2019年2月5日火曜日

年間第4主日

この日の福音ではイエスが郷里のナザレで受け入れられなかった話が語られました。
私たちがイエスを立ち去らせることのないよう,私たちの信仰を強められますように。


この日は月例会後に、2年間に渡って教会の将来について検討した「中長期ビジョン検討会議」の報告が行われました。共同体の活性化に繋がるような素晴らしい内容の提案がありました。
これらの提案を、どのように具体的に実現させていくか?私たちの共同体が試されているような気がします。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日、わたしたちが聞いた聖書のみ言葉、ルカの福音書が続いて読まれています。今日聞いた最初のみ言葉は、先週語られていた最後の一節がもう一度、繰り返し読まれています。宣教の始めにあたり、ガリラヤ地方の会堂で教え始めた、霊に満ちたイエスの姿が私たちの頭によみがえってきます。公生活に入って会堂で福音を宣べ伝え、新しい神の御国について語り始めたイエス。至る所で評判を呼び、皆から尊敬を受けられたと、聖書に記されています。そして、イエスは生まれ育ったナザレの会堂に入ってきました。でも、これまでの人々の反応とナザレの会堂での人々の反応では対称的でした。マタイやマルコの福音書では宣教の終わりの時期の話が、今日わたしたちが聞いているルカの福音書は宣教の始めの出来事として語られています。ルカによると会堂のすべての人の目がイエスに注がれていた。ナザレでも最初の目がイエスに注がれています。ナザレはガリラヤ湖から二十数キロメートル離れた盆地にある寒村で、せいぜい100~150人くらいが住む村でした。
 親戚でなくても、誰もがイエスの子ども時代を含め、両親のこともよく知っていたことでしょう。最初は、イエスの恵みのことばに聞き惚れていた人もいたのではないでしょうか。しかし、人々の拒絶は、「あの大工のヨセフの子である。」「わたしたちと同じガリラヤ人ではないか?。」と考え、現実に夢破られた思いだったのでしょうか。嫉妬心に満たされることもあったのでしょうか。殺そうとさえ思うほどに、怒りを爆発させるような人々も現れます。なぜ、これほどまでになったのでしょうか。

 昨日、2月2日の「土曜日」は「主の奉献」の祝日でした。読まれたみ言葉の中にシメオンがイエスについて、ヨセフとマリアに話した言葉がありました。自分が死ぬまでは、自分がこの腕に救い主を抱くまでは、死ぬことができないと神殿に詣でていたシメオン。その時、二人に話した言葉があります。「イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたり、反対を受けるしるしとして定められている。」。シメオンは旧約の預言者の言葉をはっきりと心に留めている人でした。宣教を始めるナザレで始ったことを思い起こさせ、預言がここでも成就するかのようです。
 神の計画の偉大なことがここでも見え隠れします。ナザレの人々のイエスに対する悪い感情や不信に対して、町の外に追い出そうとする動きは、イエスを十字架に送り出すような行為でもあるはずです。イエスはそうした人々の間を通り抜けて立ち去ったと書かれています。「去って行く」は「進んでゆく、旅を続ける」と言う意味もあるそうです。これはまさに、十字架への道、旧約の預言者のように、受難に向かって進んでゆくことを暗示しているようです。
 ナザレの人々の不信に対してイエスは、旧約の聖書の話を引き合いに出しました。一つは「飢饉の時、エリヤがシドンのサレプタの未亡人のところへ遣わされ」、もう一つは、「エリシャがシリアのナアマンの病気を癒やした」という出来事です。これは二つとも、異邦人がイスラエルの預言者から恵みを受けたという内容なのです。イスラエルの民の不信仰は、異邦の世界に向けられたように、ナザレの人々の不信仰と重ねられて、イエスの教えと恵みが故郷のナザレの人々が退けられているのです。
 郷里のナザレの人々は、カファルナウムで行った神のしるしである奇跡を求め、期待していたがイエスは行われなかった。期待はずれはイエスへの非難となり、憤慨し、街からさえも追い出そうとすることとなりました。今日の詩編の言葉にあるように「あなたの正義でわたしを救い、わたしに こたえ、助けてください」。神への信頼の言葉です。人々の顔を恐れることなくエレミアが、神との約束を信じて自分の召命を歩んだように、神への信頼の祈りをもってイエスもまた故郷の人々に受け入れられなかったとしても、その試練と苦悩の中で忍耐と信頼に生き、神の愛に応えるのです。

 わたしは今日のみ言葉の中で、ナザレの人々が山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたという話は、荒野でのサタンの誘惑を考えてしまいます。イエスはサタンの誘惑を退けて、公生活の使命に入ってきます。
 わたしたちも、日々の体験の中で思い起こす時、私たち一人ひとりはいかに弱く、耐え抜くことがいかに困難であるかを知っています。危険の中で常に生きていることも知っています。
 わたしたちの共同体から、イエスを立ち去らせることのないように、共同体の一人ひとりを受け入れ、神のみ旨と愛を生きることが出来るように、特別な力と助けを祈り求めましょう。』