2019年7月21日日曜日

年間第16主日 「マルタとマリア」

この日の主日ミサは、佐藤神父様とレイ神父様の共同司式で行われました。


今日の福音は、ルカ福音書(10・38-42)の「マルタとマリア」の箇所が朗読されました。

このマルタとマリアのようなことは、私たちの家庭や職場でも起こりうるような出来事です。マルタの面白くない気持ちはよく理解できます。ではなぜ、イエス様はしっかり者のマルタの方を叱ったのでしょうか?

佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音を読んでみると、わたしはどうすればいいのだろうかと悩むかもしれません。 マルタとマリア、対照的に見えるこの姉妹の行動のどちらが正しいのかと思うかもしれません。 結論を言えば、どちらも間違っていないと言えます。
マルタもイエスをもてなしていましたから、アブラハムが行ったもてなし(創世記18・1~)のようにとてもいいことをしていると言えます。 マリアもイエスの話を熱心に聞いていましたから、アブラハムが旅人の言葉を聞いたようにとてもいいことをしていると言えます。 自分がやっていることを他人も同じようにやるべきだと考えないことです。
比較すべき問題ではありません。 マルタの言葉の中に「わたしだけに」という言葉があります。
「わたしだけにもてなしをさせて」という訴えを聞くと確かにそうだ、みんなでもてなそうと同意してしまいがちです。 イエスはそうは考えませんでした。 マルタの選んだこともマリアの選んだこともどちらも正しいことであるのは確かです。 しかし、イエスはマルタが自ら選んだことをマリアも同じように選ばなければならないという考えを戒めます。 今日の場面はイエスがエルサレムへ行く旅の途中です。 イエスは十字架につけられて自分が死ぬことを知っていました。 この親しい弟子であるベタニアのマルタとマリアとの最後の出会いであることもイエスは知っていました。 だからこそ、自分の話すことをよくよく聞いてほしいと願っていました。 マリアが選んだことはイエスとの時を過ごし、イエスの話をよく聞いておくことでした。 マルタが選んだのはイエスのために最高のもてなしをすることでした。 どちらも正しいことです。

しかし、マルタは訴えます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 イエスはマルタの名前を2回呼んで答えます。 目の前にいる人に向かって答えているので名前を呼ぶ必要がありませんが、それも2回呼んでいるというのは本当によく聞いてほしいということだと思います。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」 どのようなもてなしをしたらいいのかというところに心が向いてしまっていて、マリアも同じようにしてほしいと思っているマルタに呼びかけています。 イエスの答えは「必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。 それを取り上げてはならない。」 イエスは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのです。 みんなから多くのもてなしを受けることではなく、みんなに一つの福音を伝えるためにイエスは来たのです。
 もちろん、マルタが悪い方を選んだということではありません。 イエスの福音を聞くことが第一であるということです。 今日の福音はイエスのことばで終わっていますから、マルタがどう思ったかまではわかりません。 しかし、自分の願いを訴えることは祈りにつながっていくことが分かります。 どうすればいいのかわからないときに主に祈ることで解決につながっていきます。

 マルタがイエスに訴えたことによって、マルタはイエスから最も重要なことを教えられました。 イエスのことばを聞くこと、神の国を求めることが大切なことだと教えられました。 もしかしたらイエスのことばで、マルタは自分自身の凝り固まった考えを打ち破ることができたのかもしれません。 福音書はこのあと、主の祈りに続いていきますのでマルタの考えがどうなったかはわかりません。
 イエスはわたしたちが主の福音をよく聞いて歩むことを求めています。 わたしたちも福音を聞いてイエスが伝えたいことを理解し、この世に神の国を宣べ伝えていくことができるよう祈ってまいりましょう。』

【夕べの会】
7月20日(土)15:00から、教会の中庭で親睦会「夕べの会」を行いました。EMCの皆さん、佐藤神父様、レイ神父様、佐久間神父様も参加され、バーベキューと生ビールで親交を深めました。