2019年11月24日日曜日

王であるキリスト

典礼暦では年間最後の主日を迎えています。
今日は「王であるキリスト」の祭日です。
「王であるキリスト」とは、この世の王とは違い、自分を犠牲にして人々を救い、憐れみをもって赦しを与えてくださる方です。



この日の午後、教皇フランシスコの長崎でのミサを、70名の方がカテドラルホールで視聴しました。



佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『 年間の最後の主日にあたる今日、わたしたちは「王であるキリスト」を祝います。
「王」と言われてもピンと来ないかもしれません。 覇権争いの中で「王」という者が現れては消えていきました。 権力をもってその地を統治する者が地上の王であるとすると、イエスはどういう意味で王なのかということが疑問となります。

ルカ福音書では一緒に十字架につけられた犯罪人たちのうちの一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言っています。 マルコやマタイ福音書でも二人の強盗たちが一緒に十字架につけられますが、どちらもイエスをののしったとあります。 回心する犯罪人を登場させるところに、苦しむ救い主とすべての人々に対する神のあわれみを記しているルカの特徴が表れています。
この犯罪人は自分もイエスもこの十字架上で死ぬことはわかってます。 この世での命が終わることが分かっています。 そして、「あなたの御国においでになるときには」と言っていることからイエスの王国が死を越えて実現するということを信じていると考えられます。 そこで「わたしを思い出してください」と願っています。 これはわたしたちの信仰の中心ではないでしょうか。 この犯罪人の姿こそがわたしたちキリストを信じる者の姿なのだということです。

わたしたちはみな各自それぞれ自分の十字架を背負って生きています。 その中でもがき苦しんで生きています。 人生の最後に至るまで「イエスよ、共にいてください」と願うことが大切なことだと今日の福音は教えているのです。
イエスの返事ははっきりしています。 「はっきり言っておく」という言葉をよく目にしますが、これは「この世の人々はこうであると言っているが、わたしは違うとはっきり言っておく」ということです。 みんなはそうは思わないだろうがわたしは次のようにはっきり言うということです。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは断言されました。 楽園とは、神と人とが共に暮らすところであり、人と人とが調和に満ちた世界だと言ってもいいでしょう。 創世記2章に描かれるエデンの園がまさしく楽園です。 エデンの園に神がアダムを連れてきてそこに住まわせ、そこを耕し守るようにされました。 そして女であるエバを一緒に住まわせました。 神と人々が一緒に暮らすところが楽園というわけです。 しかもそこにいるのが「今日」なのです。
「今日あなたはこの世の生を終えるが、すぐにわたしとともに楽園にいる」ということをイエスは言っているのです。 素晴らしい励ましの言葉です。 わたしたちの祈りがどうあればいいのかがここに示されていると思います。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
イエスに願い求めると同時にわたしたちがしなければならないことがあります。 それはその前の言葉です。もう一人の犯罪人が議員たちや兵士たちと同じ言葉を放った後です。
「メシアなら自分自身と我々を救ってみろ。」 この言葉に対して、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」ともう一人の犯罪人は弁護しました。
わたしたちキリスト者が神にゆるしを願うと同時に、神への信仰を証しすることが求められるということを表しています。
王であるキリストとは、自分を犠牲にして人々を救い、あわれみをもってゆるしを与えてくださる方を表しています。 自分を守るために君臨している地上の王とは違うお方です。 この回心した犯罪人のようにイエスを証しし、イエスが共にいてくださるように願いながら、王であるキリストをたたえてこの祭儀を続けてまいりましょう。』

2019年11月17日日曜日

年間第33主日

典礼は先週から「終末主日」と呼ばれる期間に入っています。
終末という言葉には文字通り「終わり」という意味と、「目的地」つまり、神の創造の完成という意味があります。
昨年の待降節から始まった教会暦年がもうすぐ終わります。この一年の神様の恵みを振り返ってみましょう。

この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の聖書と典礼の下の注釈に「イエスの宣教活動の結びにあたる終末についての説教」とあります。 終末というと、いま映画で上映している「ターミネーター:ニュー・フェイト」のような世界を思い浮かべるかもしれません。 また、世界の全面戦争ののちの絶望的な破壊というようなイメージがあります。 確かに今日の福音書に描かれる世界はそのようにも思えます。
「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」 戦争や民族紛争、大地震、飢饉、疫病などは今の時代でも同じく続いています。 だからといってまだ世の終わりが来たということではありません。 キリスト教で言う世の終わりはすべての者が滅びる時ではなく、イエスの再臨の時を言います。

天地の創造があって人間の旅路が始まりました。 神は人間を導いていきました。
ある程度その導きに応えていましたが、姿の見えない神に対して自分たちのやりたいことをするようになり神から離れていきました。 選ばれた民であるイスラエル民族は、そのたびにひどい仕打ちを周りの民族から受けてきました。 神は、イエスを人間の姿で人々の間に住まわせて人々を救おうとしました。 イエスは人々の間で神の国の教えを弟子たちに伝えていきました。 イエスはファリサイ派や律法学者の陰謀によって十字架につけられました。 死んで3日目に復活し弟子たちの間に現れ、死んでも新しい命に生まれ変わることを示されました。 40日目に聖霊の派遣を約束して天に昇っていきました。 50日目に祈っている弟子たちに聖霊が派遣されました。 聖霊の派遣ののち、弟子たちは聖霊に促され大胆にイエス・キリストを証しするようになりました。 わたしたちもこの弟子たちのようにイエス・キリストを証ししています。 聖霊を受けてイエスと共に歩むことになったわたしたちはこの世の中で神の国の実現のために働きます。 そしてイエス・キリストの再臨の時に世が終わり、神の創造が完成するのです。 この創造の完成に向かってわたしたちは生きているのです。

終末という言葉は「終わり」という意味ですが「目的地」という意味もあります。 この世がいつまでもだらだら続くということではなく、必ず目的地である神の創造の完成があるということ、キリストの再臨があるということをわたしたちは信じて生きていくのです。 その目的地に向かってどのように生きていくのかということが問題となるのです。 それは世の終わりだけでなく、個人個人の人生の終わりにも同じように言えるものです。
死が必ず訪れるものだということを意識していると生き方も根本的に変わるのです。
もし死ななかったとしたら、どうでしょう。 死なないなら働かなくてもいいし、朝起きなくてもいいし、食べなくてもいい。 何もしなくても死なないわけですから。 しかしそれは死んだのと同じです。 死が必ず訪れるからこそしっかりと生きるという意識が芽生えます。 今日のパウロの手紙に示されたようにしっかり生きなさいということです。

キリスト教における終末、目的地は「最後の審判」とも呼ばれます。 そのとき神の国が完成します。 最後の審判の前に個人個人の死においても同じように審判が下ります。 聖書にはいわゆる天国と地獄の記述があります。 煉獄の記述は聖書にはありませんが、カトリック教会はそこで神に向かう人は清めを受けると考えています。 天国にすぐ行けるほどの善い人生は送らなかった人、しかし善意はまだ持っている人が行く場所です。 そこで償いをしながら天国に入る準備をすることになります。 その償いはどういうものかというと、自分が地上で他人に与えた苦しみが痛切にわかるということです。 どんなに善良な人でも自分が他人にしてきた仕打ちのひどさが本当にはわかっていないでしょう。 わたしもまったくわかっていないと思います。 煉獄ではそれが身を切るようにわかるのです。 それがはっきりと自分の前に示されることによって心から悔い改めることができるのです。 それと同時にその人は神を求めているわけですから、天国の景色もはっきりと見えていることでしょう。 しかし、悔い改めが終わらないとどうしてもそこに行けないわけです。 どうしてもそこに行きたいというその痛切な思いも煉獄の痛みとなるわけです。 今この世で生きているわたしたちは、煉獄の霊魂のためにも祈っています。 少しでも早く天国に行けるようにと祈ります。 この煉獄の死者への思いはわたしたちの地上の生活を潤いのあるものにします。 わたしたちが祈り、犠牲を払い、よい振る舞いをすることは、わたしたちの愛する死者を早く天国に移す助けになるからです。 亡くなった方々もわたしたちのそのような祈りを聞いて感謝するでしょうし、自分の子や孫が善い人生を送ろうとしているのを見てうれしく思うのではないでしょうか。』

2019年11月10日日曜日

年間第32主日

ルカ 20・27-38

復活を否定しようとモーセ五書を引き合いに出し、言葉尻を捉えようと質問をしたサドカイ派に対して、イエスははっきりと復活を肯定しました。


森田神父様のお説教の一部をご紹介します。

『この日の福音朗読は復活についての問答です。
今回の質問者はサドカイ派の人たちでした。復活を否定するためにモーセ五書を引き合いに出し、イエス様の言葉尻を捉えようと質問をしたのです。
しかし、イエス様は「そんなことではない」と一蹴されます。
サドカイ派の人は、一生懸命知恵を巡らせて律法の知識を動員して、理論を詰めていくわけですが、イエス様の理論とは「格」が違うのでした。イエス様は、彼らと同じ次元で答えるのではなく、ご自分が知っている天の国では人は復活するのだと、復活をはっきりと肯定なさったわけです。
旧約聖書には、復活の箇所ははっきりとは書かれていません。イエス様になって初めて「復活」をはっきりと示されました。
旧約聖書のユダヤ人であれば誰もが知っている「柴」の箇所を挙げて、「神は生きている者の神である。だから、我々は死んでも生きる」と、イエス様はここではっきりと仰っているわけです。

この世で夫であり妻であった契というのは非常に大事なもので、永遠のいのちにあっては、特別な形できっと続くのだと思います。そして同時に、私たちは天の住人の他の全ての人と、大変親しい関わりがあり、お互いにお互いの幸せを望み、相手の幸せがそのまま自分の幸せになると、ある神学者は言っています。ですから、100人の住人がいれば、一人一人の喜びは100人分の喜びである。100万人の天の住人がいれば、一人一人の幸いは100万人幸いになるわけです。神様は、私たちのために考えられないような準備をなさっておられます。

天国から見たこの世については、いろいろな教会の歴史の中で様々な聖人が語っています。
ある人は、「煉獄の霊魂たちは、もし30分だけ地上に戻れるとしたら、多分煉獄は空っぽになるであろう」と言っています。それほど、煉獄から見たこの世というのは、もっと素晴らしい生き方をしていれば良かった、と思うようなところだと思います。

天国は、幸いに包まれ、何の悲しみも不幸もないところだけれど、主イエスが天から世に降りて来られた30年間の功徳ほど素晴らしいものはない。天国にいると、イエス様の地上での功徳や、十字架での業に与ることができない。この世にいる人だけが与ることができる。だから、苦しみに満ちたこの世での短い期間の功徳というものは、天国で得られるものとは比べものにならないほど大きいといわれます。』


ミサの後、秋の大掃除を行いました。
聖堂の床磨きをメインに作業しました。



2019年11月4日月曜日

年間第31主日「ザアカイ」

ザアカイ、急いで降りて来なさい (ルカ19・5より)

この日のみ言葉は、大変感動的なお話です。
周りから罪人と蔑まれ孤独な中にあったザアカイは、そんな自分に愛を示してくれたイエスに出会うことで、救われ、喜び、そして回心したのでした。


この日の森田神父様のお説教をご紹介します。

『背の低い有名なザアカイの話ですが、ご存じのとおり徴税人は嫌われていました。誇り高いユダヤの人々がローマ帝国という大国に支配され、それだけでも面白くない。神に選ばれた選民の意識を持っている人にとっては、それでも耐えがたいことです。仲間がローマに税を払うために税金を集める。ユダヤ人にやらせていました。みんなは国を裏切っていると憎むわけです。同時に徴税人は私腹を肥やす。ポケットにいくつか入れてしまう。ですから、罪人の代表。開き直って生きている人たち。社会からつんぼ桟敷にされ、彼らだけの仲間で生きていたのだと思います。

 ザアカイはその頭ですから、どう思われていたか良く分かります。しかし、イエス様は私は救われる、失われたものを探して救うためにきた。今日の話の中に具体的に現れているのです。木に登っているザアカイを見て、どおしてザアカイをご存じだったか分からないのですが、主はご存じであった。そして、よりによってその人の家に泊まるのです。ザアカイは本当に驚いた。主が自分を知っておられたということと、自分に宿を頼まれた。これはどんな思いか分かりません。そして、一晩イエス様と同じ家に住む。そういう特権を得るのです。ザアカイは半分財産を施します。だまし取っていたら4倍にして返します。素晴らしい心が湧き上がってきました。
  本当に神様はお造りになったもので嫌われるものはない。第一朗読(知恵の書)で言われていたとおりだと思います。神様はご自分がお造りになった人間が、世界で輝いて生きることを願っていらっしゃる。苦しみにうちひしがれた人生は、神様が望んでおられるわけでなく、ひとり一人の幸せに対して創造主として、父親として、彼らが幸せであることに 責任を持っていらっしゃる。感じていらっしゃる。そういうふうにフランシスコ教皇は言われておられます。

  まず、キリスト教では罪人をただただ赦すだけでない。やはり正義というものが満たされなければならない。犯した罪については償いが行わなければ社会の秩序が乱れてしまう。イエス様はそれを自分で全部背負うつもりだったのです。彼らが神の前で犯した大きな罪は、ご自分が十字架の上で苦しんで背負う。こういう気持ちがあったからこそいろんな人に福音のメッセージ、罪人の人にも救いのメッセージを告げることができたのだと思います。ただただ赦しとか、神を愛しているというメッセージだけでなくて、最後に自分が達していようとしていた、成し遂げられようとしていた十字架上の死。これをいつも見据えて、そこからその恵みがすべて流れ出る。罪人の罪を自分で背負うおつもりであった。ここを忘れてはいけないと思います。だからこそ失われたものを探して、救いのおとずれができたと言えると思います。

  また、次に人の心を開くものは何かということをこの箇所は教えてくれます。当時のファリサイ派の人や律法学者の人たちからきっと、このザアカイは罪をなじられたり、いろんなことを言われたりして生きてきたと思います。それで彼らが回心するわけでなく、むしろユダヤ社会から自分たちはつんぼ桟敷にされた。もう戻れない。そういう気持ちのなかで開き直りです。自分たちだけのグループの中で淡々として生きてきた。回心をとても望めなかった人たちか分かりません。イエス様がその家に訪れることによって、ザアカイの堅い心が開かれた。ザアカイの心の中に眠っていた信仰とか、さまざまな善意が目覚めたと、私たちは受け止めることができると思います。暖かいものに包まれたとき、私たちは素晴らしいものが開かれる。そういうことを学ぶことができると思います。人に変わって欲しいと思うとき、人に信仰を持って欲しいと思うときに、いろいろなやり方があると
思いますが、この現代、とりわけ宗教は真理を述べて論破するだけではいけないと思います。一昔論争の時代で、神の存在の証明、カトリックの正しさ、それぞれの宗派で論争していましたが、正しくてもついていけないということがあります。その神様が弱点だらけの私を包んでくださる。家に泊まろうとして声をかけてくださる。私と関わりをもとうとしてくださる。私が全部背負うから私の所に来なさいと言ってくださる。
 こういう神様を知ったら私たちはついていける。どうやったら人の心を開くことができるか。イエス様はきょうそれを見せてくださったような気がします。近づくこととか、敬意を称するとか、自分からその人のもとに行って願うこととか。本当に人の心を開かれる神様だと思います。

   また、三つ目に思いますのは、人が回心するときに、救われる可能性がなければ人は頑張ることができないのではと思います。いくら頑張っても無理だとか、この当時の社会の中で頑張っても認められないとか、ただただ欠点だけ見られて自分の弱さを指摘されたら、社会では信仰を持って頑張ろうと思っても、何か無理ではないかと感じがすると思います。しかし、成功するとか、神の子として神様に受け入れられて生きられる希望とか、罪と打ち勝って勝てるという希望を持つと頑張る気になれる。ザアカイもイエス様も、近づきを見てやっていけそうだ。この人ならついていける、信仰生活をまっとうできそうだと思ったにちがいありません。
 今までのキリスト教の歴史の中でたくさんの罪人、ときには人を殺したり、あるいは多くの人たちを堕落して生きてきた人たちが回心して、本当に聖人の道を歩んだ。そういう例はたくさんあります。日本でも本が出ていますが、元ヤクザだった人が牧師になった。
本当のボスを見つけた。親分を見つけた。私でもいいんだ。彼らが牧師になった後の写真となる前の写真の違いですね。ヤクザ時代の写真と牧師の生き生きとした写真。全然違います。人間ってこうも変われる。本当はこういう素晴らしい人だったんだ。あるいはこういう人もこんなに生き生きと生きることが可能なんだ。それが良く分かるのです。

  イエス様の赦しと近づきと私たちを暖かく包んでくださるその力は、人を一変させる
力があると思います。私たちも悪と戦うときに、最終的には悪い者が勝つのだと、何となく現代に流れている風潮ではないでしょうか。戦う気が起こらない。しかし、最終的には
善が勝つ。善と悪と様々なものが人間の心にあって、社会にも様々な善と悪があって、あるときは善が圧倒してる。しかし、神様にはいくらでも道がある。いろいろな方法がある。
私がこういう者であっても置かれた立場で最善を尽くしていれば、光が見える。そういうふうに信じられれば、私たちは頑張ろうとする。諦めるのではなくて頑張ろうとする。
戦おうとする。それが大事なような気がします。
  ナチスの時代。ドイツの国民は暴力と力に圧倒される。勝つ望みを失っていましたから。コルベ神父様はご自分が作っていた聖母の騎士という機関誌の中で、ポーランド語であったか分かりませんが、圧倒する悪夢の中で神が勝つと言われたのです。最終的にナチスは敗れましたがコルベ神父様自身はアウシュヴィッツの刑務所の中で人の身代わりとなって死んでいった。これも悪の結果かもしれませんが、それが刑務所の中の日常の光となったわけです。そういうまで生きる素晴らしい道がある。後生に語り継げられる素晴らしい道がある。これは後に世の中を照らす。私たちもこういう神様の道がどんなところにも、どんな闇がいっぱいのところにも、何かあることを信じていきたいと思います。

 今日は、徴税人の頭であるザアカイの話を見ながら、本当にこういう罪人を探すために近づいてくださるイエス様を私たちは見つめました。そして、キリスト教はただ赦しだけの甘い宗教であるわけでなく、その赦される罪人の罪を自分で背負って償う。正義をちゃんと全うするものである。イエス様がそれをなさったということ。忘れないようにしたいと思います。  2番目としてお話したのは、人の心に信仰がともる。あるいは人の心を開くものは何か。それは厳しい叱責であるよりも、イエス様のようにその人に愛する、近づく、その人に願う。そういう暖かい神様の慈しみがその人を開く。現代の教会は真偽を主張するだけでなく、多くの人を暖かく包む。その神様の慈しみを述べることが大事だと思います。  3つ目に、私たちは希望がなければ頑張りませんが、希望が見えたときに頑張ろうという気力になる。そして、闇が圧倒するような社会の中にも必ず光があり、その時代、時代その国のいろいろな面白い新たなやり方、信仰の歩み方というものがあり、それは大きな光である。それは神様には何通りも、何十通りでも、ひとり一人に対してそういうものを持っておられることを信じて、私たちも戦うことを諦めずに頑張っていきたいと思います。』