していない夫婦。予想もできない身ごもりの出来事でした。このマリア様に起こった出来事が、どんな出来事なのか、今日の福音は、その一端を教えてくれています。

  私たちは、旧約聖書の最初から新約聖書の最後まで、全体を一つのものとして見渡してみることはあまりありませんし、歴史を見通して出来事を位置づけることもあまりしません。ルカは、ルカなりに全体の流れを見渡しています。かつて、天地創造の時、地を覆っていたあの神の霊は、その後離れることなく、世の終わりまでそばにいてくれています。この聖霊をヨハネはそばにいて導く者(弁護者)と呼んでいます。時には、大きく時の流れが変わるそうした時に働くことがあります。マリア様のみごもりは、キリストのこの世への到来であり、歴史の中で聖霊が働いた大きな出来事の一つです。この時の流れの大きな転換点にあって、洗礼者ヨハネは旧約を代表し、キリストの到来を喜びをもって受け入れています。それをエリザベトは、おなかの中の子が動いたことでこれを表しています。

  さて、私たちにとって、キリストの到来、クリスマスの出来事はどうでしょうか。クリスマスのデコレーション、馬小屋作り、クリスマスパーティ。お正月と同じ年中行事の一つに過ぎないとしたら寂しいですね。逆に、クリスマスをヨハネのような喜びをもって受け止められたら、素晴らしいですね。また更に、私たちへのキリストの到来もヨハネのように受け止められたら、それもまた素晴らしいことです。このように歴史の中で聖霊は、キリストの受肉の神秘の時も、世の終わりの再臨の時も大きな働きをしますが、私たち一人一人へのキリストの到来の時にも働いています。クリスマスの前の八日間も既に三日目です。あと五日、キリストの大きな到来と合わせて私たちへの小さな到来も、見直してみることはよいことではないでしょうか。                 湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


いつくしみ深く、小さなものに目をとめてくださる神よ、

あなたはひとり子を遣わし、

救いに飢え乾く世界を祝福で満たしてくださいました。

主の降誕を迎えるわたしたちが、その生涯にも結ばれますように。

   集会祈願より



第1朗読 ミカ書 5章1~4a節


エフラタのベツレヘムよ

お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、

わたしのために

イスラエルを治める者が出る。

彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。


まことに、主は彼らを捨ておかれる

産婦が子を産むときまで。

そのとき、彼の兄弟の残りの者は

イスラエルの子らのもとに帰って来る。


彼は立って、群れを養う

主の力、神である主の御名の威厳をもって。

彼らは安らかに住まう。

今や、彼は大いなる者となり

その力が地の果てに及ぶからだ。


彼こそ、まさしく平和である。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章5~10節


それで、キリストは世に来られたときに、

次のように言われたのです。

「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、

むしろ、わたしのために

体を備えてくださいました。


あなたは、焼き尽くす献げ物や

罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。


そこで、わたしは言いました。

『御覧ください。わたしは来ました。

聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、

神よ、御心を行うために。』」


ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、

焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、

つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、

好まれもしなかった」と言われ、


次いで、「御覧ください。

わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。

第二のものを立てるために、

最初のものを廃止されるのです。


この御心に基づいて、

ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、

わたしたちは聖なる者とされたのです。



福音朗読 ルカによる福音書 1章39~45節


そのころ、マリアは出かけて、

急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。


マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、

その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、

声高らかに言った。

「あなたは女の中で祝福された方です。

胎内のお子さまも祝福されています。


わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、

どういうわけでしょう。


あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、

胎内の子は喜んでおどりました。


主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、

なんと幸いでしょう。」


2021年12月11日土曜日

12月12日 待降節第3主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 松村神父】

待降節第3主日 福音のメッセージ 

子供のころは目の前にあるお菓子をたくさん欲しくて、ふところにいっぱい貯めこもうとしたことがあります。「食べられる数だけ取りなさい」という親の注意をしり目に、抱え、結局食べきれず、「だから言ったでしょう~」なんてことはたくさんあったと思います。昨今幼稚園での仕事をしていると、未だにそのような子供に出会えて、懐かしさと同時に我を振り返りさせてくれます。さて私たちはそこから成長しているかと問われるなら・・・・。今となってはそれがお菓子ではなくなっただけで、違うものに変わり、相変わらず成長していないのかもしれません。

今日の福音のメッセージは、まず本日の福音個所をしっかり目を通したうえでこの文章を読んでいただきたいと思います。

前半部で心に入ってきた内容は、私にとって主の祈りの一文「日ごとの糧を今日もお与えください」です。多くの人たちは余分なものを必ず持っています。もちろん私も。いわゆる物心両面におけるストック品ですね。お金はもとより、余分な品、心を満たす事を大切にし、そのために不必要な時間も使っています。  

ヨハネの呼びかけは、自分に与えられた最低限の物「今日だけの糧」、上記で言うならば「食べられるだけの数を取りなさい」に目を向け、その他のものは他者に喜んで分かち合ってほしいとの呼びかけではないでしょうか。すべてを差し出すことも神の愛なのでしょうが、実践する者があっての他者への恵みの分配なのだから、私たちは与えられたものに感謝をこめていただき、分けられるものは存分に与えていこうという、すべての人との間でWinWinの関係、すなわち神の兄弟姉妹に対して隣人愛の実践を要求しています。“規定以上~”というのは正にそうなのでしょう。教皇回勅「兄弟の皆さん」にもこの隣人愛の重要性が強く唱えられていました。分かち合うことの重要さがキーワードなのでしょう。


さて後半部では洗礼者ヨハネが語る、「聖霊と火」とは聖霊による賜物と最後の審判を意味しているのでしょう。ヨハネの水による洗礼の“洗い清め”に加え、後から来る方は“恵みの与え主”であり“裁き主”として来られること。しかし裁きと聞くと恐れを抱かせるが、最大の恵みと救いに導く方であり、そこから一人もこぼれないように救いの道を示され、そこを外れないようにとしてくださる方です。それでも外れる私たちだからこそ、裁きの時に向け、恵みを受ける準備、裁きの前での潔白さを用意するためには、やはり回心しかないという、私たちを愛するからこそのアドバイスです。逆に言うと、私たちは回心させてもらえる。回心の可能性を常に持たせてくれているということこそ、救いの道、裁きの時の慰めへと道を開かれるのでしょう。回心して待つというよりも、私は待降節に回心(ゆるしの秘跡とは別の意味で)が許されるという、いつくしみの愛、私たちを兄弟姉妹として救いたいという主イエスの恵みを深く味わい、「その方(イエス)」が来られることを喜びのうちに待ち望みたいと思います。



【聖書朗読箇所】


希望の源である神、

いつもわたしたちのそばにいてくださる方、

あなたのもとに集まり、キリストを待つわたしたちを、

聖霊によって一つにしてください。

喜びのうちに、あなたを賛美し続けることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 ゼファニヤ書 3章14~17節


娘シオンよ、喜び叫べ。

イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。

娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。


主はお前に対する裁きを退け

お前の敵を追い払われた。

イスラエルの王なる主はお前の中におられる。

お前はもはや、災いを恐れることはない。


その日、人々はエルサレムに向かって言う。

「シオンよ、恐れるな

力なく手を垂れるな。


お前の主なる神はお前のただ中におられ

勇士であって勝利を与えられる。


主はお前のゆえに喜び楽しみ

愛によってお前を新たにし

お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」。



第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4~7節


主において常に喜びなさい。

重ねて言います。喜びなさい。


あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。

主はすぐ近くにおられます。


どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。

何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

求めているものを神に打ち明けなさい。


そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、

あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。



福音朗読 ルカによる福音書 3章10~18節


「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。

ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、

一枚も持たない者に分けてやれ。

食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。


徴税人も洗礼を受けるために来て、

「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。

ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。


兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。

ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、

だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。


民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、

もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。


そこで、ヨハネは皆に向かって言った。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、

わたしよりも優れた方が来られる。

わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。


そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、

麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」


ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、

民衆に福音を告げ知らせた。

2021年12月5日日曜日

12月5日 待降節第2主日

レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




 【福音メッセージ レイ神父】

この待降節第2主日に、私たちは洗礼者ヨハネを黙想に与えられています。なんと素晴らしい贈り物でしょう!イエスご自身が言われました。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった。」(マタイ11章11節)すばらしい誉め言葉です。

何がヨハネをこのように偉大にしているのでしょうか?二つのことが特にあげられます。ひとつは、神からの呼びかけであり、二つめはヨハネの美徳です。まず、彼は旧約の予言書から新約への移行を行った偉大な方なのです。彼はやがて来る新しい命への道を用意した橋なのです。彼の特別な使命はヨハネを本当に偉大にしています。

ヨハネはその特別な呼びかけのために偉大であっただけではなく、彼が生涯持っていた美徳のために偉大だったのです。このギフトこそが何よりも私たちの霊感にとって価値あるものです。

ヨハネの持っていた特別の美徳は謙虚さでした。彼自身は「荒れ野で叫ぶ者の声」である以外の何者でもないとわかっていました。そして彼の話した言葉はイエスの言葉だったのです。ヨハネはかがんでイエスの履物のひもを解く値打ちもないと認めました(マルコ1章7節)。彼はたくさんの人々に賞賛されて、たくさんの人々が彼の後についてきました。それでも彼はいつも「あの方は栄え、私は衰えねばならない」と言いました。(ヨハネ3章30節)

賞賛や名誉のためというよりは彼の使命は皆に救世主を指し示すことだったのです。ヨハネは多くの人々からの栄誉や賞賛を求めることもできましたし、又もちろんそれを受け取ることもできたでしょう。人々はヨハネを王にすらしたかもしれません。

しかし、ヨハネはそれよりも自分の使命を喜んで果たし、そのすぐ後で残酷な死刑執行人の刃にわが身をまかせたのです。彼の謙虚さとはイエスだけに集中し、イエスを指し示すことだけを望んだことです。

あなたの暮らしの中でこのような謙虚さについて今日はよく考えてみましょう。あなたは自分自身へ向かいがちになりますか、それともイエスへでしょうか?あなたは他の人からの賞賛を求めますか、それとも謙遜して全ての賞賛や栄光を神に向けますか?謙虚さは洗礼者ヨハネがたどった道であり、私たちが日毎に進んでいくべき道であります。



【聖書朗読箇所】


いつくしみ豊かな神よ、

あなたの栄光の輝きはすべての人を照らし、

悲しみを喜びへと変えてくださいます。

救いの道に招かれたわたしたちが、

キリストと一つに結ばれる日まで、

あなたの愛のうちに歩み続けることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 バルク書 5章1~9節


エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、

神から与えられる栄光で永遠に飾れ。

神から与えられる義の衣を身にまとい、

頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。


神は天の下のすべての地に

お前の輝きを示される。


お前は神から「義の平和、敬神の栄光」と呼ばれ、

その名は永遠に残る。


エルサレムよ、立ち上がれ、

高い山に立って東の方に目を向けよ。

お前の子らは、神が覚えていてくださったことを喜び、

西からも東からも

聖なる者の言葉によって集められる。


お前の子らは敵に追い立てられ、

徒歩でお前のもとを去ったが、

神は彼らを、玉座につく王のように高く上げ、

栄光のうちにお前のもとに連れ戻される。


すべての高い山、果てしなく続く丘は低くなれ、

谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた。

それはイスラエルが神の栄光に包まれ、

安全に歩むため。


森も、香り高いすべての木々も、

神の命令でイスラエルのために木陰をつくる。


神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、

喜びのうちにイスラエルを導かれる。



第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章4~6、8~11節


あなたがた一同のために祈る度に、

いつも喜びをもって祈っています。


それは、あなたがたが最初の日から今日まで、

福音にあずかっているからです。


あなたがたの中で善い業を始められた方が、

キリスト・イエスの日までに、

その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。


わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、

あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、

神が証ししてくださいます。


わたしは、こう祈ります。

知る力と見抜く力とを身に着けて、

あなたがたの愛がますます豊かになり、

本当に重要なことを見分けられるように。


そして、キリストの日に備えて、清い者、

とがめられるところのない者となり、

イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、

神の栄光と誉れとをたたえることができるように。



福音朗読 ルカによる福音書 3章1~6節


皇帝ティベリウスの治世の第十五年、

ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、

ヘロデがガリラヤの領主、

その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、

リサニアがアビレネの領主、

アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、

神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。


そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、

罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。


これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。


『主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ。

谷はすべて埋められ、

山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、

でこぼこの道は平らになり、

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


2021年11月27日土曜日

11月28日 待降節第1主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】


2021年11月28日待降節第一の主日(ルカ21.25-28.34-36)

Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  教会は今日から新しい年(C年)になります。ところで、第二の到来を待つ「王であるキリストの主日」と第一の到来を待つ「待降節」は、「待つ」という共通の性格を持っています。そこで世の終わりについてのイエス様の言葉、黙示的な言葉を、教会はこの日の福音のために選んだのでしょう。ところがよく考えてみると、一回目の到来の出来事はとうの昔に既に終わっています。また第二の到来、世の終わりの到来についての出来事は、いかに恐ろしく語られても、その時立ち会うことのない人にとっては、単なるお話で終わってしまいます。では、なぜイエス様はほとんどの人に関係のない話をしたのでしょうか。

  そこで、「目を覚ましている」という言葉に注目してみたいと思います。別なところでは、夜中にやってくる泥棒の話や突然帰ってくる主人の話などで、「目を覚まして」いなければならないケースについて語っています。「目を覚ましている」とは、泥棒が来ないように一晩中寝ずに起きていることを意味しているのでしょうか。もしそうだとしたら、一晩や二晩は徹夜ができても、何日も毎晩徹夜していたらとても体がもちません。どうやら、イエス様の教えようとしている話の時間は、こうした時間とは違うようです。

  幸いギリシア語には時間を意味する二種類の言葉があります。時計で計れる「時」と時計で計れない特別な「時」です。私たちが慣れている「時」は、何年何月何日に何が起こったという計れる時間の出来事です。しかしこれとは違って、それがその時に起こったことに意味がある場合があります。たとえば、ある時のその出来事で人生が変わったというような「時」の出来事です。人との出会いなどはそういう「時」があります。そして、そういう「時」に起こったことに気が付かないで終わってしまうこともあります。

  しかし、それだけではなく、その「時」が特別な時であることに気づくことがあります。「そこにはいない何かが働いていた」と。時には、ずいぶん時間が経ってからそのことに気が付くこともあります。その時そこに人を超えた者(神様)の働きを感じることがあります。これにその「時」それに気づくには、かなり鋭い感覚が必要です。イエス様は、この鋭い感覚を「目覚めている」という言葉で表現しているのではないでしょうか。もちろんそれが本当かどうか、祈りの内に、聖霊の導きによって識別する必要である場合もあるでしょう。召命などはこれに属するかもしれません。

  こういう出来事を第三の到来ということができるのではないでしょうか。第一の到来はすでに歴史的には終り、第二の到来はまた来ていません。とすると、私たちにとって大切なのは、私たちの人生のある「時」に起こる第三の到来、神様の出来事ではないでしょうか。もし、イエス様の言う「目を覚ましている」という鋭い感覚を持つなら、だれでも第三の到来に立ち会うことができるかもしれません。            湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


正義といつくしみに満ちておられる神よ、

  救いの訪れを信じ、解放の時を待ち望むわたしたちの

  心を目覚めさせてください。

  希望の光であるキリストを見つめて、

  歩み続けることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 エレミア書 33章14~16節


 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、

 と主は言われる。

 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。

 彼は公平と正義をもってこの国を治める。

 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。

 その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。



第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 3章12~4章2節


 どうか、主があなたがたを、

 お互いの愛とすべての人への愛とで、

 豊かに満ちあふれさせてくださいますように、

 わたしたちがあなたがたを愛しているように。

 そして、わたしたちの主イエスが、

 御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、

 あなたがたの心を強め、

 わたしたちの父である神の御前で、

 聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。

 さて、兄弟たち、

 主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。

 あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、

 わたしたちから学びました。

 そして、現にそのように歩んでいますが、

 どうか、その歩みを今後も更に続けてください。

 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、

 あなたがたはよく知っているはずです。



福音朗読 ルカによる福音書 21章25~28、34~36節


 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。

 地上では海がどよめき荒れ狂うので、

 諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。

 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、

 恐ろしさのあまり気を失うだろう。

 天体が揺り動かされるからである。

 そのとき、

 人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

 このようなことが起こり始めたら、

 身を起こして頭を上げなさい。

 あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。

 さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。

 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。

 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、

 人の子の前に立つことができるように、

 いつも目を覚まして祈りなさい。」


2021年11月21日日曜日

11月21日 年間第34主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】


第34主日、 11月21日    “それでは、やはり王なのか”      ウルバン神父

何十年前のことでした。戦争が終わった後、私達家族が田舎から、何回も空爆された町ドルトムンドへ戻って来た。ある夜の時、私達何十人の若者は、空爆された教会の聖堂のガレキの中に作った大きな火を囲んで立っていた。周りに聖堂の残された壁、上に星空、真ん中に私たちの姿と顔を照らす炎。腕を組んで火を囲んで、燃える火をしばらくの間静かに眺めていた。その時の感動は、何十年後の今でも心の中に生きています。真中に燃えた火が、戦争に散らされて次々と故郷の教会に戻って来た私たちを照らし、体を温め、そのファイヤーは私達を一つに結んだ事。イエスは私たちの内にいると深く感じた。この神秘的な静けさのなかに、ギターの音また一人の静かな歌声が聞こえたが、もうすぐ二人、三人はともに歌って、最後には皆の声が一つになって、大波のように夜の中に響いていた。“Christus, mein König, Dir allein schwör ich die Liebe, lilienrein, bis in den Tod die Treue.「キリスト、わが王よ、あなたにのみ、百合のような汚れのない愛と忠実を誓う、死に至るまで」。12才であった私も皆と共に、胸を張って心から歌っていた。私達はその夜、悪、戦争と全ての暗闇に打ち勝つキリストに付いて行こうと、この感動的な雰囲気の中で心から望んでいた。

イエスは総督の前に連れ出された。ピラトはイエスを見た時、何を見たでしょうか。すべての悪に打ち勝つ偉大な光り輝く王でしょうか。そうではない。手が縛られて、疲れと飢え渇きで弱った人を。目が叩き潰され、鼻が折られ、血と唾に汚され、人に見放された人を。

ところが、このみすぼらしい姿から深い権威が現れ出た。それでピラトはイエスに聞いた。「お前はユダヤ人の王なのか」。イエスはピラトに答えた。「私は王であるが、私の国はこの世には属していない。真理に属するものは皆私の声を聞く」。そこでピラトが「それでは、やはり王なのか」と言ったが、ユダヤ人の責めを恐れて、イエスは死に渡された。

十字架に「ユダヤ人の王」と書いてあった。この世の王たちは自分のために多くの人を死なせるが、私達の王イエスは自分を逃げ捨てた友と私とあなたも守る為に、自分の命を自ら死に渡した。

小さい時、私は夏休みに何週間かを農家の叔父さんの所で過ごしました。その時の一つの出来事をまだ覚えています。ある小屋から鶏が出て来て、後ろから賑やかなヒヨコの群れがついてきた。雌鶏は美味しい食い物を見つけたら「ぐぐぐ」と子達を呼んで食べさせた。しばらくたった後、雨が降り始めた。小屋がだいぶん離れたので、雌鶏は急いで羽を広げながら「ぐぐぐ」と子達を呼び集めた。ヒヨコ達はササと羽の下に入った。雨が激しくなって、霰となったが、雌鶏はずっと静かに子達の上に座って、小さい者たちを温めていた。やっと雨が止んで天気が良くなった時、小さいヒヨコ達は次々と首とミニ羽を伸ばしながら母親の下から出て来て元気で遊んだが、雌鶏お母ちゃんは死んでいた。

イエス様は今日も私を、あなたも見ています、慈しんで見ています。「友よ、私の所へ来なさい。私にあなたを愛させてください。あなたを幸せにするのは私の喜びです。信頼をも って、恐れなしに来てください。私の翼の下に生きるのは素晴らしい。来て、いつでもあなたを待っています」との静かな促しを聞いているでしょうか。       ウルバン神父



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたはキリストを死者の中から復活させ、

いつくしみ深く万物を治める王としてくださいました。

招きにこたえて一つに集まるわたしたちを導き、

神の国のために働く力を授けてください。

   集会祈願より


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第1朗読 ダニエル書 7章13~14節


 夜の幻(まぼろし)をなお見ていると、

 見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り

 「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み

 権威、威光、王権を受けた。


 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え

 彼の支配はとこしえに続き

 その統治は滅びることがない。



第2朗読 ヨハネの黙示録 1章5~8節


 証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、

 地上の王たちの支配者、イエス・キリストから

 恵みと平和があなたがたにあるように。


 わたしたちを愛し、

 御自分の血によって罪から解放してくださった方に、

 わたしたちを王とし、

 御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、

 栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。


 見よ、その方が雲に乗って来られる。

 すべての人の目が彼を仰ぎ見る、

 ことに、彼を突き刺した者どもは。

 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。

 然り、アーメン。


 神である主、今おられ、かつておられ、

 やがて来られる方、全能者がこう言われる。

 「わたしはアルファであり、オメガである。」



福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節


 「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

 イエスはお答えになった。

 「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。

 それとも、ほかの者がわたしについて、

 あなたにそう言ったのですか。」


 ピラトは言い返した。

 「わたしはユダヤ人なのか。

 お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。

 いったい何をしたのか。」


 イエスはお答えになった。

 「わたしの国は、この世には属していない。

 もし、わたしの国がこの世に属していれば、

 わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。

 しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」


 そこでピラトが、

 「それでは、やはり王なのか」と言うと、


 イエスはお答えになった。

 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。

 わたしは真理について証しをするために生まれ、

 そのためにこの世に来た。

 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」


2021年11月13日土曜日

11月14日 年間第33主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない マルコ13章31節

正にその通りです。今ある天と地は滅びるでしょう。福音書と黙示録はこの真実を語ります。今年の典礼最終に近づくにあたりこのことが思い起こされます。

イエスが輝きと栄光に包まれて戻られ、全てを刷新されることを思い出します。私たちが知っている世界は新たにされ、天はこの新しい地上に結びつき、すべては一体となります。イエスは全ての栄光の王としてこの新しい世を統治されます。

ここで言われているのは、私たちはこの束の間の世界の事柄に過剰に愛着を持つべきではないということです。確かにこの世の富や所有物は一時的な満足を私たちの生活に与えますが、決して永久な満足にはなりません。時が経つとこの世のものは全て無くなります。ですからもし私たちがただ、この地上の富や所有物を積み上げても、そのうちそれらの全てのものはやがて滅び去り、私たちには何も残されないということを知るべきでしょう。

では永遠というのは何でしょうか?その答えは上記の一節に与えられています。イエスは私の言葉は決して滅びないと話されます。すなわち、それは真実であり、神の啓示の全ては永遠でしっかりとつかむ価値あるものです。このことは私たちにイエスの言葉は私たちが探し求める真の富であることを明らかにしてくれます。

イエスの言葉に従いそれを守り、入り込み、信じて、そして私たちの回心によって私たちはその永遠を自分のものにするのです。全ての永遠の為に持てるものを抱くのです。これは私たちが理解し生きるための大切な真実であります。


November 14, 2021 Sunday Mass

Thirty-third Sunday in Ordinary Time Year B

Heaven And Earth Will Pass Away But My Words Will Not – Mark 13:31

Yes, it is true. Heaven as it is now and Earth as it is now will pass away. The Gospels and the Book of Revelation speak to this truth. As we draw close to the end of this liturgical year, we are reminded of this fact.

We are reminded that Jesus will return in splendour and glory and will make all things new. The world as we know it will be made anew and Heaven will be joined to this new Earth and all will be one. Jesus will reign in this new world as the glorious King of all.

One thing this tells us is that we should not become overly attached to the things of this passing world. True, earthly wealth and possessions may offer a temporary satisfaction to our lives, but never a permanent satisfaction. In time, the things of this world will all disappear. So, if we work to build up only earthly wealth and possessions, we should know that all those things will eventually pass away and we would be left with nothing.

So what is it that is eternal? The answer is given in the passage above. Jesus says that His “words will not pass away.” Namely, all that is true and revealed by God as true is eternal and worth holding on to. This reveals to us that Jesus’ words are the true riches that we must seek.

By embracing His Word, clinging to it, entering into it, believing it and letting it change us, we are embracing the eternal. We are embracing that which we will have for all eternity. This is an important truth to understand and live.



【聖書朗読箇所】


唯一の神、

すべての人を一つに呼び集めてくださる方、

ここに集うわたしたちの心を照らしてください。

滅びることのないキリストのことばに、

いつも信頼を置くことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 ダニエル書 12章1~3節


 その時、大天使長ミカエルが立つ。

 彼はお前の民の子らを守護する。


 その時まで、苦難が続く

 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。


 しかし、その時には救われるであろう。

 お前の民、あの書に記された人々は。

 多くの者が地の塵(ちり)の中の眠りから目覚める。

 ある者は永遠の生命に入り

 ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。


 目覚めた人々は大空の光のように輝き

 多くの者の救いとなった人々は

 とこしえに星と輝く。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章11~14、18節


 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、

 決して罪を除くことのできない同じいけにえを、

 繰り返して献げます。


 しかしキリストは、

 罪のために唯一のいけにえを献げて、

 永遠に神の右の座に着き、

 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、

 待ち続けておられるのです。


 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、

 聖なる者とされた人たちを

 永遠に完全な者となさったからです。


 罪と不法の赦しがある以上、

 罪を贖うための供え物は、

 もはや必要ではありません。



福音朗読 マルコによる福音書 13章24~32節


 「それらの日には、このような苦難の後、

 太陽は暗くなり、

 月は光を放たず、

 星は空から落ち、

 天体は揺り動かされる。


 そのとき、

 人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、

 人々は見る。


 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、

 地の果てから天の果てまで、

 彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」


 「いちじくの木から教えを学びなさい。

 枝が柔らかくなり、葉が伸びると、

 夏の近づいたことが分かる。


 それと同じように、あなたがたは、

 これらのことが起こるのを見たら、

 人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。


 はっきり言っておく。

 これらのことがみな起こるまでは、

 この時代は決して滅びない。


 天地は滅びるが、

 わたしの言葉は決して滅びない。」

 「その日、その時は、だれも知らない。

 天使たちも子も知らない。  父だけがご存じである。

2021年11月5日金曜日

11月7日 年間第32主日

松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。





【福音メッセージ 松村神父】


年間第32主日 福音のメッセージ

広い神殿の境内で、一人のやもめの入れた献金を聞き分けたイエスの耳に注目してみたい。

当時の神殿の献金箱の投入口はラッパの口のようなものの形で、投げ入れれば音が鳴り、耳をすませば入れた賽銭の量はおおよそわかる。ただそれが金貨か銀貨か銅貨かまで識別できたかはわからないが、多少の音色の違いはあったかもしれない。やもめの献金の量をイエスはつぶさに把握していたという証拠はないが、彼女の献金を投げ入れる時の胸の音には敏感だったのではないか。おおよその賽銭の量と彼女の胸の内の声を聴くイエスの耳。それに対して律法学者の虚栄心と見せかけの賽銭と比べた時に、耳を傾ける先は明らかであった。

第一朗読では飢饉の中にあり、腹をすかせた人々と神に寄りすがる胸の内なる声に、神が応えようとする。エリヤが救いを宣べるこの言葉を、イエスは忠実に果たそうとしているのが今日の福音ではないか。ましてやもめは自らその立場に立ったのではなく、その生き方を余儀なくされたのである。血族を大切にしてきたイスラエルの民は、扶養家族であったものが離婚や死別によって、直系から排除されることもあり、財産相続を受けることができず、誰からも保護を受けることができなくなり、弱い立場に立たされる。追い出されると途端に生きる難しさを受けるのである。それはやもめだけではなく孤児も同じ。腹をすかせた声。神により頼む声。主に願い求める声にエリヤが救いの手を差し伸べたことからも、イエスは誰よりも耳を澄ませて社会の中で捨て置かれた人の声を聴こうとしていた。それが今日の福音の核心ではないだろうか。

選挙が終わったが、街角や街宣車で大きな声を聴いてきた。そんな時だからこそ小さな声に耳を傾けることができるだろうか。私たちは周りの声に流されていないだろうか。

コロナの制限解除により病者訪問が増えてきたが、か細い声、生き絶え絶えの声、神父の訪問を待ちわびた声に出会う機会が増えて、改めて聞こえない声に耳を傾けることの大切さに気が付かされた。

声を出せる人ではなく、出せない人の声を聴きたいというイエスの想いに、一人では対応不可能だからこそ、一人一人が置かれた場所で耳を澄ますことを期待したい。そしてそれを伝える役割となっていくのがキリスト者なのだろう。孤独者がいない社会を望む。宗教、特にキリスト教にこだわらず、またキリスト教の枠を超えても社会に証しできる私たちこそ本来の教会の使命なのだろう。



【聖書朗読箇所】


あわれみ深い父よ、

  あなたはより頼む者のひたむきな心をご存じです。

  希望を抱いて集うわたしたちを祝福してください。

  あなたのことばに励まされ、

  日々の生活をささげることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 列王記上 17章10~16節


 彼は立ってサレプタに行った。

 町の入り口まで来ると、

 一人のやもめが薪を拾っていた。

 エリヤはやもめに声をかけ、

 「器に少々水を持って来て、

 わたしに飲ませてください」

 と言った。

 

 彼女が取りに行こうとすると、

 エリヤは声をかけ、

 「パンも一切れ、

 手に持って来てください」

 と言った。

 

 彼女は答えた。

 「あなたの神、

 主は生きておられます。

 わたしには焼いたパンなどありません。

 ただ壺の中に一握りの小麦粉と、

 瓶の中にわずかな油があるだけです。

 わたしは二本の薪を拾って帰り、

 わたしと

 わたしの息子の食べ物を作るところです。

 わたしたちは、それを食べてしまえば、

 あとは死ぬのを待つばかりです。」

 

 エリヤは言った。

 「恐れてはならない。

 帰って、

 あなたの言ったとおりにしなさい。

 だが、まずそれでわたしのために

 小さいパン菓子を作って、

 わたしに持って来なさい。

 その後あなたと

 あなたの息子のために作りなさい。

 

 なぜならイスラエルの神、

 主はこう言われる。

 主が地の面に雨を降らせる日まで

 壺の粉は尽きることなく

 瓶の油はなくならない。」

 

 やもめは行って、

 エリヤの言葉どおりにした。

 こうして彼女もエリヤも、

 彼女の家の者も、

 幾日も食べ物に事欠かなかった。

 

 主がエリヤによって告げられた

 御言葉のとおり、

 壺の粉は尽きることなく、

 瓶の油もなくならなかった。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節


 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、

 人間の手で造られた聖所にではなく、

 天そのものに入り、

 今やわたしたちのために

 神の御前に現れてくださったからです。

 

 また、キリストがそうなさったのは、

 大祭司が年ごとに

 自分のものでない血を携えて聖所に入るように、

 度々御自身をお献げになるためではありません。

 

 もしそうだとすれば、

 天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。

 ところが実際は、世の終わりにただ一度、

 御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、

 現れてくださいました。

 

 また、人間にはただ一度死ぬことと、

 その後に裁きを受けることが定まっているように、

 

 キリストも、

 多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、

 二度目には、罪を負うためではなく、

 御自分を待望している人たちに、

 救いをもたらすために現れてくださるのです。



福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節


 イエスは教えの中でこう言われた。

 「律法学者に気をつけなさい。

 彼らは、

 長い衣をまとって歩き回ることや、

 広場で挨拶されること、


 会堂では上席、

 宴会では上座に座ることを望み、


 また、やもめの家を食い物にし、

 見せかけの長い祈りをする。

 このような者たちは、

 人一倍厳しい裁きを受けることになる。」


 イエスは賽銭箱の向かいに座って、

 群衆がそれに金を入れる様子を

 見ておられた。

 大勢の金持ちがたくさん入れていた。


 ところが、一人の貧しいやもめが来て、

 レプトン銅貨二枚、

 すなわち一クァドランスを入れた。


 イエスは、

 弟子たちを呼び寄せて言われた。

 「はっきり言っておく。

 この貧しいやもめは、

 賽銭箱に入れている人の中で、

 だれよりもたくさん入れた。


 皆は有り余る中から入れたが、

 この人は、乏しい中から

 自分の持っている物をすべて、

 生活費を全部入れたからである。」

2021年10月27日水曜日

10月31日 年間第31主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】


第31主日 10月31日

申命記6章2-6,ヘブライ人への手紙7章23-28 マルコ12章28-34

世の中は法律で満ちていますが全てが同じように重要というわけではありません。このようなことは、イエスの時代ユダヤ人のモーゼ613の戒律についてもありました。律法学者の間では当たり前のように、どの掟が最も重要であるかというのが議論の中心でした。興味深いのは、あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうかと尋ねられたとき、イエスは二つの掟を答えました。見たところイエスはこれらは離すことはできず、一つとして扱うものと教えているようです。

旧約聖書において、心、魂、精神、力の全てを捧げ尽くすのを要求する夫や妻の嫉妬のように妬む神について話しています。聖アウグスティヌスは簡潔にラテン語で有名な言葉、amor meus, pondus meus 「私の愛は私の重さ」と言いました。周りにいる人のことを考えてみてください。彼らにとって何が大切なのか、何が彼らを引き付けているのかを知る迄そんなに長くかかりません。何を考え、語り、何に時間、エネルギーそしてお金を使うかということです。

聖アウグスティヌスは私たちの無秩序な情熱を究明し、どうやって私たちの愛を正しく順序づけるかを示しました。完全な不滅の善へと導くために部分的で束の間の善を求め歩くのです。ここで私たちは本物の隣人愛の意味することを知ります。愛とは他の人の長所を探すことです。ですから神は私たちに悪意、不正、貪欲、嫉み、好色を遠ざけるように命じます。それらは隣人への、そして自分自身への善に反するからです。

さらに道徳的に善いことでも間違って命じられることがあります。私たちは神や神に関することにたいそう無関心である時代に生きています。家族、友人、芸術、スポーツ、趣味、創造的な仕事でいつも生活は占められています。ですがもし、それらの善き事が最も重要なことにおいて探し求めたり楽しめなかったりしたらどうでしょうか?もし、神の愛、隣人愛が一つの掟であるとするなら、神の愛なくして隣人愛を持つことができるでしょうか。私たちが服従している私たち自身よりもっと高位の真実やと善を認識せずに文明的な生活を送ることができるでしょうか?祭儀なくして文化があるでしょうか。

キリストはこの世の光として来られました。私たちは十戒と教会の道徳的な教義に従う時、神と隣人を愛します。そうすることによって、キリストの光をいつもそれを必要とする世に照らします。世がそれを無視し妨害する時にでもそうです。神を愛すること、隣人を愛することは二つの掟です。この二つは本質的に結びついており、片方を満足させないで、もう一方の掟を充分に実行することはできないのです。


Thirty-first Sunday in Ordinary Time – October 31, 2021

Readings: Dt 6:2–6 • Ps 18:2–3, 3–4, 47, 51 • Heb 7:23–28 • Mk 12:28b–34 

Our world is full of laws, and they obviously can’t all be of equal importance. Such was the case for the Jews in the time of Jesus concerning the 613 precepts of the law of Moses. It was naturally a subject of debate among the rabbis as to which of these laws is the most important. Curiously, when asked to weigh in on which one law is the greatest, Jesus answers with two commands. Seemingly Jesus is teaching that these two are inseparably connected and so can be treated as one.

The Old Testament speaks of God as jealous, like the jealousy of a husband or wife who demands the spouse’s full devotion — demanding the spouse to love him or her with all one’s heart, soul, mind, and strength. St. Augustine, in concise Latin phrasing, famously said: amor meus, pondus meus, “my love is my gravity.” Think of the people you associate with. You don’t have to be around them too long to know what’s important to them — it’s what pulls them. It’s what they think about and talk about, spend their time, energy, and money on.

It was St. Augustine who diagnosed well our disordered passions and showed us how to order our loves rightly. Partial and passing goods are to be sought as they lead to the perfect and imperishable good. Here we see what authentic love of neighbor means. Love means seeking the good of the other. Hence, God commands us to put away malice, dishonesty, greed, envy, and lust because they are contrary to my neighbor’s good, and to my own.

Moreover, even morally good things can be wrongly ordered. We live in a time when God and the things of God are largely a matter of indifference. We’re occupied with family and friends, arts, sports, hobbies, and constructive work. But what if those good things are not sought and enjoyed in relation to what is ultimate? If love of God and love of neighbor are one commandment, can we have love of neighbor without love of God? Can we have civilized life without recognizing the truth and goodness higher than ourselves to which we are subject? Can we have culture without cult?

Christ came into the world as its light. We love God and neighbor when we follow the ten commandments and the moral teachings of the Church. In doing so we reflect Christ’s light in a world that is always in need of that light, even when the world disregards or obstructs it. To love God and to love our neighbor are two commandments, but they are essentially joined, since we can’t adequately fulfill one commandment without fulfilling the other.



【聖書朗読箇所】


愛の源である神よ、

ひとり子イエスは、いのちに至る道を、

ことばと行いによって示してくださいました。

真実の生き方を求めて集まるわたしたちの心に、

キリストのことばが力強く響きますように。

   集会祈願より


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第1朗読 申命記 6章2~6節


 あなたもあなたの子孫も生きている限り、

 あなたの神、主を畏れ、

 わたしが命じるすべての掟と戒めを守って

 長く生きるためである。

 

 イスラエルよ、

 あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。

 そうすれば、あなたは幸いを得、

 父祖の神、主が約束されたとおり、

 乳と蜜の流れる土地で大いに増える。

 

 聞け、イスラエルよ。

 我らの神、主は唯一の主である。

 

 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、

 力を尽くして、

 あなたの神、主を愛しなさい。

 

 今日わたしが命じる

 これらの言葉を心に留め


 

第2朗読 ヘブライ人への手紙 7章23~28節


 また、レビの系統の祭司たちの場合には、

 死というものがあるので、

 務めをいつまでも続けることができず、

 多くの人たちが祭司に任命されました。

 

 しかし、イエスは永遠に生きているので、

 変わることのない祭司職を持っておられるのです。

 

 それでまた、この方は常に生きていて、

 人々のために執り成しておられるので、

 御自分を通して神に近づく人たちを、

 完全に救うことがおできになります。

 

 このように聖であり、罪なく、汚れなく、

 罪人から離され、

 もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、

 わたしたちにとって必要な方なのです。

 

 この方は、ほかの大祭司たちのように、

 まず自分の罪のため、

 次に民の罪のために

 毎日いけにえを献げる必要はありません。

 というのは、このいけにえはただ一度、

 御自身を献げることによって、

 成し遂げられたからです。

 

 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、

 律法の後になされた誓いの御言葉は、

 永遠に完全な者とされておられる御子を

 大祭司としたのです。



福音朗読 マルコによる福音書 12章28b~34節


 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

 

 イエスはお答えになった。

 「第一の掟は、これである。

 『イスラエルよ、聞け、

 わたしたちの神である主は、唯一の主である。

 

 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、

 力を尽くして、

 あなたの神である主を愛しなさい。』

 

 第二の掟は、これである。

 『隣人を自分のように愛しなさい。』

 この二つにまさる掟はほかにない。」

 

 律法学者はイエスに言った。

 「先生、おっしゃるとおりです。

 『神は唯一である。ほかに神はない』

 とおっしゃったのは、本当です。

 

 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、

 力を尽くして神を愛し、

 また隣人を自分のように愛する』ということは、

 どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

 

 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、

 「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。

 もはや、あえて質問する者はなかった。

2021年10月23日土曜日

10月24日 年間第30主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ ウルバン神父】

第30主日 10月24日 “私を憐れんでください” ウルバン神父

ある日の事でした。バルティマイと言う盲人が道端に座って物乞いをしていた。生まれた日から暗闇の中で生きていた。いつも、昼も夜も、暗闇。目を開けても暗闇。太陽の光、空の星、道端に咲いている花、遊んでいる子供達も、自分の父母の顔さえも見たことがない。人の笑いを聞いても、共に喜ぶことができない。子供に虐められて、度々物乞いの鍋の中に石だけ投げ入れられた。友もないあの盲人の孤独を想像もできない。それだけでしょうか。暗闇は心の中まで深く入り込んだ。何の罪のために罰されているでしょうかと神に聞いても、返事はない。神様に見捨てられた者だと思われたので、人に軽蔑され、無視された。「神様、あなたはどこにいるのか、僕を捨てたのか」と叫んでも、返事はない。

ところが、ある朝“暗闇の中に座る人は大きな光を見る”と書いてあるように、彼も光を見た。

「ホラ、足音だ、大群衆だ」と分かった。聞いたら、「ナザレの預言者のお通りだ」と教えられた。イエスを知らなかったが、噂を聞いた事があります。その時、盲人の心は飛び上がって、大きな声で「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めたが、道を通る群衆のノイズの中で彼の声が消えてしまった。人は彼に怒った。「黙れ、あの偉い方はお前のような人を相手にするわけがない」と叱ったが、何と言われても、彼は益々大きな声で叫び続けた。「ナザレのイエスよ、ナザレのイエエエース」と。その時、声がイエスに届いた。イエスは足を止めて、「あの男を呼んできなさい」と。幸いに彼が叫び続けたのだ。もし諦め、叫ぶ事をやめたら、イエスにいつまでも会えなかったでしょう。

彼は飛び上がって、手で道を探し、躍りながらイエスに近づいた。躍りながら、バルティマイは自分の溢れる喜び、イエスを信じる心を現しました。彼は暗闇の中に、大きな光を見た。彼は今の私達に呼び掛ける。「闇に沈んだら、黙ってはいけない。叫びなさい。イエスを信じて、叫び続けなさい。彼は泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶのだ。見えない人に視力、圧迫されている人に自由を与えるために来たのはないでしょうか。信じたら、あなたにも言う“あなたの信仰があなたを救った”」。

主は盲人が来るのを見た時、大群衆より彼の事をどんなに喜んだでしょう。人を助ける事は今でも主の喜びです。人の不幸と涙を喜びません。「私は仕えられるためにではなく、仕えるために来た」と言ったのではないでしょうか。今でもあなたに聞いています「何をしてほしいのか、私に言ってください」。主は頼まれるのを待っています。ただ、条件が一つある。それは全くの疑いのない信頼と信仰です。ちょっとの疑いがあっても、主の手が縛られて、もう働けなくなり、救えなくなります。私達が喜びに溢れるように。これは主の心の望み。頼む事、叫び続ける事と期待する信仰、もう頂く前に既に感謝する事には大きな力があります。

暗い夜に野原の中で迷った子羊が恐れで叫ばなかったら、羊飼いは倒れて震えた羊を見つけなかったでしょうが、見つけた小羊を大喜びで抱きながら帰っていた。泣いてよかった。あなたも心から呼んだら、この小羊のように持ち上げられて抱かれる。

「御覧なさい、私はあなたの門の前に立ってノックしている。もし門を開ければ、私は入って来て、あなたと共に食卓に座る」。



【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い神よ、

苦しみや悲しみの中から救いを求める声に、

耳を傾けてください。

あなたにより頼むわたしたちが、

この集いをとおして

主の導きを

確かに受けとめることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 エレミヤ書 31章7~9節


 主はこう言われる。

 ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。

 諸国民の頭のために叫びをあげよ。

 声を響かせ、賛美せよ。そして言え。

 「主よ、あなたの民をお救いください

 イスラエルの残りの者を。」


 見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し

 地の果てから呼び集める。

 その中には目の見えない人も、歩けない人も

 身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。


 彼らは大いなる会衆となって帰って来る。

 彼らは泣きながら帰って来る。

 わたしは彼らを慰めながら導き

 流れに沿って行かせる。

 彼らはまっすぐな道を行き、

 つまずくことはない。


 わたしはイスラエルの父となり

 エフライムはわたしの長子となる。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章1~6節


 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、

 罪のための供え物やいけにえを献げるよう、

 人々のために

 神に仕える職に任命されています。


 大祭司は、

 自分自身も弱さを身にまとっているので、

 無知な人、

 迷っている人を思いやることができるのです。

 また、その弱さのゆえに、

 民のためだけでなく、

 自分自身のためにも、

 罪の贖いのために

 供え物を献げねばなりません。


 また、この光栄ある任務を、

 だれも自分で得るのではなく、

 アロンもそうであったように、

 神から召されて受けるのです。


 同じようにキリストも、

 大祭司となる栄誉を

 御自分で得たのではなく、

 「あなたはわたしの子、

 わたしは今日、あなたを産んだ」

 と言われた方が、

 それをお与えになったのです。


 また、神は他の個所で、

 「あなたこそ永遠に、

 メルキゼデクと同じような祭司である」

 と言われています。



福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節


 一行はエリコの町に着いた。

 イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、

 エリコを出て行こうとされたとき、

 ティマイの子で、

 バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。

 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、

 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

 と言い始めた。

 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、

 彼はますます、

 「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」

 と叫び続けた。


 イエスは立ち止まって、

 「あの男を呼んで来なさい」と言われた。

 人々は盲人を呼んで言った。

 「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

 盲人は上着を脱ぎ捨て、

 躍(おど)り上がってイエスのところに来た。


 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。

 盲人は、

 「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。


 そこで、イエスは言われた。

 「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 盲人は、すぐ見えるようになり、

 なお道を進まれるイエスに従った。 

2021年10月16日土曜日

10月17日 年間第29主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】

2021年10月17日 年間第29主日(マルコ、10.42-45)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音の箇所は、『マルコ福音書』における三回目の「受難の予告と弟子の在り方」についての教えに当たります。相変わらず弟子たちは、王であるメシア(キリスト)と見なしているイエス様の後継者争いをしています。ユダヤ教では、メシアは最後の時の勝利者、王と信じられていたからでしょう。しかし、イエス様が弟子たちの求めたのは、仕える者の在り方でした。その最後の言葉である「身代金」は、非常に多くのことを語りかけ、色々と想像させ、連想をさせてくれます。

  イエス様は、「身代金として自分の命を捧げるために来た」と言っています。身代金は、『聖書と典礼』の脚注にあるように、もともと奴隷の開放のために支払う代金を意味しています。そして、贖うものができた時に、その贖いの必要性から発生するもので、最初からあるものではありません。そして、支払われるとなくなる(命を失う)ものです。イエス様はそれがあってこの世に来られたのです。ですから、この世を贖う必要がなければこの世に来られなかった、とも考えられます。

  ところで、贖われるべきものは人間だけなのでしょうか。罪は、狭い意味での個人の信仰的道徳的なことに限定する必要があるのでしょうか。たとえば、社会が生み出す、個人にはどうしようもない罪もあるのではないでしょうか。また、贖いは人間だけの特権なのでしょうか。人間がこの世に生まれたのは、この世の歴史の長さから見たらほんの一瞬の事でしょう。それまでにこの世に存在したものは、人間が救われるための付け足しなのでしょうか。すべてが神によって創造されたものであれば、どれにも同じように贖われる価値があり、神の国の完成に与ってもいいのではないでしょうか。イエス様は、この世の始まりから終わりまでのあらゆるものの贖いのためにこの世に来られた、と考えるとき、神様の慈しみの広さを感じませんか。

  イエス様は「仕える者になりなさい」という文脈でこの最後の言葉を語っていますから、弟子(私たち)の在り方と無関係ではありません。とすると、「仕える」とは贖われるもの「のために」を意味しています。イエス様は、十字架を通して神様の姿を現しました。そして、私たちが神様の似姿として造られたとしたら、イエス様に倣うのは自然なことでしょう。自分の十字架を担ってキリストに従うこと(第一の予告)、「仕える」あり方(第二の予告)、誰か(何か)のためにという神様の在り方に倣うように(第三の予告)。

  こうして一つの言葉から、多くの想像の連鎖が生まれ、連想が膨らみます。それ自体で楽しいことではないでしょうか。皆さんも、「身代金」というイエス様の言葉から、色々想像しみてはいかがでしょうか。聖人たちの模範の中にその在り方を見たり、自分の在り方を振り返ったり。それを誰かと分かちえたら、楽しいかもしれません。  湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


恵み豊かな神よ、

ひとり子イエスは、すべての人の救いのために

自らのいのちをおささげになりました。

わたしたちが苦しみや試練の中にあっても、

主の十字架のうちに

希望を見いだすことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 53章10~11節


 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

 彼は自らを償いの献げ物とした。

 彼は、子孫が末永く続くのを見る。


 主の望まれることは

 彼の手によって成し遂げられる。

 彼は自らの苦しみの実りを見

 それを知って満足する。


 わたしの僕は、

 多くの人が正しい者とされるために

 彼らの罪を自ら負った。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節


 わたしたちには、

 もろもろの天を通過された偉大な大祭司、

 神の子イエスが与えられているのですから、

 わたしたちの公に言い表している信仰を

 しっかり保とうではありませんか。


 この大祭司は、

 わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、

 罪を犯されなかったが、あらゆる点において、

 わたしたちと同様に試練に遭われたのです。


 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、

 時宜にかなった助けをいただくために、

 大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。



福音朗読 マルコによる福音書 10章35~45節


 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。


 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

 二人は言った。

 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、

 もう一人を左に座らせてください。」


 イエスは言われた。

 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。

 このわたしが飲む杯を飲み、

 このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。

 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、

 わたしが受ける洗礼を受けることになる。

 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、

 わたしの決めることではない。

 それは、定められた人々に許されるのだ。」


 ほかの十人の者はこれを聞いて、

 ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。


 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。

 「あなたがたも知っているように、

 異邦人の間では、

 支配者と見なされている人々が民を支配し、

 偉い人たちが権力を振るっている。

 しかし、あなたがたの間では、そうではない。

 あなたがたの中で偉くなりたい者は、

 皆に仕える者になり、

 いちばん上になりたい者は、

 すべての人の僕になりなさい。

 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、

 また、多くの人の身代金として

 自分の命を献げるために来たのである。」

2021年10月7日木曜日

10月10日 年間第28主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

いくつかの学校に宗教講師として回ったときに、複数の先生からこんな質問を受けた。「私たちは生徒にエリートになるよう教育してはいけませんか?」「生徒に幸せになるために、お金持ちになるよう努力してもらうことはダメなのでしょうか?」と。カトリックミッションを持つ学校の先生にとって、特に未洗者の先生にとっては、進学校となるよう努力をするよう指示されながらも、キリスト教の精神との間で板挟みになって、悩んでいるようだった。一方では「背に腹替えられないのでは?」と。あきらめる声も聞こえてきた。その時点でカトリックミッションはなくなるのであろう。でもきっとその意見は生徒の保護者も同じなのだろうと推測する。今日の福音書には「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と描かれていることに、躓く人が多くいることに気づかされる。そこで私は次のように応えている。「どんどんエリートを作ってください。どんどんお金持ちになるように教育してください。」と。これを聞くと「なんという神父だ!」とおしかりを受けるかもしれない。しかし、更に私は次のように付け加えることにしている。「世の中で勝利者とされるひとは、弱い人、貧しい人を助ける義務がついて来ます。自ら得た知恵と知識、財産や富は愛する者のために使うのであって、自分のために蓄えることを拒否し、手放し与えるということを必ず付け加えてください。」と。結局、棺桶にお金も知恵も入れることはできないのだから。この世のものはこの世にあるうちに使うためのものであり、愛する者のために惜しみなく与え尽くすことにカトリックミッションは意義をもち向かっているのである。しかし多くの人は持っている量を他人と比べ、勝った負けたで権力にしがみつこうとしている。そこで他者と争い、嫉妬と妬みに陥り、苦しみに巻き込まれ、いつも奪われることへの緊張と恐れにその身を渡しているが、実は手放したときに私たちはその呪縛から解き放たれ自由になるのであるが、人類にとってこのことは高い壁であろう。富そのものが悪なのではなく、富を持ってしまった人の心から悪が生じることが今日の大切なポイントなのではないか。かつて偶像崇拝していたものに対してモーセの十戒が与えられたように、富の偶像化は気をつけなければならない。大きな誘惑、甘い蜜だからである。

しかし解き放たれるためには愛する相手が必要であること、このことをイエスは金持ちの青年に伝えたかったのではないか。何よりもイエスがすべてから自ら解き放たれており、十字架に向けてご自身がもっているすべてを差し出したからにほかならない。イエスは愚かな金持ちの青年の前に立った時ですら、慈しみの眼差しで見て、愛そうとして神の知恵を惜しみなく示した。青年もこの優しいイエスに出会い、我に返り、受け止めることにつらさを感じ、イエスの前に立っていることができなくなった。

私の神学生時代の恩師は、「山で流れる小川のせせらぎを見なさい。わずかな水であるが清く美しく、そして素晴らしい美味さを感じる。しかし一度石などで川をせき止めてみなさい。途端に水はよどみ、溜まった水は飲めなくなり、生態系までも変わる。お金の流れと一緒なのだ!」と。清く正しく美しくという言葉が昭和時代に流行ったが、そのためには保つのではなく流し続けることに本来の意味を見出したい。

存分に冨を蓄えても構わない。でもそれを“無償で使う”ことが大前提になければ、金持ちの青年と同じように、落胆させられるのだろう。神の計画では、富も財産も、すべてのものは、それ自体が称えられるべきものではなく偶像であり、愛に仕えなければならないと教えるからである。針の穴とラクダの大小は、神の創造のわざが始まったときから、すでに決まっている法則。富と愛の関係も神の法則で決められている。常に神の愛、神の教えに優位性があることを忘れないようにしたい。


【聖書朗読箇所】


すべてにまさる知恵を与えてくださる神よ、

あなたのことばはいつの時代にも力強く働いています。

わたしたちの心を福音の光で照らし、

目先のものへの執着から解き放ってください。

   集会祈願より


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第1朗読 知恵の書 7章7~11節


 わたしは祈った。すると悟りが与えられ、

 願うと、知恵の霊が訪れた。


 わたしは知恵を王笏(おうしゃく)や王座よりも尊び、

 知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。


 どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。

 知恵の前では金も砂粒にすぎず、

 知恵と比べれば銀も泥に等しい。


 わたしは健康や容姿の美しさ以上に知恵を愛し、

 光よりも知恵を選んだ。


 知恵の輝きは消えることがないからだ。

 知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。

 知恵の手の中には量り難い富がある。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章12~13節


 神の言葉は生きており、力を発揮し、

 どんな両刃の剣よりも鋭く、

 精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、

 心の思いや考えを見分けることができるからです。


 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、

 すべてのものが神の目には裸であり、

 さらけ出されているのです。


 この神に対して、

 わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。



福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節


 イエスが旅に出ようとされると、

 ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。

 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」


 イエスは言われた。

 「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。

 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。


 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』

 という掟をあなたは知っているはずだ。」


 すると彼は、

 「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。


 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。

 「あなたに欠けているものが一つある。

 行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

 そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」


 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。

 たくさんの財産を持っていたからである。


 イエスは弟子たちを見回して言われた。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」


 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。

 イエスは更に言葉を続けられた。

 「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」


 弟子たちはますます驚いて、

 「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。


 イエスは彼らを見つめて言われた。

 「人間にできることではないが、神にはできる。

 神は何でもできるからだ。」


2021年10月2日土曜日

10月3日 年間第27主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

年間第27主日 10月3日

神が男を造られたとき、男には男の強さをお与えになり、女を造られたときには別の強さをお与えになりました。ですから神は,それぞれの力を用い男と女は一緒になり互いに補い合う強い結びつきの家族を望まれました。

この家族において、神は可能な限り最高の創造をされようとしました。両親がいる家庭では子供たちは恵まれた支援をうけ健全に成長します。しかし片親、または両親ともいない場合、子どもたちはある一種の道徳的、心理的な不足をもって成長し、それが神の最高の仕事をする遅れになるかもしれません。

イエスは言われます。人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。つまり結婚の結びつきとは二人が常に一体であり、一人の人間の別の部分のように働くと考えます。夫婦は異なる能力や育ちに関わらず調和して暮らすのです。頭は首なくして、首は頭なくしては機能しないように、結婚生活において男女もそのようであります。

イエスははっきりと結婚は人によってではなく、神によって造りだされたものであると宣言されました。ですから男女が結ばれようと決心するときには神からの祝福をまず求め、教会において主がおられる中、最終的に厳粛のうちに婚姻の式を執り行われねばなりません。イエスは又、神が結び合わせてくださったものを人は離してはならないと戒められます。どの男にも女にも壊すことをさせないようにしましょう。ですから故意に悪意をもって正当な婚姻を潰そうとする、その男、もしくは女は神の怒りに直面するでしょう。

それが神からの制度でありますので、私たちは力を尽くして聖なる結婚制度を守りましょう。神はあなたの妻、夫と結婚生活の中で主が命じられた仕事をしながら伴に生涯暮らすことを求められます。

結婚生活において多くの難題に直面している夫婦に主の祝福がある事を祈りましょう。結婚制度は今、多方面から悪の力による攻撃を受けています。彼らがこれらの難題に打ち勝つための強さと、そして結婚がゆるぎないものになるよう、主よあなたの慈しみをお与えください。

Homily for October 3, 2021

27th Sunday in Ordinary Time Year B

When God created Man, He gave him the strengths of man and when He created the woman, she was given her different strengths too. So, with each one’s strength, God intended a man and a woman to come together and complement and supplement each other and make one very strong institution of a family.

It is in this family, that God intends to bring up His creation in the best way possible. When the father and mother are present in the family the children tend to grow wholesomely with the best support. But when one parent is absent or even all, the children grow up with some sort of moral and psychological deficiency which may hinder them from doing God’s work in the best way possible.

Jesus says that the man shall leave his father and mother and be joined to his wife and become one flesh, He means that the institution of marriage is supposed to be in congruency all the time, it is supposed to work like the different body organs in a human being. The husband and the wife are supposed to live in harmony despite their different strengths and upbringing. Just the same way the head cannot function without the neck and the neck without the head, so is man and woman in the institution of marriage.

Jesus rubber-stamps the fact that marriage is not an institution invented by man, but an institution invented by God. So when man and woman decide to get married, they have to first seek blessings from God and finally solemnize the marriage in the presence of the Lord, in the Church.

Jesus also warns us that whatever God has put together in marriage, let no man or woman ruin it. So, anybody who intends to deliberately and maliciously put asunder any lawful marriage union, then he/she will face the full wrath of God.

Let us safeguard the institution of holy marriage with all our might and strength as it is a God sent institution. God intends that you may live together with your wife and husband all the days of your lives doing God’s work that He has assigned to you inside the marriage.

Let us pray that the Lord God will bless the couples who are facing so much challenges in their marriage. The institution of marriage is being attacked from all corners by the forces of the evil one. Give them Your Graces and strength to overcome all these challenges and may their marriages stand. Amen.



【聖書朗読箇所】


いのちの与え主である神よ、

あなたは人が孤独のうちに生きるのではなく、

互いに支え合い、助け合って生きることをお望みになりました。

きょう、キリストのもとに集められたわたしたちに、

あなたの満ちあふれる愛を注いでください。

   集会祈願より


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第1朗読 創世記 2章18~24節


 主なる神は言われた。

 「人が独りでいるのは良くない。

 彼に合う助ける者を造ろう。」


 主なる神は、野のあらゆる獣、

 空のあらゆる鳥を土で形づくり、

 人のところへ持って来て、

 人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。


 人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。

 人はあらゆる家畜、空の鳥、

 野のあらゆる獣に名を付けたが、

 自分に合う助ける者は見つけることができなかった。


 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。

 人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、

 その跡を肉でふさがれた。

 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

 主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、

 人は言った。

 「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。

 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう

 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、

 二人は一体となる。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 2章9~11節


 「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、

 死の苦しみのゆえに、

 「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。


 神の恵みによって、

 すべての人のために死んでくださったのです。

 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、

 彼らの救いの創始者を

 数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、

 万物の目標であり源である方に、

 ふさわしいことであったからです。


 事実、人を聖なる者となさる方も、

 聖なる者とされる人たちも、

 すべて一つの源から出ているのです。

 それで、イエスは彼らを

 兄弟と呼ぶことを恥とされないのです。



福音朗読 マルコによる福音書 10章2~16節


 ファリサイ派の人々が近寄って、

 「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」

 と尋ねた。

 イエスを試そうとしたのである。


 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」

 と問い返された。

 彼らは、

 「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」

 と言った。


 イエスは言われた。

 「あなたたちの心が頑固なので、

 このような掟をモーセは書いたのだ。

 しかし、天地創造の初めから、

 神は人を男と女とにお造りになった。

 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

 二人は一体となる。

 だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

 従って、神が結び合わせてくださったものを、

 人は離してはならない。」


 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。


 イエスは言われた。

 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、

 妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

 夫を離縁して他の男を夫にする者も、

 姦通の罪を犯すことになる。」


 イエスに触れていただくために、

 人々が子供たちを連れて来た。

 弟子たちはこの人々を叱った。


 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。

 妨げてはならない。

 神の国はこのような者たちのものである。


 はっきり言っておく。

 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、

 決してそこに入ることはできない。」

 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


2021年9月25日土曜日

9月26日 年間第26主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】

第26主日、 9月26日   “私に逆らわない者は私の味方である”    ウルバン神父

ある時ヨハネが興奮しながらイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私達に従わないので、やめさせようとした。」イエスは何と答えたでしょう。「ヨハネ、良くやった。あんな人を許してはいかん。」そのように言いませんでした。ヨハネに優しそうに答えた。「ヨハネ、止めさせてはならない。私に逆らわないで、私の名を使う人は私達の味方なのだ。」本当にありがたく、安心させる言葉でした。

私に懐かしい思い出があります。子供の時の日曜日です。朝早く私達4人は次々にただ一つの水流しで顔を洗った後、父親が寝室から出て来て、長いナイフで髭をそって、日曜の服を着て教会に出かけた。ひよこが雌鶏にチョコチョコ付いて行くように、私たち子供3人は親の後に付いて行った。ごミサは子供である私に何となく退屈だったが、家族で教会へ行く事、親の祈る姿を見る事はうれしくて、心に深く残っていた。また晩ご飯を終わった後、私達がひざまづきながら食卓を囲んだ時、母親は家族を捧げる祈りを唱えた。やはり、私たちは一つの心を持って、家族だと深く感じた。夢のような話でしょう。

旭川のある教会の婦人の集まりの事でした。「主人が信者ではない方、手を上げて見て」と言った時、一人の方に聞きました。「主人がいつか信者になるように祈ったことがありますか」。その夫人は興奮しながら答えた。「神父様、もちろん、もう28年間ずっと祈っているよ。お父さんによく信者になりなさいと言うが、全然なりません。」「いつか信者になると信じますか」と聞くと、「とんでもない。あんな人はなるわけがない」と大声で答えた。

私は何と答えたかはっきり覚えていません。「奥さん、もう28年間主人はあなたが教会へ行くことを許しているよ。せめて日曜日ゆっくり家族と一緒に朝ご飯を食べたいのに、もう28年間一人で残され、寂しい気持ちで食べているよ。感謝した事がありますか。主人は神様の敵ではなく、無関心の顔をしても、もうイエスに愛される味方だよ。」

あなた方の内の多くの方は、家族のなかで信者として一人ぼっちです。誰にも心の中の事を話せない、だれとも祈れない。確かに悲しいことですが、それでも喜びなさい。「あなたによって妻も、主人も、子供も祝福されて、聖化されています」と使徒パウロが言っています。相手を責めないで、そのまま受け入れて、心の中の良さを信じなさい。もうすでに味方ではないか。信じて待つ事ができれば、愛する方が必ずいつかイエスに会います。もう前をもって喜んで感謝しなさい。

使徒パウロはある日に、沈んだ心で乱れた町コリントの道を歩いた。その夜の事、主は幻のうちに、パウロに言った。「恐れるな。この町には、私の民となる者が大勢いるからである。」恐れるな、目を上げて、喜びなさい。私たちの周りにも味方が大勢いる。

羽幌教会に住んでいた時に大きな火事があって、聖堂の前で火が止まった。顔を見た事のない多くの人が助けに来た。その時、一人の女の方が来て私に封筒を渡そうとした。「いいえ、私はこんなものを。」と言った時、もう忘れない顔の眼差しで答えた。「お願いします。私達は何年の間この教会の神様に守っていただいたから、どうしても差し上げたいのです。」やはり多くの味方がある事を、イエス様に感謝しよう。



【聖書朗読箇所】


信じる者の希望である神よ、

あなたはわたしたちに聖霊を注ぎ、

一つの民としてくださいました。

ここに集まるわたしたちが、

互いを受け入れ合い、

心を一つにして賛美をささげることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 民数記 11章25~29節


 主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、

 モーセに授けられている霊の一部を取って、

 七十人の長老にも授けられた。


 霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、

 続くことはなかった。


 宿営に残っていた人が二人あった。

 一人はエルダド、もう一人はメダドといい、

 長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。

 霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。


 一人の若者がモーセのもとに走って行き、

 エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。


 若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、

 「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。


 モーセは彼に言った。

 「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。

 わたしは、主が霊を授けて、

 主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」



第2朗読 ヤコブの手紙 5章1~6節


 富んでいる人たち、よく聞きなさい。

 自分にふりかかってくる不幸を思って、

 泣きわめきなさい。


 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、

 金銀もさびてしまいます。


 このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、

 あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。

 あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。


 御覧なさい。

 畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、

 叫び声をあげています。

 刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。


 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、

 屠られる日に備え、自分の心を太らせ、

 正しい人を罪に定めて、殺した。

 その人は、あなたがたに抵抗していません。



福音朗読 マルコによる福音書 9章38~43、45、47~48節


 ヨハネがイエスに言った。

 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、

 わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」


 イエスは言われた。

 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、

 そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。

 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。


 はっきり言っておく。

 キリストの弟子だという理由で、

 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、

 必ずその報いを受ける。」


 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、

 大きな石臼を首に懸けられて、

 海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。


 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、

 切り捨ててしまいなさい。

 両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、

 片手になっても命にあずかる方がよい。


 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、

 切り捨ててしまいなさい。

 両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、

 片足になっても命にあずかる方がよい。


 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、

 えぐり出しなさい。

 両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、

 一つの目になっても神の国に入る方がよい。


 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

2021年9月18日土曜日

9月19日 年間第25主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】


2021年9月19日 年間第25主日(マルコ、9章30-37節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音の箇所は、『マルコ福音書』における三回の「受難の予告と弟子の在り方についての教え」の第二回目に当たります。第一回目では、イエス様は、自分の考えや思いではなく、神様の思いを受け入れ、神様が与える自分自身の十字架をになう、キリストの在り様に倣うよう求めています。第二回目のケースは、第一回目の場合と異なり、弟子たちの口論から始まります。イエス様は受難の予告をしたために人目を避けて旅をしなければなりませんでした。他方、わけのわからない弟子たちは、質問するのも恐れ多くて尋ねる勇気もありませんでした。それでも、もし文字通り自分たちの先生が殺されるとしたら、だれが後継者になるのかと、言い争いを始めました。ですからイエス様に、何を言い争っていたのかと問われ、答えることができませんでした。

  イエス様は、第一回目の話を、第二回目の話で更に説明しようとします。自分を捨て自分の十字架をになってイエス様に従う場合、自分で十字架を決めて自分勝手に従うわけではないということです。イエス様が父である神様の意志に沿って十字架を引き受けたように、弟子たちはそれを模範としなければならないと教えたのです。

  イエス様は、具体的な例として幼子を示して、この幼子を受け入れるようにしなければならないと教えたのです。幼子というと可愛らしい、小さく、弱く、素直な存在と思いがちですが、そうでもありません。「泣く子と地頭とには勝てぬ」という諺があるように、逆に無視できない強力な力を持っています。説得したり、道理を尽くして話しても通用しない、頑強さです。幼子ですから、もちろん無視したり、力でねじ伏せたり、抹殺したり、極端な話、殺すことで黙らせることはできます。

  イエス様は、この弱い小さい者が持っているような力とは何かについては、ここでははっきり話していません。しかし、それは第三番目の「受難の予告と弟子の在り方についての話」から、イエス様に十字架を背負わせた御父の願いではないかと推察することができます。イエス様はそれを自分の十字架として引き受けました。その父である神様の求めていることは、幼子の要求のように、交渉の余地がありません。私たちにあるのは、受け入れるのか、拒むのかの自由だけです。この自由は全き自由で、何ものにも犯すことのできないものです。自分で決めて答えるほかありません。だからこそ、イエス様は、父である神様の意向を受け入れることを求めているのです。つまり、御父の意志を受け止め、イエス様が十字架に生きたように、与えられた父である神様の意向を受け止め、その人に呼びかけられた使命を生きることです。あなたは、父である神様の意志をイエス様のように受け止め、生きられますか。この問いは、今のこの現実の状況の中にいる私たち一人ひとりに向けられています。自分に問いかけてみましょう。           湯澤民夫




【聖書朗読箇所】


豊かな恵みを注いでくださる神よ、

あなたは御ひとり子を、

世に救い主としてお与えになりました。

自分を低くして仕える者となられたキリストに、

わたしたちが、この集いをとおして

近づくことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 知恵の書 2章12、17~20節


 「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。

 我々のすることに反対し、

 律法に背くといって我々をとがめ、

 教訓に反するといって非難するのだから。


 それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。

 生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。


 本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。

 敵の手から救い出されるはずだ。


 暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。

 その寛容ぶりを知るために。

 悪への忍耐ぶりを試みるために。


 彼を不名誉な死に追いやろう。

 彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」



第2朗読 ヤコブの手紙 3章16~4章3節


 ねたみや利己心のあるところには、

 混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。


 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、

 更に、温和で、優しく、従順なものです。

 憐れみと良い実に満ちています。

 偏見はなく、偽善的でもありません。

 義の実は、平和を実現する人たちによって、

 平和のうちに蒔かれるのです。


 何が原因で、

 あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。

 あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、

 その原因ではありませんか。


 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。

 また、熱望しても手に入れることができず、

 争ったり戦ったりします。


 得られないのは、願い求めないからで、

 願い求めても、与えられないのは、

 自分の楽しみのために使おうと、

 間違った動機で願い求めるからです。



福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節


 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。

 

 しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。

 それは弟子たちに、

 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。

 殺されて三日の後に復活する」

 と言っておられたからである。

 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、

 怖くて尋ねられなかった。

 

 一行はカファルナウムに来た。

 家に着いてから、イエスは弟子たちに、

 「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

 彼らは黙っていた。

 途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

 

 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、

 すべての人に仕える者になりなさい。」

 

 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、

 抱き上げて言われた。

 

 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、

 わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、

 わたしではなくて、

 わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

2021年9月11日土曜日

9月12日 年間第24主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

年間24主日 9月12日

インドのヴァルダマーナが始めたジャイナ教の寓話の中に「群盲象を評す」というお話があります。

その話は次のようなものです。

ある王の前に6人の盲人がいました。そこに一匹の象を連れてきて一人ひとりに触らせ感想を聞きました。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」この話の教訓の結論は、今日の福音が語りたいものとは少し違うのですが、ただ「メシア」と答えたペトロの信仰告白は、あくまでも自分の過去の知識や感覚だけに偏った「メシア」理解であって、例えば「木の枝のよう」と答えたペトロは、その木の枝の役割しか答えられず、また木の枝の可能性しか信じていませんでした。しかしそれはイエスの「メシア」を示す回答とは全く違います。

今日の福音のこのイエスとペトロとの問答までには、本当に「メシア」と知っていたのは敵対する悪霊のみでした。宣教活動のなかで出会った人々の理解を見てきた答えがペトロに凝縮され誤った信仰告白であったことが今日の私たちへの信仰の捉えなおさなければならない分岐点かも知れません。

このことはイエスが受難を受けることに対してペトロが諫めたことでその本性が現われます。私たちの神は人類の勝利者になる、いや、そうならなければ救いはないと信じていたからです。でもイエスは人の目には負けと見える受難と死を提示し、それでも信じるかと問い詰められます。人の目には不思議な光景です。なぜなら私たちも歴史上で活躍してきた人々を思うと、戦に負けた時点で英雄にはなれども勝利者にはならないと理解してきたからです。しかしイエスはそこに天の父が働き、救いの道を示すことをお示しになります。

私たちの発想では敗者が神になるという意識は、どう頑張っても生まれてこないでしょう。改めて、私たちが今まで見てきたことは何なのでしょうか。受難と死を超える希望を私たちの信仰の確信にできるのだろうか、それともこの世にとどまり誰の目から見ても勝利者となる方を望むのか。今日のヒントとして信仰の視点は、“私たちの感性の外”にある。神様は“私たちの視界の外から”やって来るということに目を向けたいと思います。現代の生活では私に不幸が押し寄せるこの状況を救いと呼べるのか?といつも悩むことが多いでしょう。しかし目の前の出来事に捕われるのは、ペトロの域を脱せない私たちの限界かも知れません。

私たちは象の一部を触って満足し、それを信じています。場合によっては確信まで高めてしまっています。確信を得た人はそこである意味盲目になってしまい「柱のようです」と考える人にとって、象という発想は意識の外で固定されてしまいます。ある意味私たちの信仰もそうなのかもしれないと自分を戒め、改めてイエスを追い求めていきたいと思います。不幸と感じられるその外に視点を移せるのか?神を求める心は何よりも固定概念を壊し、イエスを自由に受け入れることでしか「メシア」と答えられないからではないでしょうか。でもそういわれても難しいことには違いありませんが。


【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  ひとり子イエスは、十字架の苦しみをとおして、

  あなたに従う道を示してくださいました。

  イエスを救い主と信じるわたしたちを、

  みことばによって照らしてください。

  やみに迷うことなく、あなたへの道を歩むことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節


 主なる神はわたしの耳を開かれた。

 わたしは逆らわず、退かなかった。

 

 打とうとする者には背中をまかせ

 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

 

 主なる神が助けてくださるから

 わたしはそれを嘲りとは思わない。

 わたしは顔を硬い石のようにする。

 

 わたしは知っている

 わたしが辱められることはない、と。

 

 わたしの正しさを認める方は近くいます。

 誰がわたしと共に争ってくれるのか

 われわれは共に立とう。

 

 誰がわたしを訴えるのか

 わたしに向かって来るがよい。

 見よ、主なる神が助けてくださる。

 誰がわたしを罪に定めえよう。



第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節


 わたしの兄弟たち、

 

 自分は信仰を持っていると言う者がいても、

 行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。

 そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

 

 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、

 その日の食べ物にも事欠いているとき、

 あなたがたのだれかが、彼らに、

 「安心して行きなさい。温まりなさい。

 満腹するまで食べなさい」と言うだけで、

 体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

 

 信仰もこれと同じです。

 行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 

 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」

 と言う人がいるかもしれません。

 行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。

 

 そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。



福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節


 イエスは、弟子たちと

 フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。

 

 その途中、弟子たちに、

 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

 

 弟子たちは言った。

 「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。

 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『

 預言者の一人だ』と言う人もいます。」

 

 そこでイエスがお尋ねになった。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 

 ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

 

 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと

 弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、

 長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、

 三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

 

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。

 「サタン、引き下がれ。

 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」


 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、

 わたしに従いなさい。

 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

 わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

2021年9月1日水曜日

9月5日 年間第23主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

年間第23主日 2021年9月5日

「エッファタ 開け」イエスのこの言葉を何度耳にしますか?又、イエスが権威をもって語られるのをあなた方はどれくらい聞かれますか?イエスはこの耳の聞こえない男をただ癒したいのでこのように言われたのでしょうか?それとも、もっと大切なことがあるのでしょうか。音が聞こえないこの男を癒すことによって、イエスは私たちのために何かしたいと望まれたことについて示されたのです。イエスはこの癒しによって明らかに深いメッセージを私たちに与えて下さいます。この一節から得ることはたくさんありますがその一つを見てみましょう。

その教えはイエスの命令「開け」にあります。これは行動を命ずる力強い言葉です。選択できる言葉ではありません。それは明快であり決定的なのです。「開け」は質問でも誘いでもなく、それは命令です。これは重大なことです。

この短い言葉でイエスは実行すると決めたことがわかります。これには少しの躊躇もなかったのがわかります。心を決め、ご自分の意思を話されます。イエスご自身からのこの行動が重要なのです。神が語るときにあいまいさはありません。ためらいも疑いもありません。彼は完全で明らかなのです。

これがわかると私たちにとっては大きな安らぎです。それはイエスが力強い権威を実行する用意と意思があるという意味だからです。全ての力を持たれ、そうされたいときには権威を恐れず使われます。一番大切なことは、私たちの生活に最善をもたらすそのときにお使いになるのです。

この全能の神は万能であり、支配者であるということを信じることができるなら、私たちはおおきな安らぎを得られるらでしょう。もしイエスが現実の世界(体の聴覚)をも支配しておられるのならば、精神世界もそうであることは確かです。すべての良きことがお出来になるのです。

全能であるだけでなく、全てを愛し全てを慈しむ方の存在の内に私たちがいるとわかったとき、私たちは大きく安堵の息をし、その方に絶対的な信頼を寄せるでしょう。そして人はよろこんで委ねるることができるでしょう。

この短い言葉を黙想しましょう。イエスのこの聖なる神々しい権威にあなた方の命をゆだねましょう。イエスに任せましょう。イエスの言葉は完璧な愛であり憐れみです。それはあなた方を最善に導く言葉です。そしてこの全能の神はあなた方の全ての信頼にふさわしい方です。


23rd Sunday in Ordianry Time B September 5, 2021

How often do you hear Jesus say this to you? “Ephphatha! Be opened!” Or how often do you hear Him speak to you with such authority?

Did Jesus say this only because this man was physically deaf and He wanted to physically cure him? Or is there a deeper significance? By healing this man unable to hear physical sounds, Jesus was revealing something to us about what He wants to do for us. Jesus is giving us a clear and deeper message in this healing. Certainly there are many messages we can take from this passage. Let’s look at one.

The message is in Jesus’ command: “Be opened!” These are powerful words commanding action. They are not optional words. They are clear and definitive. “Be opened” is not a question, not an invitation, it is a command. This is significant!

These two little words reveal the fact that Jesus has made up His mind to act. They reveal that He is not hesitant in the least in this choice. He has made up His mind and has spoken His will. And this action, on His part, is what makes a difference. These two little words reveal that God is not indecisive when He speaks. He is not shy or uncertain. He is absolute and clear.

This understanding should give us great comfort. Comfort in the sense that Jesus is ready and willing to exercise His all-powerful authority. He does have all-power and He is not afraid to exercise this authority when He wants to. Most importantly, He wants to exercise His authority when it will bring about the greatest good in our lives.

It should give us great comfort in the sense that we can trust that this all-powerful God is all-powerful and is in control. If He is even in control of the natural world (physical hearing), then He is most certainly in control of the spiritual world, too. He is able to do all things good.

When we find that we are in the presence of one who is not only all-powerful, but also all-loving and all-merciful, we should be able to breathe a huge sigh of relief and turn our absolute trust over to Him. He is able and fully willing to be in control.

Reflect, today, upon these two little words. Let this holy and divine authority of Jesus take control over your life. Let Him command you. His commands are perfect love and mercy. They are words that will direct you to your ultimate good. And this all-powerful God is worthy of all your trust.


【聖書朗読箇所】


すべての人の希望である神よ、

あなたはひとり子イエスを遣わし、

人々を悩みや苦しみから解放してくださいました。

きょう、わたしたちの耳を開き、

救いのことばを聞かせてください。

また、わたしたちの口を開き、

あなたへの賛美を歌わせてください。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 35章4~7a節


 心おののく人々に言え。

 

 「雄々しくあれ、恐れるな。

 見よ、あなたたちの神を。

 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

 神は来て、あなたたちを救われる。」

 

 そのとき、見えない人の目が開き

 聞こえない人の耳が開く。

 

 そのとき

 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

 

 口の利けなかった人が喜び歌う。

 荒れ野に水が湧きいで

 荒れ地に川が流れる。

 

 熱した砂地は湖となり

 乾いた地は水の湧くところとなる



第2朗読 ヤコブの手紙 2章1~5節


 わたしの兄弟たち、

 栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、

 人を分け隔てしてはなりません。

 

 あなたがたの集まりに、

 金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、

 また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。

 

 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、

 「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、

 

 貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、

 わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、

 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、

 誤った考えに基づいて

 判断を下したことになるのではありませんか。

 

 わたしの愛する兄弟たち、

 よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、

 信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、

 受け継ぐ者となさったではありませんか。



福音朗読 マルコによる福音書 7章31~37節


 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、

 シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、

 ガリラヤ湖へやって来られた。

 

 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、

 その上に手を置いてくださるようにと願った。

 

 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、

 指をその両耳に差し入れ、

 それから唾をつけてその舌に触れられた。

 

 そして、天を仰いで深く息をつき、

 その人に向かって、「エッファタ」と言われた。

 これは、「開け」という意味である。

 

 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、

 はっきり話すことができるようになった。

 

 イエスは人々に、

 だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。

 しかし、イエスが口止めをされればされるほど、

 人々はかえってますます言い広めた。

 

 そして、すっかり驚いて言った。

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。

 耳の聞こえない人を聞こえるようにし、

 口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

2021年8月28日土曜日

8月29日 年間第22主日

  ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】


第22 日曜日      “その心は私から遠く離れている”    ウルバン神父  

私も遠く離れているでしょうか。この言葉を言いながら、イエスは周りにいる人、今の私たちをも見ていた。どんな顔で見ていたでしょう。主の言葉は福音で、喜びの便りで、戒めの言葉ではありません。イエスの姿を見て、イエスの顔を見つめると、この言葉の中で悲しみ、心の温かさ、心の深い憧れを感じるでしょう。今静かになって神の霊に導かれて心を開きながら、想像の中で今日の福音の出来事を見ましょう。

子供の時、本家の叔父さんといとこ達とともに、よく畑へ行って芋を掘っていた。腹が減った時、皆は仕事を休んで土の上に座りながら食べた。一つの手に一切れのパン、もう一つの手でソーセージを持って、左また右の手にあるものをかじりながら、手を洗わないで食べた。本当に良い雰囲気でした。畑の土で手は汚れていたが、心は素直できれいでした。食べた後、土で汚れた手で神様に感謝した。

イエス様は弟子達に囲まれて木の陰に座って休んでいた。すぐに好奇心の人がのぞきに来て、「ナザレの預言者だ」と叫んで人を連れて来た。弟子達は長い旅と暑さで疲れて座っていた。ところが、じっと見ている人々の中にファリサイ派の人もいた。人をぐるぐる囲んで刺そうとするスズメ蜂のように、彼らの目は動いていた。弟子は袋からパンを出し食べ始めた。確かに手は汚れていたが、素直な清い心で食べていた。「なぜ、あなたの弟子たちは汚れた手で食べるのか」とスズメ蜂のようにイエスを刺した。哀れなファリサイ派の人。あなたの手は清いが、心は最も汚い。すべてを汚れた心で見ている。

イエスは立ち上がって、人々を見つめながら言った。「この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている」。この言葉は自分の心の中に響いています。口先だけで敬うことがよくあるでしょう。祈りながら体は神の前にいるが、心はどこかで散歩している。私たちはみな物足りない僕です。祈りとミサが終わって、“努め”を果たした後、イエスは私とともにいるでしょう。主の霊、聖霊が私の生活の中に住まいはなければ、心の住まいは空であれば、暗闇の霊が来て汚れの種をまくのです。それで私は次第に暗闇に沈む。ペトロの目がイエスから離れて周りの大波を見た時に沈んだが、またイエスに手を伸ばして叫んだ。「助けて、私は沈む」。彼は波から助けられた。

子供の時、ごミサがラテン語であった時、多くの人はロザリオを祈りながらミサに参加しました。言葉も典礼も知らず静かに心の中で祈った時、手の中で常にロザリオを握っていた。今考えれば、その子供らしい人はいろんなことが通じなかったが、心はきっと神様から遠く離れてはいなかった。イエスは望む人の頭ではなく心の中に住んで、生活のすべての暗闇を希望と光に変えて生きる力となった。

主は今、私達にも手を開いて言います、「自分の弱さ、自分の小ささを見ないで、目を上げて私を見なさい。弱さがあっても、私の所へ来なさい。私は生きる水の泉で、来て、この泉から飲みなさい。飲めば、あなたは本当に生きる。私はいつもあなたと共にいて、あなたの中に住む」。私の答えは「主よ、私を待って、今来ています」と。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたはひとり子イエスをとおして

み旨を明らかに示してくださいました。

わたしたちがきょうもあなたに立ち帰り、

みことばをいのちの糧とすることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 申命記 4章1~2、6~8節


 イスラエルよ。

 今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。

 

 そうすればあなたたちは命を得、

 あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、

 それを得ることができるであろう。

 

 あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、

 減らすこともしてはならない。

 

 わたしが命じるとおりにあなたたちの神、

 主の戒めを守りなさい。


 あなたたちはそれを忠実に守りなさい。

 

 そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、

 彼らがこれらすべての掟を聞くとき、

 「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」

 と言うであろう。

 

 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、

 主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。

 

 またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、

 正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。



第2朗読 ヤコブの手紙 1章17~18、21b~22、27節


 良い贈り物、完全な賜物はみな、

 上から、光の源である御父から来るのです。

 

 御父には、移り変わりも、

 天体の動きにつれて生ずる陰もありません。

 

 御父は、御心のままに、

 真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。

 

 それは、わたしたちを、

 いわば造られたものの初穂となさるためです。


 心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。

 この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

 

 御言葉を行う人になりなさい。

 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。


 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、

 世の汚れに染まらないように自分を守ること、

 これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。



福音朗読 マルコによる福音書 7章1~8、14~15、21~23節


 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、

 エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。


 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、

 つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。


 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、

 昔の人の言い伝えを固く守って、

 念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、

 また、市場から帰ったときには、

 身を清めてからでないと食事をしない。


 そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、

 昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――


 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。


 「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、

 汚れた手で食事をするのですか。」


 イエスは言われた。


 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを

 見事に預言したものだ。

 彼はこう書いている。

 『この民は口先ではわたしを敬うが、

 その心はわたしから遠く離れている。

 人間の戒めを教えとしておしえ、

 むなしくわたしをあがめている。』

 あなたたちは神の掟を捨てて、

 人間の言い伝えを固く守っている。」


 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。


 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。

 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、

 人の中から出て来るものが、人を汚すのである。


 中から、つまり人間の心から、

 悪い思いが出て来るからである。

 みだらな行い、盗み、殺意、

 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、

 悪口、傲慢、無分別など、

 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」


2021年8月21日土曜日

8月22日 年間第21主日 福音への一言

 湯澤神父様の「福音への一言」を、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音への一言 湯澤神父】


2021年8月22日 年間第21主日(ヨハネ、6.60-69)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音を以て、天から下って、人を生かすパンについての一連の話が終わります。先週は被昇天の祭日で、一回分抜けてしまいましたから、もう一度『ヨハネ福音書』の六章を最初からゆっくり見直したらよいでしょう。これまでイエス様が話してきたことを、人々は信じられず、拒否しました。そこで、イエス様は、ついてきた弟子たちに尋ねます。「あなたたちも離れて行きたいか」。ペトロが代表して答えます。「あなたこそ永遠の命を持つ者、神の聖者」と。しかし、そう答える彼らの中にも信じられない人たちが出ることを、イエス様はご存じです。

  まず、イエス様の話は、一般に受け入れられません。イエス様について来た人たちは、物珍しさで付いて来たわけではありません。少なくとも神様が天からのパンで養ったモーセの出来事を知っている人たちです。

こうしてイエス様は弟子たちの信仰について尋ねます。それは、単に命のパンに限りません。イエス様全体のことを受け入れられるか否かでもあります。イエス様は、神であり、御言葉でした。御言葉は人となり、私たちの間に住まわれた。この事実は、人々にとって、特に正しい熱心なユダヤ教の信仰を持っている人達にとって受け入れることが難しい問題でした。完全なもの、神が不完全なもの、人間になり、私たちと同じ人間として、私たちの間で共に生きることは、考えられないことでした。これは、ヨハネの福音書を読む人たちにとって大きな障害でした。

  実際は、人間になったのではなく、人間のように見えただけではないか、そう思う人人もいました。なっただけで、人間に見えたに過ぎないのだ。こうしたことは、弟子たちの間でも問題になりました。ここでイエス様は、受け入れた弟子たちの間にも受け入れられない人たちがいる、と述べています。「あなた方の内には信じない者たちもいる」と。この言葉は、単にイスカリオテのユダにだけ向けられた言葉ではないでしょう。もしかしたら私たちに向けられた言葉かもしれません。私たちは、神様が人となる、神様がいつも食べるあのパンになる、その本当の意味、神様の行うことの真の意味を受け入れることが出来ないかもしれません。それは、十字架を前にして明らかになってくることです。人が元居たところに戻る時、人となった御言葉、パンとなったイエス様のことを真に知るでしょう。イエス様の十字架の言葉は、それを物語っています。「成し遂げられた」。ご自身の使命を完成させ、すべてを知らせたからでした。もし、毎朝パンを食べる人がいたら、そのパンを見てください。イエス様は、そのパンになられたのです。私たちを生かす命を与えるために。そして、御言葉が人となられたことを黙想してみましょう。 湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


喜びの源である神よ、
  あなたのことばは信じる者を照らす光です。
  きょうも、わたしたちに力強く語りかけてください。
  信じる心をたえず新たにし、
  主キリストに従うことができますように。
   B年用・試用 集会祈願より


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第1朗読 ヨシュア記 24章1~2a、15~17、18b節

 ヨシュアは、
 イスラエルの全部族をシケムに集め、
 イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。

 彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。

 もし主に仕えたくないというならば、
 川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、
 あるいは今、
 あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、
 仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。

 ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、
 するはずがありません。

 わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、
 奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、
 わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、
 わたしたちの行く先々で、
 またわたしたちが通って来たすべての民の中で、
 わたしたちを守ってくださった方です。

 わたしたちも主に仕えます。
 この方こそ、わたしたちの神です。」


第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章21~32節

 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
 
 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、
 夫は妻の頭だからです。
 
 また、教会がキリストに仕えるように、
 妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
 
 夫たちよ、キリストが教会を愛し、
 教会のために御自分をお与えになったように、
 妻を愛しなさい。
 
 キリストがそうなさったのは、
 言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、
 聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を
 御自分の前に立たせるためでした。
 
 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。
 妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
 
 わが身を憎んだ者は一人もおらず、
 かえって、キリストが教会になさったように、
 わが身を養い、いたわるものです。
 
 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、
 二人は一体となる。」
 
 この神秘は偉大です。
 わたしは、キリストと教会について述べているのです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 6章60~69節

 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに
 気づいて言われた。

「 あなたがたはこのことにつまずくのか。
 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

 命を与えるのは“霊”である。
 肉は何の役にも立たない。

 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」

 イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、
 御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

 そして、言われた。
 「こういうわけで、わたしはあなたがたに、
 『父からお許しがなければ、
 だれもわたしのもとに来ることはできない』
 と言ったのだ。」

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、
 もはやイエスと共に歩まなくなった。

 そこで、イエスは十二人に、
 「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。

 シモン・ペトロが答えた。

 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
 あなたこそ神の聖者であると、
 わたしたちは信じ、また知っています。」

2021年8月14日土曜日

8月15日 聖母の被昇天 福音メッセージ

この日のミサを司式された勝谷司教様のお説教と、松村神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。 


【勝谷司教 お説教】


何度か説教や文書でふれたことですが、コロナが流行し始めた頃、テレビ等の情報に影響され、常に怒りの感情に支配され、心が健康でなくなっていることを感じたことがありました。今も政府や行政の無策ぶりに怒りの感情が起こってはいます。しかしその怒りは、自分にとって正しいもの、正義の怒りであると全く疑いを持っていないところに問題があることもお話ししました。この怒りについて少し考えてみたいと思います。


 地方の教会を回っていると、私が「正義と平和協議会」を担当しているせいでしょうか、政治的な問題について質問されることがよくあります。その場合多くは、教会と政治の関わりについて批判的な意見を持っている人たちからのものでした。数年前、日本の安全保障に関わる法律が立て続けに成立していった頃は、日本社会だけではなく、地方の教会の中でも激しい意見が交わされました。地方の教会にはそのような問題に敏感な自衛隊の基地があるところが多いのもその理由の一つです。教会を訪問して気づいたのは、政治問題に関わることに批判的な人だけではなく、当然教会の社会教説や司教の声明等を錦の御旗にして正義を訴え、教会を仕切っている活動家肌の人たちがいることでした。それがまた、教会に分裂を招いていました。そこで、気づいたことがあります。このことについて論争するとき、双方がベースにある怒りに任せて議論していることです。つまり、感情的になって議論しているのです。

 怒りには2種類あります。福音の価値が損なわれているとき、すなわち人間が苦しめられているときに感じる怒り、神からくる聖なる怒りと、自分の欲求を満たすときにそれを邪魔するものに対して向けられる自己中心的な感りです。私たちはこれを混同してはなりません。

 政府の政策に反対の立場の人たちは、当然その怒りを聖なる怒りと感じ正義は我らにあると思っています。しかし、賛成の立場の人も、同様なのです。そこで、双方の意見がたたかわれるとき、あらわれてくるのは、ベースにある怒りの感情です。怒りそれ自体は、善悪はありません。しかし、怒りに対してどういう態度をとるかによって、正誤、善悪が生じて きます。
 たとえそれが聖なる怒りと思えるものであっても、怒りに任せて感情的になるとき、それは別物になります。怒りを伝えることと、怒りに任せて感情的になることは違います。感情的になるとき、議論は相手を屈服させること、自分に従わせることが中心となり、時には相手の人格さえ傷つける心無い中傷が表れてきます。これは、顔を合わせた議論をする時ではなく、ネットの世界で匿名でなされるとき特に顕著に表れてきます。私は、ネットの世界でこのような非建設的な中傷が繰り広げられることに心を痛めています。しかし、顔が見える議論でも、それは起こります。教会においては、特に田舎の小さな教会においては、どのような意見を持っていても、匿名ではいられません。政治問題について、賛成反対の意見を持つ場合、まるで宗教対立ででもあるかのような、感情的な対立にしばしばなってしまいます。そして、教会では少数派の立場の人は、教会に居づらくなるのです。ある教会では、政府の出す法案に反対の意見が多数を占める中で、ある信徒が私の耳元で、「実は私は賛成なんですが、そんなこと言えません。」と呟きました。このように阻害されている人がいる懸念を他の信者に伝えたところ、「そのような考えの人は教会に来なくてもよい」と、私と多くの信者の前で断言する人さえいました。正義を主張していながら、これは正義ではありません。聖なる怒りを表明していながら、従っているのは自己中心的な怒りです。しかし、私にとって救いだったのは、小教区訪問時では激しく意見が対立し、ちょっと感情的にもなり後味が悪い議論をした人が、その数週間後の地区大会で、積極的にスタッフとして働き、私を歓迎してくれたことでした。教会でタブーであった話題に正面から立ち向かって、乗り越えられない立場の違いを意識しながらも、主において一つである信仰の本質を保ち続けているこ とを感じうれしく思いました。

 今日の福音のマグニフィカト、これは、「人々を苦しめている現実、抑圧し、差別し、疎外して人権を侵害している社会を変革せよ」と言うメッセージと解釈することもできます。
 私たちが求める、救いは、個人的な救いではなく、このような抑圧や不正がなくなりすべての人が共に救われる世界の実現を意味します。そして、それは座して待って与えられるのではありません。キリストが始められ、命を捧げてくださった救いの技を、教会、すなわち私たちが引き継いで担っていくものです。このマグニフィカトのベースには当然、不正義に対する聖なる怒りがあります。しかし、その怒りは、イデオロギーに基づくものではなく、 抑圧され苦しめられている人々に対する深い共感と哀れみに基づくものです。

 わたしたちの活動を通して「正義と平和」を実現するベースにある感情は、そのような人々への強い共感に基づく「怒り」です。私たちは、イデオロギーに従って行動するのではなく、苦しむ人々への深い共感に基づいて連帯し、そこにある怒りを表明するのです。怒りにとらわれるのではなく、怒りをコントロールして、誰をも傷つけることなく正しく「怒り」 を表明し続けるのが私たちの使命です。


【福音メッセージ 松村神父】



8月15日のメッセージ

昔、TVの中の正義の使者であるヒーローやヒロインになりたいと、憧れを抱き真似をした人も少なくないのではないか。または、伝記小説などに登場する優秀な能力を持った人に憧れて、将来の夢にした人もいるかもしれない。私たちはこのように具体的な人物像を心に置き、日々の学びや生き方にスパイスを与えて、自分を奮い立たせてきたのではないか。私自身も小学生の頃には江戸川乱歩にはまって、明智小五郎のような推理探偵を目指し、とにかく頭の回転を速くしようとクイズやなぞなぞにはまった時もあり、または一方で祖父の死を目の前にして、人を助けてきた祖父に報いるために、人助けの仕事がしたいと誓った時もあった。しばらくすると祖父母の働きを眺めながら高齢者が快適に、幸せに暮らせるためにと当時の有名な建築家を真似ようと学んだ時期もあった。それぞれ時代時代に具体的な人を思い浮かべては、その人になろうとしていた。しかし、ある時それらの人に限界があったことを気づかされた。常にその先には、より有能な人、新しい仕組み、新しいユニバーサルデザインが現れ、夢を描いた人たちは廃れていったのであった。

 今日、聖母被昇天の祝いの日に、何を思うか。聖母マリアの天への昇天は聖書の中に書かれていない。初代教会後の信仰によって祝われるようになり、8世紀末に聖母被昇天として定められ、8月15日に祝われるようになった。しかし教義になったのはわずか70年ほど前である。そもそも東方教会ではマリアの亡くなった日として祝われたが、その後7世紀になってから西方教会にも受け継がれ被昇天の日となった。ただし、正直何が真実かは私たちにはわからない。それよりも日本にとってザビエルが上陸した日が8月15日。そのため日本の守護聖人が聖母マリアとされたことや、終戦記念日が8月15日で戦争の終わりにマリア様の祝日だったこと。これは偶然というよりも、日本に神様が働かれた(啓示)と考える方が私はしっくりくる。聖母マリアへの崇敬は、その先を見る神様の存在を表す象徴と捉えなければならないのだろう。だから決してマリア様を崇拝の対象としてはならないし、神様もそのために昇天したわけではないのだろう。

 教義では「聖母はキリストの救いを完全な仕方で受け、キリストによって成就した救いの範型(TYPE)となった。キリストのもたらした救いは人間の全身心の救済であるから、聖母マリアがキリストの救いの力を完全に受けて、神の栄光に輝いたと信ずるのは当然である。」とされる。だからと言って聖母マリアが特別な存在として信仰するのではなく、今日の祈願文や朗読箇所にもあるように、聖母の被昇天は、キリストによる救いにあずかる人たちの象徴として、信じるすべての私たちの救いへの希望を表現している唯一の人類と捉える必要があるのだろう。先の夢見るヒーローヒロインに憧れ崇拝するのではなく、その先にある正義や平和という願い、神のみ旨をしっかり見なければ、目の前の聖母マリアの存在がぐらついてしまう。被昇天という教えを通して、聖母マリアが昇天され完全に救われたこと、その聖母マリアが願ったことにしっかりと心を向けて、私たちも歩みたいと思う。

8月15日は日本にとって特別な日。神の啓示は、この日において命を優先とし、キリストのいのちにあずかるということを大切にして、具体的な平和を求める日として祈り働いていければと思う。

聖母マリア、そして聖フランシスコザビエルの願った私たちのこの国での幸せを祈りあっていきましょう。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、

からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。

信じる民がいつも天の国を求め、

聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節

 天にある神の神殿が開かれて、 その神殿の中にある契約の箱が見え〔た〕。

 また、天に大きなしるしが現れた。 一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、 頭には十二の星の冠をかぶっていた。 女は身ごもっていたが、 子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。 また、もう一つのしるしが天に現れた。 見よ、火のように赤い大きな竜である。 これには七つの頭と十本の角があって、 その頭に七つの冠をかぶっていた。 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。 そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、 産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。 女は男の子を産んだ。 この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。 子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。 女は荒れ野へ逃げ込んだ。 そこには、神の用意された場所があった。

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。 「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。」


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節

(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、 眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、 死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、 キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。 最初にキリスト、 次いで、キリストが来られるときに、 キリストに属している人たち、 次いで、世の終わりが来ます。 そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、 父である神に国を引き渡されます。 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、 国を支配されることになっているからです。 最後の敵として、死が滅ぼされます。 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。


福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

 そのころ、マリアは出かけて、 急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、 その胎内の子がおどった。 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。 「あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、 どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、 胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、 なんと幸いでしょう。」

 そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、

憐れみをお忘れになりません、

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、 自分の家に帰った。