2020年12月26日土曜日

クリスマス

 主のご降誕おめでとうございます。

コロナ禍により、降誕祭ミサは非公開で行われました。

例年では、クリスマスのお祝いに多くの方々が詰めかけるのですが、

感染防止のため限られた人数によるミサ司式となりました。


松村神父様からいただきましたクリスマスのメッセージをご紹介します。


『12月24日 クリスマスのメッセージ

松村 繁彦

主の御降誕おめでとうございます。

今年はコロナ一色の約1年で、その対策と制限と忍耐の中で私たちは生活してきました。それはある意味伝染病の下で恐怖の奴隷と余儀なくされた私たちでした。そして今なお、最前線で戦っておられる方がたくさんいます。特に医療従事者の方々に感謝と尊敬をもって、多くの方々のいのちが守られ、全ての人に希望が与えられるよう祈りをささげてまいりましょう。

さて、イザヤの言葉では、古代オリエントの時代にエルサレムに近隣の王たちは自分たちにとって都合の良い王を立てようと働きかけた。しかしイザヤは神からのお告げにより、王は必ず神から与えられると信じ、その王たちの行いに断固として神を信じ待つよう促した。たとえ闇であっても光を見る時が必ず来る。それがダビデ王の座が引き継がれる希望と期待であった。これが“闇に住む民は光を見た・・・。”そして“ひとりのみどり子が私たちのために生まれた。”と伝えられた。この者は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と称えられると語る。そのことを信じるかどうかをイザヤは現代の私たちにも預言として託されている。大事なことは、たとえ私たちが信仰深くても浅いと思っていても、周りに希望の光を届けたいと思うか、闇のままでいいと思うかにかかっている。神の絶対的な御ちからは、闇に住む民であっても光を示し、照らし続ける驚く業である。懐中電灯のように電池が切れたら終わり、蝋燭のように火が消えたら終わりではない。そこに導き永遠に輝き続ける力を持っている方である。その力を伝えなければならない人々が私たちの周りにいる事を理解し、一人でも多くの人を救いに導きたいと願うことが求められている。私自身の信仰の評価次第ではなく、幼子に秘められた救いの力に委ねる心があればいい。限りある力ではなく、限りない輝き、希望と愛に照らされる事を切に願っていきたい。

今日の主の御降誕は特に具体的に愛と希望を示すために、今日イエス・キリストは私たちの世界に降り立った出来事を祝う日。見えない恵みが見えるしるしとなった。これは全ての秘跡に先立った根本的な秘跡そのものである。

私たちも神の具体的かつ実践的な示しそのものであるイエス・キリストの誕生から、コロナ禍であっても、私たちに愛と希望、光と平和をもたらすよう言動ができるよう恵みを求め、一人でも多くの命がこれからも救われるよう、最前線で働いておられる方のためにも配慮と祈りをしてまいりましょう。』


2020年12月20日日曜日

待降節第4主日

 ウルバン神父様からいただきました12月20日 待降節第4主日の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


 【福音メッセージ ウルバン神父様】


皆さん                     12月20日、待降節の第4日曜日


先週の日曜日、またその前の週に、私たちは洗礼者ヨハネの足跡を歩きました。ヨハネは夜の時、自分の洞窟の前に立って偉大なる星空に向かって手を上げ叫んだ姿を見たような気がします。“わが主よ、あなたはどこにいるのか、わが主よ、いつ来るのでしょうか。私は待っています”。その叫び声が心の中で響いていました。

またヨルダン川の畔で群衆を見回しながら叫んだこと:“あなたたちのうちに誰も知らない方が立っている”と。ヨハネの心に来るべき方のこと以外何もありませんでした。ある日、その方に出会って、自分の手で触れた時、ヨルダンの水の中に入れ伏すのを見た時、その時ヨハネは感動と喜びにあふれた。

今日は天使ガブリエルの後に付いて行きます。どこへ遣わせるでしょうかとガブリエルが考えたのではないでしょうか。都の立派な家のあ
るお嬢様へ?いえ、北のガリラヤへ、またその中の寂しい田舎、とても悪い評判のある村、“泥棒の巣”と呼ばれたナザレへ。ナザレ村になんの美しいものがあるだろうか、と天使が不思議に思ったかも知りません。こんな貧しい住まい、これは洞窟ではないでしょうか?

薄暗い中に入ると天使は14歳ぐらい若い女の子がみえた。いつも神の偉大さの前に立っているのに、神様の想像のなかに、こんな美しいことを見たことがありませんでした。この子はマリア、ミリヤムと、呼ばれました。広い野原の中、また何もない道端で咲いている花を見たことがありますか。この小さい花は自分の可愛いさ、自分の美しさを知りません。ただ静かに人の喜び、神の喜びのために咲いています。この質素な、素直な子は村の中で大きくなって、村の人々に毎日出会ったが、だれもこの子の美しさを知りませんでした。若いミリヤムでも自分は神様の喜びであったこと、この世のなかで光り輝く花であることも知りませんでした。天使ガブリエルは驚きながらマリアを見て、住まいの中の神の臨在を深く感じながら、この娘の前にひれ伏しました。

マリアは挨拶の言葉を聞いています。“おめでとう、マリア、主はあなたとともにおられます”。なんと美しい挨拶でしょう。私たちにもあんな言葉があったら、どんなに幸せでしょう。ルカの福音によると、マリアはこの言葉に胸騒ぎがし、いったい、何のことだろうかと思いまどった。本当に素直な方、自分が小さな者だと思って。天の使えが来て、いと高き方の母になってくれるかとの頼みを受けた時、何と答えたでしょうか。飛び上がって、“ああ、光栄でございます”と叫んだでしょうか。かえって神の使いの前にかがんでひれ伏した。“私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように“。

マリアのこの素直な言葉で新しい時代が始まって、私たちに天の門が開きました。このナザレの娘に感謝。その後の出来事は神秘に包まれて、若い女の子、マリア、と神の霊との出会いに言葉はもうありません。ただエリザベトとの出会いの時、心を少し見ることができます:”私の魂は神をあがめ、私の心は喜びに踊っています“。今日は少しでもマリア様と親しむことができるのは感謝します。 




【聖書朗読箇所】


永遠の神である父よ、

  あなたはひとり子イエスを世に遣わすにあたり、

  ガリラヤのおとめを選び、救い主の母となる使命をお与えになりました。

  わたしたちがマリアにならい、愛と喜びをもって主を迎え入れ、

  主とともに生きる者となりますように。

                    集会祈願より


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第1朗読 サムエル記下 7章1~5、8b~12、14a、16節


〔ダビデ〕王は王宮に住むようになり、

主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。

王は預言者ナタンに言った。

「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、

神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」

ナタンは王に言った。

「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。

主はあなたと共におられます。」


しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。

「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。

主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。

わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、

わたしの民イスラエルの指導者にした。


あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、

あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。

わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。

民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、

昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。


わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、

あなたに安らぎを与える。

主はあなたに告げる。

主があなたのために家を興す。


あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、

その王国を揺るぎないものとする。


わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、

あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」



第2朗読 ローマの信徒への手紙 16章25~27節


神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、

あなたがたを強めることがおできになります。

この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、

信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。


この知恵ある唯一の神に、

イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、

アーメン。



福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節


〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。

そのおとめの名はマリアといった。

天使は、彼女のところに来て言った。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」


マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。

あなたは神から恵みをいただいた。

あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。


その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。

神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、

その支配は終わることがない。」


マリアは天使に言った。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。

わたしは男の人を知りませんのに。」


天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。

だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

神にできないことは何一つない。」


マリアは言った。「わたしは主のはしためです。

お言葉どおり、この身に成りますように。」

そこで、天使は去って行った。


2020年12月13日日曜日

待降節第3主日

 レイ神父様からいただきました待降節3主日の福音メッセージをご紹介します。

(英語版も掲載します)


自己の真実を求めて

 こどもたちは質問が上手です。いとも簡単にとても深いことを聞くのを親たちは知っています。私たちも皆、問いかけます。なぜなら心の底に真実を求める本能があるからです。これは生涯続く探求です。この人生において「今、完全な真実を得た」というところには至りません。福音では神は真実であり、常に私たちを超越すると宣言します。私たちの思考力や心では完全に神をとらえるのは不可能です。それでも真実をまじめに求めなければなりません。たとえその途中で痛みを伴って、長い間大事にしてきた確信を手放すのだと知ったとしてもです。真実へ、私たちの世界について、お互いについて、おのれそれぞれの個人について、そして神についての真実へといっそう近づこうとするのです。質問することで真実により近づくのだと願いながら問い続けます。

 自己の探求において大きな二つの問いとは”私はだれか?そして”私がしていることを私はなぜしているのか?”です。広い意味において、私たちは自分の本質を求めます。そして自分の言動に導く究極の目的を明らかにしようとします。今日の福音書ではこれらの二つの大きな問いかけが洗礼者ヨハネに宗教権力者から発せられます。「あなたは、どなたですか」そして「なぜ、洗礼を授けるのですか」と。最初の問いかけにヨハネは、自分はそうではないと宣言することから始めます。キリストでもメシアでもないことを明らかにします。それ以上の者であるとは言いません。そののちヨハネ書の中で、結婚の祝宴のイメージを引き合いにして、自分は花婿ではなく、花婿の声を喜ぶ花婿の友だと表現します。今朝の福音書で、ヨハネは荒れ野で叫ぶ声であると宣言します。言葉ではなく、声にすぎず、光ではなく光を証するものにすぎないと。なぜそんなことをしているのか、なぜ洗礼を授けているのかと尋ねられると、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」ことを知らせるために洗礼を授けていると言います。人々が気づかずにいる、その人、メシアにヨハネは人々の目を開かせるためにしていることを、行ったのです。多くの人々が気がつかず偉大な光が輝きました。ヨハネはその光の証をしたのです。自分がそうであるので行ったことをヨハネはしたのです。「なぜ、洗礼を授けているのか」という問いの答えから、さらに根本的な問い「あなたはだれですか」「自分自身についてなんと言いますか」の答えが花開きます。

 「自分自身のことをどう言いますか」は様々に答えられる問いです。単に自分や親の名前、仕事上の資格、役割、地位を答えられるでしょう。しかし、その問いに対して最も深く根本的に答えられるのは霊的なレベルにおいてです。最も深く、最も霊的な私の存在において私はだれか?神の前の私はだれか?あるべき私と神が呼ぶのはだれか?ここにおいて洗礼者ヨハネ、偉大な到来を告げる聖人は私たちの助けとなります。洗礼の恵において各々がだれであり、あるべきと神が呼ぶのはだれかと私たちに明らかにするのです。洗礼者ヨハネ同様、私たちも勿論メシアではありません。光でもありません。自分たちの生活や心の闇を充分知っているだけです。しかし、洗礼者ヨハネのように私たちはその光の証人です。完全さからは程遠くとも、キリストの証人として呼ばれています。

 ヨハネは次のように言います。「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる。」イエス・キリストは私たちの中におられますが、多くの人たちに知られていません。私たちはもっとイエスを知らしめ、私たちを通して世界にその光を輝かせることができるでしょう。洗礼は荒れ野で叫ぶ声であり、神との結びつきへの招きの声でありました。私たちも自らの声を用いてキリストを知らせるよう問われています。恵まれた伝達手段を用いてキリストへの信仰、価値、態度を広めることができます。私たちの行動を通し主を伝えることもできます。もし、わたしたちの呼びかけが光への証となると気づけば、それはどのように生きるかを形づくり、なぜそのように生きているかを説明できるのです。「あなたは、どなたですか」という問いの答えは「あなたがしていることをなぜしているのか」という問いの答の根拠となります。待降節は私たちの根本的な本質、キリストにつながる本質を改心するよい期間です。もし、どこかで今日イエスがお生まれになるとすれば、それはイエスに従う人々の心の中に生まれるのです。


Finding our personal truth

   Children are great with questions. As any parent knows they can ask the most profound questions in the simplest of ways. We all ask questions because, at heart, we have an instinct for seeking and searching after truth. This is a life-long search. We can never get to the point in this life where we can say, ‘I now have the total truth.’ The gospel declares that God is truth — and God is always beyond us. We can never fully grasp God with our minds or our hearts. Yet we have to be faithful to the search for truth, even if along the way we find ourselves making painful discoveries that involve letting go of long-held and cherished convictions. We keep trying to come closer to the truth, the truth about our world, about each other, about ourselves as individuals, and about God. We keep questioning in the hope that our questioning will bring us closer to the truth.

   In our search for our own personal truth, two of the big questions that drives us are, ‘Who am I?’ and ‘Why am I doing what I am doing?’ We seek after our identity, in the broadest sense of that term, and we try to clarify for ourselves the ultimate purpose that drives all we do and say. In today’s gospel, those two big questions are put to John the Baptist by the religious authorities, ‘Who are you?’ and ‘Why are you baptizing?’ In answer to the first question, John began by declaring who he was not. He was clear that he was not the Christ, the Messiah. John did not try to be more than he was. Later on in the gospel of John, using an image drawn from a wedding celebration, he would say of himself that he was not the bridegroom, only the friend of the bridegroom who rejoices at the bridegroom’s voice. In this morning’s gospel John declares himself to be the voice crying in the wilderness; he is not the Word, only the voice; he is not the light, only the witness to the light. When John was asked why he was doing what he was doing, why he was baptizing, he declared that he baptized to make known the ‘one who stands among you, unknown to you.’ He did what he was doing to open people’s eyes to the person standing among them, to the Messiah who was in their midst without their realizing it. There was a great light shining among them that many were unaware of, and John had come to bear witness to that light. John did what he did because of who he was. The answer to the question, ‘Why are you baptizing?’ flowed from the answer to the more fundamental question, ‘Who are you?’ “What do you say about yourself?”

   “What do you say about yourself?”, is a question we can answer at different levels. We can simply give our name, or give or parents’ names; we can answer it by giving our professional qualifications, or by naming the role or the position we have in life. Yet, the deepest level, the most fundamental level, at which we can answer that question is the spiritual level. Who am I at that deepest, most spiritual, level of my being? Who am I before God? Who is God calling me to be? Here, John the Baptist, the great Advent saint, can be of help to us. He articulates for us who each one of us is in virtue of our baptism, who God is calling us to be. No more than John the Baptist, we are certainly not the Messiah. We are not the light. We know only too well the areas of darkness in our lives and in our hearts. However, like John the Baptist, we are a witness to the Light. Even though we are all far from perfect, we are, nonetheless, called to be a witness to Christ.


John the Baptist says:'”there stands among you, unknown to you, the one who is coming after me.” Jesus Christ stands among us, but he remains unknown to many. Perhaps we could do more to make him known, to let his light shine in our world through our example. The Baptist was a voice crying in the wilderness, a voice to invite people into relationship with God. We too are asked to use our voice to make Christ known. We can use our gift of communication to spread faith in Christ and illustrate his values and his attitudes. In our behaviour too, we can let the Lord communicate through us. If we realise our calling to be witnesses to the light, it can shape how we live and explains why we live the way we do. The answer to the question, ‘Who are you?’ grounds the answer to the question, ‘Why do you do what you are doing?’ Advent is a good time to reclaim our fundamental identity, our Christ-linked identity. If Jesus is to be born anywhere today, it will be in the hearts of his followers.



2020年12月6日日曜日

待降節第2主日

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。


2020年12月6日 待降節第2主日(マルコ、1章1~8節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

例年であれば、待降節のロウソクに火を灯して、毎週毎にクリスマスの近いことを確かめることができましたが、今年は、待降節中の主日に一回しかミサに参加できない、一回くらいしか待降節を祝えないということが起こり得ています。しかし、待降節の毎日曜日の福音を読み、できれば毎日の福音を読む時、日々クリスマスが近づいてくる足音を感じ取れるのではないかと思います。特に17日からの降誕祭前の九日間(ノヴェナ)の福音は、誕生物語の誕生前の部分が読まれますから、近づく足音をより切実に感じ取れます。

さて、今日の福音は、キリスト到来の先駆者として理解された洗礼者ヨハネの登場の場面です。『マルコ福音書』は、福音書のタイトルを表すような始まりを持つ唯一の福音書で、イエス様が神であり、キリストであることを理解してもらうために書かれました。もちろん福音書を聞く人たちは、それを信じる信徒ですが。とにかくマルコは、洗礼者ヨハネの宣教から福音書を書き始めています。この最初を聞くと、なんとなく「いよいよ、始まる」という、映画や演劇や演奏会の幕あけ直前の緊張感に似た気持ちになります。旧約聖書の預言書の引用をもつ書き出しは、この緊張感に荘厳さをも加えています。

洗礼者ヨハネは、先駆者ですから、幕開けを告げるものです。そこにはこれから登場して来るキリストと洗礼者との違う面があります。その大きな違いの一つが、「わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」ということです。「聖霊で」とは、単に洗礼の方法や道具を意味しているわけではありません。また、後の時代のように、「聖霊」というと三位一体の一つの位格だけを指しているわけでもありません。旧約時代の神の霊の働きのように、もっと広い意味合いを持っています。旧約聖書には、神の霊がある人に下ると、その人が預言し始める、と言った例があります。

つまり、「その方の洗礼は、神様の霊の働き、神様の力によるものです」といった意味にもとれるでしょう。もちろん神様はいつでも働いておられますが、キリストの登場は、まさにそれ自体が、神様が私たちを新たにする、救うために直接働いてくださる、そうした時の始まりなのだという意味合いです。それは、私たち自身が変えられ、変わっていく時でもあるのです。私たちが待降節に待つ、その期待感、緊張感は、ここから来るのです。「いよいよ始まる」が「身に起こる」という感覚です。

クリスマスは、アドヴェント・カレンダーをめくるような待ち方もあるでしょうが、日々訪れてくれる神の訪れと結びつけていくとき、今年はただ一度の待降節のミサにしかあずかれないかもしれませんが、待降節、そして御降誕がより期待感と緊張感に満ちた「いよいよ始まるが身に起こる」という緊張した感覚で過ごすことができるのではないかと思います。