2015年5月31日日曜日

三位一体の主日

昨日の土曜日は快晴に恵まれ、札幌市内の多くの小学校で運動会が行われました。
教会学校の子供たちも活躍されたのではないでしょうか?

今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。


『今日の「聖書と典礼」の表紙に使われている絵は、日本在住のアルベルト・カルペンティール神父の作品です。この神父様の作品は、身近なところでは山鼻教会の十字架の道行きのステンドグラスで使われており、独特の味わいを持っています。

今日、私たちに語られた福音は、マタイ福音書の最後の章になります。
全ては死によって終わってしまうという時代を生きていた弟子たちにとって、新しい時代の到来を語られる内容となっています。イエスの復活によって、死んでも終わりではないという新しい世界の到来でした。この新しい時代の到来を弟子たちは知っていましたが、周りの多くの人々にはまだ知らされていませんでした。そこでイエスは弟子たちに、まずガリラヤに行くように命じ、不安の中にあった弟子たちは復活の主に出会うことによって不安が消え去ることを体験します。弟子たちは不安という暗闇の世界から、新しい世界に向かって歩み出そうという、それが今日の福音のなかにも感じられます。
復活の主に出会うということは、太陽が昇って光が闇の世界の終わりを告げるというような出来事であったと思います。
「復活の喜びをもって、全ての民を私の弟子にしなさい」とイエスは弟子たちに命じます。そして、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさいと、まさに福音宣教での派遣を復活の主が命じています。父と子と聖霊の一致の精神をもってすれば、難しく思える宣教もまた可能であるということを私たちにも告げているようです。私だけの力では力が及ばず不安であるけれども、父と子と聖霊のみ名によって行うならば、神の恵みが可能にさせるということだと思います。
父と子と聖霊という三位一体の神。その神は三つの位格をもって永遠に相互に与え合っている、それが愛である、ということがよく言われます。それは私たちの信仰告白につながっています。

この愛という言葉を、聖書思想事典で見てみると次のようなことが書かれています。
信仰を日々生きるものは、聖霊によって神との愛の対話のうちに導かれています。その歩みによって神の奥義に近付いていきます。神は私たちに語り、呼びかけ、そして行動を促します。私たちはその神の愛に応えるという道をとおって、神の深い認識に至る。
それは簡単であるとはいえませんが、神は御子キリストをこの世に遣わし、私たちに御子を与えてくださったのであり、神はご自分が愛によって、御子を与えるものであることを私たちに示します。その御子は純粋な愛の対話のうちに、御父とともに生きることによって、自分と御父とが永遠から一つであること、自分が神そのもの、父の懐にいるひとり子であることを明らかにしている。
御父と御子の関係が示されていますが、まさに御父の懐にいて御子ははたらいている、その使命を果たしている、この世に遣わされたとき、イエスの心は常に御父と一つであったということでもあると思います。
こうして子である御子イエスキリストは、誰一人見たことがない父である神を知らせているのです。そして、この神とは聖霊において一致している父と子のことでもあります。
人間が用いる言葉は、豊かな内容と同時に限界も兼ね備えています。
その中でも、三位一体の奥義、つまり父と子と聖霊は永遠に相互に与え合っていることを最もよく表しているのは「愛」なのです。
と、このように聖書思想事典の中では「愛」という言葉が表現されていました。

神は「愛」であるという表現を私たちはよく聞きます。まさに三位一体の神が愛そのものでもあるということを私たちは信仰のなかで何度も聞いています。
私たちの信仰は愛につながっている。愛に結ばれている。ですから私たちが信仰に生きるということは、愛を生きるということでなければならないということです。
三位一体の神秘は、私たち人間の力では、理解することは本当に難しいことです。悟ることはできないけれど、信じることはできます。
新約時代になって旧約時代に知られていなかった神のもう一つの姿が啓示されました。それが御子の姿、イエス・キリストでもありました。キリストは私たちが目に見える姿をとって、この世に遣わされた神でもあります。そのキリストは、弟子たちの前で話されています。「私は天においても地においても全ての権能が与えられているもの。」さらに助け主である聖霊についても語られていました。聖霊はキリストのみ言葉を私たちにより良く理解させる恵みを私たちにもたらしています。キリストの心を心とさせ、アッパ、父よと呼びかけさせるはたらきを持っています。
世の終わりまで、いつもあなた方とともにいると約束されたキリストは、弱い私たちの支えとなって下さる方。三位一体の神秘を理解することは簡単ではありませんが、三位一体の神に心を向け、私たちの揺るぎない信仰によって、どんな時にも見守ってくださる神、イエス・キリストとともに私たちの信仰を歩み続けたいと思います。』

2015年5月26日火曜日

DVD「現代世界憲章への道」の視聴

30日の中央協議会社会司教委員会主催の

シンポジウムに向け、ミサ後、昨年秋に制作

されたDVD「現代世界憲章への道」を

約50名が集まり視聴しました。



現代世界憲章の中の「戦争や平和」に関する部分が

公会議を開催し、米ソの戦争、キューバ危機を

打開するために役割を果たされ教皇ヨハネ23世の

回勅「地上の平和」がその部分を引き継いでいることを

理解しました。

すなわち「軍備の平衡が平和の条件」ではなく

「真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない」という

メッセージでした。

おりしから、現在の日本は、安全保障の関連で

これまでの憲法解釈が変更され、

自衛隊が海外にまで赴くような事態が想定されることから、

多くの国民から危惧の声があがっています。

国会で審議が始まろうとしていますが、

これらのことが

キリストの観点からどうなのか考える必要があります。

2015年5月24日日曜日

聖霊降臨の主日

今日で復活節の典礼が終わり、復活のローソクも外されます。
弟子たちが聖霊によって勇気づけられたように、私たちのうえにも聖霊の恵みがありますよう謙虚に清い心で神に感謝し祈りを捧げましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『復活の主日から聖霊降臨の主日に至るまでの50日間を私たちは過ごしてきました。この日をもって復活節の典礼が終わりを告げます。
今日の聖霊降臨を毎年私たちはお祝いしますが、聖霊に対する理解は簡単なものではないと思います。イエスは最後の晩さんの時に、弟子たちに語っていました。約束していた聖霊は、弟子たちに遣わされることが既に弟子たちに話されていました。その具体的な出来事は今日の第一朗読である使徒言行録の中で語られました。
霊は目には見えないものですが、私たちはその”しるし”をいろいろなところで見たり聞いたりしているような気がします。時に自然の中で、音を聞いたり風を感じたりするなかに聖霊を意識する人もたくさんいるのかもしれません。聖書の中では「突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた」というような表現で聖霊降臨の出来事が始まります。聖霊は、聖書の様々な箇所でいろいろな言葉で表現されています。息吹や風を意味するとも言われています。また、聖霊には聖なる命や聖なる力をもたらすイメージがあります。旧約聖書の創世記の中では、天地創造をされた神が土で人を形作られました。そして、神が息を吹きかけると命がそこから始まったと表現されています。霊は私たちの命に関わっていることを表しています。旧約のイスラエルの民は、神が全てであるという信仰をずっと生き続けています。民を救い、守り、苦しみから解放し導いてくださる、それは神そのものである、その神を信じ教えを守りイスラエルの民は信仰の歴史を歩んでいます。どんなに感謝しても感謝しきれない恵みを与えられてきた、そのような意識がイスラエルの民にはありました。旧約聖書におけるイスラエルの民の神への感謝は、祭りの中で大変重要な意味を持っていました。祭りと密接につながった信仰の民、それがイスラエルの民でもあります。祭りの中でも、過ぎ越し祭、仮庵の祭り(かりいおのまつり)、そして今日出てくる五旬祭の祭りは、三大祭りとしてイスラエルの民の信仰と最も密接に結ばれているものです。イスラエルの民は、この祭りの時には神殿にお参りすることが義務となっていました。
聖霊降臨は、この三大祭りの中の五旬祭と深くつながっています。五旬祭はギリシャ語でペンテコステといわれ、50日間という意味を持っています。これは現代の典礼における復活節の50日間と深くつながって今日に至っています。その50日が今日で終わるということです。祭壇に飾れていた復活のローソクも今日で外されることになります。
目に見えない聖霊の恵みを私たちはたくさんいただいています。イエスはかつて弟子たちにこう話されていました。
「あなた方にはこの世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。」、さらに「言っておきたいことはたくさんあるが、あなた方は理解できない。しかし、真理の霊であるその方が来られると、真理のあらゆる面であなた方を導いてくださる。」こう話されています。
私たちは聖霊について深い理解はできないとしても、私たちの歩みを聖霊がしっかりと導いて下さると、そのように私たちは信じたいと思います。聖霊の恵みが私たち一人一人に与えられているということは、私たちを勇気付けてくれることでもあります。
私たちにとっては、あらゆる面で足りないことばかりです。足りないことを自覚し、神に依り頼むことがあれば、聖霊の恵みがより一層訪れることではないでしょうか。自分は完璧だという思いでいるならば、聖霊の働きは開かれていかないような気がします。
イエス・キリストの十字架を感謝する、イエス・キリストの贖いに私たちは喜ぶことができます。そのことを受け入れることが出来る人に聖霊は与えられます。聖霊は清いものですから、私たちの心も清くしていかなければ、聖霊が入ってくる余地がないのではと思います。私たちの心の汚れをいつも清めて、聖霊を受けいれる準備をしていきたいと思います。
父なる神は、最愛のひとり子をお捧げしています。最愛の子イエス・キリストが、十字架の贖いの業を成し遂げて、私たち一人一人を父である神の御元へ招きます。私たちも感謝を忘れなかったイスラエルの民の信仰を学び、神が成就してくださったその御業を感謝して、その恵みに応えていくことが私たちの信仰の成長につながっていくものだと思います。
今日私たちに告げられた御言葉で、霊の結ぶ実りは愛であると語られています。そして聖霊の賜物は、一般的に七つの賜物として表現されています。教皇様は昨年、ローマを訪れる巡礼の人々への演説のなかで、聖霊の七つの賜物について度々話されています。それは、「上智」「聡明」「賢慮」「勇気」「知識」「孝愛」「主への畏敬」。分かりやすく言い換えると、知恵、理解、判断、勇気、神を知る、神を愛する、そして、神を敬う恵みということになります。信じる心を照らすといわれる聖霊に、私たちは心を開いて、私たち自身と教会のために、そして今、助けを必要としている弱き人、貧しい人のために、祈らなければと思います。』

2015年5月17日日曜日

主の昇天

「主の昇天」を迎え次の主日からは年間の季節が始まります。
私たちの共同体も総会を終え、新しい体制でスタートが切られます。
今日の御言葉をとおして私たちに出来る福音宣教を考えましょう。



今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日の「主の昇天」の祭日は、本来は木曜日ですが、日本では守るべき祝日とはなっていないため、復活の第7主日の今日に「主の昇天」を迎えています。復活節が今日で終わり、来週からは年間の季節に移ります。私たちの教会でも先週、教会総会があり新たなスタートが切られています。
私たちの現実は、苦しみや悩みが日々、日常的に起こっています。私も時々お御堂で祈りますが、いつも感謝の祈りばかりではなく、悩みを抱えながら祈りを捧げるときもあります。そういう時に聖堂の壁画に描かれているゲッセマネの園で十字架の死を前にした苦しみの中で祈りを捧げるイエスの姿に、慰めや励ましを感じることがあります。
マルコ福音書は、ガリラヤから始まりガリラヤでイエスの昇天で終わります。マルコ福音は全16章で構成され、福音書の中では最も短いものです。イエスの誕生からイエスの洗礼そして荒れ野での40日間の黙想と断食という第1章から、今日の福音の第16章の最後へと続きます。このイエスの断食と祈りの40日間という数値は、今の私たちの典礼にも引き継がれています。灰の水曜日から主日を除いた40日間の四旬節を過ごし、復活の主日から40日間後の「主の昇天」まで典礼の季節を生きています。主の昇天を迎えている今日、この主の昇天に託されたみ言葉を黙想したいと思います。
イエスは弟子たちとの最後の日、「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」このように命令して天に昇っていきました。
弟子たちはその言葉をどのように受け止めたのでしょうか?
長い間、イエスと生活を共にしてきた弟子たちにとって、イエスとの別れは寂しさや不安の気持ちがあったと想像できます。しかしイエスは、辛い時、悲しい時にもみ言葉を宣べ伝える使命を弟子たちに託しました。弟子たちに託したということは、私たちにもその大切さを命令されたということなのだと思います。
イエスの話される言葉は、時に私たちの思いを遥かに超えるものがたくさんあります。私たちの価値観からすると、イエスの言葉はあまりにも大き過ぎたり重過ぎたりするのかもしれません。全ての人に福音を宣べ伝えなさいという言葉も、弟子たちにとっては大き過ぎる命令ではなかったでしょうか。自分達の力の無さを嘆いていたことと思います。でもイエスはその時、聖霊を派遣し弟子たちを励ましました。その助けによって、弟子たちそして私たちも勇気をもって、宣教に専念することができるのだと思います。ですから私たちが聖霊を信頼しなければ、聖霊の助けを願わなければ、私たちの宣教は力不足に終わってしまうのかもしれません。
福音宣教とは、私にとってどういうことだったのだろうかと、今改めて思い起こしています。それは、私自身の召し出しともつながっていたと思います。私は函館地区において、二十歳のときに初めて教会を訪れました。そこから私とキリスト教との関係がスタートしました。初めて訪れた教会は小さな共同体で、そこにおられたのはフランスからきた宣教司でした。そうした出会いから始まり、それから私はどんどんキリスト教に惹かれていくようになりました。パリミッションの神父様との会話をとおして、何故、神父様が祖国から遠く離れたこの田舎の地に来られたのか、こんなにも一生懸命に宣教生活を頑張っておられるのかと不思議に感じていました。その背景には、イエスの「全世界に行って福音を宣べ伝える」というメッセージがあったのだと思います。そのような司祭の情熱、信仰の姿をとおして、私の中に種が蒔かれていたのかなと思います。
皆さんにとって、福音宣教を行うというのはどいうことなのでしょうか?
私たちの福音宣教は、小さいながらもいろいろな形となって現れていると思います。教会の中でも時々感心することがあります。平日のお御堂で椅子の座布団をひとつひとつ並べ直している方々がおられます。初めて教会を訪れた方が聖堂に入ったとき、そのきちっと並べられた座布団を見ることで、心が和み祈りをする気持ちも深まっていくのではないかと思います。小さな行為かもしれませんが、間接的には福音宣教につながっていくのではと思います。このように、私たちにはいろいろな形で出来ることがあるのではないかと思います。私たち一人一人が、小さな行いを大切にして実践していくことで、共同体もより活き活きとしていくことでしょうし、共同体の外とのつながりも深められていくような気がしています。イエスが昇天して姿が見えなくなるまでは、イエスは自ら語り、自ら手を伸ばして、病む人、貧しき人に近付いていきました。慰め癒すのもイエス自らが行うのを弟子たちは身近に見てきましたが、主の昇天の後、弟子たちは自分達がイエスの行いを受け継がなければなりませんでした。しかし、自分達の不足するところは聖霊が助けて下さる、その約束を信じて、弟子たちは力強く歩み出そうとしています。
私たちの福音宣教、それは主の昇天で最後にイエスが託された命令から始まっていきます。福音を宣べ伝えるということは、自分の信念やイデオロギーを伝えるということではないはずです。また、教会を大きくするためでもありません。政治的な影響力を大きくするということでもないはずです。あくまでもイエスを伝えること、人々とイエスとの触れ合いを育てていくこと、それが求められる福音宣教の姿だと思います。人々とイエスとの出会いの場の仲介者として教会があり、そして私たち一人一人が置かれているような気がします。キリストの期待に応えるために、私たちは常に自らの思いを警戒しなければなりません。そして、世界の真実、それをいつも正しく聞き取ることができるような感性を磨いていかなければならないと思います。』

2015年5月5日火曜日

復活節第5主日 「ぶどうの木とその枝のたとえ」

後半のゴールデンウィーク初日のも拘わらず、9時ミサにはいつもの主日と同じくらいの方が集まり、聖堂内は心なしかブルーのウェアーが目立っていました。
そして、今日も子供たちの侍者がたくさん集まりました。


ミサ後にわかりましたが、外国からの方も含めて10名程の旅行者がいらっしゃっていたようです。北一条教会では先週からネパール地震の募金呼びかけを行っていますが、旅先にも拘わらず多くのかたがネパールの子どもたちに心を寄せ、カリタスジャパンを通じての募金活動に賛同をして下さいました。
後藤神父の説教は「聖母月の5月を迎えました~」で始まり、世界中で起きている繋争から私たちの些細な揉事までの解決について、聖母マリアのとりなしを、「ブドウの木」の譬えでは剪定を強調され、私たちの中にある不誠実を戒められたように伝わりました。
北一条教会は、来週10日に教会総会が開かれ、新しい委員長の下で新たな旅立ちが始まりますが、今日の月例集会が現委員長下での最後の月例集会になりました。6年間もの長きに亘って教会共同体を纏めて下さった現委員長に感謝をします。


後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。

『今日私たちに語られているのは、ぶどうの木と枝のたとえ話です。イエスが十字架を前にして、イエスを失った後の弟子たちが信仰生活を続けていくために、今何が必要であるのかを話したのが、今日のたとえ話になります。私たちはこのたとえ話をどのように受け止めているでしょうか?
ゆっくり静かに今日のみ言葉を味わうと、神様の愛が私たちの心に響いてきます。いかに私たちは神様とつながっていることが大事なことであるのか、そして本当に神様とつながっているのかを問われているような気がします。
イエスは弟子たちに話されています。「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」そしてその前段では”実を結ばない枝は刈り取られる”という言葉が語られていました。
私たちは実を結ぶことができる枝として、信仰を生きているでしょうか?
イエスにつながっているでしょうか?
また、イエスは次のようにも語れます。
「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
私たちは時にこのような言葉を聞いて、それでは何かお願いしてみよう、という気になってしまいます。しかし、必ずしも願ったことが叶わないということも私たちは知っています。思うようにならないこともある、ということを私たちは知らなければなりません。そして時に、イエスのみ言葉を十分に理解しないまま、願いがかなえられないと不平不満を言っている私たちがいます。イエスの言葉を注意深く聞いてみましょう「わたしの言葉がいつもあなたがたの内にあるならば、」と言っておられるのです。
私たちの信仰が、いつも神を信仰し一致してイエスのみ言葉を生きているなら、あなた方の願いは何でもかなえてあげようと言っておられるのです。私たちがイエスのみ言葉を蔑ろにしたり、聞く耳を持たなかったり、自分の都合のいいようにだけ解釈して生きているのに、願い事だけは一生懸命となえているということも有り得るような気がします。
また本当に心からイエスの名によって願っていたでしょうか?自分の思いが先になっている願いの方が多かったのではないでしょうか?
ゆっくりと静かに黙想することによって、普段気付かないことにも気付かされます。
ぶどう園の主人というのは、ぶどうの収穫のために、手入れを一生懸命されている方です。広い畑を見回しながら、弱っている枝、痛んでいる枝には消毒もし、肥料もやり、汗水流して一生懸命世話をします。剪定もしなければなりません。神はつながっている枝に対して、そのようなことをされているということを今日のたとえで話されています。つながっている枝に対して、伸び放題に放置しているのではなく、時には痛みを伴う剪定もしているというのがこの話の中にあると思います。”剪定”というのは、私たちの人生の中での痛みや苦しみの体験であり、枝をより丈夫にするための試練なのかもしれません。もしそのように受け止められるのなら、神様の愛をより感じることができ、痛みも苦しみにも耐えることができるような気がします。剪定をしながら、もしかしたら私たちに厳しい訓練をされているのかもしれない、私は黙想をしながらそのようなことも感じます。
つながっているということは、ただ安心して自分の思い通りになっている人生を過ごすということだけではなく、時には思いどおりにならない人生の日々があったにしても、それは神の私たちに対する愛のために受けなければならない厳しい訓練であり痛みなのかもしれません。それは多くの実を結ぶために、神が為されていることだと受け止めることができるなら、私たちはもっと強い生き方をできるような気がします。』