2019年12月30日月曜日

聖家族

今年最後の主日ミサでした。
聖家族も当時の迫害から難を逃れようと宿も見つからずに彷徨っていた名もない多くの難民のなかの一家族でした。

この日の勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。


『「聖家族」の祝日を迎えました。
第1朗読、第2朗読は、家族の在り方を示しています。
そして、福音書は、どんな困難に直面しても、家族が一つになってその困難を耐えて克服していく姿を描いています。

昨年シノドスがありましたが、それについての話は以前したことがあります。
今の教皇フランシスコが強調していることは、最も弱い立場に追いやられた人たちと共に歩む、そのことを常に機会あるごとに、何処へ行っても主張されています。
今回の訪日に当たっても、その線はぶれることなくお話されていました。
家庭の問題についても、昨年のシノドス以前に開かれた家庭に関するシノドスにおいて、現実は非常に厳しい、特にヨーロッパにおいては、教会が規定している結婚の形態を取らずに、いわゆる正式な結婚をせずに婚姻関係を結んでいることや、シングルマザーの問題など、教会が受け入れることができないような家庭については、教会が勧めるあるべき姿に従っていないということから、疎外され教会から離れざるをえない。でもそれは、彼らが離れていったというよりは、むしろそのような教会の体質が彼らを阻害し追いやっているのだと。
同じような論点から、青年についても言われました。青年が教会を離れていったのではなく、教会が青年から離れていったのだと。
つまり、現代社会が抱えている様々な問題が、教会の勧めるあるべき姿からかけ離れている現実を、良くないことだとして切り捨ててしまうのか。それが従来の”裁く”教会の姿でした。
しかし、教皇フランシスコはそうではなく、まさにそのような現実に生きてその中で苦しみ、そしてその生きる指針を求めている人たちに対して、教会があるべき姿はこうだと、言ってみてもしょうがないことです。むしろ、その人たちの苦しみに寄り添い、共に歩み、その重荷を担うことによって、進むべき方向を指し示していく、それがこれからの教会に求められる姿であると強調されています。

今日の聖家族の祝日は、そのようなテーマが一つにありますが、もう一つ重要なテーマがあります。まず今回、教皇様が訪日され、様々な意趣がありましたけれども、マスコミにほとんど取り上げられずスルーされた問題が一点あります。
私は東京のカテドラルで行われた「青年との集い」の総責任者でした。当初、青年が本当に集まるのか心配していた面もありましたが、予想を遥かに超える申し込みが殺到し、申し込み開始から僅か2日間で席が埋まってしまいました。さらにできるだけ多くの青年たちに参加してもらおうと長椅子を全て取り外しパイプ椅子に置き換え何とか追加の200席を確保しました。
ところが直前になって、あと20席確保するようにと、教皇様から指示がありました。その席は誰のためかというと難民の人たちのためのものでした。そして何とか最前列に20席確保しました。本番の際には、教皇様が正面の扉から入って来て、難民の人たちの前を通った時に足を止めて、教皇様は彼らと親しく話しをしました。
教皇様のスピーチは、3人の青年の代表が話したことに対して答えるという形で行われました。会場には関係者を含めると1000人以上が入っており、そのうちの200人程度は外国籍の青年たちでした。
教皇様は、メッセージの中で、
「日本の社会は、今日ここを見ても分かるとおりモノトーンではない。多様な文化・国の人たちがいます。そして何よりも皆さんの保護を求めて、遠くから来られている難民の人たちがいます。彼らを助けてあげて下さい。」とおっしゃられました。教皇様は、このように難民や移民の人たちに常に心を留めておられます。
実際に日本の教会は、インターナショナル・チャーチになって来ており、多様な文化の人たちがいて、その中では異国に来て困難な状況に置かれている人たちがたくさんいるということを改めて知らされました。

難民だけではなく、技能実習生で不当な扱いを受けている人たちもおり、これに関して札幌教区はこの一年間で格段にその対応が進んでいることが私はうれしく思います。
手稲教会の取り組みは、道新の一面全部で取り上げられていましたし、函館のケースについてもNHKや道新で取り上げられました。教会が、そして教会に来ている高校生や青年が、この難民の人たちと関わり、生活支援だけではなく、直面している労働問題についても対応している。函館市内のプロテスタント教会がクリスマス献金を持ってきて、湯川教会で取り組んでいる技能実習生の支援活動に対して賛同するので、このお金を使ってくださいと持ってきました。
いま地方の教会ほど、国際的な教会になってきており、日曜のミサも多言語で行われています。
北一条教会についても以前からお話しているとおり、英語ミサと同じ共同体のメンバーとして、一つの共同体を作っていくような方向で検討していっていただきたいと願っています。

今日の福音書のテーマというのは、まさに「聖家族」自身がエジプトへと逃れた、つまり難民だったわけです。そして私たちは、クリスマスの宿がなく馬小屋で生まれたというシーンも含めて、特別な二人という見方をしていますが、実はそうではないと私は思うのです。たくさんの人たちが人口調査のために移動していく中で、多くの人たちが宿を見つけられずに彷徨っていた。そういうたくさんの人たちの中の名もない二人だったわけです。ヘロデの迫害はこの二人をピンポイントで狙っていたわではなく、誰だかわからないから大勢の子供たちが殺戮されたわけです。ですからその対象はたくさんいたわけです。聖家族だけではなく他の多くの家族が危機を感じていました。そう考えると、たくさんの人たちが難を逃れようと避難したと考えられます。そういう多くの避難民の中の名もない三人だったわけです。そう考えると、この聖家族は特別なものではなくて、多くの小さき人たちの一人にすぎない。そう考えれば、私たちは現代社会において、日本国内に来て困難に直面している人たちの中にも、この聖家族はいるのだということに、改めて私たちは対応していく必要があるのだと思います。』

2019年12月27日金曜日

12月25日(水)主の降誕(日中のミサ)

平日の日中にも係らず、聖園幼稚園の子供たちをはじめ350名の方がミサに参加しました。ミサ後には聖堂内装飾の紹介を行いました。


この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『昨夜は馬小屋を見ながら、この世にこられたイエス・キリストのお祝いをしました。
今日読まれた福音朗読は少し難しくて、昨日こられたイエス様というのは本来の姿はどういうものであるか、人間となられる前の本来の姿はいったいどういうものであるか、ということを語っています。ひじょうにちょっと深くて、普段ちょっと私たちが考えなかったように、この世の創造にかかわるようなことです。
 そして、はじめに言(ことば)があった。言(ことば)がいっぱいでてきます。この「言(ことば)」をイエスに置き換えて読むということです。イエス様が神の言(ことば)であると言われているように。ただ、言(ことば)という言葉には訳しきれない。元々のギリシア語は「ロゴス」と言います。はじめにロゴスがあった。このロゴスはわたしたちが使っている「言(ことば)」という単語ではとてもとても、全部を表していない。もっと深い内容をもっています。例えば「知恵」とも訳されます。言(ことば)は神の知恵。あるいは神の英知。いろんな言葉がそこに入ります。あるいは、もっと大きく言うと、宇宙と生命の源であるというふうに。天の御父、神様はイエス様とともにこの世を創造なされたということが、ここに書かれているのです。イエス様は神の子であって、御父の心であって、知恵であって、御父とともにこの世を創造なさった神である。というのが私たちの信仰ですね。ですからそこまでいくと本来のイエス様の姿をとらえるのは私たちにはとても難しくて、人となってくだされなければ分からないというぐらいの方なのです。
 そこでイエス様はあるとき教えの中で、私のことは御父以外には誰も知らない、とおっしゃったことがあります。私のことは御父以外には誰も知らない。つまり33年の生涯をおくられたイエス様のこの世の生涯については、私たちは聖書をとおして知っていますが、その本来のお姿は神の子としての、神の英知として、宇宙に満ちたそういう本来の姿は私たちにはとらえるのは難しい。そういう意味合いがこめられているのだと思います。

 そういうような言(ことば)が人となられた。赤ちゃんとなって馬小屋の中で生まれてくださったのです。そしてこの方によって私たちも大きな恵みを受ける。そういう御方から私たちと同じ人間となってくださり、本当に2000年前に33歳の生涯をおくってくださった。そのことによって私たちとその神様との距離がうんと縮められます。私たちも神様のいのちに与る者としていただいた。
 それはいろいろな意味があります。そのことを今日は思い起こす。この人となってくださった方がいったいどういう御方であるのか。それは少し難しいけれど、御父とともにこの世を創造された方です。この方に私たちは、「恵みの上にさらに恵みを受ける」(ヨハネ1章16節)ことになりますよう、そういうことを教えています。このみ言葉をもう一度読んで、言葉(ことば)というところに「イエス様」を入れて(置き換え)、本来のこの単語では訳しきれない、深い広い意味だということを思いながら、もう一度、ゆっくりと家で読んでいただければと良いと思います。』

2019年12月25日水曜日

主の降誕(夜半のミサ)

主のご降誕おめでとうございます。


7時からの夜半のミサには600名の方がお越しになり、一緒に救い主キリストの誕生をお祝いしました。今年は、森田神父、レイ神父、地主名誉司教の共同司式により、英語ミサとの合同ミサで行われました。


森田神父様のお説教をご紹介します。

『マリア様とヨセフ様はベツレヘムに向かいます。マリア様はもしかしたら(イエス様の)誕生に期待をふくらませながら旅についたかもしれません。しかし、旅先は人がごったがえしていて、宿をとれませんでしたので、とうとう馬小屋になってしまいました。そのときに、現代であればインターネットなどで予約がとれるのですが、一生懸命探したあげくとうとう見つからなかった。神様から頂いた尊い子供をこんなところで産むことになってしまった。ある意味で最悪のパターンとなってしまったと言えます。それでヨゼフを責めたくなったかもしれません。けんかをしていたかもしれませんが、きっと一生懸命やったあとならば、もういいということで、聖母はきっとそういう非難をなさらずに、その運命を受け入れられたなんだと思います。

 今日、天使たちが羊飼いにあらわれて飼い葉桶に寝ている乳飲み子、これが徴(しるし)であるとおっしゃったのです。このように馬小屋の飼い葉桶に寝かせられるようなことは不幸なのではなくて、逆に神様からの徴(しるし)ですよ。ということが天使にも告げられたということです。後からマリア様は羊飼いたちからこの話しを聞くことになります。そしてこれは神の御心だ、永遠の神様のご計画だったことを知ることになります。
 ですから私たちも一生懸命やって、それで駄目であればお互いに責め合うことなく、もしかしたら自分たちが想像していなかった、一般的には最悪と言われることのなかにも、神様の永遠の計らい、お考えがあるかもしれないことを心に留めたいと思います。私たちは一生懸命やっても思い通りにいかない。お互いに責めたくなる。責任的に言えば、悪いことばかりになるかもしれませんが、神様は私たちに自分が一生懸命やったらそれで良い。そして世の中が考えるのがまったく違う。答えも私があなたがたに持ってますよということをおっしゃりたいのだなと思います。イエス様が宮殿の中ではなくこの貧しい馬小屋で生まれたということは、人となってくださったことだけでもありがたいのですが、一般の人や身分の高い人のためにお生まれになったのではなくて、社会から外されてしまった人たちに対してもお生まれになったというメッセージが本当に伝わる気がします。

 この後、イエス様は王様に命をねらわれて エジプトに行くわけですが、難民になるわけです。そういうことを良しとされた。ここは私たちの考えとは違う。そして、だからこそいっそう私たちに近くなった。驚くほど近くなられて、私たちよりももっと下になってくださった。こういうメッセージが馬小屋でお生まれになるという中にも読み取れると思います。イエス様がメシヤだ、私たちが考えて最高の場所ではなくて、この最低の場所に生まれたとういうことは、神様の別な計らいであったかもしれない。私たちはそう考えることができるかもしれません。
 この旅先、馬小屋。一生懸命やったけれども、そこに私たちもそうだと思いますが、
実は私たちが考えていなかった素晴らしい計らいがあるかもしれない。そのことを今日、考えていきたいと思います。』

2019年12月22日日曜日

待降節第4主日

降誕祭を迎えるにあたり、両親であるヨセフとマリアの試練について思いを巡らせてみましょう。

この日は森田神父様のミサ司式でした。


森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音は、イエス様が生まれる前の試練について語られています。
当時も今も、女性が男性なしに子供を宿すということは有り得ないことです。ですから、絶縁しようと思っても、このようなことは本人が説明すればするほど、怪しいと思われてしまいます。聖霊によって身籠ったということをヨゼフであってもどこまで信じられるかわからないですね。

旧約聖書の律法によれば「石打ちの刑」にあたることです。律法的にだけ判断すると、ヨゼフはマリアを石打ちの刑に引き渡してもおかしくはないわけです。しかし、ヨゼフはマリアを石打ちの刑にあわせないために、自分との縁はなかったことにしようと思ったのです。そのようにマリアを救おうと思ったのです。そのような意味で「ヨセフは正しい人であった」し、さらに愛を持って自己犠牲として、自分が引き下がればマリアを救えると、愛のある正しさを示しました。このような意味でもヨゼフはイエスの父親になるに相応しく、認められるような出来事のような気がします。これは神様による試練の一つではないかと思います。そして、天使が現れて「これは聖霊による業なので安心するように」というお告げがあったわけです。

マリアとしても、こんなことは信じられるはずがない、という思いはあったと思います。そこで、神様が為さったことは、後は神様にやっていただこうと考えたのではないでしょうか。私たちにも似たようなこととして、いま自己弁護しても他の人を傷つけてしまうかもしれない、だから今は自分が罪を被るしかない、という場面も往々にしてあるのではないでしょうか。「善を行って苦しむ者は神の御心にかなっている」と聖書にも書いてあるとおり、あとは神様にお任せするしかないと。
神の御心を行えばみんな分かってもらえる、ということだけではなく、善を行いながら、かつ苦しむ、ヨゼフとマリアはイエスを育てる前に、このような試練を受け、神様からも期待されて教えられていたのだと思います。

メシアがこのように登場して世を救うということをどれほど悪魔が嫌うことか、潰そう潰そうという力が働くわけです。イエスが生まれてすぐに、そのことがヘロデ王の耳に入ります。そして捜索の手が入り見つからないとなると、2歳以下のベツレヘムの子供たちを皆殺しにしてしまいました。このような逃げ場のない状況のなか、ヨゼフは夢のお告げを受けて、真夜中に荒れ野を通ってエジプトへと逃れ王の手からメシアを守ったのです。力や有力者をとおして主を守るのではなく、神様への従順によって主は守られる。この力のない両親によってメシアが守られる。ヨゼフの信仰と勇気がイエスを守りました。

他の試練としては、旅先でマリアが産気づいて宿も見つからず、とうとう馬小屋へ案内されたわけです。神様から授かった命を馬小屋で生んでしまうという葛藤もあったかと思います。しかし、後で羊飼いたちが来て、「天使が現れました。そしてこういいました。飼い葉桶に寝かされている幼子、これがしるしであると」それを聞いた時マリアは、飼い葉桶で生まれるということが”しるし”となったということは、これが神様の計画だったのではないか。神様の御心であったのではないかと、マリアは気付き思いめぐらしていたのだと思います。

今日の福音で私たちは、イエス様が誕生の前から、マリア様とヨゼフ様がいろいろな所で試練にあって、そしてイエス様を守り育てていった、ということを思いながら降誕祭を迎えていきたいと思います。』


ミサの後、いつもお世話になっているボーイスカウトへ活動支援献金をお贈りしました。

2019年12月15日日曜日

待降節第3主日

キリストの教えを、私たちはもっと深いところで理解しているでしょうか?

この日のミサは、2ヶ月ぶりに湯澤主任司祭によるミサ司式でした。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『私が学んだ神学校は、教区の神学校と違って、東京の瀬田にあるフランシスコ会の神学校です。学んだ中での教義神学、今は組織神学と言っていますが、公教要理のような難しいものを教える授業があって、ドイツ人の神父様でした。その神父様の部屋にいくと一つの掛軸がかかっているのです。漢字ですが日本語で読むと「鳥啼いて山更に幽なり」という中国の詩人の一節です。今は冬ですが、奥の細道という本があって、ちょうど夏ですね。仙台あたりから山の中を奥羽山脈越えて行くわけです。向こう側に行くと有名な俳句「閑さや岩に染み入る蝉の声」を詠むのですがその前に、山を越える時に似たような言葉が漢詩から引用しているのです。「鳥啼いて山更に幽なり」。ちょうど別な中国の詩人のやはり言葉ですが、啼くか啼かないかの違いですが。全然鳥の声も何もしなくて山の静けさを感じると同時に、鳥が啼くことによって更に山の静けさを感じる。感じることは同じですが。私の教授は中国の北京でも教えていたので中国思想にすごく造詣がある人で、ヨーロッパでは有名な人でしたが、日本ではそうでもなかった。

 なぜこのような話しをしたかと言いますと、今日の福音の中で(洗礼者)ヨハネは
 「来たるべき方はあなたでしょうか。」「メシアはあなたですか。」と聞いているのです。ちょっと不思議な気がしないわけでもないです。イエス様の母のマリア様と(洗礼者)ヨハネの母のエリザベトはすごく親しくて、ヨハネを妊ってマリア様も神の子を妊って会いにいくわけです。お産の準備をするくらいに親しいのに、子供たちはまったく知らないのですネ。
  問題なのはそのキリストの応えです。「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」。その前に見ないと伝えられない。自分のしていることを良く見なさい、と言っているのです。福音書の中で最初にヨハネが弟子たちの二人をイエスに付いて行かせる。「あなたはどこにお住まいですか。」「来て見なさい。」具体的には、ここでイザヤの預言を引用していますが、キリストの行動を見たら来るべき方かどうか分かるはずだと、キリストは言っているわけです。同じように弟子たちもヨハネについての理解に関して、あなたがたは何を見に行ったったのか、見たはずだと言うわけです。

 先ほどの中国の詩人は音の問題だけですが、ここでは「見る」というもっと知るためには重要な感覚です。百聞は一見にしかずですから、身をもってもっと分かるはずなのに、見えてないことをキリストは言っているわけですね。ヨハネさえも。見えていないのかと言っているのです。 
 待降節にこの箇所が読まれる意味を考えたときに、キリストは人となってこられたときに、実際に様々なことを行動を示し行ったわけですが、結局は弟子たちも理解できなかったわけです。ルカの福音書ですが、十字架の場面でこの人たちは何をしているのか分かっていないと言いますが、分かってないのは殺すということではないのです。キリストが教えたメシアの姿が理解できていない。弟子たちもあなたは神の子メシアですとペトロが言っているのですが、しかし理解していない。何も見えていない。音を感じながら静けさを感じとれていない。単に感覚的な静けさでないこと、五感の向こう側があるのですが、それ以降の感覚が届いていないということですね。 
 何を見にいったのか。同じようにヨハネの弟子たちにキリストは語るわけですが、御降誕、キリストが人となって現れて、言葉で説明し、行動で表しにもかかわらず、あなたがたは分かっているのでしょうか、という問いかけです。

  クリスマスを前にして、私たちひとり一人にキリストは問いかけていると理解しても良いと思います。(馬小屋を指して)こういうふうに飾られていますが、これの向こうに皆さんは何を見ていますか。ひとつの余談ですが、まだ神父で若い頃、教会全体でクリスマスに誰を招待し、どういう雰囲気にするのか、毎年考えていました。あるときベテランの信者が「貧しさ」を打ち出しました。その「貧しさ」とは何ですかと聞いたら、馬小屋で生まれたからと言いました。それは貧しさではない。貧しさはもっと見えないところに、キリストの貧しさがあるのです。
 見えるところで目が止まってしまうというのが、私たちの五感で分かる限界です。限界の向こうをキリストは求めているのです。表現したが、表現していないもっと奥のところが分かってますかとキリストは問いかけています。 
 明後日12月17日、クリスマスの8日前から、私たちはキリストの問いかけ…人となって現れてくれたけれど、私たちはその奥を見ていたか、自ら問いかけていきたいと思います。』

2019年12月8日日曜日

待降節第2主日

待降節は、主の誕生の「喜び」を、私たち一人一人がイエス様の心を持って「待つ」期間です。先週に引き続きルカ神父様の司式でした。


ルカ神父様のお説教の一部をご紹介します。

『今日のみ言葉は本当に素晴らしいです。
神様が作り出しだした世界、全ての生き物、人間だけでなく、全ての動物、植物。
獅子と牛が一緒に干し草を食べ、子供がマムシの巣に手を入れる、、、。
第一朗読のイザヤ書(イザヤ 11-1-10)は、平和を現しています。

福音朗読では、「準備」ということについて語られています。
洗礼者ヨハネが言った「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」
それがイエス様です。
待降節は、四旬節とは違って「喜び」です。
一人一人が、イエス様の心を持って、待つということです。
そのような気持ち、心で今日のミサに与りましょう。』


ミサ後には、フランシスコ教皇の来日メッセージやミサ説教を分かち合う集い「ひとつになろう」を行いました。


45名位の方が参加し、桜谷運営委員長の挨拶、4つの場面の動画視聴、分かち合いの内容でした。多くの方から、教皇のお言葉への受け止め、気持ちを新たにして信仰生活をしたいなどのお話が聞けました。

2019年12月1日日曜日

待降節第1主日

待降節を迎えました。
クリスマスツリーと馬小屋の飾りつけをしました。
アドベントクランツのローソクに火が灯りました。
準備は万端です。後は心の準備ですね。

この日のミサは、ルカ神父様の司式でした。


お説教の大要をご紹介します。

『今日の福音はいつ来るか分からないがテーマ。主がいつ来るか分からない。死がいつくるか分からないではない。これは全然違う。信仰を持っていない人が死を迎える。信者が主を迎える。根本的に全然違う。聖フランシスコが「太陽の賛歌」の中で「ようこそ。姉妹なる死。」。なぜなら、あなたをとおして私は主のところ、イエス様のところへ行けるということ。信仰を持っていない人は、死はおしまいと言う。両者は全然違う。信仰からくる喜び、希望。私たちはいつか生まれ、いつか死ぬということではない。すべて神様のご計画の中にり、毎日生活している。主はいつも来られる。ひとり一人の心に訪ねてくださる。待降節は悲しい期間ではない。喜びの時でもある。四週間待つということ。クリスマスツリーも松ですね。エバグリーン、常緑。

 この前のパパ様の東京のミサには、飛行機ではなく新幹線で行った。ずっと楽。本を読んだり、祈りをしたり。隣に座っている人にはいつも声をかける。日本人は控えめ。(日本に来て)52年間、いつも声をかけられるのを待っている。今回は青年でした。
  ミサは素晴らしかった。5万人。残念なことはドーム以上に広い場所がなく、倍以上の人が入れなかったこと。(抽選もれ)教皇の来日は日本にとっては良かったこと。特に命と平和がテーマ。日本ばかりでなく、すべての国へのメッセージでもあった。
 今回はある意味で準備は、教皇様が来られるということで待降節。これからの準備は神のひとり子キリストが人間となられたことを記念するばかりでなく、2000年前の出来事を記念するのではなくて、私たちはいつも典礼を通して、今、今日、今年、キリストが私のために人間となって生まれてくることを記念。

 昨年のある新聞の投書欄。北海道の人。「クリスマス 病院で 教会で」
「クリスマスが近づき、街のイルミネーションがいっそう輝きを増してきました。そんな中、病院でクリスマスを過ごす人もいます。親しいご夫婦の奥様が癌を宣告され、これまで6回の抗がん剤治療を行い、もうすぐ手術を受けられます。ご主人は献身的に寄り添っておられます。看護師さんからは仲が良くて羨ましいと言われるそうです。そんな奥様が一番残念なのは、今年のクリスマスは教会ではなく、病院で過ごすことになりますと言われました。でも、その後に教会の皆さんがお祈りしています、とても心強いですと、笑顔で話されます。クリスマスはすべての人の平和を祈るときでもあるようです。私は、クリスマスイヴの夜は近くの教会に行き、「きよしこの夜」を歌いたいと思います。」

どうぞ皆さん、病んでいる人、貧しい人のため、1年の最後の1ヶ月ですが、みんながイエス様から元気、希望をいただけるよう、心の準備をしていきましょう。』

2019年11月24日日曜日

王であるキリスト

典礼暦では年間最後の主日を迎えています。
今日は「王であるキリスト」の祭日です。
「王であるキリスト」とは、この世の王とは違い、自分を犠牲にして人々を救い、憐れみをもって赦しを与えてくださる方です。



この日の午後、教皇フランシスコの長崎でのミサを、70名の方がカテドラルホールで視聴しました。



佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『 年間の最後の主日にあたる今日、わたしたちは「王であるキリスト」を祝います。
「王」と言われてもピンと来ないかもしれません。 覇権争いの中で「王」という者が現れては消えていきました。 権力をもってその地を統治する者が地上の王であるとすると、イエスはどういう意味で王なのかということが疑問となります。

ルカ福音書では一緒に十字架につけられた犯罪人たちのうちの一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言っています。 マルコやマタイ福音書でも二人の強盗たちが一緒に十字架につけられますが、どちらもイエスをののしったとあります。 回心する犯罪人を登場させるところに、苦しむ救い主とすべての人々に対する神のあわれみを記しているルカの特徴が表れています。
この犯罪人は自分もイエスもこの十字架上で死ぬことはわかってます。 この世での命が終わることが分かっています。 そして、「あなたの御国においでになるときには」と言っていることからイエスの王国が死を越えて実現するということを信じていると考えられます。 そこで「わたしを思い出してください」と願っています。 これはわたしたちの信仰の中心ではないでしょうか。 この犯罪人の姿こそがわたしたちキリストを信じる者の姿なのだということです。

わたしたちはみな各自それぞれ自分の十字架を背負って生きています。 その中でもがき苦しんで生きています。 人生の最後に至るまで「イエスよ、共にいてください」と願うことが大切なことだと今日の福音は教えているのです。
イエスの返事ははっきりしています。 「はっきり言っておく」という言葉をよく目にしますが、これは「この世の人々はこうであると言っているが、わたしは違うとはっきり言っておく」ということです。 みんなはそうは思わないだろうがわたしは次のようにはっきり言うということです。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは断言されました。 楽園とは、神と人とが共に暮らすところであり、人と人とが調和に満ちた世界だと言ってもいいでしょう。 創世記2章に描かれるエデンの園がまさしく楽園です。 エデンの園に神がアダムを連れてきてそこに住まわせ、そこを耕し守るようにされました。 そして女であるエバを一緒に住まわせました。 神と人々が一緒に暮らすところが楽園というわけです。 しかもそこにいるのが「今日」なのです。
「今日あなたはこの世の生を終えるが、すぐにわたしとともに楽園にいる」ということをイエスは言っているのです。 素晴らしい励ましの言葉です。 わたしたちの祈りがどうあればいいのかがここに示されていると思います。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
イエスに願い求めると同時にわたしたちがしなければならないことがあります。 それはその前の言葉です。もう一人の犯罪人が議員たちや兵士たちと同じ言葉を放った後です。
「メシアなら自分自身と我々を救ってみろ。」 この言葉に対して、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」ともう一人の犯罪人は弁護しました。
わたしたちキリスト者が神にゆるしを願うと同時に、神への信仰を証しすることが求められるということを表しています。
王であるキリストとは、自分を犠牲にして人々を救い、あわれみをもってゆるしを与えてくださる方を表しています。 自分を守るために君臨している地上の王とは違うお方です。 この回心した犯罪人のようにイエスを証しし、イエスが共にいてくださるように願いながら、王であるキリストをたたえてこの祭儀を続けてまいりましょう。』

2019年11月17日日曜日

年間第33主日

典礼は先週から「終末主日」と呼ばれる期間に入っています。
終末という言葉には文字通り「終わり」という意味と、「目的地」つまり、神の創造の完成という意味があります。
昨年の待降節から始まった教会暦年がもうすぐ終わります。この一年の神様の恵みを振り返ってみましょう。

この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の聖書と典礼の下の注釈に「イエスの宣教活動の結びにあたる終末についての説教」とあります。 終末というと、いま映画で上映している「ターミネーター:ニュー・フェイト」のような世界を思い浮かべるかもしれません。 また、世界の全面戦争ののちの絶望的な破壊というようなイメージがあります。 確かに今日の福音書に描かれる世界はそのようにも思えます。
「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」 戦争や民族紛争、大地震、飢饉、疫病などは今の時代でも同じく続いています。 だからといってまだ世の終わりが来たということではありません。 キリスト教で言う世の終わりはすべての者が滅びる時ではなく、イエスの再臨の時を言います。

天地の創造があって人間の旅路が始まりました。 神は人間を導いていきました。
ある程度その導きに応えていましたが、姿の見えない神に対して自分たちのやりたいことをするようになり神から離れていきました。 選ばれた民であるイスラエル民族は、そのたびにひどい仕打ちを周りの民族から受けてきました。 神は、イエスを人間の姿で人々の間に住まわせて人々を救おうとしました。 イエスは人々の間で神の国の教えを弟子たちに伝えていきました。 イエスはファリサイ派や律法学者の陰謀によって十字架につけられました。 死んで3日目に復活し弟子たちの間に現れ、死んでも新しい命に生まれ変わることを示されました。 40日目に聖霊の派遣を約束して天に昇っていきました。 50日目に祈っている弟子たちに聖霊が派遣されました。 聖霊の派遣ののち、弟子たちは聖霊に促され大胆にイエス・キリストを証しするようになりました。 わたしたちもこの弟子たちのようにイエス・キリストを証ししています。 聖霊を受けてイエスと共に歩むことになったわたしたちはこの世の中で神の国の実現のために働きます。 そしてイエス・キリストの再臨の時に世が終わり、神の創造が完成するのです。 この創造の完成に向かってわたしたちは生きているのです。

終末という言葉は「終わり」という意味ですが「目的地」という意味もあります。 この世がいつまでもだらだら続くということではなく、必ず目的地である神の創造の完成があるということ、キリストの再臨があるということをわたしたちは信じて生きていくのです。 その目的地に向かってどのように生きていくのかということが問題となるのです。 それは世の終わりだけでなく、個人個人の人生の終わりにも同じように言えるものです。
死が必ず訪れるものだということを意識していると生き方も根本的に変わるのです。
もし死ななかったとしたら、どうでしょう。 死なないなら働かなくてもいいし、朝起きなくてもいいし、食べなくてもいい。 何もしなくても死なないわけですから。 しかしそれは死んだのと同じです。 死が必ず訪れるからこそしっかりと生きるという意識が芽生えます。 今日のパウロの手紙に示されたようにしっかり生きなさいということです。

キリスト教における終末、目的地は「最後の審判」とも呼ばれます。 そのとき神の国が完成します。 最後の審判の前に個人個人の死においても同じように審判が下ります。 聖書にはいわゆる天国と地獄の記述があります。 煉獄の記述は聖書にはありませんが、カトリック教会はそこで神に向かう人は清めを受けると考えています。 天国にすぐ行けるほどの善い人生は送らなかった人、しかし善意はまだ持っている人が行く場所です。 そこで償いをしながら天国に入る準備をすることになります。 その償いはどういうものかというと、自分が地上で他人に与えた苦しみが痛切にわかるということです。 どんなに善良な人でも自分が他人にしてきた仕打ちのひどさが本当にはわかっていないでしょう。 わたしもまったくわかっていないと思います。 煉獄ではそれが身を切るようにわかるのです。 それがはっきりと自分の前に示されることによって心から悔い改めることができるのです。 それと同時にその人は神を求めているわけですから、天国の景色もはっきりと見えていることでしょう。 しかし、悔い改めが終わらないとどうしてもそこに行けないわけです。 どうしてもそこに行きたいというその痛切な思いも煉獄の痛みとなるわけです。 今この世で生きているわたしたちは、煉獄の霊魂のためにも祈っています。 少しでも早く天国に行けるようにと祈ります。 この煉獄の死者への思いはわたしたちの地上の生活を潤いのあるものにします。 わたしたちが祈り、犠牲を払い、よい振る舞いをすることは、わたしたちの愛する死者を早く天国に移す助けになるからです。 亡くなった方々もわたしたちのそのような祈りを聞いて感謝するでしょうし、自分の子や孫が善い人生を送ろうとしているのを見てうれしく思うのではないでしょうか。』

2019年11月10日日曜日

年間第32主日

ルカ 20・27-38

復活を否定しようとモーセ五書を引き合いに出し、言葉尻を捉えようと質問をしたサドカイ派に対して、イエスははっきりと復活を肯定しました。


森田神父様のお説教の一部をご紹介します。

『この日の福音朗読は復活についての問答です。
今回の質問者はサドカイ派の人たちでした。復活を否定するためにモーセ五書を引き合いに出し、イエス様の言葉尻を捉えようと質問をしたのです。
しかし、イエス様は「そんなことではない」と一蹴されます。
サドカイ派の人は、一生懸命知恵を巡らせて律法の知識を動員して、理論を詰めていくわけですが、イエス様の理論とは「格」が違うのでした。イエス様は、彼らと同じ次元で答えるのではなく、ご自分が知っている天の国では人は復活するのだと、復活をはっきりと肯定なさったわけです。
旧約聖書には、復活の箇所ははっきりとは書かれていません。イエス様になって初めて「復活」をはっきりと示されました。
旧約聖書のユダヤ人であれば誰もが知っている「柴」の箇所を挙げて、「神は生きている者の神である。だから、我々は死んでも生きる」と、イエス様はここではっきりと仰っているわけです。

この世で夫であり妻であった契というのは非常に大事なもので、永遠のいのちにあっては、特別な形できっと続くのだと思います。そして同時に、私たちは天の住人の他の全ての人と、大変親しい関わりがあり、お互いにお互いの幸せを望み、相手の幸せがそのまま自分の幸せになると、ある神学者は言っています。ですから、100人の住人がいれば、一人一人の喜びは100人分の喜びである。100万人の天の住人がいれば、一人一人の幸いは100万人幸いになるわけです。神様は、私たちのために考えられないような準備をなさっておられます。

天国から見たこの世については、いろいろな教会の歴史の中で様々な聖人が語っています。
ある人は、「煉獄の霊魂たちは、もし30分だけ地上に戻れるとしたら、多分煉獄は空っぽになるであろう」と言っています。それほど、煉獄から見たこの世というのは、もっと素晴らしい生き方をしていれば良かった、と思うようなところだと思います。

天国は、幸いに包まれ、何の悲しみも不幸もないところだけれど、主イエスが天から世に降りて来られた30年間の功徳ほど素晴らしいものはない。天国にいると、イエス様の地上での功徳や、十字架での業に与ることができない。この世にいる人だけが与ることができる。だから、苦しみに満ちたこの世での短い期間の功徳というものは、天国で得られるものとは比べものにならないほど大きいといわれます。』


ミサの後、秋の大掃除を行いました。
聖堂の床磨きをメインに作業しました。



2019年11月4日月曜日

年間第31主日「ザアカイ」

ザアカイ、急いで降りて来なさい (ルカ19・5より)

この日のみ言葉は、大変感動的なお話です。
周りから罪人と蔑まれ孤独な中にあったザアカイは、そんな自分に愛を示してくれたイエスに出会うことで、救われ、喜び、そして回心したのでした。


この日の森田神父様のお説教をご紹介します。

『背の低い有名なザアカイの話ですが、ご存じのとおり徴税人は嫌われていました。誇り高いユダヤの人々がローマ帝国という大国に支配され、それだけでも面白くない。神に選ばれた選民の意識を持っている人にとっては、それでも耐えがたいことです。仲間がローマに税を払うために税金を集める。ユダヤ人にやらせていました。みんなは国を裏切っていると憎むわけです。同時に徴税人は私腹を肥やす。ポケットにいくつか入れてしまう。ですから、罪人の代表。開き直って生きている人たち。社会からつんぼ桟敷にされ、彼らだけの仲間で生きていたのだと思います。

 ザアカイはその頭ですから、どう思われていたか良く分かります。しかし、イエス様は私は救われる、失われたものを探して救うためにきた。今日の話の中に具体的に現れているのです。木に登っているザアカイを見て、どおしてザアカイをご存じだったか分からないのですが、主はご存じであった。そして、よりによってその人の家に泊まるのです。ザアカイは本当に驚いた。主が自分を知っておられたということと、自分に宿を頼まれた。これはどんな思いか分かりません。そして、一晩イエス様と同じ家に住む。そういう特権を得るのです。ザアカイは半分財産を施します。だまし取っていたら4倍にして返します。素晴らしい心が湧き上がってきました。
  本当に神様はお造りになったもので嫌われるものはない。第一朗読(知恵の書)で言われていたとおりだと思います。神様はご自分がお造りになった人間が、世界で輝いて生きることを願っていらっしゃる。苦しみにうちひしがれた人生は、神様が望んでおられるわけでなく、ひとり一人の幸せに対して創造主として、父親として、彼らが幸せであることに 責任を持っていらっしゃる。感じていらっしゃる。そういうふうにフランシスコ教皇は言われておられます。

  まず、キリスト教では罪人をただただ赦すだけでない。やはり正義というものが満たされなければならない。犯した罪については償いが行わなければ社会の秩序が乱れてしまう。イエス様はそれを自分で全部背負うつもりだったのです。彼らが神の前で犯した大きな罪は、ご自分が十字架の上で苦しんで背負う。こういう気持ちがあったからこそいろんな人に福音のメッセージ、罪人の人にも救いのメッセージを告げることができたのだと思います。ただただ赦しとか、神を愛しているというメッセージだけでなくて、最後に自分が達していようとしていた、成し遂げられようとしていた十字架上の死。これをいつも見据えて、そこからその恵みがすべて流れ出る。罪人の罪を自分で背負うおつもりであった。ここを忘れてはいけないと思います。だからこそ失われたものを探して、救いのおとずれができたと言えると思います。

  また、次に人の心を開くものは何かということをこの箇所は教えてくれます。当時のファリサイ派の人や律法学者の人たちからきっと、このザアカイは罪をなじられたり、いろんなことを言われたりして生きてきたと思います。それで彼らが回心するわけでなく、むしろユダヤ社会から自分たちはつんぼ桟敷にされた。もう戻れない。そういう気持ちのなかで開き直りです。自分たちだけのグループの中で淡々として生きてきた。回心をとても望めなかった人たちか分かりません。イエス様がその家に訪れることによって、ザアカイの堅い心が開かれた。ザアカイの心の中に眠っていた信仰とか、さまざまな善意が目覚めたと、私たちは受け止めることができると思います。暖かいものに包まれたとき、私たちは素晴らしいものが開かれる。そういうことを学ぶことができると思います。人に変わって欲しいと思うとき、人に信仰を持って欲しいと思うときに、いろいろなやり方があると
思いますが、この現代、とりわけ宗教は真理を述べて論破するだけではいけないと思います。一昔論争の時代で、神の存在の証明、カトリックの正しさ、それぞれの宗派で論争していましたが、正しくてもついていけないということがあります。その神様が弱点だらけの私を包んでくださる。家に泊まろうとして声をかけてくださる。私と関わりをもとうとしてくださる。私が全部背負うから私の所に来なさいと言ってくださる。
 こういう神様を知ったら私たちはついていける。どうやったら人の心を開くことができるか。イエス様はきょうそれを見せてくださったような気がします。近づくこととか、敬意を称するとか、自分からその人のもとに行って願うこととか。本当に人の心を開かれる神様だと思います。

   また、三つ目に思いますのは、人が回心するときに、救われる可能性がなければ人は頑張ることができないのではと思います。いくら頑張っても無理だとか、この当時の社会の中で頑張っても認められないとか、ただただ欠点だけ見られて自分の弱さを指摘されたら、社会では信仰を持って頑張ろうと思っても、何か無理ではないかと感じがすると思います。しかし、成功するとか、神の子として神様に受け入れられて生きられる希望とか、罪と打ち勝って勝てるという希望を持つと頑張る気になれる。ザアカイもイエス様も、近づきを見てやっていけそうだ。この人ならついていける、信仰生活をまっとうできそうだと思ったにちがいありません。
 今までのキリスト教の歴史の中でたくさんの罪人、ときには人を殺したり、あるいは多くの人たちを堕落して生きてきた人たちが回心して、本当に聖人の道を歩んだ。そういう例はたくさんあります。日本でも本が出ていますが、元ヤクザだった人が牧師になった。
本当のボスを見つけた。親分を見つけた。私でもいいんだ。彼らが牧師になった後の写真となる前の写真の違いですね。ヤクザ時代の写真と牧師の生き生きとした写真。全然違います。人間ってこうも変われる。本当はこういう素晴らしい人だったんだ。あるいはこういう人もこんなに生き生きと生きることが可能なんだ。それが良く分かるのです。

  イエス様の赦しと近づきと私たちを暖かく包んでくださるその力は、人を一変させる
力があると思います。私たちも悪と戦うときに、最終的には悪い者が勝つのだと、何となく現代に流れている風潮ではないでしょうか。戦う気が起こらない。しかし、最終的には
善が勝つ。善と悪と様々なものが人間の心にあって、社会にも様々な善と悪があって、あるときは善が圧倒してる。しかし、神様にはいくらでも道がある。いろいろな方法がある。
私がこういう者であっても置かれた立場で最善を尽くしていれば、光が見える。そういうふうに信じられれば、私たちは頑張ろうとする。諦めるのではなくて頑張ろうとする。
戦おうとする。それが大事なような気がします。
  ナチスの時代。ドイツの国民は暴力と力に圧倒される。勝つ望みを失っていましたから。コルベ神父様はご自分が作っていた聖母の騎士という機関誌の中で、ポーランド語であったか分かりませんが、圧倒する悪夢の中で神が勝つと言われたのです。最終的にナチスは敗れましたがコルベ神父様自身はアウシュヴィッツの刑務所の中で人の身代わりとなって死んでいった。これも悪の結果かもしれませんが、それが刑務所の中の日常の光となったわけです。そういうまで生きる素晴らしい道がある。後生に語り継げられる素晴らしい道がある。これは後に世の中を照らす。私たちもこういう神様の道がどんなところにも、どんな闇がいっぱいのところにも、何かあることを信じていきたいと思います。

 今日は、徴税人の頭であるザアカイの話を見ながら、本当にこういう罪人を探すために近づいてくださるイエス様を私たちは見つめました。そして、キリスト教はただ赦しだけの甘い宗教であるわけでなく、その赦される罪人の罪を自分で背負って償う。正義をちゃんと全うするものである。イエス様がそれをなさったということ。忘れないようにしたいと思います。  2番目としてお話したのは、人の心に信仰がともる。あるいは人の心を開くものは何か。それは厳しい叱責であるよりも、イエス様のようにその人に愛する、近づく、その人に願う。そういう暖かい神様の慈しみがその人を開く。現代の教会は真偽を主張するだけでなく、多くの人を暖かく包む。その神様の慈しみを述べることが大事だと思います。  3つ目に、私たちは希望がなければ頑張りませんが、希望が見えたときに頑張ろうという気力になる。そして、闇が圧倒するような社会の中にも必ず光があり、その時代、時代その国のいろいろな面白い新たなやり方、信仰の歩み方というものがあり、それは大きな光である。それは神様には何通りも、何十通りでも、ひとり一人に対してそういうものを持っておられることを信じて、私たちも戦うことを諦めずに頑張っていきたいと思います。』

2019年10月27日日曜日

年間第30主日

へりくだる者は高められる (ルカ18・14より)

今日の福音(ルカ18・9-14)は、ファリサイ派と徴税人の二人の祈りを対比させ、祈りの姿勢について教えられています。

この日のミサは、勝谷司教様と佐藤神父様の共同司式でした。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音ではファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りが描かれています。 ファリサイという言葉は分離するという意味の言葉に由来します。 では何から分離するのか。 イエスが現れる 200年くらい前にユダヤはセレウコス朝シリアに支配されました。 この国はユダヤを支配してヘレニズム化政策、つまりギリシャ化の政策を進めました。 ギリシャ化というのは、エルサレムの神殿からいろいろなものを略奪して、異教の神々の偶像にいけにえをささげさせたり、律法を忘れさせ、掟をすべて変えてしまうことをしました。 ヘレニズム化を歓迎したのは上級祭司や土地を持っている人など実権を握る者たちでした。 逆に警戒したのが、下級祭司や農民たちでした。 上級祭司や権力を持つ者はセレウコス側についた方が人々を支配しやすかったので歓迎したのです。 下級祭司や農民は、唯一の神こそが自分たちを守るものであり、ギリシャ化には反対し、律法を厳しく守っていました。 のちに上級祭司はサドカイ派となっていき、下級祭司はファリサイ派となっていきます。 ですからファリサイ派は、初めは弱い者とともに手をたずさえて、自分たちの宗教を守っていこうとする人たちだったのです。
「分離する」というのは、ヘレニズム化とは明確に分離するという意味です。 それは自分たちの律法をしっかり守り、セレウコス朝と対抗しなければならないということから、結 束を守るために必要だったと言えます。 その後マカバイ戦争が起こり、神殿を取り戻したということが聖書のマカバイ記に書かれています。 イエスの時代にもファリサイ派は続いていて、律法を厳格に守るということが続いていました。

さて、イエスの時代にはユダヤはセレウコス朝からローマ帝国に代わって支配されていましたが、宗教に関してはある程度ユダヤ人の自由に任されていました。 ローマ帝国は、税金徴収という仕事のためにユダヤ人の中から徴税人を任命していました。 その仕事でローマから給料をもらっていたと思いますが、それに加えてユダヤ人に手数料を上乗せして徴収することもできたようです。 ユダヤ人でありながらローマ帝国の手伝いをし、さらに上乗せしてユダヤ人から税金以上の金を取る裏切り者と思われていたのです。
この二人、ファリサイ派の人と徴税人の祈りが、神に受け入れられるものかどうかをイエスはたとえで示しているわけです。 ファリサイ派の人の祈りは、「わたしはこのような者でありません」、「わたしはこのような者です」という2つの祈りが入っています。 わたしはこのような者ではありませんというのは、 奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、また、この徴税人のような者でもないことに感謝します。 わたしはこのような者ですというのは、 週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています。 果たして、これは祈りといえるのでしょうか。 この祈りには神の恵みを求めることを感じさせるところが全くありません。 すべて自分の力で達成することができたと言っているだけです。 この祈りを神が聞いて「偉いねえ」とほめてもらえるとでも思っているのでしょうか。
神に心を向けて折っているのではなく、単に自分の行わなかったこと、行うことができたことを言っているだけです。 自分で自分はこんなに出来て偉いのだと思っているだけで、こんな報告は神にとってどうでもいいことです。 言ってみれば当然のことをしただけです。 むしろ、「わたしは当然のことをしただけです、わたしを憐れんでください」というなら神様もこの人を正しいとされたかもしれません。
ファリサイ派の人が本当にしなければならないことは、迫害されていた時代の精神に戻り、律法を守らない人には自ら近づいて行って律法を教え守るよう導くべきです。 そうでない人には近づかずむしろ排除しようとしているように感じます。 遠く離れて立って祈っている徴税人には、ユダヤ人に不正を働かず正しく徴収するよう近づいて行って働きかけるべきでしょう。 ここに出てくるファリサイ派の人は自分が律法を守ってさえいればそれでいいという考えです。 確かに週に二度断食するとか、全収入の十分の一をささげることはいいことには違いありません。 しかし隣人を愛するという心が欠けていましたし、神のあわれみを求める心に欠けていました。
さて、徴税人はどうかというと、ただ自分の罪を悔いて「神様、罪人のわたしを憐れんでください」 と言うだけです。 遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言ったのです。 この徴税人は周りからさげすまれて孤独になったときに、ふと立ち止まって、過去を振り返って、われに返ったのかもしれません。 いろいろな不正によって富を得ていたことによって、苦しんでいる人がいることに気づいたのかもしれません。 これからこの徴税人は人々に取りすぎた分を返すかもしれませんし、不正をしないようになるかもしれません。 神に心を向けて憐れみを求めるという祈りは、そういう行動をとることができることにつながるのです。

わたしたちもどう祈ればいいか分からなかったときには、他人と比較して優越感をもってする祈りをしていたかもしれません。 少なからず、ここに登場するファリサイ派の人のような面があったかもしれません。 しかし、皆さんもこの徴税人のように神に心を向けて、自分の行いを振り返って、素直に神に憐れみを求める祈りもしているでしょう。 他人との比較をしているだけでは、神とのかかわりを妨げてしまうだけでなく、人との関係も断つこ とになります。 周りの人がすべて競争相手という世の中にあって、イエスが教える祈りは大切なものであると思います。
わたしたちも「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」という祈りから始めていきましょう。』

2019年10月20日日曜日

年間第29主日

今日の主日ミサは、フランシスコ会のルカ神父様による司式でした。
北一条教会では2回目の司式となり、自己紹介を交えたお説教でした。


ルカ神父様は、28歳の頃イタリアから来日され、主に道東方面の教会で司牧されていました。山登りが大好きで、最近では体力維持のため藻岩山に通っているそうです。

この日のルカ神父様のお説教の大要をご紹介します。


『札幌は2回目の勤務になります。1回目は1999年から2002年の3年間、片田舎の道東地区から都会である札幌です。札幌に行きなさいと言われたときは、崖から飛び降りるような気持ちだったのです。無事に3年間終わって、また釧路に戻りました。それから9年、また2011年に札幌に来たのです。自分が決めるとか、そこへ行きたいとか、そういう気持ちであれば悩むのはわたしだけですが、そうならないようにと、それは神様のみ旨だと言えば安心できるのです。どんなことが起きても神様のせいです。自分が決めていれば自分のせいです。心の平和を得たいなら、自分の意思ではなくて、神様のみ旨であればと、何回も経験したのです。
  札幌は好きです。山が近いから好きです。山が好きなのです。毎週月曜日に藻岩山に登ります。それが唯一の運動です。慈恵会病院の登山口が一番登りやすい。山頂まで1時間15分程です。森の中に入ると街の音が聞こえなくなり、本当に静かです。この夏は。1回だけでしたが、ウグイスの鳴き声を聞きました。初めて聞きました。降りるのは5分。ロープウェイです。膝に負担がかかるから。
 どうして登るのか。今日の第一朗読で、モーセも丘の頂に登りました。祈るためです。私も登りながらロザリオを唱えます。それと、たくさんの人に会えるのです。朝、早くに登っている人たちは、私が登る頃に降りてきて出会います。ですから立ち話を良くするのです。友達がたくさん出来ました。「お国はどちらですか?」と必ず聞かれます。私は「神の国」から来ていますと言うのです。とにかく福音宣教になるのです。教会の中にいれば誰も来ないです。そこは1時間ちょっとですが、たくさんの人と出会うのです。時々、登るのに2時間になる場合もあるのです。素晴らしい福音宣教の場になるのです。たいてい自然が好きな人は心がきれいです。暗い顔をしていないです。明るい顔です。自然に近づけば近づくほど、神様に近づくのです。神様の業です。
  札幌と石狩の境に大きな病院があります。そこの病院に2ヶ月前に亡くなった小樽教会のSさんがいました。45年ほど前に釧路にもご夫婦で2、3年いました。古い信者さんでご主人は先に天に召されました。熱心な信者で、良く病院にご聖体をもっていきました。前もって連絡するのではないのですが、病室に行くといつもロザリオを手にしていました。そして笑顔でした。4人部屋ですが、入口に立つと「おー神父様」と待ってましたと喜ぶのです。彼女は94歳でした。96歳で亡くなりました。最後まで笑顔を絶やさなかった。祈り、ロザリオで時間をいっぱい生きるために。時間を過ごすためでなく、時間を満たすため。いつも相手は神様です。(4人部屋で)ぼけてる人が多いのですが、相手がいないのです。祈らないのです。挨拶もしない。感情だけ。彼女はめがねをかけないで字の小さい本を読んでいました。今は天国です。
  いろいろ話しましたが、何か糧になれば良いと思います。』

2019年10月13日日曜日

年間第28主日

今日の福音(ルカ17・11-19)は「イエスこそ、メシア ”キリスト”である」という信仰を私たちに改めて教えてくれています。

主日ミサは、湯澤神父様が司式されました。


湯澤神父様の霊名「聖ミカエル」の記念日から2週間も経ってしまいましたが、この日のミサの「派遣の祝福」前に、教会からのお祝いをお贈りしました。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『この日の福音(ルカ17・11-19)は、「イエスはエルサレムへ上る途中」という設定で始ります。これは、十字架へ向かって歩んでいく途中ということを示しており、キリストの死と復活に向けて方向付けられている中での一つの出来事になります。

「重い皮膚病」とは、主にハンセン病を指すわけですが、これは今年、国が政策の誤りを謝罪したことにもなっています。
イスラエル人たちと、私たち日本人は、元々この病気に対する見方が全く異なっていたわけです。同じ人類なのでこの病気はどこにでもあったはずなのですが、日本人はこれを遺伝する病気と捉えたわけです。そのために以後、非常に大きな不幸を生んでいくことになっていきました。1950年代の初めには、アメリカから治療薬が届きこの病気は”治る病気”になり、伝染することもなくなりました。
今から2,30年前に、これらの施設の一つに子供たちを連れて訪問したことが何年か続いたことがありました。そこにいた人たちの言っていた言葉は、「私たちは自由になり、海外旅行でもどこでも行けるようになりましたが、唯一行けないところは自分の家族のところです」というものでした。相変わらず家に帰ると、あそこの家族はこの病気を出した、ということで差別や偏見の目で見られるということになったそうです。このような悲しい話を子供たちの前でもしてくれました。

一方、この病気について、イスラエル人たちは遺伝とは考えませんでした。カビと同じように空気感染する病気だと考えたようです。ですから今日の福音の箇所でも「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま」と書かれているように、家の中では2~3m 人と離れていなければならないし、屋外だと風があるので20~30m 離れるというのが約束になっていたようで、また鈴のような物を身に着けて周りに分かるようにしていたようです。ベンハーという映画でもそのようなシーンがありました。
このように聖書の時代には、このような人たちは隔離されずに日常生活をおくっていたわけです。しかし、ただ単なる病気ではなく、宗教的にも汚れたもの、救われないものとして扱われました。旧約聖書の律法を見るとわかりますが、汚れた者として、”交わり”から排除されたわけです。もし仮に病気が治ったとしたら、司祭の前で治ったことを宣言してもらわないといけないし、いけにえを捧げなければならないというのが、旧約時代の規則になっていました。
そういうわけで、重い皮膚病の人たちは、イエスから20~30m 離れたところから大声で「憐れんでください」と叫んだという状況だったということです。

マルコによる福音の奇跡物語に最初に登場するのが、重い皮膚病に対するキリストの癒しになります。この場面では、キリストは皮膚病の人の所まで”行って”、触れ清めています。もちろん触れることで自分も汚れるわけですが、あえてイエスは汚れた人たちの所に出向いて行って、触れて、そして癒したのでした。ここが、当時の他の宗教家と違うところになります。普通の宗教家、洗礼者ヨハネもそうですが、清さを保つために汚れから避けるように人々から離れているわけですが、キリストは逆に出向いていったわけです。

今日のお話では、そこまでしてはいないのですが、イエスは「(律法に従って)司祭たちのところへ行って、(治った)体を見せなさい」と言われました。そして、彼らは祭司のところへ行く途中で癒されたのですが、その中の一人だけしか、イエスのところへ戻って来ませんでした。このことに対して、イエスは「ほかの9人はどこにいるのか」と言われましたが、これは決して、他の9人の”恩知らず”を非難したわけではなかったのです。
癒された残りの9人も、重い病気が治ったことに対して、神に賛美を捧げることは人間として自然なことです。ですから、この9人も当然、宗教は違っても神を賛美しただろうと考えられます。
しかし、ただ一人戻って来たこのサマリア人が、彼らと違うところはどこかというと、”キリストのところに戻って来た”という点になります。これは、この民が”十字架に向かっている”ということと無関係ではありません。十字架に架かってキリストはメシアとして殺されていくわけです。そして、救いの業を完成させていきます。そのことを念頭に置くと、癒されたことに対して、神に感謝して、いけにえを捧げたりすることは、自然なことかもしれませんが、ただ一つだけ違う点は、その救いが”キリストを通して為される”ということに気付いたかどうかです。
この癒しが、”キリストを通して癒されていった”ということに気付いたのが、このサマリア人一人だけだった、ということです。
どのような人でもこのような癒しを受けると、神に感謝することはごく自然のことだろうと思いますが、本来の救いが”キリストを通して為される”ということに気付く人たちは、そうはいないということです。逆に言うと、キリストこそ私たちの救い主であって、救いを実現される方だと気づくことは、今日の現代社会にあってもキリスト教徒が少ないように、気付く人も少ないわけです。それはとても幸いなことだろうと思います。

そして、他の人に信仰がなかったわけでもないし、それでも救われるわけなのですが、しかし、この救いがキリストを通して実現するという「その信仰こそ、あなたを救う」と言ったこのキリストの言葉は重要なことです。
そして、それはルカが描いているように、彼らの描くメシア像ではなく十字架をとおして示される新しいメシア像です。この”キリストの十字架を通したメシア”=キリストという言葉は大きく意味が変わっていきます。そして、あたかもイエス・キリストといわれるように、”キリスト”はイエスにだけ使われるような言葉となっていくわけです。

この新しい意味での救いの実現は、キリストを通して行われ、そのキリストに対する信仰こそ私たちを救うものである。十字架の上では、もっとはっきり「今日あなたは、わたしとともに楽園にいる」と盗賊に言われたのと同じように。
私たちが、どこに信仰を持って立っているかということが問われます。それを今日の物語は私たちに教えてくれているのではないかと思います。
そのような意味で私たちは、この信仰を強めていかなければならないと思います。
先週の福音は、使徒たちが「信仰を増してください」という言葉で始まりました。
その信仰は、「イエスこそキリストである」という信仰です。
私たちの信仰がどういう信仰であるか再確認していきたいと思います。』

2019年10月7日月曜日

年間第27主日

この日の福音(ルカ17・5-10)でイエスは、信仰を増したいという使徒たちに対し「からし種」一粒ほどの信仰があれば十分だと答えます。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『先週は金持ちとラザロのたとえ話で、その後これが続くわけで、少し唐突な感じがしないわけでもないです。「聖書と典礼」の脚注に『「1日に七回ゆるしなさい」という言葉に続く箇所。ここでもイエスは弟子たちのあるべき姿を教える。』と書いてありますが、ちょっともうひとつ抜けていますが。
 つまづきにならないようにということ。キリストの弟子たちのグループの時代から、教会が始まって今日に至るまで、教会の中の信者がいかに、信者にとってつまづきということが、日常的ということが分かります。そういうつまずきを与えることによって、信徒は教会から消えていく。それについて語っているのです。罪とは何か悪いことをしたわけではなくて、神との関わりを断ち切って、兄弟の交わりを断ち切って、共同体から抜けて行く人たちです。その原因はこのルカ福音書では、同じ信仰の仲間だというわけです。そういうつまずきにならないように。そういう人たちが戻ってくるならば、何回でもいいから迎え入れるようにというのです。そして戻ってくるように働きかけるように言うのです。

 その後に続くのが今日のこの箇所です。使徒たちはその教会の現況にあって、信仰が欲しいと言うわけです。信仰を増してください。そうするとキリストは、ほんのちょっとの信仰があればそれで十分だと言うのです。ひとつのたとえです。からし種と木が海に移る。別に信仰によって木が移るかどうかマジックの問題ではない。からし種という小さな信仰と大きな業と比喩的に極端に比較しているだけ。信仰があれば木が移る、そんな問題ではない。ほんのちょっとの信仰があれば、そういう共同体の中の困難を乗り越えることが出来るということ。そんな中にあって、脚注にあるように弟子のあり方を説明する。これがその次の箇所になっています。

 ごく身近な例をキリストはあげます。ある使用人がいます。普通の豊かな人。ラザロの話に続くのですが。使用人は畑で働く、あるいは羊を飼う。その仕事が終わって帰って来た時に、そこの主人はよくやったねと、食事の給仕をして、ご馳走するかというとそうではない。まず、使用人ですから、私が食事をするから世話をしなさいと言われます。それが終わったら食事をしても良いですよ。普通の情景がここで描かれます。
 その使用人が主人の前で誇るだろうか。感謝してもらうことがあるだろうか。果たすべき仕事を果たしただけにすぎない。別に謙遜を教えているわけではない。道徳の問題ではない。信徒の信仰のあり方のことで、個人的な道徳を語っているわけではない。
 信徒はどうなのかということ。ここだけですと分かりません。分かりやすく話をすると、
30年前くらいヨハネ・パウロ二世が「信徒について」という使徒的書簡を出しました。
その中では、最初に信徒について、次にその2年後に司祭について。その2年後に奉献者についてと3つの使徒的書簡を出しました。信徒についてはキリストに忠実な人 「CHRISTIFIDELES LAICI」という言葉で始まりますが、日本語の訳のタイトルは「信徒の召命と使命」です。
  余談ですが、昨日、北26条教会の運営委員会がありました。六甲学院の吉村信夫教諭を講師に今年2回信徒養成講座がありましたが、その吉村さんを迎えて、この度12日(土)に北26条教会で研修会を行うことになりました。そのタイトルが「固有の召命」
となっています。そこで、何でこのタイトルになったのか質問がありました。そうですね、普通、召命というと司祭とか修道者の召命になるので良く祈ってます。自分に関係ないですね。しかし、それは特殊な例です。司祭とか修道者の召命は本当に一部の特殊な例であるのですね。でも、召命は本来は信徒の召命です。ヨハネ・パウロ二世が出した書簡も信徒の召命がタイトルなのです。そこで、モデルになっている聖書のお話は、マタイ福音書のぶどう畑で働く労働者のたとえなのです。賃金を払う方ではなくて前半のほうですね。
朝6時に主人は広場に行って労働者を集めるのですね。1日1デナリオンでと。労働者たちは主人に呼ばれてぶどう畑で働くために呼ばれたのです。9時にも12時にも、午後3時にも5時にも行って。5時にはなにぶらぶらしているのとその話が続いていきます。信徒はそのように神によって呼ばれて、ぶどう畑で働く使命を受けている。これが召命です。
 
 ですから洗礼を受けた時点で、神から召命を受けて使命をうけるのです。それが畑で働き羊を飼う、その主人によって畑か羊に送られていく。そして使命を果たし帰って来たときに、俺はやったぞと誇れるのか。ただ、言われたことをやっただけだ。それを誇って何が素晴らしいことをやったのだと主人に、そういうもんじゃない。畑で働くか、羊を飼うか、そういうふうにひとり一人の信徒が呼ばれる。洗礼の時に呼ばれる。どの信徒も呼ばれて、その使命を果たして帰ってくる。そのときに、私は使命を果たしただけ、これが信徒のあり方、キリストの教えなんです。謙遜や道徳の教えではない。信仰そのもののあり方が、ここでは問われている。昨日の運営委員会で、そのように信徒はまったく考えていない。講師がどのようにお話するか分かりませんが。しかし、良い機会だと思っているのです。

  この召命というのは本来は信徒なのです。洗礼で使命を受ける。そして派遣される。
北26条教会ではこの前、高校生が3人堅信を受けたのですが、受ける人が自覚しなければならないことです。子供のときに洗礼を受けているが、召命を受けていることも分からない、使命を受けていることも分からない。その勉強をしたわけです。リーダーの方々もいっしょに勉強したわけ。非難をしているわけでないのですが、感覚的に分かっていない。ほかの人、大人の信徒の人も分かっていない。皆さん一緒に堅信を受ける人と同じことを学んでいきましたが、ここではそういうことが言われているんです。共同体の中にあって、いろんな問題があります。その時、信仰さえあれば、そういった信徒たちに対して、信仰のあり方、ひとり一人が神から呼ばれている。そしてひとり一人がが使命を果たしている。果たしたときに、それは言われたことをしただけであって、それ自身、当然誇るべきことではない。キリストはそう言うわけです。

 私たちひとり一人、そこまで到達していないかもしれない。今日そのことを分かって自覚して、それぞれ信徒として神から呼ばれたことの使命を果たして、その場は皆さんの日常生活、特別なこのような教会の場ではありません。日常生活の中で呼ばれている信徒として、その使命を果たしていく。このキリストのあり方、キリストが教えている信徒のあり方、信徒のあり方がわたしたちが出来るようにしていきたいと思います。』

2019年10月3日木曜日

守護の天使(記念日)10月2日(水)

カトリック北一条教会の聖堂名でもある「守護の天使」の記念日のこの日、18時半から森田神父様とレイ神父様の司式によりミサが行われました。


森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『ひとり一人に守護の天使が付けられているというカトリックの教えですが、同時に聖書にも第一朗読、福音書にもこのように書かれて、これも聖書の教えであることがいわれています。また、天使はもともと姿はないですね。羽のついたあの姿は、神々しさとか清らかさを表していますが、実態としては肉体のない霊、貞淑なる霊、人間より優れた霊ですが、日本でも守護霊という言い方がありますが、ちょっと似ているかもしれません。ひとり一人に思ってくれる天使。良い霊、神様からの霊がいらっしゃる。私たちはこのことを感謝したいと思います。
 神様は天使に命じて、ひとり一人を守らせますので、天使が守ってくださっている意味は、同時に神が守ってくださっているということ。そして、毎日の生活の中でいろんな不安や心配があるときに、その場その場で守護の天使に祈る。そういうことをやることも良いと思います。私たちも具体的に毎日いろんな場所で、心配とかあるわけですから。守護の天使そして保護の聖人に祈ることは、とても良いことだと思います。
 また、同時に彼らの天使は天で神様の御前にいらっしゃる。ですから、私たちのことも全部天使が報告してくださるみたいな感じでいます。隠れて私たちが知られずに苦しんでいることや何かがあっても、天使は知っていて神様に報告している。私がどういう苦しみを受けているか、悩みがあったり。報告するときならず、いろんな誘惑やいろんな罠にあたって、守護の天使がいつも戦っている。私たち人間も当然戦いますが、悪の誘惑や攻撃に対して、同じほどの動力をもつ天使がいつも戦って人間を守っている。
 ですから、私たちはその守護を与えられていることを今日、改めて思いながら神様に感謝し、守護の天使に祈り、あるいはより頼むようにしていきたいと思います。』

2019年9月30日月曜日

年間第26主日「金持ちとラザロ」

この日は聖ミカエルの霊名記念日を迎えられた森田神父様の司式によるミサでした。
ミサの中で、森田神父様へ霊名のお祝いをお贈りしました。


森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音(ルカ16・19-31)は「金持ちとラザロ」のお話です。
特に金持ちが悪いことをしたわけではなく、門前にいるラザロを顧みなかったというのがここで問題になったことだと思います。死後の世界では、金持ちと貧しい者の立場が逆転する、そういうことが今日の福音の中ではっきりと書かれているわけです。私たちはこのお話を読んでみながら考えていきたいと思います。

今の日本はだんたんと貧富の差が拡大し、日本にいながらも自分が豊かだと実感がない人がたくさんいるのではないかと思います。それでもまだ世界的にみると恵まれている国ではないかと思います。
私たちも可能な限り今日の話を心に留めて考えていきたいと思います。今大変な思いをしている人たち、自分のことで精いっぱいで人のことを思いやる余裕がない人もいると思いますが、余裕のある人、かなり余裕のある人は、今日の話を心に留めていきたいと思います。そして、貧富の差ばかりでなく、いろいろなことが、例えば、寂しさとか、あるいは自分を認めてもらっていない人、居場所がない人、いろいろな辛い思いをしている人も、たくさんいるのではないでしょうか。
私たちは、大きなことを出来るわけではありませんが、小さなこと、自分の境遇で今できることから始めていきたいし、それを実践している方はたくさんいらっしゃると思います。

教皇様は、移民に対することをお話されています。トランプ大統領の移民を排除するような発言に対して、その発言には、国の治安を守るという理由もあると思いますが、私たちはどうでしょうか?
たくさんの移民がやってくるとなるといろいろ心配はあると思いますが、移民にならざるをえない人たちと苦しみを共にするという気持ちがなければ受け入れることは簡単ではないでしょう。
すでに治安が乱れ崩壊している国の人々を苦しみを一緒に共にしようと迎え入れても、迎え入れた後に何もしないケースが非常に多いようです。迎え入れたはいいけれど、仕事がない、貧富の格差が大きくなり、不安も大きくなります。
しかし、仕事を分け合い、受け入れる側の生活レベルが多少低下しても、皆に仕事が行き渡るように、それでもよい、という気持ちがあれば、治安に関しても悪くならないのではないでしょうか。

私たちは、このような恵まれた時代に生活できているという神様から託された恵みを考えていきたいと思います。先週の福音にもあったように、自分に任されたものに対して忠実でなければ、本当に価値あるものを天国で神様は任せてくれない、とイエス様はおっしゃられました。
私たちは、今こうして平和で豊かな国に生まれました。しかし、今そうでない人たちもいる中で、私たちはその託された恵まれた環境をどう使っていくのか、ということは大事なことかと思います。

現代の国際社会の在り方は、友好関係以前に経済中心で廻っています。お互いに経済的なメリットが重視され、一方的に助けるということが成り立たないのではないかとさえ思います。
しかし、聖書のことばの中に未来があることもあると思います。無償の愛を与えるという選択肢が、知らず知らずのうちに将来素晴らしい希望を呼び寄せていることに繋がることもあるのかもしれません。
私たちは一人一人自分に与えられた立場に立って、社会の価値観だけではなくて、自分の価値観から行動していかなければなりません。
今日の福音にあるように、門前に困っている人がいるのに放置していた、このような状況が世界にあるわけです。それが今後どうなるかということをイエス様は示されています。

環境の問題についても教皇様は発言されています。
とうとう世界中の子供たちが、立ち上がったわけです。
大人にとっては、あと20~30年我慢すればいいのですが、子供は崩壊しつつある世界の中で生きていかなければならない。特に子供は、大人は何を残してくれたんだろうと感じると思います。
スウェーデンの女の子が顔を紅潮させて、怒りを抑えながら演説していました。本来はとてもやさしい子ではないかと思います。地球に対する愛、仲間の子供たちに対する愛、白熊や動物たちへの愛、どんどん崩れていくのを見た時に怒らずにはいられない、やさしい女の子が変わってしまったのかなと、本来大人がやならなければならないことを誰もしなかった、子供たちも思い始めたと、そのように感じました。
本当に子どもを愛する人たちは、環境問題には無関心ではいられないと思います。
環境にやさしい生活をすることが結果的に私たちの体と心を守るようなことに繋がっていくと思います。
環境を大事にしている農家が作るものを優先的に取り入れたり、環境問題に取り組んでいる団体に加盟するとか、応援するとか、そのうように出来ることはいろいろあると思います。

この文明化された時代から後戻りは出来るのか、それは難しいことですが、文明を使って解決できることがあるのかもしれませんし、あるいは生活を簡素化することによってできることもあるのかもしれませんし、目標に到達できるのかどうか分かりませんが、一生懸命にやっていければうれしいと思います。

今は諦めたかのように流れが出来てしまっていますけれど、もう一度立ち止まって、苦しんでいる人を顧みるとか、あるいは環境に関わることの中に、私たち自身の答えがあるのかもしれません。

マタイ25章の「最後の審判」のイエス様のことばの中に、「あたなは貧しい人に食べ物を与えましたか、乾いている人に飲ませましたか、裸の人に着せましたか」という言葉があります。そして、「これらの最も小さい者にしたことは、わたしにしたことです」とおっしゃいました。恐らく私たちはこのことばを実践することによって、自分自身が抱えている問題に対する答えを得ると思います。このような人たちとの関わりの中でいろいろなものが見えてくる、それを振り返ってみるとき大きなヒントがたくさんあったりする。きっとそういう人との関わりの中に、神様の答えがたくさん隠れていると、そのように見てもよいと思います。
私たちは自分自身らしく生きる、自己実現という言葉がありますが、それは自分を中心に考えるのではなく、自分を捨てて、自分よりも人を愛する、最も小さい人を愛する、ということの中に、実は自己実現が隠れている、そこに今まで気付かなかった自分を発見して、本当に素晴らしい生き方へと召されていく、そのようなことが往々にしてあると思います。
今日は、金持ちと貧しいラザロの話を通して、今実際に世界で起こっている状況をこのままではいけないと神様はおっしゃっています。私たちにできる範囲でかまわないので、そういう人に心を配っていく、子供たちのために環境に心を配っていく、その中に実は衰退していく社会に対する大きな答えがあるのかもしれないし、それは将来に分かることなのかもしれません。そして、自分自身を発見し、自分自身の心を開放するいろいろなヒントがそこに隠れているのかもしれません。そのように考えて、今日の福音を大切にしていきたいと思います。』

2019年9月23日月曜日

年間第25主日「不正な管理人」

この日のみことば(ルカ16・1-13)は当時の時代背景を理解していないと非常に難解です。
神から任されている豊かな富の”無駄使い”を戒められているのでしょうか?


勝谷司教様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音書の箇所は一番解説のしづらい箇所です。何の予備知識もなくこの箇所を読むと何をいっているのか、分からないと思います。「不正な管理人のたとえ」と良く言いますが、まず読む前提として、「不正」という言葉の意味を理解しなければなりません。「聖書と典礼」の脚注にも書いてありますが、けっして犯罪のような不正行為を働くのとは違います。むしろ、不正というのは、まず最初の段階で出てきますが、この男が不正を働いたという言葉ではないのです。この管理人は主人の財産を無駄遣いしている。つまり任せられている主人の財産を浪費している、あるいは適切に扱っていない。無駄にしている。そういうようなことで、報告をしなさいと、問い詰められているわけです。これに対して、やめさせられると感じた管理人は、ここに書いてあるような良く分からないようなことをするのです。主人に対して借りのあるものに対して、それを減らしていく。これ自体がまた不正であると考えるならば、不正に不正を重ねていくような印象を与えているようなわけです。しかし、自分が適切に管理をしていないと厳しい目が向けられている中で、さらにまた同様の不正を働くことは考えづらいことです。

 どうもこのたとえばなしの背景には、当時の私たちには今、知られていない常識がある。背景があると考えられます。その一つとして、今日の解説の中で「書き直せ」という意味は、ひょっとしたら律法で禁じられていた利息分を差し引いた分と考えられる。あるいは、このようなことをするとき、当然得られる手数料として管理人が得ていたものを、あえてそれを取らずに 主人に対する利息分を減らしてあげる。そう考えるならば主人に対しては何の不利益を与えない。むしろこの行為は、正当なやり方で貧しい人たち、借りのある人たちを救うということになるわけです。そして、この管理人が意識しているかどうかは分かりませんが、それこそがまさにこの主人の意に適うことである。貧しい人たちからお金を巻き上げて、暴利をつけて貸し付けるやり方はけっして主人のやり方ではなく、また律法の禁じることでもあったわけです。しかし、当時の常識としてはそれが当たり前として行われていたなかで、それを止めるという行為は、むしろ主人の意に適っていたのではないかというひとつの解釈です。

 私たちはこのようなたとえ話を読むとき、細部にわたって辻褄があっているかどうか検証しがちですが、私たちにとって大切なことは、このたとえ話が何を意味しているのか、そのメッセージを受け取ることです。そう考えるならば、ここで言われている不正な富の一部で友達を作れとその一語に尽きるのですが。その不正な富の意味ですね。これもまた今日の解説の中に書いてありますが、不正にまみれた富、直訳は不正なマンモンであるが、さきほど言ったような犯罪や不正な手段で得た富という意味ではなく、この世の富、この世の汚れにまみれた富と言えるのである。これは共通した解釈したようです。

 そう考えていくならば、これは個人的な意味で神に仕えているのか、そうではないのか。というよりも、もっと広い意味で現代社会で生きている私たちは捉えなければならないと思います。神から任されている豊かな富。それを無駄遣いしている。という言葉ですぐ思い浮かぶのは教皇様が「ダウダート・シ」で言っているこの環境。私たちが神様から頂いているこの世界、美しい自然を浪費し、そしてそれを汚している。あるいは、神から与えられている知識を用いて世界を破壊するような兵器を生み出している。それを用いようとしている
  そういうことも今日の福音書のテーマから導き出すことが出来る、むしろ現代的なメッセージではないかと思います。私たちは今日の福音のメッセージを個人に向けられているものであると受け止めるばかりではなく、この世界に生きている私たちひとり一人に問われているあり方。それが今日のメッセージであるというふうに捉える必要もあるのではないでしょうか。』

午後からは、札幌地区の共同墓参が行われました。
白石墓地では、司教と司祭団の司式によりお祈りを捧げました。




2019年9月15日日曜日

年間第24主日「敬老の祝福」

『見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り…… (ルカ15・5-6より)』

今日の聖書のテーマは「罪のゆるし」です。

ミサの中で、明日の「敬老の日」にあわせて、佐藤神父様より「敬老の祝福」をいただきました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の聖書のテーマは「神は罪をゆるすお方」だということです。 それだけではなく、ご自分から離れていった者をも探して呼び戻してくださる方でもあります。

神が望まれることは何かというと、罪びとが生き方を変え、神に立ち帰り神に生きることです。 神は罪びとの滅びを望みません。 神は生きることを望みます。 見失った一匹というのは羊飼いが見失ったのではなく、羊飼いのもとから離れて行ったということです。 それを羊飼いは自ら捜しに行って正しい方向に導くのです。

ドラクメ銀貨を十枚持っている女のたとえが次に描かれています。 ドラクメ銀貨は1枚で一日の日当にあたる額だそうです。 十枚ということは10日分の日当にあたる額です。 決して多くありません。 そのうちの1枚を無くしたというのは、女が自ら無くしたのではなく、女から離れて行ったということです。 それを女は捜して見つけて自分のもとに置くのです。

今日の福音は短い部分が読まれました。 長い部分は省略されています。
省略された部分は3つ目のたとえで、おなじみの「放蕩息子」のたとえです。 羊やドラクメ銀貨と違って放蕩息子は人間ですから心の向きと言うものがよくわかります。 羊やドラクメ銀貨のたとえでは、神の側の目線だけが描かれています。 つまり、神はわたしたち罪びとを正しい生き方に導いてくださる。 そのようにいつも働きかけてくださるということです。

放蕩息子のたとえでは、父の視点だけではなく、息子の視点でも描かれています。 この父には兄と弟がいました。 本来遺産と言うものは亡くなってから相続されるものですが、その前に弟は自分の分をもらって父のもとを離れました。 この弟の考えでは父のもとで働くよりも自分の力で生きて行こうと考えています。 しかし、もらった財産も使い果たし、自分で働こうとある人のところで豚を飼う仕事にありつきました。 が、空腹は満たされませんでした。 ここで弟は「われに返って」言いました。 フランシスコ会訳だと「本心に立ちかえって言った」とあります。 自分の罪を認め、父のもとに帰って罪を告白して、雇人のひとりにしてくださいと言おう、と。 この弟は父のもとでの生活をすでに知っていました。 天の国の宴に相当することを知っていたということです。 だから記憶を呼び戻して立ちかえることができたわけです。

イエスが罪びとを招いて食事をともにしてくださるのは、罪びとがイエスの話を聞いて神に立ちかえったからです。 イエスの呼びかけを何度も聞いて、自分は罪深い人間ですからわたしの罪をゆるしてください、と心の向きを変えたからです。
わたしたちも最初から神の国を知っているわけではありません。
イエスのことばを聞いて少しずつ分かってくるものです。 神がわたしたちを正しい道に導いてくださると信頼するだけではなく、わたしたちが神の愛に気づいて神に立ちかえることも必要なのです。

ゆるしの秘跡というのは神との和解という側面と自分自身の生き方を深める秘跡という側面があります。 罪を告白し赦しをいただき痛悔の心をもってよりよく生きる決心をするのがゆるしの秘跡です。 ここで何が罪だったかとリストアップするよりも、何が自分の信仰生活の中で神から離れてしまうことだったか、あるいは神を忘れさせてしまうことだったかを思い起こすといいと思います。 主に立ちかえり、神に向かって生きる生き方の決意を新たにすることがゆるしの秘跡の大きな意味ですので、信仰を揺るがすものは何だったのかを見つめましょう。

パウロはイエス・キリストの呼びかけによって回心し、自らを罪深い者だと認め悔い改めて、キリストをあかしするものとなりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られました」という言葉が真実であり、そのまま受け入れるに値します、と言っているとおりです。 わたしたちもイエスの呼びかけに耳を傾け、神に立ちかえる恵みを願いましょう。』

2019年9月10日火曜日

9月8日(日)年間第23主日「札幌地区使徒職大会」

藤学園において、札幌地区使徒職大会が開催され、約800名の信徒が集いました。


上杉昌弘神父様が「あなたは誰に信仰をつたえますか」をテーマに講話をされ、教区の家庭の祈りキャンペーンと祈りの小冊子編集を切り口に、松前のキリシタン弾圧や来月の福音宣教特別月間にも触れ、この私にもできることを主イエス、聖霊に委ねようと力強く話されました。


上杉神父様のお説教の大要をご紹介します。
【ルカによる福音 14章25-33節】

『「父・母、兄弟姉妹、さらに自分の命であろうも、これを憎まないなら私の弟子ではあり得ない。」この言葉を皆さん、どのようにお聴きになりましたか。まず、ミサの中で語られる主イエスの言葉は、喜んで聴ける時に、多分、今日のように素直には聴けないときも、私たちの生きる糧だと言われています。今の私に必要なことをご存じで、その私に投げかけられている言葉です。だから、「福音」、「グッドニュース」と、昔から良い知らせと言われています。
 ミサの派遣の祝福の度に、私たちは「元いた生活の場」へと遣わされています。ミサの名をご存じでしょう。ラテン語で一番最後に「行きましょう」と今、訳されていますが、「Ite, missa est.」(イッテ、ミッサ、エッサ) で終わっていました。だから「ミサ」だと言われていました。それは「行きなさい」、「私は遣わす」「行け」という意味でしょう。ミサの後、家であったり、職場であったり、ともかく自分の場所へ帰っていきますが、イエスに従って行こうと思うならば、帰るところは実は家ではなく、自分の安住の馴染んでいる場所でもない。先週の北見紋別教会に集まってくるベトナム人実習生のことを思い返します。日本人が7、8人の小さな教会。日本人たちはこの2、3年、急に元気が出てきました。それは20代前後の若いベトナム人たちが本当に喜び勇んで教会に来るからです。共同祈願も、主の祈りも、日本人たちが一生懸命、ベトナム語で唱和しようと覚えています。切れ目のないように。ちょっと今まねしようと思って。♬…メロディのついたきれいな祈りです。
 ある日曜日、ミサが始まってもベトナム人たちが来ません。だんだん仕事を習得して、職場が日曜日も働けと言っているんだろうと思っていたところ、途中から作業服のまま 6、7人が来ました。ミサが終わると「あぁー、ミサに来れて良かった!。うれしい!。」と言ってまた、仕事に帰って行ったんです。このことを思い出すと、私たちが帰るのは自分の住処ではない。むしろこのイエスの食卓、ミサに帰って来て、ここから出発するのかと思います。イエス様にこの一週間を報告し、聞いてもらって、労苦やすさんだ日々の思い、辛いあるいは明らかな逆境、苦しさの中にも、私たちのそうした十字架をともに担ってくれていたことに気づいて、感謝するために。そして新たな力をいただいて、また派遣されます。主の食卓で慰められ、新しい一週間へと遣わされて行きます。行きなさい。しかし、あなた一人ではないよ。私があなたの内に一緒にいるから。いや、あなたが苦しいと思うその前に、私が先にあなたの手を引いて歩いていくから付いてきなさい、と言われます。
 ミサによって受洗、あるいは堅信の時にいただいた使命、ミッション。ミッションも 「ミッサ」からくる言葉です。この私が主キリストのからだとなって、人々の良き隣人となるように遣わされていきます。使命、守りではなく新しく晴れやかな、ときには晴れがましいとさえ感じられるものへと、私たち自身が「キリストの御からだ、アーメン。」その祈りによって聖変化されていきます。主イエスと出会うことになれる、そうした新しい希望が、穏やかな優しい微笑みとなり、言葉でもなく話でもなく、その声は聞こえないけれども、必ず伝わっていくでしょう。
  私たちは日本の中で1000人に3人といない、カトリック信者です。他の人に先んじて呼ばれたのは自分の知恵と力に頼らず、この弱く貧弱な私たちが、神が心を惹かれて愛された。そのことを信じ、そして伝えるためです。神はこのような小さな者が祝福の源となるように召され、自分も神に捧げることが出来るようにしてくださいました。パンと葡萄酒にこの私たちは自分自身をお捧げします。私が全部行う、私が愛し私が信仰を伝えるのではない。主が働いてくださっていることを常に信頼して、平和の道具としてお使いください。奉納されるパンと葡萄酒に私たちを込めて捧げましょう。

 ここで終われば良い説教ですね……。
 でも、今日の福音に触れていないので、聞きづらい時も、それがまさに福音なのだということを、ちょっと考えてみたいと思います。福音を聴いた後、私たちは「キリストに賛美」と応えました。それが心から言えるために、もう少し塾講していきたいと思います。 身内や自分を憎め。そう言われてちょっと賛成は出来ません。保留赦したい。どういう意味でしょか。そう戸惑いを感じて聴いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。私は今日の福音の説教を準備していて、不平を言いました。福音の言葉には、時々今日のような「えっ」という言葉とか、どう考えたら良いのかという言葉があります。こういう時にこそ、信頼や信仰が試されているように思います。私もそうです。
 み言葉はイエスのほかのすべての言葉から、全体的に思い巡らさないと真意が分からないときがある。マリアも良く思い巡らしていました。「婦人よ。私となんの関わりがあるのか。」とか、母マリアがそこにいることを知っていながら、「私の母とはだれか。」などの言葉をマリア様も聴くわけです。私たちにとって、合点のいかない言葉に接した時も、イエス様に背を向けるのではなく、一歩前に出て「主よ、おっしゃってください。何を言われているのですか。」と、虚心坦懐にたずねてみたいと思います。

 今日のみ言葉を私はこういうふうに考えました。イエス様は大勢が集まる今日の使徒職大会のミサ。しかも受け継いだ信仰を喜んで伝えましょう。それをテーマにしているのに、今日の福音はちょっと受け入れづらい言葉ではないでしょうか。確か「十戒」では父、母を敬いなさいとありますし、自分のように人を愛せと言われてもいるので、父、母、家族、自分を憎まなくても良いのではないでしょうか。極端に聞こえます。もう少し聞きやすく柔らかな表現であっても良いと思います。
 たてつきました。そのとき、主をいさめている自分に気づいたのです。同時に、ペテロに対するイエス様の言葉。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことは思わず、人のことを考えている。」その言葉を思いだしました。それで謙虚にもう一度、注解書を紐解いて、イエスの言葉は「セム語族の特徴をもった言葉」です。神と富とに仕えることは出来ない。二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、云々。そういう言葉ではある意味で、普通だったら日本人は「お父さんとお母さんどっちが好き?」と子供に聞くことがありますね。子供は困った顔をしてすぐには言えない。普通そう聞くときにはヘブライ語では「お父さんとお母さんどっちを愛す?どっちを憎む?」と聞くのかもしれないと思いました。今日の「聖書と典礼」の脚注には、「より少なく愛すこと」と訳が書かれてありました。比較級が乏しく、そうした婉曲な言い回しなしに、白黒をはっきりとさせる表現なのかもしれません。神への愛と人への愛、どちらを先におこすべきかをキリストは今日尋ねたのでしょう。
 福音では、ガリラヤで多くの人がイエスについてきて、恵み深い言葉や奇跡のしるしを求めてついてきている場面です。神からのいわば御利益を求めて、それぞれが勝手な期待を描いてついてきていますが、イエスは彼らに対してその自分本位の思惑から神のみ心に求めるように転じること。神が与えたメシアである主キリストを信じ、その弟子となって従っていくように招く場面です。主イエスの弟子とは、十字架のうちに、友のために命を与えるほど大きな愛はない。それを行ってください、いや、神の愛を目撃し証しするものです。
  主は今日、皆さんに対し札幌地区9千人の中の選ばれた8百人。皆さんに最後まで従っていきなさい。私の死を見届けそこに愛を見いだし、復活の勝利を証しする弟子を必要とされています。イエスに興味をもって、ついてきた大勢の人へのチャレンジ、挑戦でもあります。誰を第一に愛すべきなのか、すなわち私たちにとって、最も大切で後回しにしてはいけないこととは何か。それを今日、問いかけられています。
  家族や身内を優先するのは自然の感情ですが、愛についてのキリストの言葉をもう一度思い起こして考えてみます。自分を愛してくれた人を愛したからといって何の良いことがあろうか。また、「私が愛を行う隣人とはだれのことですか」とイエスに問う学者に話された善きサマリア人のたとえ。誰がこの傷ついた方の隣人となったか。たとえ一番愛したい家族や自分であっても、私たちはその人の寿命を延ばすことは出来ない。真の幸せを望んでも、私が与えることが出来ない。それを謙虚に認めるならば、まず私の心が離れないでいる人を神に委ねることが大切であることを知ります。委ねて、その人の真の隣人となることを願っていきたい。あなたが愛するのに必要なものを与えられる神に立ちかえり、必要なことをご存じの主に求めなさいと言われていると思います。
 憎しみではなく、憎む。すなわち重要で優先すべきことは何であるかを知り、委ねること。ひょっとしたら私たちの愛に潜む執着や自分の幸いを優先しているならば、それに気づいて清め、そこから離れて第一に尊とむべきものを求めるようにと、今日もはっきり話してくださいました。愛する方を主と神様に任せよう。そして、あなたは私についてきなさい。私たちを今日、弟子として呼んでくれていることを受け入れ、感謝したいと思います。やはり、キリストに賛美、福音ではないでしょうか。

 今回のテーマ。信仰を伝えること。これは教勢の拡大ではありません。何よりも私は父の「み旨」を果たすために来た。ひとり残らず神の子として生まれたものを神のもとにお連れすることだ。イエスが行っているその「み旨」を今日私たちが求めるならば、私に出来ることを差し出された時、「アーメン。そうでありますように。」と、喜んで祈り応えていきたいと思います。』


2019年9月1日日曜日

年間第22主日 チャリティバザー「かてどらる祭」

この日はチャリティバザー「かてどらる祭」が行われました。

主日ミサは英語ミサと合同で行われ、湯澤神父様とレイ神父様が司式されました。
福音朗読とお説教は、両神父様がそれぞれ日本語と英語で交互に行いました。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『いろいろなたとえが出てきます。
 まず食事に招かれたこの食事。婚宴の宴会、それから昼食、夕食の会。どれも食事ですが、いわゆる食事と言うのと、世の終わりの完成された交わり、キリストもその結婚式の宴会にたとえて言うように、それも食事、宴会。ふたつのこの世の普通の食事とこの世の終わりの完成された食事、宴会、天の国です。それがふたつ話題にされているわけですね。 それと同時にもう一つは、普通、昼食や夕食会を催すときに、友人とか兄弟とか親しい人を呼ぶわけで、まったく知らない恵まれない人、貧しい人を呼ぶことはまずない、常識的にない。そういう人ばっかり呼んだら、いわゆる食事にはならない。
 これも二つの意味があります。私たちが普通に常識的に宴会や食事をするとき、それは普通の常識的な食事で、それは礼儀の世界です。挨拶をしたら挨拶を返させる。何か贈ったら似たような物を贈り返す。それが礼儀の世界ですが、もう一つはそれが出来ない。食事の世界ですね。この施すときに、お返しが出来ない。これは別な関係、恵みの関係です。親しい人と食事をする、これは日常の礼儀の世界ですが。
 もう一つは恵みの世界。いろいろな時も、恵まれる時も、そこには何をお返ししても匹敵するような お返しが出来ないから。私たちはこの二つの世界に常に住んでいるということです。例えば、善きサマリア人のたとえに出てきますが、隣人を自分と同じように愛するという常識の世界に、しかしもう一つは、この怪我人を助ける生活。これは恩恵の世界です。私たちはこの両方の次元を持っていることを忘れてはならないと思います。また、その識別、どちらの世界に立つか、それも知っているはずです。
 そういう恩恵の世界に自分が立たされたとき、相応しくあるべきでしょうし、そうでないときには常識的に、相応しくあるべきでしょう。その識別と同時に、その相応しさを常に相応しくなることが出来るようにしていかなければならないと思います。』

ミサ後に行われたバザーは、お天気にも恵まれたくさんの人で賑わいました。
「聖園こどもの家」のお子様たちと先生、ご父兄の皆さまをはじめ、外国人信徒のご家族連れの方々も多数訪れ、楽しんでおられたようです。



2019年8月28日水曜日

8月25日(日)年間第21主日

「狭い戸口から入るように努めなさい」と、わたしたちは神の意志に適う在り方を求められています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『有名な「狭い戸口から入るように努めなさい」という今日のみことばです。一方で、「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と寛大なみことばがあるわけですが、ここでは救いがないような非常に厳しいみことばになっているわけです。ただ、このことばが、どういう状況のなかで発せられたかということは重要なことです。最初の箇所にあるように、「イエスはエルサレムに向かって進んでおられた」ということで、この旅の先には困難が待ち受けているわけですが、力強くそこに向かっていたのです。そのような状況のなかで、イエスは受難の予告をしています。同時にそれに伴って、弟子はどう在ったらよいのか、ということを教え始めるわけです。
キリストは、「自分の十字架を担って従うように」、また、「仕えられるためではなく仕えるために来た」と言い、キリスト自身の在り方と弟子たちの在り方が重なって来るわけです。つまり弟子たちに自分と同じような在り方を求めて、そういう状況のなかで、このことばが使われているということです。
そして、入れない者に向かって言うことばは、すごく重要なことばですが、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。この「不義を行う」というのは「正しくない」という意味になります。”正しい”在り方というのは、道徳的な在り方だとか、立派であるとか、そういうことではなくて、弟子の在り方、つまり神の意志に沿っているかということです。
別なところでキリストは、自分たちのグループの条件として、「神の意志を聞いてそれを行う」というように言っています。また全く話は違うところですが、この福音の持っている厳しさも同時に語っているわけです。
キリスト自身が福音であるわけですが、それを前にした時に誰でも、聖母マリアでさえも選択が迫られる、曖昧にしたままではいられない、「神を受け入れるか、受け入れないか」ということを求められています。
キリストに従う者たちは、神の意志を知ってそれを行う、そこに「正しさ」というものがあるわけです。そこには同時に「狭い」という意味があります。決して救いを制限するとかそういう意味ではありません。このように、キリストに従う者は、「狭い戸口」から入るわけですが、その条件は「神の意志に沿った生き方をしているか」ということです。
洗礼を受ける者は神からこのように言われます。「わたしの愛する者、心に適う者」と。
キリストが言われたように、私たちも一人一人、全能の父からそう言われていたのです。そう言われているとしたならば、この全能の父の意志に適う在り方をしていかなければならない。それがこの「正しさ」ということです。
私たちは、このキリストが求めていることを常に忘れてはならない、それが私たちのアイデンティティだからです。そういう意味で、私たちはキリストの言う「正しさ」そういう在り方を求めていかなければなりません。』

2019年8月18日日曜日

年間第20主日

ルカによる福音書 12章49~53節
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」と言うイエスの厳しいことばは、福音を選ぶのか選ばないのかを私たちに問いかけています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『8月6日の広島原爆投下の日から先週15日の終戦記念日まで平和旬間として、平和を祈りました。平和を祈ったのに、キリストは「平和をもたらすために来た」と思わないでくれと言っています。分裂をもたらすためだ。何かどっちを選んだら良いのか分からない感じですが、そういう次元とは違う話です。先週、「目を覚ましていなさい。」という言葉でしたが、盗人はいつくるか分からないから、信仰を意識しているようにという福音でした。
  今日の福音はそれと少し関連しています。ですから、そういう文脈で読まないと、キリストは分裂のために来たのだということになってしまう。ほかのところでは「私は平和をあなたがたに与える。」と言っています。ここでは平和ではないと言っているのですから。それぞれ言っていることが少し違うわけです。いわば福音というものが持っている、ひとつの性格です。どうしても決断をせまられるという性格。優柔不断であることは許されない。ルカは誕生物語の中で、シメオンがマリアに向かって言うわけです。あなたの心を剣で刺し貫かれるというわけです。けっして十字架のそばにいるだろうと言っているわけではない。福音が持っている、あるいはイエス・キリストの存在が持っているひとつの性格。あるいはその前のザカリアの子供の洗礼者ヨハネもそうです。その福音を告げる者、告げられる者にとって、それはひとつの選択を迫られるので、そこで優柔不断な判断は出来ないということ。剣で刺し貫かれるということは、白か黒かはっきりさせられる。マリアでさえも決断を迫られるということ。時間の経過からするとマリアはすでに決断している。その言葉を聞くときには決断しているわけです。福音を受け入れるか、受け入れないか、キリストはイスラエルの○○○のところにしるしとなっている。どちらも福音にあったものに決断しなければならない。選ぶか選ばないか、応えるか応えないか、どちらかひとつです。そこには応える者と応えない者が出てくるわけで、それがひとつのたとえになって、一家に五人の人がいるならば、二人と三人が別れる、その後にミカの預言を引用しているわけです。

 けっして福音が不和をもたらしているわけではないのですが、もたらすためのものではなくて、必ずどれかを福音を選ぶか選ばないか 決断を迫られてどっちかを選択しなければならない。どちらでもいいというわけにはいかない。しかし現実はそこまでは厳しいものではなくて、けっこう現代の私たちは信仰生活、それといって生命に関わるわけではないので、状況がそういうことではないので、けっこう優柔不断に曖昧に、さしあたって適当にというわけでおくっている。
  そうだからといって、だから何も問題ないわけです。たしかに主人は帰ってくるだろう。さしあたって今ではないだろうという感覚。これはけっして信仰だけでなくて、たとえばシステムにたいしてもそのように扱っている。たしかに人間はいつかは死ぬ。でも今ではない、自分ではない。だからのんびりと生きていられるわけで、もしそういうことが迫られたら急いで帰って掃除をしなければならない。信仰もおそらく我々は、信じたからと言って厳しい状況に生きるわけでないので、まあ次の日曜日は休むかという感じです。はたしてそれで良いのかというのがこのキリストの問いかけです
 必ず福音はどちらかを選択させられている。いい加減ではいられない。主人が帰って来たら終わりということ。そういう意味でどれだけ本当の信仰に生きている人がいるとしたらというふうに、彼は願っていたわけです。おそらくキリストが登場したこの時代の2000年前の社会も似たような社会であったかもしれない。いつもそうなのかもしれない。
おそらくキリストはこういうような現実を見て、ため息みたいな言葉を言っているわけです。マタイとルカは同じ言葉を残していますが、マタイは……という反疑問。

  いずれにしても、私たちにこの言葉が向けられている言葉としてとらえなければならないないのですが、私たちはさしあたって先延ばしをしているか、注意したり注意されたりしてるかもしれない。この信仰に関しては、さしあたって先延ばしは出来ないことだが、現実はけっこう先延ばし出来るので、適当に済ましている。しかし、いざとなるとどちらかを選択しなければならないそのときがあるのです。それはけっこう日常の中であるかもしれない。しかし、けが人を横目で見て、脇を通ったレビ人、祭司と同じように、さしあたって私ではなくて別な人がいる。そんな感じで通っているかもしれない。信仰生活を少し反省していきたいと思います。』

御ミサの後、カテドラルホールで8月15日『聖母の被昇天』の祝賀会が行われました。
湯澤神父様(主任司祭)とレイ神父様(助任司祭)も参加されました。


レイ神父様は、まだ苦手な日本語でご挨拶されました。



2019年8月17日土曜日

8月15日(木)聖母の被昇天・平和祈願ミサ

8月15日(木)18時から、勝谷司教と司祭8名の共同司式により平和祈願ミサが行われました。ミサには約200名の信徒が参加し、平和を願いお祈りを捧げました。ミサの後、小雨の降る中、大通り公園まで平和行進が行われました。


勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
【聖書朗読箇所】マタイ福音書 第5章1~10節


『私は司祭になった時、自分の考えていることを、相手に正しく伝えることの難しさを感じさせられたことがすぐにありました。初ミサで、そこで説教をしました。ミサが終わった後の懇親会の終わり頃、「神父さん、今日の説教はとても素晴らしかったです。」と、褒めてくださる人がおられました。神父さんがそうおっしゃたことは私の救いになりましたと。でも、私はそのように言ったことは覚えがないのです。全然違うことを言ったのですが、そのように聖霊が働き受けとめたのだろうと、そのときは黙っていました。
  似たようなことがある教会でありました。(内容省略)
 そのときに司祭の説教であっても、人は自分の聞きたいようにしか聞かないし、受け取れないのだと痛感しました。これは最近、司教になってからもいろいろな雑誌やカトリック新聞からも取材があるのですが、載せる前に必ずチェックをします。さすがに記者ですから、こちらの伝えたいことをかなり正確にとらえているのですが、それでも微妙なニュアンスが違うことで、訂正を行うことが必ずあります。ここで言いたいのは、人々はいろんな情報があるとしても、自分が受け止りたいようにフィルターにかけて、その情報を受け取っているということです。

 そして、その問題は現代社会においてはより深刻になっています。私たちの出会う情報量が極めて多いわけですし、それが自分にとって正しい情報を選び出すことが非常に難しくなっています。今、ネットの世界では多くの専門家が指摘しているように、特に保守的な考え方をする人とリベラルな考え方をする人たちは、ホームページなり自分がアクセスする情報は、自分の思いを満足させる、そういう情報に偏っている。どんどんそれが偏っていく結果、あのテロリストのような過激な思想を持つにまで至る。自分でその情報を選んで受け取ろうとしているわけではなくて、自分の中にはそういう思想性がいつか選ぶ情報を自分の中でより分けて、そしてどんどん偏った世界にいく傾向にある。これは私たちが陥りやすい現代の大きな誘惑であり罠だと思います。
 しかし、同時に私たちがそのような傾向を持っているのとは別に、私たちに敢えて誤った考え方をするように操作させる情報もあります。偏った情報で一方の意見や情報しか流さない、あるいは今、世界中で問題になっているフェイクニュース。わざと誤った情報を流して印象を操作する。そのようなことが溢れている中で  私たちは正しい情報を受け散るということを意識的にチェックすることをしなければ、どんどんそのようなものに流され、悪い言い方をするならば、洗脳されている。そういう危険性をある社会に生きていると言わざるを得ないと思います。

  最近、日本の司教団はハンセン病患者の人たちに、あるいは亡くなられた元患者の家族に対して謝罪声明を出しました。これは久しぶりに全司教が一致して出す司教団声明です。
ちょうどそれが、あのハンセン病患者の家族に政府が控訴を断念した、判決確定と重なったのですが、それはたまたまだったのです。その半年以上前から謝罪声明を出さなければならないということで、社会司教委員会で原案を練り、何回も委員や司教の中でやりとりが行われていました。
 ここで非常に難しかったのは、どうして謝罪する必要があるのかという意見です。すなわち、日本のカトリック教会はハンセン病患者のために献身的に努力してきました。いろいろな施設を作り、患者の人たちがここは地上の天国だと思えるような世界を作りたいと、本当に生涯かけて献身的に奉仕した方々もおられました。そういう人たちの行為が間違っていたとか、それらを無にするような、そういう謝罪声明であってはならない、いろんな方面から出されていました。しかし、私たちが良かれと思ってやっていたことが、結果としてあの政府の隔離政策と極めて深刻な人権侵害といわれるものを見過ごしてきたことになるのです。それをどのように謝罪声明に入れるのか、非常に実は苦労しました。
  出された文言の中で一点だけお話します。謝罪声明は「わたしたちカトリック教会は」
ではなく、「私たちカトリック司教団は」ということで主語はすべて、謝罪する主語はすべて司教団としました。教会の指導者である司教団が間違っていた。しかし、その中で形式的に働いておられた人とたちは、その政府の国策に結果的に協力してしまった責任を負わせるものではない。また、負わせることは出来ない。その背景は当時の社会の常識です。   あのハンセン病患者の人たちは隔離されてしまう。当然だということがだれも疑問に感じず、その政府の政策にすべての国民が協力していたわけです。何もそこに疑問を感じていなかった。確かにぞ隔離政策は必要ないという専門家の意見やカトリック教会の中でもそのような人たちがいました。それはごくごく少数でした。あの時代の流れ、雰囲気の中にあって、それに異を唱えるなどということは発想すら起こってこないような状況でした。しかし、これはハンセン病に対する私たちが誤った取り組みをしていたことに限らず、同じことが戦前の雰囲気と言えますし、そして今日本の社会を包み込んでいる空気がいつのまにか、法律などでそういうことが駄目だと言うのではなく、国の空気全体がそうでなければならない。そこから外れた考えを知るものは攻撃され排斥されていく。そういうような得たいのしれない空気のようなものが出来上がってきているのではないかと危険性を感じています。そして、これこそがむしろ明白なおかしな法律だとか、おかしな政策だとかと糾弾するよりも、いつのまのか私たちの足下から私たちの心を食い尽くそうとする、恐ろしいウイルスの存在だと思います。
  そして、現代社会はそのようなものに満ちているのです。危機的状況、戦争とかあるいはそれに至るような私たちの自由が制限されるような、弾圧されるような社会は突然やってくるようなわけではありません。知らないうちに、いつのまにかそうなっていたというのが戦前や日本に限らずドイツもそうでした。民主的な社会だと思い込んでいた、そのしくみの中できちんと営まれていたと思った社会が、まったく違うものに変わってしまっていた。私たちは経験しているわけです。ですから私たちは今、それを見極めることの重要性。それが問われているのだと思います。

  2016年にバチカンで行われた非暴力と正義と平和の会議において、先日シスター弘田も来て南スーダンの司教の話をしていました。非常に印象的な話でした。南スーダンで二つの勢力が対立し内線状態だったとき、唯一、双方の意見を聞くことが出来るのは、信頼されていた司教でした。どうしたら双方の仲介が出来るのですかという質問に対して、非常に抽象的に「愛する。」と答えられたのです。愛するのは分かるが具体的にはといろいろ言ってましたが、特に印象的だったのは、敵対する者に対するリスペクト、相手に対する尊敬の念がなければ絶対に和解というものは成立しない。そして、相手を尊敬、尊重するという態度とともに、現れる態度は聞くことです。相手の意見は自分とは違う、異なる、まったく異なる正反対の価値観を持っていたとしても、まず聞いて受け止める。それは時間がかかるけれど徹底することによって、和解の糸口が見えてくるのだと。それが具体的に政治的レベルの愛することの意味だと、そうおっしゃっていたのが印象的でした。果たして今、日本が抱えている様々な多くの問題の中で、特に敵対する考え方や自分たちと相いれない人たちに対して  相手をリスペクトして主張に耳を傾けることから和解をしようとする努力をなされているのか、これが非常に疑問なところであります。

 実は、昨日、今日の日付(8月15日)で「韓国と日本の和解に向けての会長談話」を正義と平和協議会会長のメッセージをとして日本語と韓国後で出しました。今回は背景となる解説が非常に多く7ページにもなりました。その締めくくりに引用した祈りが、今日の皆さんのしおりの中にある「第52回『世界広報の日』の教皇メッセージより」というものです。これは昨年5月の世界広報の日に、アッシジのフランシスコの平和の祈りを題材にしながら教皇様が祈りとして載せられていたものです。
 これを祈りとして、最後に皆さんと読んで、終わりたいと思います。

『主よ
 わたしたちをあなたの平和の道具にしてください。
 交わりをはぐくまないコミュニケーションに潜む悪に気づかせ、
 わたしたちの判断から毒を取り除き、兄弟姉妹として
 他の人のことを話せるよう助けてください。
 あなたは誠実で信頼できるかたです。
 わたしたちのことばを、この世の善の種にしてください。
 騒音のあるところで、耳を傾け、 混乱のあるところで、調和を促し、
 あいまいさには、明確さを、
 排斥には、分かち合いを、
 扇情主義には、冷静さをもたらすものとしてください。
 深みのないところに、真の問いかけをし、
 先入観のあるところに、信頼を呼び起こし、
 敵意のあるところに、敬意を、
 嘘のあるところに、真理をもたらすことができますように。
 アーメン。』
(日韓政府関係の和解に向けて 8.15「日本カトリック正義と平和協議会 会長」
 談話より)』

2019年8月11日日曜日

年間第19主日

この日の主日ミサは、勝谷司教と韓国から訪問中の金山椿(キム・サンチュン)司祭の共同司式でした。


キム神父様はイエズス会所属で、現在、ソウルの西江大学(ソガン大学)哲学科で教鞭をとっておられるそうです。
キム神父様のお説教では、日韓関係が悪化している状況のなか「カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。」というお話がありました。

キム神父様のお説教の大要をご紹介します。

『このような素晴らしいカテドラルで司教様と一緒にミサを捧げられ、そしてお説教までやらせていただきとてもうれしい気持ちです。

今日の第2朗読「ヘブライ人への手紙」に書かれているように、アブラハムは行き先も知らずに出発しました。私も26歳の時、イエズス会がどんなところかわからずに入会して、もう35年が経ちました。また、この札幌教区がどんなところか分からないのに、お盆に実家に帰省する人のように毎年、20年間くらい夏休みに訪れています。昨年、司祭に叙階して25周年を迎え、年も60歳で還暦になっています。昨年本を出しました。タイトルは「私をこえてあなたのうちに」という本でした。このタイトルはアウグスティヌスの「告白録」に書かれている言葉です。告白録の最後には結論として「私をこえて、ここであなたを見つけるでしょう」と書かれています。

神様はいつも働いています。ヨハネ5・17に「わたしの父は、今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」とあります。
イエス様は何の仕事をなさっているのでしょうか? それは、コリント2・5-18に、「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」とあります。イエス様の仕事というのは、人類と神様を和解させること。その和解させるその任務を私たちにも下さったので、私たちもいつも働くということです。
最近、日韓関係が悪化していますが、カトリック教会だけでも和解の任務を果たさなければならないと思います。そういう面で司教様には深く感謝いたします。

人生の中で大切なのは、私たちが何をしたかではなく、それを愛を持ってしたかどうか、ということです。愛を持ってしなかったことは、全て徒労に過ぎません。しかし、愛を持ってしたことは、少なくともその愛は永遠に残ります。例えば何年か前に東京で、韓国の留学生が線路に落ちた酔客を助けようとして命を落としたことがあります。その学生の行為は永遠にその場所に残ると思います。

ある哲学者は「人間が人間に与える一番大きなプレゼントは、対価を求めない純粋な奉仕、その思いである」と言っています。
母親は、何の対価を求めずに自分の子供に奉仕します。
イエス様も同じです。私たちの罪のために、この世のすべての罪を愛を持って贖ってくださいました。そこに愛がなければ何の意味もないただの徒労に過ぎません。
芥川賞をもらった又吉さんの「火花」という小説には、このような言葉があります。「そういう君だけが作れる笑いがある」。私たち信者にも、「私たちだけが行うことができる愛がある」と思います。
日野原重明さんという皆さんもご存知のお医者さんがいます。100歳を超えても現役で頑張っておられました。彼は1970年に「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれました。彼はその事件があってから、自分に言います。「私の命は残っている時間の中にある」ということでした。その大切な時間を、「子供のころは自分のために使うのですが、大人にあっては他人のために使わなければなりません。」と彼は語っていました。他人のために使う時間が多ければ多いほど、天国は近づいてくるということです。

人生は何よりも愛を学ぶ学校でもあります。
この世は、「愛」の小学校だと思います。この世に私たちが送られてきたのは、この「愛」を学ぶためです。修道院のような所は「愛」の中学校か高校ではないかと思います。「愛」の大学とはどこでしょうか?それは、私たちに本当の愛は何かということを教えてくれるところだと思います。これは、マタイ25章に出ています。「牢にいるときに訪ねてくれた」。多分、「愛」の大学は刑務所じゃないかというような気がします。「病気のときに見舞いに来てくれました」、病院も「愛」の大学という気がします。
この世には愛の大学はあちこちにたくさんあるのではと思います。ここを卒業したら天国に直接行けるのではないでしょうか。

私たちのふるい命は、この地上でなくなります。しかし新しい命、それはキリストとともに神の中に託されます。』



2019年8月4日日曜日

年間第18主日

この日の第一朗読「コヘレトの言葉(1・2,2・21-23)」では、現実世界の空しさが語られます。
たしかに、私たちの生きている現実は、理不尽なことがたくさんあります。
でもそう感じてしまうのは、神に心が向き合っていないということなのかもしれません。


この日の湯澤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音はルカだけが書き残している部分です。ある意味でルカのセンスというか、財産的なものに厳しい見方をするルカ、福音を書いた人の性格がしないでもないです。ある人がやって来て、財産を分けてくれるように兄弟に言ってくださいと頼んだのです。この当時の宗教的指導者は、こういう問題を取り上げて調定をしたり裁いたりしていましたが、キリストはそれをきっかけに別な話を始めたのだと思います。一般的にすべての人に向かって、どんな貪欲にも注意を払いなさいと。ですから最初の人は貪欲な人かなと思うのですが、そうではないと思います。おそらく遺産相続の時に不平等を感じて、何とかして欲しいと言ったんでしょう。こういう理不尽なことは良くあることです。普通であれば正しいことをしていれば、良い報いがある。昔から良いことをしていれば天国にいけると。悪いことをしていれば地獄にいくと。普通はそう考えますね。実際はそうでないことの方が多いですね。

 今日の第一朗読は、旧約聖書のコヘレトの言葉、昔は伝道の書と言われていました。「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これは空しく大いに不幸なことだ。」せっかく努力したのにそれを自分のものに出来ない、努力が無駄になる。全然努力しない人が良い思いをする。それはおかしいことではないかということですね。普通だったら、がんばったら良いことがおこる。そうとは限らないのが人間の世界ですね。
  分かりやすい例ですが旧約聖書に、カインとアベルの話があります。カインとアベルの兄弟がいて、二人が神様に捧げ物をします。アベルは牧畜をする人だったので、一番良い羊を神様に捧げます。カインは農民だったので農作物を捧げました。両方とも素晴らしいものを捧げたのですが、神様はアベルの捧げ物を受けて、カインの物は受け入れなかった。カインは怒ったのです。
 こういうことは良くあります。同じ人間に生まれながら、非常に頭の良い人とか、イケメンの人とかいますね。そうじゃない人はあまり良いことがないですね。頭の悪い人はどれだけ努力しても勉強は出来ないし、イケメンでない人はどんなにもてようと思ってもモテないですね。なんで神様はこんな理不尽なことを…。私の中学の同級生にすごく頭の良い人がいました。高校も男子校でいっしょでした。いつも遊んでいるのですが、成績はトップでした。なぜ勉強をしないのにそんなに出来るのか聞いたことがありました。一回授業をきけば全部分かるよと言われました。そんな馬鹿なと思いました。でもその後、東大の医学部に入りました。こっちはきゅうきゅうとして試験勉強し、やっと大学に入れたのに。頭の良い人は勉強しないのに良い大学に入り、良い職業を得て良い生活をするのですが、そうでない人はどんなに努力しても駄目。カインとアベルみたいなものですね。
 
 どうやら人間の社会は、良いことをすれば良い報いがあるだけではないらしい。コヘレトは考えたのですね。反知恵文学と言います。頑張りましょう。神様は必ず報いをくださいますから。これを知恵文学といいます。知恵の書や格言のこと。コヘレトなどの反知恵文学は、どんなに努力しても良い報いがあるとは限らない。だったらどうしようかという問いかけですね。カインとアベルの物語に戻りますと、神様は答えを出すのです。もし悪いことしていなかったら神様の方をずっと見ていれば良い。もしそのときに嫉妬などして神様から離れると罪を犯すかもしれない。実際にカインは弟を殺してしまったわけですね。
カインとアベルの話は簡単にお話しがなされていますが、コヘレトもそうですね、神様の摂理、神様の意思は分からないものです。だから悪いことをしても栄える人はいますし、良いことをしても不幸になる人はいる。でも、神様の意思、思いは分からない、結果では分からない。最終的には神様の意思、心に従って生きようではないかとコヘレトは結論を出します。そのように考えると今日の第二朗読も似たようなことが書いてありますね。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイの教会への手紙3章1、2節)キリストの話もそういうふうにしてみると、なんとなく分かるような気がします。

  確かに私たちはこの世の中で生きなければならない。その中で何と理不尽なことがある。
努力しても報われないことがあるし、変だなということがたくさんあるかもしれない。
 でも大切なことは、そういう中で神様は私にどういうことを望んでおられるのか、探すこと。それに応えて生きること。私たちは日常生活でどうしても表面的な人間的なものに心が囚われてしまって、一番大事なことを忘れてしまっているかもしれない。キリストは言うわけですね。弟子たちに求めたものは何か。神様の意思を知ってそれに応えること。そのように考えると今日のこの話も何となく分かってくるのでは。私たちが最終的に大切にしなければならないことも分かってくるのではないかと思います。』

2019年7月28日日曜日

年間第17主日 「主の祈り」

ルカ 11・1-13
この日の福音でイエスは弟子たちに「主の祈り」を教えました。
祈りというのは自分自身を見つめることでもあります。
自分の願いは何でしょうか?


この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の場面ではイエスがエルサレムへ行く旅の途中が続いています。 先週はマリアがイエスの足元で話を聞いていて、マルタがイエスに食事を出すために忙しく働いている場 面でした。 マルタはマリアの態度を見て自分の正当性を訴えられました。 イエスはマルタをさとされました。 それによってマルタの祈りは受け入れられたのです。 マルタが望んでいたようにではなく、神の望んでおられたことはこういうことだったとマルタは理解したと思います。

さて、今日の福音はイエスがあるところで祈っておられたという言葉から始まります。 弟子の一人がイエスにわたしたちにも祈りを教えてくださいと言います。 わたしたちにとっても祈り方というものは切実なものかもしれません。 神父様、こういう時にはどのように祈ればいいですか、と聞かれることがあります。 例えば、墓をしまってこちらに移したいのですがどう祈ればいいですかとか、ロザリオが壊れてしまいましたどうすればいいですかと聞かれることがあります。 こういう時に話すのは、「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と、感謝の気持ちを伝えて処分すればいいと伝えます。 土に埋める、あるいは燃やすのがいいと思いますが、今の世の中はなかなかそうもできませんので、通常のごみと一緒に捨ててもいいと伝えています。 すでに感謝の祈りをささげたなら目的を達成した物として処分できると思います。 もし捨てきれないというのであれば、直接司祭に持ってきてください。 司祭の権限で処分しますので安心していただければと思います。

今あえて「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と言いました。
この神への呼びかけとして「父よ」という言葉はもともとユダヤ人の祈りでは出て来ません。 旧約聖書では知恵の書、シラ書で神に願うときに、数回、出ているだけです。 この2つの書物は紀元前3世紀以降にギリシャ語を用いるユダヤ教徒が書いたものです。 ギリシャ語で書かれているけれども、カトリック教会ではユダヤ教徒が伝えた大切な聖書として扱っています。 ともかく、イエスは祈るときにはまず「父よ」という言葉から始めています。 これは当時とても新鮮だったと思います。 当時のユダヤ人の間では「父よ」というのは、子どもが「お父さん」と親しみをこめて呼びかける言葉でした。 逆に言えば、お父さんは子どもの呼びかけを聞いて「何だい?」と耳を傾けることになるでしょう。 そして、子どもの願いを聞き入れ、その願いをかなえてあげようとします。 それほどの親密な関係がわたしたちと神の間にはあるのだということです。
今日の福音の最後の部分、11節以降のたとえ話で父と子の関係に当てはめて、反語で強調しています。 反語というのは、言いたいことの反対の内容を疑問形で述べる表現のことを言います。
「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。 「卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。
最近のニュースを見ていると自分の子供を虐待しているのをよく目にしますので、本当だろうかと揺らいでいる面もあるかと思います。 ただ、多くの親は、「自分の子供にはよいものを与えることを知っている」のです。 同じように、いやむしろ自分のお父さん以上に、神である父は求める者の願いを聞き入れてくださいます。

父である神に祈ることはわたしたちの基本的な姿勢です。 このミサもそうですし、日々の生活の中でも祈りはあると思います。 神はわたしたちの願いをすべてご存知です。 ですが、わたしたちが何を願いたいのかに気づいて、父である神に願うことがなければかなえられません。 ですから、祈りというのは自分自身を見つめることでもあるのです。 しばらく沈黙のうちに自分の願いを振り返り、感謝の祭儀を通して神の恵みを祈り求めてまいりましょう。 』

2019年7月21日日曜日

年間第16主日 「マルタとマリア」

この日の主日ミサは、佐藤神父様とレイ神父様の共同司式で行われました。


今日の福音は、ルカ福音書(10・38-42)の「マルタとマリア」の箇所が朗読されました。

このマルタとマリアのようなことは、私たちの家庭や職場でも起こりうるような出来事です。マルタの面白くない気持ちはよく理解できます。ではなぜ、イエス様はしっかり者のマルタの方を叱ったのでしょうか?

佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音を読んでみると、わたしはどうすればいいのだろうかと悩むかもしれません。 マルタとマリア、対照的に見えるこの姉妹の行動のどちらが正しいのかと思うかもしれません。 結論を言えば、どちらも間違っていないと言えます。
マルタもイエスをもてなしていましたから、アブラハムが行ったもてなし(創世記18・1~)のようにとてもいいことをしていると言えます。 マリアもイエスの話を熱心に聞いていましたから、アブラハムが旅人の言葉を聞いたようにとてもいいことをしていると言えます。 自分がやっていることを他人も同じようにやるべきだと考えないことです。
比較すべき問題ではありません。 マルタの言葉の中に「わたしだけに」という言葉があります。
「わたしだけにもてなしをさせて」という訴えを聞くと確かにそうだ、みんなでもてなそうと同意してしまいがちです。 イエスはそうは考えませんでした。 マルタの選んだこともマリアの選んだこともどちらも正しいことであるのは確かです。 しかし、イエスはマルタが自ら選んだことをマリアも同じように選ばなければならないという考えを戒めます。 今日の場面はイエスがエルサレムへ行く旅の途中です。 イエスは十字架につけられて自分が死ぬことを知っていました。 この親しい弟子であるベタニアのマルタとマリアとの最後の出会いであることもイエスは知っていました。 だからこそ、自分の話すことをよくよく聞いてほしいと願っていました。 マリアが選んだことはイエスとの時を過ごし、イエスの話をよく聞いておくことでした。 マルタが選んだのはイエスのために最高のもてなしをすることでした。 どちらも正しいことです。

しかし、マルタは訴えます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 イエスはマルタの名前を2回呼んで答えます。 目の前にいる人に向かって答えているので名前を呼ぶ必要がありませんが、それも2回呼んでいるというのは本当によく聞いてほしいということだと思います。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」 どのようなもてなしをしたらいいのかというところに心が向いてしまっていて、マリアも同じようにしてほしいと思っているマルタに呼びかけています。 イエスの答えは「必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。 それを取り上げてはならない。」 イエスは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのです。 みんなから多くのもてなしを受けることではなく、みんなに一つの福音を伝えるためにイエスは来たのです。
 もちろん、マルタが悪い方を選んだということではありません。 イエスの福音を聞くことが第一であるということです。 今日の福音はイエスのことばで終わっていますから、マルタがどう思ったかまではわかりません。 しかし、自分の願いを訴えることは祈りにつながっていくことが分かります。 どうすればいいのかわからないときに主に祈ることで解決につながっていきます。

 マルタがイエスに訴えたことによって、マルタはイエスから最も重要なことを教えられました。 イエスのことばを聞くこと、神の国を求めることが大切なことだと教えられました。 もしかしたらイエスのことばで、マルタは自分自身の凝り固まった考えを打ち破ることができたのかもしれません。 福音書はこのあと、主の祈りに続いていきますのでマルタの考えがどうなったかはわかりません。
 イエスはわたしたちが主の福音をよく聞いて歩むことを求めています。 わたしたちも福音を聞いてイエスが伝えたいことを理解し、この世に神の国を宣べ伝えていくことができるよう祈ってまいりましょう。』

【夕べの会】
7月20日(土)15:00から、教会の中庭で親睦会「夕べの会」を行いました。EMCの皆さん、佐藤神父様、レイ神父様、佐久間神父様も参加され、バーベキューと生ビールで親交を深めました。


2019年7月15日月曜日

年間第15主日「善きサマリア人のたとえ」

ルカによる福音書 10章25~37節
イエスは、「自分の隣人とは誰か?」とイエスを試す律法学者の質問に対して「善きサマリア人のたとえ」を話されました。この話はルカ福音書だけに記されています。
このたとえ話をとおして、イエスの言われる隣人とは?そして、人が陥りがちな偏見・差別について考えてみましょう。

この日のミサは、勝谷司教様の司式でした。


司教様のお説教の大要をご紹介します。

『数年前の話ですが、東京管区の司祭の集まりで、次のようなことが話題になりました。日本の西にある大きな教区では信者も多いのですが、そこでは日曜日のミサに参加する出席表などのようなものがあって、それの出席率が悪いと秘跡を受けることが出来なくなるシステムを採用している教会がある。これは事実かどうか確認をとっていませんが。その話題が出た時、そんなとんでもないことをしているのかという反応がでることを私は期待したのですが、管区のその集まりのある一定の神父様方は「我々もそうすべきだ。」という意見を持っていることに大変驚いたことを記憶しています。つまり普段、教会で信者としての務めを果たさない、(それは教会維持費を納めていないことを念頭にしていたのですが)普段、教会に来ていないのに結婚や葬儀の時だけは信者としての権利を主張してやってくる。これはとんでもないという発想らしいのですが。
 そもそもこの発想は何か勘違いしていないか。教会はサロンではないですね。会費を払っていれば必要なサービスを受けられるようなところではありません。そして、教会維持費にしろ、教会員の務めにしろ、信者がその信仰に基づいて神に対する自発的な喜捨。そこに大きな勘違いがあるのです。しかし、同じような発想が、つまり守るべき規定を守っていないから、私たちの正常な関わりからは除外されるべきだ。これは長い間教会で支配されてきた考え方です。
 以前、シノドスから帰ってきたとき、この場所から話したことですが、そこでテーマになっていたことはまさにこのことです。教会は永い間、裁く教会であったこと。教会の掟を守れない人を排除しようとする。ひとり一人、それぞれの事情があって、守りたくても守れない。確かにその人自身に責任があるかもしれない場合もありますが、それがどのようなケースであれ、ひとり一人の心の状態に耳を傾け、寄り添っていくべきである。これがシノドスで打ち出された新たな今後の教会の姿勢として示されたのです。しかし、私たちの中にこの裁く心は、ひじょうに深刻に巣くっていると感じられることが度々あります。

 今日の福音書は、善きサマリア人のたとえ話として何度も耳にしたことがあると思います。憐れに思うという言葉は「はらわた」という言葉で、深い共感を表す言葉として知っていると思います。しかし、この対局にある律法学者の姿はどこに問題があったのでしょうか。もっとも大切な教えは何であるかは、この律法学者もイエス様も意見を同じくしています。それをどう解釈し、実践するかはまったく違っていました。この律法学者は神様の起きては徹底的に命がけで守るべきと考えていました。そして掟に、隣人を自分のように愛すると書いてありますから、この掟を厳密に適用するには、隣人というものが誰であるかをきちんと定義しなければならない。そして、律法学者の考えによれば、まず神の民に属さない、今日の福音書に出てくるサマリア人などは、最も隣人から除外されるべき人種であったのです。さらに罪を犯していく人たち。徴税人や娼婦という人たちは真っ先に隣人リストから除外されるべき人たち。それを神の前で正しいことと信じていたのです。 しかし、イエス様の視点はそれとは全く異なる視点でした。むしろ掟を守れない、正しく生きようとしてもそれが出来ない、そういう弱さや矛盾を抱え人たちの心に寄り添っていくなかから、その人たちに救いに至る道筋を同伴しながら示していこうとする、これがイエス様の姿です。
 人ごとのようにして聞いているかもしれませんが、実は裁く教会の姿は札幌市内の教会で何度もいろいろなところから報告されています。一番多いのは、子供の時から教会から離れてしまっている。結婚を迎える時、教会で式を挙げたい。普段教会に来ていないのに虫がよすぎると拒否されるケースがいまだにあります。これも札幌教区で実際にあったケースですが、葬式を拒否する。
  そのような裁く教会。それが当然だと思う信徒がいるのも確かです。しかし、これは何か私たちに大きな勘違いをしているのではないか。私たちに必要なことは、まず掟を優先し、それに人を当てはめることではなくて、むしろその掟を守れない人の心に耳を傾ける姿勢、これがとても大切である。そういう人の心の痛みに少しでも共感できるならば、
けっしてその人を頭ごなしに裁くことは出来ない。少しでも私たちがその人の心の痛みに共感できるならば、そこにおこってくるものは裁きは排除され、共に歩んで行きたい、支えてあげたい。心にわきおこってくる自然の営みです。
  今日の第一朗読で、この教会の掟を、律法学者のいう何百もある掟を覚えを守ろうとする困難な道ではなくて、最後の行にある「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:14)。私たちは自分の心に呼びかけられる聖霊の働きに従っているならば、難しいことではない。

  最後に、私が司祭になって間もない頃体験したことを分かち合いたい。司祭になった頃、数年間、子供たちはたくさんいました。毎年、召命錬成会というものを行っていました。50人近い男子だけですが、今で言えば差別になる。ただ、男子だけというのは、召命は男子だけと考えていたわけではなくて、とても野蛮なサバイバル・キャンプをしていたわけです。テントを張ったり、かまどを作ったり、遠くまで水をくみに行き運んでこなければならない。こんな体験生活は今の子供たちはしていません。楽しい、大胆な体験をたくさんしました。
  この召命錬成会の準備が大変だったのです。ある年には積丹でやろうと下見に行きました。弁当を持たして、まる一日費やすオリエンテーリングというものも計画しました。地図とコンパスだけ持たせ出発させるのです。そのオリエンテーリングのコースを探すために出かけました。一日かけて、最後に夕方になってひじょうにきれいな丘陵地帯がありました。そこは歩けるのではないかと、道路を逸れて山道を車で見に行きました。途中、ゴツンという変な音がしたのですが、気にせず一番上に着いた時に、オイル缶に穴が空きオイルがジャーと漏れていました。車は動きません。人里離れた所で途方にくれていたところ、下から2台の車がやってくるのです。そして、降りてきた運転手は「やっぱり。」と言うのです。下から登る道路があるのですが、逸れて上がっていくところで、オイルの跡がずっと続いているのを発見したのですね。その運転手さんは千葉から来たトラックの運転手さんでした。休暇をとってふたつの家族が旅行をしていたのです。この先に難儀をしている車があるに違いないという運転手の直感です。それでわざわざ登って来てくれたのです。そして、やっぱりいたと言ったわけです。それで私の車を牽引して小樽の工場まで運んでくれました。着いたのは夜8時。小樽のどこか旅館を予約していて、すでに家族で楽しんでいるはずの時間に、付き合わせてしまったのです。私は後でお礼をと思い名前や住所を聞いても教えてくれないのです。職業だけは分かっていたのですが。困った私はお金を包んで渡そうとしたのです。当然ですが受け取ろうとしないのです。その時、最後に何を言われたかというと「今度はあなたが道で困っている人を見つけたら、その人に返してくれ。」。びっくりしました。その言葉を聞いて、私は神父ですとはとても言えませんでした。信者以上に信者の心を理解する人でした。これは私にとって本当に善きサマリア人でした。私がその時にお礼をしたならば、そのことは完結したのだと思います。
 「次にそのお礼は別な人に返してくれ」という、最近そのような運動がどこかにあると聴いたことがありますが、その当時はそのような社会的な運動とか、ましてやインターネットのような情報が広がっていることもなかった時です。ですから、その運転手さんの自発的な心の現れだったと思うのです。もっとも福音の心を理解している人だと私は感じ取りました。まさに福音書のように「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)、この言葉を自分に投げつけられたと感じています。
 福音書は難しい理屈ではなくて、自分や人に対しての痛みを共感出来る、その心に従って行動するときに、私たちの愛の世界は広がっていくものだと切に感じました。』

2019年7月7日日曜日

7月7日(日)年間第14主日

私たちは一人一人が福音を述べ伝えるためキリストから遣わされています。

今日のルカ福音書(10・1-12、17-20)では、72人を任命し、宣教に遣わされました。


湯澤神父神父様のお説教の大要をご紹介します。

『イエスが12人の弟子たちを宣教に遣わすという出来事については、共観福音書すべてに記述されていますが、ルカだけが72人を任命して派遣するという、もう一つの出来事を収録しているわけです。
この72人を任命して派遣するという背景には恐らく、モーセの出来事が前提になっていただろうと思われます。ユダヤ民族がエジプトから脱出してカナンに向かう途中、モーセの仕事があまりにも多かったので、誰かアシスタントをつくってはどうだろうかという話になり、70人を選んでモーセの前に集めたわけです。この70人がモーセの仕事を分担して、負担を減らしたという形になりましたが、どういう訳かそこに集められなかった人の中から、二人の人の上に霊が下って同じように予言を始めました。そして、その二人も加えた72人がモーセの手伝いをするようにったという出来事でした。
今日の福音朗読にあるイエスに任命された72人は、12人の弟子という特別な人たちだけではなく、もっと参集範囲を拡げているわけです。この意味するところは、宣教は12人だけの務めではなく、いわゆる全てのキリスト者がこの任命を受けているということと理解してよいかと思います。

この派遣にあたっては、「二人ずつ先に遣わされた」とあります。二人ずつというのは「一人ではない」ということです。これは、ある意味で共同体の宣教ということが前提とされているということです。宣教活動というのは個人プレーではない、共同体として宣教活動をするということです。それが「二人ずつ」ということに象徴されています。

さらに、宣教に遣わされる人たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」と話され、必要性が開かれているということを伝えています。

それから宣教活動というものは、そう楽なものではないということも話されています。狼の中にエサを撒くようなものだと喩え、それだけ大変なものだということでしょう。それ故、共同体として宣教を行うということだと思います。

同時に、「財布も袋も履物も持つな」と話され、宣教にあたって、個人の能力とか、才能とか、地位とか、そういうものには頼らないように、ということです。宣教というものは、そういうものでやるわけではない、神が宣教するのであって、個人の能力に頼るのではなく、神だけを信頼するように、ということです。逆に言うこと、「私のような能力のない人間には出来ません」ということではありません。却って能力のない方が、相応しいのかもしれません。
「心の貧しい人は幸い」と言うように、神しか信頼できなければ、それだけ神を頼ることになるし、下手な能力があれば却って自分の能力を信用して神様を信頼しなくなる訳ですから、能力のない方がむしろいいのかもしれません。

「途中でだれにも挨拶をするな」とありますが、これは別に、しかめっ面して誰とも触れ合わないでということではなくて、目的が宣教に行くことにあるのだから余計なことをするわけにはいかない、という意味あいです。お喋りしたり、親しくなったり、することが目的ではないということです。

そして、どこかの家に入ったら「平和があるように」と。そこで実現するのが平和だというわけです。ただこの平和は、人間が作る平和ではなく、復活したキリストから来る平和です。所謂「主の平和」のことです。そこで集まっている共同体の中に、神の平和が実現するようにという意味であって、世界平和を祈っているわけではありません。この平和は人間が実現させる平和ではない、だから受け入れなければ戻ってくると言っているわけです。もし人間が作るものであれば、成功するか失敗するか、そんな程度のものです。

今日の福音朗読では、このように宣教というものを表現しているわけです。
私たちは、そこで、自分たちはどうしているだろうか?というところまで考えなければなりません。
内側を向いていて閉じ籠もって、お御堂の中にだけいて外にでない、漏らさない、というのはキリストの意向に沿ってはいません。
「行きましょう」と言われているわけですから、福音を伝えるために出ていくことが目的なわけです。そしてまた集まってくるというのが重要なのです。集まるために出て行って、出て行くために集まるわけですから。
常にこのようにして、福音を伝えるために私たちは毎週、派遣されているようなものです。

私たちは一人一人がキリストから遣わされているということを自覚しないといけないと思います。堅信を受けた人は全ての人が、この使命を受けている、キリストの共通祭司職に与っているわけですから、常にキリストによって遣わされている、そして共同体として遣わされているということを心に留めながら私たちの使命を自覚していかなければならないと思います。』