2022年11月26日土曜日

11月27日 待降節第1主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 待降節第1主日 A年 2022年11月27日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日のミサから典礼の日本語が変わるので、福音をゆっくり味わう気分ではないかもしれませんが、待降節に入りますのでこの季節の典礼の意味を考えてみましょう。先週、私たちは王であるキリスト、世の終わりを祈念し、世の終わりについての福音を味わいました。今週から、未来から過去へ、私たちは二千年前のキリストの到来に目を向けていきます。

  福音の中で、イエス様は「人の子が来る時」と言っています。「その時は、ノアの時と同じである。」ここで、重要な言葉は、「時」です。第一の朗読、イザヤの預言では、「終わりの日」という言葉が使われています。戦争が間近に迫ってきている時、イザヤは、世の終わりの時の到来について語ります。その「時」こそ、救いの時だからです。

  第二朗読も見てみましょう。パウロは、ローマの教会に宛てて、「時は近づいた」と語り掛けます。「今がどんな時か分かりますよね。私たちが洗礼を受けた時より、救いの時が近づいています。だから、洗礼を受けた時のように、新たになりましょう。」

  この「時」が重要なのは、それは、「到来の時」だからです。今週は、まだ王であるキリストの雰囲気が残っています。しかし、そこにあるのは「到来の時」です。私たちは、「アドベント」という言葉を聞いたことがあります。待降節を表す言葉です。もともとこの言葉は、「アド・ヴェントゥス」というラテン語から来る言葉です。その意味は、向こう側からこちらへ「やって(アド)」「くる(ヴェントゥス)」という意味です。その意味は、「もういくつ寝るとお正月」と待つことではありません。また、努力して引き寄せること、実現させることでもありません。私たちにはどうにもできない「時」なのです。ただ、神様がやってくる、実現してくださるその時を、待つことしかできません。

  ところが、私たちは、そのことをいつも意識できているわけではありません。イエス様は、ノアの時の例を挙げています。「人々は、食べたり飲んだりしていた。」つまり、普通に日常生活をしていたということです。この「到来」の時は、日常に起こることです。それが待つことしかできない時を待つということですが、たいていは、すっかり意識していない時でもあるのです。ですから、私たちは「第三の到来」ということを考え、意識する必要があるでしょう。第一の到来は二千年前の到来、もう一つの到来は世の終わりの到来。そして第三の到来です。これも、私たちの日常生活の中で起こります。

  第三の到来は、普通あまり意識されませんが、日常生活の中で、父である神が、御子であるキリストが、そして聖霊が、私たちに語り掛けます。いつ、何を語り掛けるかわかりません。待降節を迎えたこの季節、日常生活に起こるこの第三の到来を、考えてみませんか。私たちは、いつ語り掛けられてきてもよい用意ができているでしょうか。 



【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたは救いを待ち望むすべての人とともにいてくださいます。

  待降節を迎えたわたしたちの心を照らしてください。

  争いや対立が絶えないこの世界にあって、

  キリストの光を頼りに歩んでいくことができますように。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ2章1-5節)


アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。


終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。

国々はこぞって大河のようにそこに向かい


多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。

わたしたちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。


主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。


ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ13章11-14a節)


更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。

あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。

今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。


夜は更け、日は近づいた。

だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。


日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。

酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、


主イエス・キリストを身にまといなさい。

欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ24章37-44節)


(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

このことをわきまえていなさい。

家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

2022年11月18日金曜日

11月20日 王であるキリスト

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 王であるキリスト C年 2022年11月20日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日は、教会の暦の中でこの一年間の最後の主日です。そして、王であるキリスト、世の終わりの完成を記念します。しかし、朗読個所は、なぜ十字架の場面なのでしょうか。それは、第一朗読との関係でわかります。第一朗読は、ダビデが全イスラエルの王となる個所です。彼は、油注がれることによって王となりました。イエス様は、エルサレムに入城し、メシア、王として十字架にかかることによって、ご自分がキリスト、メシアであることを示されました。ここで、大きな誤解が生まれました。

  第一朗読によると、ユダ族とそれに属さない部族の間に和解が生じ、ユダ族の長であるダビデのもとに、他の部族が集結し、彼らはダビデに油を注ぐことで、イスラエル統一王国を成立させました。この出来事は、後々メシアのモデルになっていきます。当時の人たちは、こうして神様から油注がれる(メシアになる)と、彼は政治的経済的もちろん軍事的力を持ち、諸国を征服し、神の国の完成のためにイスラエルの人々を率いてエルサレムに王として君臨するはず、とイメージしました。それが伝統的なメシアのイメージだったからです。だから、本物のメシアなら十字架などから降りて、諸国に対して王として君臨するはずです。だからそれを、イエス様に求めました。「十字架から降りてこい」

  しかし、実際のイエス様は、そうではありませんでした。その逆で、むざむざと殺されていきました。伝統に生きるイスラエル人としては、イエス様のその姿を、とてもメシアとして見ることができませんでした。ただ一人、イエス様と一緒に十字架にかけられた盗賊の人だけが例外でした。後に、エマオに向かう弟子たちに、聖書を通して教えたように、伝統的なメシア理解とは別のことが聖書には書かれていました。人々は、それを知ることができませんでした。イエス様が教えても。

  このことは、そう簡単ではありません。同じ歴史を生き、伝統を重んじ、聖書を知り、神様を知ったとしても、まったく別の理解になってしまったこのイスラエルの人たちと同じことを起こしかねません。今日の福音は、こうした私たちの持つ危険性を教えています。世の終わりの完成の時、違っていましたでは済まされない事が起こり得るからです。キリストは、人間の姿で現れ、わたしたちのうちに暮らしました。そこにイエス様の求めたものを、私たちが求めるべきものを見逃さないようにしましょう。それには、わたしたちと暮らしたイエス様の言動から目を離さないことでしょう。イエス様は常に話しかけています。父である神様のように、そして、聖霊のように。耳を傾け、識別することを心がけていきましょう。


【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたは十字架につけられたひとり子イエスを、

  すべての人の救い主として示してくださいました。

  キリストこそ、世界に平和をもたらし、

  人類を一つにする主であることを、

  きょう、深く心にとめることができますように。

集会祈願より



第1朗読 サムエル記 (サムエル下5章1-3節)


(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。

「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」


イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。

ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。

長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。



第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 (コロサイ1章12-20節)


(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)


御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。


御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。

こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。


神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ23章35-43節)


民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」


兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。


十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。


するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

2022年11月12日土曜日

11月13日 年間第33主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。





【福音メッセージ】 年間第33主日 C年 2022年11月13日 松村神父

現代人にとって世の終わりとは何を示すのでしょうか?1999年を迎えた時、あちらこちらで“2000年になるとコンピューターが誤作動を起こす”とか、“ノストラダムスの大予言で地球が滅びる”とか、はたまたこの世の終わりをつげカルト教団が街のあちらこちらで説法を説いて、市民をあおっていました。私自身も声をかけられた事がありました。「あなたは不幸にみえますよ!手をかざしてあげますから安心してください。」と。よっぽど私の顔が暗く見えたのでしょう。でもニコニコして歩いている人などは逆に奇妙ですよね。

 この世の終わりや、人生の終わりに恐怖を覚えるということはどういった心の動きがあるのでしょう。それは“未練”と“執着”ということなのかもしれません。それは何かに対する“不完全さ”を表すと同時に、「もっと」「さらに」という“欲求”の表れかもしれません。逆にそれだけ“成し遂げていない”思いや、“満足できていない”ということなのかもしれません。

 今日の福音の前提には、エルサレム神殿を見たイエスのこの世的人間の儚さが目に映っていたことがあげられます。この世で成し遂げることに翻弄される人々。しかし神殿が後に崩壊の道をたどることを予見し、今の“人”の努力には限界がある事を示します。ここでイエスが語りたいのは“神”の働きを中心に置かなければならないこと。神殿は人の体そのものである事が忘れ去られ、形と見えるものにその重要度が移されてしまっていることです。イエスの到来は「神を愛し、隣人を愛すること」を宣べ伝えることで、形・体裁に力点が置かれる事ではありません。ヘロデ大王によって改築されたエルサレムの神殿は人間のエゴそのもので形作られてしまったことへの嘆きなのかもしれません。つまり本来的ではないということです。

 揺るがない神の示す道がありますが、私たちの世界には横から人の想いで意見を指し示す人が現れたり、「私の信仰こそ正しい」と、自分の信仰を揺るがす人がいます。これを偽預言者やイエスの名を語るものと表現されています。そこにいさかいや戦いが生じます。迫害もあり苦しみも生じます。しかし神の想い、キリストの想いを中心に置いたときには、それらの事は「神のみ旨に」と聖母マリアのようにお捧げして、忍耐の中で“しるし”が現れるまで耐え忍ぶこと、そして自身の中におごり高ぶる心に回心を促すことこそ大切ではないでしょうか。なかなか一人で乗り越えることは難しいかもしれません。ですから教会共同体の謙虚な分かち合い、現在進められているシノドスの動きは、私たちを成長に導いていくのです。愚痴のはけ口の場ではなく、自身の至らなさを分かち合い、全ての人の回心への神の導きを通して、主の来臨まで耐え忍んでいきたいと思います。耐え忍ぶと言われると苦しいように感じますが、私たち一人一人は先に救いの道を示された弟子のひとりであることに、安心と勇気をもって、互いの信頼のうちに過ごしていきたいと思います。


【聖書朗読箇所】

すべてのものの主である神よ、

  あなたはご自分をおそれ敬う者を助け、導いてくださいます。

  み前に集うわたしたちを聖霊によって強めてください。

  どのような試練にあっても、キリストに従うことができますように。

集会祈願より



第1朗読 マラキの預言 (マラキ3章19-20a節)

見よ、その日が来る炉のように燃える日が。

高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。

到来するその日は、と万軍の主は言われる。

彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。

その翼にはいやす力がある。



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ3章7-12節)


(皆さん、あなたがたは、)わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。

わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。


また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。

むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。


援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、

あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。


実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、

「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。


ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、

少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。


そのような者たちに、わたしたちは

主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。

自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ21章5-19節)


(そのとき、)ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。


「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」


そこで、彼らはイエスに尋ねた。

「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」


イエスは言われた。

「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」


そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

2022年11月5日土曜日

11月6日 年間第32主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第32主日 C年 2022年11月6日 レイ神父

イエスを試すのにサドカイ派の人々は難しい質問をしました。跡継ぎを残さずに亡くなっていった7人の兄弟のことを尋ねます。長男が亡くなるとその妻を次々とその兄弟がめとっていくのです。

彼らの質問はこうでした。復活の時この女はだれの妻となるのか?イエスを試すために彼らはこのように尋ねたのです。前のところではサドカイ派の人々は復活があることを否定しています。

イエスは、結婚は生きている時のことであり復活の時の事ではないと彼らに説明し、答えます。それは罠にかけようとしたサドカイ派の人たちを負かし、死者の復活を信じていた律法学者たちはイエスを讃えます。

この話は、私たちに真実は完全でそれは打ち負かすことはできないことを明らかにします。真実は常に勝利します。イエスは何が真実かを述べ、サドカイ派の人々の愚かさを暴露します。どんな人間の策略も真実を打ち負かすことはできないと教えます。

これは私たちがここで学べる大切な教訓であり、生活全てにあてはまります。サドカイ派の人々のような質問を受けることはなくても、人生の中で難しい質問に出会うでしょう。イエスにしかけられたようなものでなくても、そのような問は必ずあるでしょう。

私たちがどんなに困ってもその答えはある、とこの福音は確信させてくれます。たとえ理解しえなくても、もし真実を探し求めるのなら、私たちはその真実を見つけ出すのです。


今日は、あなたの信仰の旅で最も挑戦的なことについて黙想しましょう。 それは死後の世界、苦しみ、あるいは創造についての質問かもしれませんし、大変個人的なこともかもしれません。あるいは現在はまだ、私たちは主への質問に充分な時間を取ってないかもしれません。それが何であれ、全てのことに真実を求め、主に知恵を尋ね、そうすることで日毎にさらに深い信仰に入って行くことでしょう。


【聖書朗読箇所】

すべての人の救いを望まれる神よ、

   ひとり子イエスは、死からの復活によって、

   永遠のいのちの扉を開いてくださいました。

   ここに集められたわたしたちに希望の光を注ぎ、

   尽きることのない喜びで満たしてください。

集会祈願より



第1朗読 マカバイ記 (Ⅱマカバイ7章1-2,9-14節)

また次のようなこともあった。

七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。


彼らの一人が皆に代わって言った。

「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」


(二番目の者も)息を引き取る間際に言った。

「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」


彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。

彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。

「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。

わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」

そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。


やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。

死ぬ間際に彼は言った。

「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ2章16-3章5節)

(皆さん、)わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。


終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。

すべての人に、信仰があるわけではないのです。

しかし、主は真実な方です。

必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。

そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。


どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ20章27-38節)

(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。


「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。

すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」


イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」