2019年2月24日日曜日

第24回カテドラルコンサートのお知らせ

2019年5月18日(土)
17:00開演 / 16:30開場
「聖母マリアの夕べの祈り」全曲演奏会



年間第7主日

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい(ルカ6・27より)
今日のルカ福音書では、「キリストの愛」が語られました。
キリストが求める愛は、愛してくれる人を愛する、よくしてくれる人に善いことをする愛ではありません。


今日のミサは、3月21日に司祭叙階式を控えている簑島助祭が共同司式され、春休みで帰省中の千葉神学生が侍者と聖体奉仕をされました。派遣の祝福前に、お二人から簡単なご挨拶がありました。



この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『昨日は、札幌地区宣教司牧評議会主催で、信徒の交流会が行われていました。私も参加しましたが、約140名の信徒、修道者、司祭が参加していました。司教様のお話が1時間ちょっとあって、その後、小グループに分かれて分かち合いがありました。「信徒中心の教会」が大きなテーマになっていました。札幌教区の新しい宣教司牧のありというのも背景にあると思います。私の参加したグループでも分かち合いをしましたが、教区のこれからの方向などを意識した発言が多くありました。1人の信徒の方が、信徒中心という言葉から、「私たちの教会には外国の人や未信者の人も来ているのですが、信徒中心というのはそういう人は入るのでしょうか。」という素朴な疑問も出て、分かち合いが進められていきました。皆さんは、司教様が年頭書簡で毎年のように「信徒中心の教会」ということを書かれているのをご存じでしょう。「信徒中心の教会」…どんなふうに考えていますか。私たちの教会は「信徒中心の教会」なのでしょうか。これに対応するのが「司祭中心の教会」でしょうか。信徒中心だけであっても困るでしょうし、司祭中心だけであっても困ります。
  司教様が話される「信徒中心の教会」という背景には、信徒一人一人がキリスト信者として委ねられた使命をまっとうしているかどうか問われている、「信徒中心の教会」になりましようということだと考えています。それは、過去に信仰についても信仰生活についても神父に頼り切るような信仰があったのではと感じます。信徒一人一人が自分の信仰をダイナミックに力強く生きることの方が大切だという背景があって、司教様は話されているような気がします。グループの中の一人が信徒中心と言ったとき、教会に来て勉強している未信者人の人が入る入らないか、それは私たち一人ひとり信者としての相応しいあり方を感じたとき、そういう人を排除してはいけない、そういう人を含めて私たちの教会と言うのではないですかと、おおかたグループの中の話し合いになっていました。きっと、皆さんもそのような考えと思います。
  教会に集められた一人ひとり、洗礼を受けていようといまいと、私たちの教会を作っていくのが大切だと、基本的にみなさんもそういうことを考えると思うのです。話し合いをし、分かち合いをし、ひとつの言葉から出てくる様々な考え方を共有しながら、もっと豊に私たちの教会共同体を作っていかなければと、そういう(交流会の)分かち合いの場でもあったと思います。
 新しい(司祭)異動にともなって、わたしたちの教会がもっともっと、主のみ心にかなった教会共同体づくりをしていかなければと、私たち誰にでもあると思います。皆さんの心をひとつにして、私たちの信仰が一人ひとり豊に生きられる教会、そして人とのつながりを作っていける教会を、皆さんといっしょに祈りながら進めていければと思います。

さて、『コロサイ書』には「愛する医者ルカ」(4.14)とあり、ここから福音書記者ルカの職業は伝統的に医者であると信じられてきました。また、画才・ 絵の才能もあり、初めて聖母マリアを描いたとの伝承もあり、画家の保護の 聖人でもあるといわれています。先週も話しましたが、ルカは、貧しい人とか、虐げられている人、弱い人、異邦人に対して非常に好意的なようであったようです。先週の「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」は、神から祝福を得られないといわれてきた貧しい人たちにとって、まさに福音でもありました。
 先週に引き続いて語られている今日のイエスのみことばは、あまりにも立派で恐れ入ってしまいます。「敵を愛しなさい」とか「憎しみを持っている人に親切にしなさい」それだけでも、 圧倒されて、何も言えないくらいなのに、さらに続いて、裁くな、ゆるしなさい、与えなさいと続いて話されます。
 道徳の教科書を見る思いでもありますが、わたしたちの日常生活でそれを守ることはいかに難しいことか。これらはイエスの新しい律法ともいわれていますが、なかなかわたしたちには出来ないことでしょう。わたしたちが信じる神は、わたしたちの敵も、憎む人をも愛しているということが真底わかり、その人たちのためにイエスが十字架に上られたと思う時、「わたしは出来ません」とは言えなくなってくるのです。そのことを心の底で思い知らなければと考えるばかりなのです。イエスの力、聖霊の恵みをいただかなければ、到底出来ることではありません。

 憎しみの連鎖を断ち切るためには、「目には目を、歯には歯を」という人間の心の中から湧き上がる感情を押さえ、越えなければならないのです。わたしたちが許せない、憎いと思う人のためにも死んでくださったというキリストの愛の論理が、わたしたちを招いているのです。しかし、人をゆるすことも、愛することもできずにいる自分は、自分に特別に関係する人だけを愛することに満足しているようでもあり、神の望みに応えることなく信仰者になりすましているようで、どんなに罪深い者かと感じるのです。
 イエスがペトロに「網を降ろしなさい」といった時、ペトロは心の中で(そんなことをしても無駄です)と少しの疑いを持ち、そのことをペトロはイエスの側にいることさえも恥ずかしく思い、「わたしから離れてください」と罪を告白しました。 失敗を繰り返すペトロが、いかに純粋な信仰を持つ人であり、魅力ある人間であることかと感じ入るばかりです。

 キリストが求める愛は、愛してくれる人を愛する、よくしてくれる人に善いことをする愛ではありません。「憎む者に善を行う」という敵さえも愛し、悪に対しても積極的に善を施すキリスト教的な愛なのであり、それは、十字架を背負うという自己犠牲を伴う愛なのです。
 キリストは神の国に入る条件として、神への愛と隣人への愛を説かれています。自分の秤で人を量ることなく、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」という教えを忘れることなく、わたしたちの心の中にどんな時にもとどまるように、今日のミサをとおして祈りましょう。』

2019年2月17日日曜日

年間第6主日

「心の貧しい人、その人たちは幸いである」
イエスの差し伸べてくる愛のまなざし、愛の手を深く感じとる心を大切にしたいと思います。


今日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日のみ言葉は、ルカの福音書と共観福音書のマタイ福音書にみられる同じ出来事が語られる場面ですが、ルカとマタイの福音を比較すると興味深いものがあります。ルカの福音では、弟子たちと共に山に退いていたイエスが、民の群れに教えるために山から下りて「平らなところに立って教えた」という下りになります。逆に、マタイの福音は、群衆から逃げて弟子たちと一緒に山に退き、弟子たちに語られた話しとして「山上の垂訓」になっているからです。同じような内容のお話ですが、山で語られるイエスと、民衆の近く平らなところで語られるイエスと、極端に違うイエスの姿を感じてしまいます。どういう理由だったのでしょうか。黙想の材料にもなります。
 ルカの福音によるとイエスは山に行って夜通し祈り、弟子たちを呼び寄せて中核となる12人の使徒を選びます。イエスによる12人の弟子の選びによって、新しい神のイスラエル、神の国の形成の意図があったかも知れません。そして、彼らと一緒に 山を下りて、平らなところに立ってイエスの教えを聞こうとして集まって来た群衆に語られたのです。ルカ版とも言える「平地の説教」は、マタイでは「山上の説教」となっています。マタイではイエスの教えの頂点として3章にわたり書かれています。でも、ルカの記述は、わずかに30節です。ルカは、すでにここに至る前の4章でイエスがナザレを訪問をしていました。貧しい人に福音が伝えられる時機が満ちたということで、福音宣教に出かける、そういう記述になります。イエスの話を聴いて感動した人々は、次から次へとイエスの周りに集まりました。特に貧しい人々が押し寄せています。

 今日の福音でも「貧しい人は幸いである」という言葉がありました。貧しい人とは、まず第一にイエスが「あなたがた心の貧しい人たち」という言葉になっています。貧しい人、それは聖書では心の状態を言うのです。次に「教えを聞こうとしてイエスのもとに来た群衆」、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞いて行う人」たちに代表されるイエスのメッセージ。それは、当時のキリスト者ではありますが、現代のわたしたちにも繋がってくるものです。
 ルカはキリストのみ言葉をとおして、貧しい人、迫害に苦しむ人々に対して地上的富や喜びが、われわれに救いをもたらすものではないことを強調して書かれます。ここにルカの、特に貧しい人たちに心を配り、貧しい人を幸いなるもののトップにあげて語るイエスの救いを伝えるのです。「金持ちが神の国にはいるのは難しい」と言われるように、富んでいる人を不幸なものの頂点にあげています。飢えている人、泣いている人は貧しい人のグループに入りますが、逆に、「今、満腹している人」、「今、笑っている人」は、みな富んでいる人のグループとしています。
 さらにいま、飢えている人、今泣き悲しんでいても、イエスによる救いが実現するときには、状況は完全に逆転すると伝えています。キリストは「権力あるものをその座から引きおろし、卑しい者を引き上げる」からです。ルカは、当時の社会背景に、貧しさや飢えに苦しむ人がいかに多くいたことや、また、富める人や権力ある人に迫害されていた人を背景に置いて福音書を書かれたように思います。

  私たちが聖書を見るときに、聖書を書いた福音記者の意図も少し考慮して読むと、深い味わいがあります。特にイエスの時代、その迫害の時代、苦しむ人飢え乾く人も含めて、社会が混乱した中で書かれたことを念頭に入れて置く必要があると思います。誰しも貧しさや飢え、迫害を好む人はいません。それらの苦悩を、救いの喜びを得るための手段として奨めています。そして福音の喜びは、資格のない者が資格のある者とされるところになる、そういうところのようです。
 ユダヤの国では貧しい人々は、少なくとも神から祝福を受けた人々とは見なされませんでした。彼らは神の国から遠い存在であったのです。しかし、イエスの福音はそういう人たちに慰めを与え、満ち足らせるのです。神が資格のない者を救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったがゆえに、貧しい人たちが幸いなのです。逆になぜ、喜んでいる者、満腹している者が災いとなるのでしょうか。それは、イエスを受け入れない人々、福音に耳を傾けようとしない人々、み言葉を聞かず、神の恵みに預かることが出来ない人々。それは現実にこの世的に満足してしまって、自分たちの幸いだけを考えてしまう人々と受け止めてしまいます。富自体が悪いわけではない。
 イエスの言葉を聞きたいと集まった群衆にとって、約束の救い主が来たと喜びます。イエスと共にあることが幸せでした。ますます、イエスの近くに行きたいと願います。イエスに触れようとする人々も出てくるくらいです。先日の福音でのパンの奇跡の話は、イエスが三日も自分といっしょに過ごしてついて来た群衆が、何も食べずに空腹であることに気づかい、「パンの奇跡」を行ったと紹介されていました。

 今、みことばに耳を傾けるわたしたちは、どんな幸せを持っているでしょうか。私たちの熱心さはどこに向かっているのでしょうか。日常の生活では、悩みも苦しみもあるわたしたちです。心貧しく生きている私たちではないでしょうか。見かけはそのようにないと言っても、心の中では誰でも悩みや苦しみを持っているはずです。今飢えている、今泣いているとは、現実に社会の底辺におしつぶされている人々と受け取っても良いはずです。私たちもそういう一人であるはずです。
 わたしたちは、貧しさや苦悩のうちに、見捨てられ、押しつぶされているその時、神が心配し、手を差し伸べ、救おうとされていることを感じとりたいものです。そして、救いへの道、希望を見つめ、真の幸福への道を見出すべきではないでしょうか。心の貧しい人、その人たちは幸いである。イエスの差し伸べてくる愛のまなざし、愛の手を深く感じとる心を大切にしたいと思います。』

2019年2月10日日曜日

年間第5主日

今日朗読されたルカ5・1-11では、「イエスの思い・呼びかけ」によって従う者となった弟子達の姿が語られました。


札幌教区の司祭異動(5月1日付)が発表されました。
それぞれの地区・小教区での新しい”歩み”が始まります。
神様の導き・恵みを祈りましょう。

ミサの後、恒例の「雪割り(排雪作業)」を行いました。
今年は雪もそれほど多くなく、青空の下、ほどよい汗を流しました。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」と今日の福音は語られます。わたしたちもクリスチャンとして信仰を持ち、「神のことばを聞こう」として教会に集いますが、わたしたちの信仰は、どうなのでしょうか?

湖畔に立つイエスは漁を終え、岸に上がって網を洗う漁師の仕事ぶりを眺めています。大勢の群衆が自分の回りに集まってくるの見ながら、舟に乗り岸から少し離れて、イエスは教えを群衆に述べられるのです。 神のことばを聞くということは、「神のみことばとして」受け入れることです。みなさんは、今もキリストが教会をとおして神のみことばを宣べ続けている全世界の人々中の一人であり、今日もイエスのことばを聴いているのです。
 「漁師が夜通し働いても漁がなかったが、キリストの言葉に従って網をおろすと網が裂けるほどの大漁であった」と言うことは、宣教も使徒職活動も キリストのみことばに従がうこと、そして、キリストと一致して働くことで効果があるということを象徴する話ではないでしょうか。
漁師のペトロにとっては、まさに奇跡のようですが、キリストにとってはみことばに従って働き続ける教会の未来を示唆する、預言的しるしでもあるようです。このすべてを見た漁師はペトロの他にヤコブとヨハネもいて、神のしるしを見て圧倒された三人はイエスに従うことになりました。

また、イエスは不思議なしるしを行ない病気さえ治してしまう方なのです。今日読まれたルカ福音書の前章では、高熱で苦しんでいたペトロの姑(しゅうとめ)を治した話がありました。この時、ペトロはすでにイエスという人物に深く関わっていることになります。
 ペトロはイエスに出会い、イエスに惚れ込み、イエスに従う者となったようですが、”招かれて”従うことになったのです。
「召しだし・出家」には、本人の熱意から決心する場合もあるでしょう。しかし、ペトロは「自分の思い」からではなく、「イエスの思い・呼びかけ」によって従う者となったのです。自分の熱心さからだけでは、召し出しは続くものではないとよく言われることです。私の神学生時代のある先輩は、家族が皆、熱心なクリスチャンで特に祖母の強い勧めもあり司祭の道を志したのですが、祖母の帰天をきっかけに改めて自分自身に問い掛け直し、神学校を去ったのでした。

ペトロは神の力の偉大さをつぶさに見て、イエスの足元にひれ伏しました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しました。わたしたちの力だけでは出来ないことをするのが神の業なのです。
イエスのもとにとどまる信仰者であるためには、いつ変わるかも知れない自分の気持ちを拠り所とした信仰ではなく、確かな信仰を持つためにも、何があっても変わることのないイエスの恵みを拠り所としなければなりません。自分の気持ちでイエスを信じる者ではなく、イエスの恵みによって 捕らえられた者になること、その信仰が必要なようです。

札幌教区の司祭の異動が発表されました。また、新たな土地、環境で働くことになります。旅する教会のように、ひと所にとどまっていることもならず、生きている限り、呼ばれるまで、また歩きはじめなくてはなりません。 人を漁る(すなどる)仕事でもあるわたしたち司祭の仕事ですが、矛盾を感じるような時でも、また、困難に思える時があっても、イエスとともに働くことで、豊かな実を結ぶことができると信じ、これからも進みたいものです。息切れがしてしまうようなこの頃でもありますが、生きていることを感謝し、一歩一歩、地を踏みしめて、歩いていかなくてはとも思います。

今日のみことばの最後には、 ペトロはイエスに招かれて「すべてを捨ててイエスに従った」と結んでいます。 このことばを心に留め、今日も、みなさんとともに新たな出発がありますようにと祈ります。』

2019年2月5日火曜日

年間第4主日

この日の福音ではイエスが郷里のナザレで受け入れられなかった話が語られました。
私たちがイエスを立ち去らせることのないよう,私たちの信仰を強められますように。


この日は月例会後に、2年間に渡って教会の将来について検討した「中長期ビジョン検討会議」の報告が行われました。共同体の活性化に繋がるような素晴らしい内容の提案がありました。
これらの提案を、どのように具体的に実現させていくか?私たちの共同体が試されているような気がします。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日、わたしたちが聞いた聖書のみ言葉、ルカの福音書が続いて読まれています。今日聞いた最初のみ言葉は、先週語られていた最後の一節がもう一度、繰り返し読まれています。宣教の始めにあたり、ガリラヤ地方の会堂で教え始めた、霊に満ちたイエスの姿が私たちの頭によみがえってきます。公生活に入って会堂で福音を宣べ伝え、新しい神の御国について語り始めたイエス。至る所で評判を呼び、皆から尊敬を受けられたと、聖書に記されています。そして、イエスは生まれ育ったナザレの会堂に入ってきました。でも、これまでの人々の反応とナザレの会堂での人々の反応では対称的でした。マタイやマルコの福音書では宣教の終わりの時期の話が、今日わたしたちが聞いているルカの福音書は宣教の始めの出来事として語られています。ルカによると会堂のすべての人の目がイエスに注がれていた。ナザレでも最初の目がイエスに注がれています。ナザレはガリラヤ湖から二十数キロメートル離れた盆地にある寒村で、せいぜい100~150人くらいが住む村でした。
 親戚でなくても、誰もがイエスの子ども時代を含め、両親のこともよく知っていたことでしょう。最初は、イエスの恵みのことばに聞き惚れていた人もいたのではないでしょうか。しかし、人々の拒絶は、「あの大工のヨセフの子である。」「わたしたちと同じガリラヤ人ではないか?。」と考え、現実に夢破られた思いだったのでしょうか。嫉妬心に満たされることもあったのでしょうか。殺そうとさえ思うほどに、怒りを爆発させるような人々も現れます。なぜ、これほどまでになったのでしょうか。

 昨日、2月2日の「土曜日」は「主の奉献」の祝日でした。読まれたみ言葉の中にシメオンがイエスについて、ヨセフとマリアに話した言葉がありました。自分が死ぬまでは、自分がこの腕に救い主を抱くまでは、死ぬことができないと神殿に詣でていたシメオン。その時、二人に話した言葉があります。「イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたり、反対を受けるしるしとして定められている。」。シメオンは旧約の預言者の言葉をはっきりと心に留めている人でした。宣教を始めるナザレで始ったことを思い起こさせ、預言がここでも成就するかのようです。
 神の計画の偉大なことがここでも見え隠れします。ナザレの人々のイエスに対する悪い感情や不信に対して、町の外に追い出そうとする動きは、イエスを十字架に送り出すような行為でもあるはずです。イエスはそうした人々の間を通り抜けて立ち去ったと書かれています。「去って行く」は「進んでゆく、旅を続ける」と言う意味もあるそうです。これはまさに、十字架への道、旧約の預言者のように、受難に向かって進んでゆくことを暗示しているようです。
 ナザレの人々の不信に対してイエスは、旧約の聖書の話を引き合いに出しました。一つは「飢饉の時、エリヤがシドンのサレプタの未亡人のところへ遣わされ」、もう一つは、「エリシャがシリアのナアマンの病気を癒やした」という出来事です。これは二つとも、異邦人がイスラエルの預言者から恵みを受けたという内容なのです。イスラエルの民の不信仰は、異邦の世界に向けられたように、ナザレの人々の不信仰と重ねられて、イエスの教えと恵みが故郷のナザレの人々が退けられているのです。
 郷里のナザレの人々は、カファルナウムで行った神のしるしである奇跡を求め、期待していたがイエスは行われなかった。期待はずれはイエスへの非難となり、憤慨し、街からさえも追い出そうとすることとなりました。今日の詩編の言葉にあるように「あなたの正義でわたしを救い、わたしに こたえ、助けてください」。神への信頼の言葉です。人々の顔を恐れることなくエレミアが、神との約束を信じて自分の召命を歩んだように、神への信頼の祈りをもってイエスもまた故郷の人々に受け入れられなかったとしても、その試練と苦悩の中で忍耐と信頼に生き、神の愛に応えるのです。

 わたしは今日のみ言葉の中で、ナザレの人々が山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたという話は、荒野でのサタンの誘惑を考えてしまいます。イエスはサタンの誘惑を退けて、公生活の使命に入ってきます。
 わたしたちも、日々の体験の中で思い起こす時、私たち一人ひとりはいかに弱く、耐え抜くことがいかに困難であるかを知っています。危険の中で常に生きていることも知っています。
 わたしたちの共同体から、イエスを立ち去らせることのないように、共同体の一人ひとりを受け入れ、神のみ旨と愛を生きることが出来るように、特別な力と助けを祈り求めましょう。』