2015年10月25日日曜日

年間第30主日

今日の典礼のテーマは”いつくしみ”です。
イエスのよって癒された盲人の信仰について黙想しましょう。

先週、御ミサの後に、典礼総則改定の説明会が行われましたが、聞き逃された方々のために、今日のミサ説教の中で、後藤神父様から再度お話がありました。

典礼総則の変更箇所については、下記もご参照ください。




今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『今日、ミサのテーマは、いつくしみです。
神が民にそそがれている”いつくしみ”。旧約の時代においても、また新約においても、貧しい人にも、目の不自由な人にも、神のいつくしみが注がれたというのが、今日のテーマです。それは神が全ての人の救いを望まれ、ひとり子イエスによって、イエスをいけにえとして十字架にかかげることによって、人間の救いの道を開かれた、ということだと思います。
神は私たち一人一人を救いに招かれている。その救いの実現のために、私たちは何をすべきなのでしょうか?神は救われ、その救いに私たちが与っている、その救いの道を歩むために、私たちには何が求められているのでしょうか?
そのことを今日のみ言葉を聞きながら黙想していくときに、福音に登場した盲人の信仰に行きつくような気がします。
今日語られた聖書に出てくる盲人は、単に肉体的な盲人ということではなく、信仰的な盲人を象徴しています。彼はイエスを見ることができない状態にありました。でも盲人である彼は、イエスの噂を耳にしたとき、イエスの内に神を感じることになりました。人々の話や噂を聞き、そこにイエスを感じ、イエスの中に神を感じた。イエスの中に真理や神聖を見抜いたのが、この盲人であったということになると思います。
人々の噂を聞いたとき、そしてイエスが近づいて来たとき、ナザレのイエスだという声を彼は聞きました。人々の声に混じって聞こえた「ナザレのイエスだ」。その声に彼は、声が聞こえる方に向かって、「イエスよ、わたしを憐れんでください」と何度も何度も彼は叫びます。自分の目では見えないイエスに向かって、自分が感じたイエスの内にある神に向かって、「わたしを憐れんでください」と。その叫びは、その声は、普通の人では黙らせることができないほどだったと聖書は記しています。きっと命を懸けて、全身全霊で、イエスに向かって、「憐れんでください」と叫んだに違いありません。イエスはその彼の姿を見て、その声を聞いて、その熱心さを見て、自分のところに連れてくるように言われました。そばにいた人たちは、イエスが呼んでいると彼に告げます。
イエスが呼んでいる、今自分が信じたイエスが自分を招いている、それだけでじっとしていることが出来なくなるほど心は躍り上がります。上着を脱ぎ棄てるほど彼は歓喜に満ちて、イエスのもとに招かれ連れて行かれようとしています。
これほどの信仰の故に、この盲人は癒されることになりました。でもイエスの癒しは、ただ癒すだけの信仰ではありませんでした。イエスの癒しは、ただ癒すだけではなく、癒されたのち、なお怏々しく生きる信仰を求めているものでした。その場だけの救いではなかった。彼はイエスによって癒され、その信仰によって救われました。見えるようになりました。見えるようになって、彼の信仰はさらに変わります。深くなります。大きくなります。イエスを証する人と彼は変わります。さらにイエスに従っていく人に彼はなりました。聖書のお話はそのように結んで、私たちに告げています。
救いの道は、イエス・キリストによって準備されますが、私たちはそのような救いに向かって、その信仰に生きなければならないと思います。今日の福音の中に登場した盲人は、私たちの姿でもあるように見えてきます。神によって清められ、曇りのない心で仕えることができるように、私たちもまたより深く黙想し、祈りながら新しい出発ができればと思います。』

2015年10月18日日曜日

年間第29主日 世界宣教の日

今日は「世界宣教の日」です。
今日の後藤神父様のお説教では、カトリック新聞に掲載された教皇様からのメッセージが紹介され、私たち自身の宣教について考えるよい機会となりました。


また御ミサの後、引き続き聖堂で、新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」日本語改定訳に基づく変更箇所について、後藤神父様の講師により勉強会が行われました。ミサは、司祭、信徒が共に主の食卓を囲み一致のうちに行われることが大切だということを改めて学びました。


午後からは、札幌地区の合同墓参が行われましたが、バスが出発するまでの間にカテドラルホールでDVD鑑賞が行われました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日はミサが終わると、典礼総則の改定の勉強会を行います。そして午後からは札幌地区の合同墓参になっています。また、今日は「世界宣教の日」にあたり、ミサ中の献金は全てローマの教皇庁に送られることになっています。応分の寄付を皆さんにお願いしたいと思います。
日本は今なお世界の教会からみると布教国という位置づけになっています。そのため、世界中から集められた今日の献金の一部は、日本の教会の宣教の資金にも使われているという現実があります。私たちもそのことを意識しながら、全世界の宣教のために役立てられるよう献金に心を込めて託したいと思います。

「世界宣教の日」にあたっては毎年、教皇様からのメッセージが出されています。
カトリック新聞には全文が掲載されていましたが、その一部をご紹介したいと思います。
今年、教皇様が強調されていたことは、「宣教はイエスへの情熱であると同時に、人々への情熱でもあります。」
私たちの熱い信仰がイエスに向けられているならば、イエスが大切にされる神の民、すべての人の救いに対しても、私たちの心は向かわなければならない、というメッセージが込められています。
洗礼の恵みをいただいた私たちです。皆さんはキリストに深く結ばれ、主の受難と復活の証人となって生きる人となる使命を受けて洗礼をいただき、堅信の恵みをいただいている人たちです。洗礼と堅信の際の祈りの中には、今述べたことが含まれています。私たちは忘れているかもしれませんが、洗礼の時にはこのようなメッセージを受けて、キリスト者として歩み始めたわけです。この時の使命は洗礼の時だけに終わるのではなく、生涯信仰を生きる日々の中に、この使命が託されているということだと思います。生涯の使命は宣教の使命でもあるということを私たちは心に留めたいと思います。
私たちに出来る宣教とは何であるのか、そのようなことも考えながら信仰を歩まなければと思います。
教皇様のメッセージには次のようなことも触れられています。
「み言葉に仕えるものである司教、司祭、修道者、そして信徒に託された使命は、一人残らず全ての人がキリストと人格的に結ばれるようにすることである。」
私たちが神を信じ、キリストを信じ、神の教えが私たち人間にとって大切なものであるとするならば、そのことを周りの人に伝えたいと願うのは、誰もが考えることだと思います。教皇様はそのような意味で、一人残らず全ての人がキリストに人格的に繋がるようにというメッセージを出されているわけです。
メッセージの一部分を心に留めながら、私は次のようなことも考えていました。
ミサに与り、私たちは御聖体をいただき、信仰の成長も体の成長もそこからいただこうと祈っています。そして、ミサが終わる派遣の祝福の祈りの言葉は、「行きましょう、主の平和のうちに。」と、そう祈ってミサは散開となります。
この祈りの言葉もキリストからの呼びかけとして考えなければならないと思っています。心から自分を探し求める全ての人に一層近づくために、イエスは私たちを用いたいと望んでおられるのではないでしょうか。私たち一人一人が神、キリストに仕えて、宣教の力を発揮することができるようにというメッセージも込められていると思います。
昨年は「信仰年」という一年の歩みの中で宣教の日を迎えました。今年は奉献生活の年を歩んでおり、その歩みの中でこの「世界宣教の日」を迎えています。教皇様が呼びかける意向をいつも心に留めながら、福音のために一人一人が奉仕するように、今日もまた私たちはミサの中で共に祈っていきたいと思います。

さて、今日の福音を皆さんはどのように受け取ったでしょうか?
今日の福音もまた、これまで主日で読まれてきた内容の流れを汲むものです。先週の福音のみ言葉の中では、財産を持つ真面目な人が「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいのですか」とイエスに質問するお話しでした。
イエスはその人に対して、財産に執着し過ぎているということを指摘されました。自分の救い、そのことに心が執着して、他の人に心が向けられない、そうした偏った考え方を改めて、自分に従いなさいと話されました。しかし「小さい時から、守るべきことは全て守って自分は頑張ってきました」そう答えた財産を持つ真面目な人は、イエスの指摘に対して淋しく去っていきました。そのやり取りを見ていた弟子たちは、自分たちも家族を捨て、財産を捨て、全てを捨ててイエスに従ったのだが、永遠の命を受け継ぐことができるのだろうかという思いがよぎりましたが、永遠の命に入るのは簡単なことではないと諭されて、弟子たちは驚いてしまいました。
私たちの考え方、生き方、私たちの心の底にある欲望はどんなにしても、自分中心ということがあまりにも多いような気がします。
誰が一番偉いのかと議論した弟子たち、栄光を受けるときにイエスの右と左に座りたいと願う弟子たち。それは誰もが心の奥底に持っている執着心であり、人から評価されたい、できれば自分が特別な地位をいただきたい、という心と同じような気がします。弟子たちの心も、私たちの心も、イエスの本当の心を理解できずに、ただイエスに従っている、そいうことでは同じような面があるような気がします。
そうありながらも、私たちの信仰においては、もっと深く神を信じたいと願います。そして、もっと神の愛の教えを生きるため、社会においても隣人にも奉仕できるようになりたいと、私たちは願います。しかし、自分の願いと現実とが一つになっているかを考えた時に、仕えることの難しさを改めて実感しているのではないでしょうか。
今日のみ言葉のこのようなやり取りの中で、イエスは弟子たちに次のように尋ねます。「あなた方は、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」一人の弟子はすぐさま「できます」と答えています。私たちはどう答えるでしょうか。
イエスが言った「わたしが受ける洗礼」というは深い意味があったようです。イエス・キリストにとっての洗礼は、十字架の受難の死であり、復活でもあります。それを弟子たちに問われたのです。
私たちがいただいた恵みの洗礼は、そのことに深くつながっているのでしょうか。ただ一度の私たちの洗礼は、十字架の死と復活につながる洗礼でしたでしょうか。新しく生まれ変わって生きるための洗礼であるはずなのに、もしかすると私たちの生活の中で直面する困難から逃げ出そうとばかり考えている自分がいるのではないでしょうか。神の子として生きる大切な戦いはどこにあるでしょうか。
イエスは弟子に言いました。「あなた方はわかっていない」、私たちももしかするとわかっていないのかもしれません。私も何を求めているのか、何をしようとしているのか、わかっていないような気がします。わかっているのは自分の身の行く末を案じていることだけかもしれません。信じなければ、仕えなければ、しきりにそう考えている自分であるならば、人のことを考える余裕は生まれてこないのかもしれません。自分の救いが、もう既にイエスによって完成されていると信じることができるならば、私は自分の命も自分の全ても神様に捧げます、と言い切ることができるならば、その時、周りの人、他人の身を案じることもできるような気がします。
神の子として、キリストの弟子として、自分の十字架を投げ出すことがないよう、勇気と希望を持つことができるように、私たちはもっと祈っていかなければならないようです。私たちの歩みはそこから宣教の歩みにつながっていくと思っています。
私たちの弱さをさらけ出し、そのままの自分で神様に仕えることができるよう恵みをお祈りし、宣教を心に留めたいと思います。』


2015年10月11日日曜日

年間第28主日

陽が短くなり朝晩の気温も下がり、すっかり秋の訪れを感じるようになりました。

聖堂の香部屋から見える「聖園こどもの家」の樹木の葉も色づいてきました。


今日の福音では、イエスの招き、神からの呼びかけの言葉を前にして、私たちはどれだけのものを手放せるのだろうか?
神の国に入る、永遠の命を受けるために、私たちに欠けているものを考えさせてくれます。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


今日の福音の中に登場する一人の男の人が「永遠の命」を受けるにはどうしたら良いでしょうか、そういう質問をイエスにされています。みなさんは「永遠の命」をいただくことを神様に祈っていますか。「永遠の命」のために祈っているでしょうか。
意外と「永遠の命」まではお願いしていないと言う人がいるかもしれませんが、そうでしょうか。今日、皆さんは「永遠の命」をいただくために、祈りをしてこのミサを始めているのですね。どこで、そんな祈りをしていましたか。みなさんがミサの始めに回心の祈りをしました。「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。…」という祈りをして始めました。そして最後に、その祈りの結びに「…全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。」と祈っています。
(第三形式の祈り)これはミサの度ごとに欠かせない祈りとして捧げられています。ですから、みなさんもまた、ミサを通して「永遠のいのちに導いてくださいますように」という意向を持って、回心の祈りをしているのです。わたしたちもまた、今日、登場する金持ちの男の人と同じようにして「永遠の命」を祈っています。でも、わたしたちは時々、心の中からそのことを考え、意識して祈っていないということがたくさんあることが、ひとつ分かると思います。毎回、毎回その祈りがあって、ミサを捧げているわたしたちであるのに、そのことに気づかないままにミサに入っている。いつでもそうですけれど、何でもかんでも分かってやっているかというと、わりとそうではなくて、ほんのちょっとしたことしか分からないままに、祈りもそうですし、生活の中もそうですし、人との交わりの中でも、そんなことがわたしたちの現実ということかもしれません。
 神様の目から見て、人生を真面目に生きている人がたくさんいると思います。しかし、その真面目な人の根本的な精神にかえ難い「かたくなさ」があるということも、今日のみ言葉は語っているのです。この財産を持っている人はそうでした。また、先週も心のかたくなさから 問答があったことをわたしたちは思い出すでしょう。先週は離婚の問題について、ファリサイ派の人が意地悪な質問をイエスに投げかけたのです。根本問題をはき違えて、人間が自分たちの都合をよく考えることで、正当化しようとする働きがわたしたちにはあるようです。それはファリサイ的考えといっていいかもしれませんが。ファリサイ派の人々は イエス様に意地悪な質問をして、問い詰めようとして離婚問題を質問しました。イエス様はそのときはっきりと答えていたのです。そういう問題は、神とわたしたちの関係をおろそかに考え、おろそかにするときから始まるのだと話されました。そして強調しました。神があわされたものは離してはならないということが結婚の精神だ。だから旧約聖書で掟の中でいわれていることは、みんな人間の都合から、そうせざるを得ないことが記されているだけで、神様の目からみると、結婚は神の前で誓ったことであり、神聖であり、別れさせてはならないものだ。これが基本だとあらためて話されました。
 今日の福音の中でも人間の行為自体の根本について触れているような気がします。
人の目からみるといっけん恵まれた生活、財産を持つ金持ちの青年の話です。この青年はイエスが歩いていると走り出て来て、イエスの前に膝まづいたといいます。今日のこの聖書の話は、共観福音書、3つの聖書のなかで共通して取り上げられています。今日はマルコの福音ですが、マタイの福音ではその男の人は青年であったと記されており、ルカの福音では役人(議員)であったと記述になっています。この3つの福音書で共通していえることは、資産を持っている金持ちであったということです。
すなわち、「永遠の命」について質問をしたこの男の人は地位も名誉も財産もあるということが3つの福音書で共通することでした。さらに信仰においても、倫理的にも非常に熱心で真面目な人であったということも共通する話でした。律法を守る以外にわたしたちは「永遠の命」が与えられる道はないと信じ、モーセの十戒さえも小さい時から守ってきたという主張をしています。それだけ聞いたらまさに、100点満点の人ではないでしょうか。非の打ち所のないような生き方をしていた青年、この男の人は。「永遠の命」を確信したいがためにこの人は「善い先生」とイエスに呼びかけて、最大の敬意をはらって膝まづきます。イエスは小、さい時から真面目に生きてきたというこの青年に目を留め、じっと見つめます。イエスはこの男の人を慈しんで話されたのです。
 イエスの慈しみの目の中において、この青年に話しかけたことが、欠けているものがひとつあるという言葉でした。イエスはけっして突き放してではなく、いつくしみの愛をもってこの青年に声をかけているのです。真面目に生きてきた、掟は守っている、申し分のない生き方をしたかのようでしたが、ひとつ欠けているものがあなたにはあるのだと話されます。わたしたちの考えている世界には、能力にしても財産にしても持たないよりは持っているほうが大事ではないだろうか。そんな考えがあるようです。でも、イエスが示される生活、神様の世界では持つこともまた欠けるということになるのでしょうか。そのように聞こえてきます。誰もが羨むような能力や力や地位や名誉や財産も兼ね備えている人に対して「あなたにひとつ欠けているものがある。」それはわたしたちの世界とは違う神の世界での話でした。恵みの世界と神様の世界ではよく言われます。恵みは何の条件もなしにわたしたちに与えられるもの。条件がない、何かを交換して与えるというものが恵みではない、一方的に神様から与えられるのが恵みであるということ。でも今日登場してきたこの男の人は、財産から手を離すことができない人であったということがわたしたちには考えることができるのではないでしょうか。
 イエスはかつて、人が富と神に兼ね仕えることはできないと話されていますが、富の恐ろしさもイエスは知って、この男の人に財産について話されたのだと思います。財産を持っているこの人は、もしかしたらかわいそうな人や苦しんでいる人には助けの手を差し伸べていたかもしれません。それであればわたしたちもやっていることだと思います。でもどうだったでしょうか。詳細は分かりませんが、もしかするとこの人の思うところで、憎い人や厚かましい人や自分にとって受け入れにくい人に対して、愛の業はどのように行われていたというのでしょうか。わたしたちもそうだと思います。苦しんでいる人、悲しんでいる人を目の前にすれば誰でも助けの手を差し伸べます。それはできます。でも自分にとって受け入れがたい、何となく性に合わない人、そういう人にだれもと同じように愛をあらわすこと、愛を生きることは誰にとっても簡単なことではないと思います。愛は素晴らしい、愛は大切ですと言いながらも、本当にすべての人に対して同じように、愛を生きているかどうか問われる。わたしたちもこの男の人と同じように、律法は守っていると言いながら、神の目から見て本当に必要なところに手を差し伸べているかどうかは、反省すべき点が出てくるのではないでしょうか。
 もしそういう一部の愛に欠けたところがあるとするならば、本当に律法を守っているということにはならないでしょう。きっとこの青年もそうした面でイエス様の目に感じられたかもしれません。「あなたに欠けているものがある。持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。」難しいことではないはずです。この青年はイエス様が言われたことは良く分かっていたはずです。でも、その財産を手放す自由は持ち合わせていなかった。自由は持っていたけれども自分の都合の良い自由だけを大事にしていたのかもしれません。財産や富からも自由になりなさい、それがきっと神様の心なのかもしれません。
 弟子たちは、この青年がイエス様の最後の言葉を聞きながら、自分はこの財産をどうすべきかは分かったでしょう。でもそれを決断し手放すといことにはまだ至らなかった。帰っていく姿はしょんぼりしていたはずです。立派な青年に思ったけれど、最後の最後、この青年の後ろ姿は悲しみでした。誰がそれでは神様の国に入ることができるのだろうか、弟子たちは自分のことについて考え始めました。ですから、驚きました。そうした一部始終を見つめながら、イエスの眼差しは今度は弟子たちに注がれました。
 そして弟子たちに話します。「人にはできないが、神にはできる。」イエスに招かれ、何もかも捨てて弟子となった12人の弟子たちは今、イエスを見つめています。今では宣教にも派遣される弟子たちになっています。イエスは弟子たちに「人にはできないが、神にはできる。」と言いながら、弟子たちのこれからの先もきっと示されていたと思います。それは十字架を指している言葉にも聞こえてきます。イエスは何度もこれまで自分の受難について話されています。でも弟子たちはそれを理解できなかったと、繰り返し繰り返し聖書は語ります。でも今イエスは、「人にはできないが神にはできる」という言葉の背景に、自分がこれから歩むべき道のなかで十字架に向かって、自分を捨てて自分の命をその十字架にかけて、すべての人の救いを神様に委ねる。わたしたちはひとつだけではない、ふたつ、みっつと数えきれない、欠けているものがあるような気がします。
 ですから、わたしたちも今日の福音をよく聞き、よく黙想しながら、富にばかり価値をおく生き方ではなく、富にばかり目を向ける心ではなく、新たな決断が求められるということではないでしょうか。イエスの見つめる眼差しにはいつも赦しがあり、招きがあります。ミサの最初の回心の祈りもそうであるように、この金持ちの青年がそれに気づいたとき、「永遠の命」に向き始めるのだと思います。聖書ではこの青年の行動、これからの生き方には語られてはいません。その時、しょんぼりしてイエスに背を向けて帰って行ったかもしれません。でも、この青年もきっとその日から様々に考える時間が与えられたと思います。そしてイエスが自分を見つめた眼差しの奥に自分を赦す、そして、自分を永遠のいのちに招くということに気づかれるはずです。わたしたちも神の眼差しのなかでいつも赦しが与えられ、そして招かれているんだということを心に留めて今日のミサにあずかっていきたいと思います。

2015年10月4日日曜日

年間第27主日

先日の台風並みの低気圧が過ぎ去り、すっかり秋の訪れを感じる主日となりました。

今日の典礼のテーマは、「婚姻」と「家庭」。
御ミサのあと、地区集会が行われ、今日のテーマを中心に分かち合いをしました。


「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
今日のミサの後の月例会で、来年の献堂100周年記念事業について、そして、今年の教区100周年の教会対応についての話がありました。教会聖堂は100年前から同じ場所に同じ姿で建っています。2度の大戦の間も、多くの札幌市民にその姿を見せ、様々な感慨を与えて来ました。櫻谷委員長は献堂100周年に当たり私たちに、信仰を更に強めると同時に共同体の新しい在り方を問いかけられました。教区100年の取組みと併せて、私たち一人ひとりが出来る事、変えなくてはならない事を考え実行する事の大切さが伝わってきました。

<後藤神父様のミサ説教概要です>
ロザリオの月を迎え今年もあと3ヶ月になり月日の流れを感じます。
今日の福音は、エルサレムを目指すイエスと弟子たちの前で起きた出来事です。イエスに対立する人たちの力が強くなり、ファリサイ派の祭司たちはイエスが律法に反する話をされる事を期待し論争に持ち込むつもりでいました。しかしイエスは、モーセの律法、申命記では、離縁も認めていた訳ではないことを話し、「神が結びつけたものを人が離してはならない」という結婚の基本的な姿に立ち返って考える事でその神秘を伝えました。
聖書の中でも、愛を誓って結婚しても生涯を共にする事の難しさが語られます。聖書の時代は、夫に有利な社会ですが、神の定めによる結婚では、たとえ離縁状があっても夫婦の絆を解消する事は出来ず結婚関係は続く、と話されます。
天地創造以来、神によって創られた人間は男女の親密な関係において結婚し夫婦となり、互いに協力して家庭を築きます。男女が愛し合って結婚に至ることはごく普通の事と思われますが、時にその愛が上手くいかない時があります、しかし、私たちは、愛に生きる事の素晴らしさを実感しているはずです、その様な時、信仰者である私たちは、今一度、愛の理想を示された十字架のイエスを見つめます。
身勝手な欲望の為に罪に汚れた私達でさえも赦し、ご自分の命を奉げ、愛を持って死を受け入れ、神に背く人間の為にご自分を与えられたのが、愛を証ししたイエスです。イエスこそ、愛の理想を私たちに示された方です。
男女の愛、夫婦の愛もまた、そのイエスの愛に触れなければその交わりを保つことは難しいのです。愛する人の為に十字架に命を奉げたイエスの愛を見つめる事によって私たちは励まされます。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし教会の結婚講座では「夫婦は人格として別個な存在ではなく、相互に協力し合って一つに結合される」と言う事を私は強調してお話しします。
現代の世界では多様化した社会の中で個人を大事にする時代になり、愛の誓いは、その時だけのものになっている事がありますが、夫婦が夫婦として生きて行くために大切なことは、もっと素直に純粋に自分の心を見つめることです。
私たち人間は弱さを持ち、欲望のままに流され易いですが、人間の様々な欲望が困難にめげず、その交わりを神の恵みのうちし、世界中にある夫婦が心を一つにし、神に祝福された人生、愛の道を歩むことが出来る様に、皆さんと一緒に祈りたいと思います。