2021年9月25日土曜日

9月26日 年間第26主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】

第26主日、 9月26日   “私に逆らわない者は私の味方である”    ウルバン神父

ある時ヨハネが興奮しながらイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私達に従わないので、やめさせようとした。」イエスは何と答えたでしょう。「ヨハネ、良くやった。あんな人を許してはいかん。」そのように言いませんでした。ヨハネに優しそうに答えた。「ヨハネ、止めさせてはならない。私に逆らわないで、私の名を使う人は私達の味方なのだ。」本当にありがたく、安心させる言葉でした。

私に懐かしい思い出があります。子供の時の日曜日です。朝早く私達4人は次々にただ一つの水流しで顔を洗った後、父親が寝室から出て来て、長いナイフで髭をそって、日曜の服を着て教会に出かけた。ひよこが雌鶏にチョコチョコ付いて行くように、私たち子供3人は親の後に付いて行った。ごミサは子供である私に何となく退屈だったが、家族で教会へ行く事、親の祈る姿を見る事はうれしくて、心に深く残っていた。また晩ご飯を終わった後、私達がひざまづきながら食卓を囲んだ時、母親は家族を捧げる祈りを唱えた。やはり、私たちは一つの心を持って、家族だと深く感じた。夢のような話でしょう。

旭川のある教会の婦人の集まりの事でした。「主人が信者ではない方、手を上げて見て」と言った時、一人の方に聞きました。「主人がいつか信者になるように祈ったことがありますか」。その夫人は興奮しながら答えた。「神父様、もちろん、もう28年間ずっと祈っているよ。お父さんによく信者になりなさいと言うが、全然なりません。」「いつか信者になると信じますか」と聞くと、「とんでもない。あんな人はなるわけがない」と大声で答えた。

私は何と答えたかはっきり覚えていません。「奥さん、もう28年間主人はあなたが教会へ行くことを許しているよ。せめて日曜日ゆっくり家族と一緒に朝ご飯を食べたいのに、もう28年間一人で残され、寂しい気持ちで食べているよ。感謝した事がありますか。主人は神様の敵ではなく、無関心の顔をしても、もうイエスに愛される味方だよ。」

あなた方の内の多くの方は、家族のなかで信者として一人ぼっちです。誰にも心の中の事を話せない、だれとも祈れない。確かに悲しいことですが、それでも喜びなさい。「あなたによって妻も、主人も、子供も祝福されて、聖化されています」と使徒パウロが言っています。相手を責めないで、そのまま受け入れて、心の中の良さを信じなさい。もうすでに味方ではないか。信じて待つ事ができれば、愛する方が必ずいつかイエスに会います。もう前をもって喜んで感謝しなさい。

使徒パウロはある日に、沈んだ心で乱れた町コリントの道を歩いた。その夜の事、主は幻のうちに、パウロに言った。「恐れるな。この町には、私の民となる者が大勢いるからである。」恐れるな、目を上げて、喜びなさい。私たちの周りにも味方が大勢いる。

羽幌教会に住んでいた時に大きな火事があって、聖堂の前で火が止まった。顔を見た事のない多くの人が助けに来た。その時、一人の女の方が来て私に封筒を渡そうとした。「いいえ、私はこんなものを。」と言った時、もう忘れない顔の眼差しで答えた。「お願いします。私達は何年の間この教会の神様に守っていただいたから、どうしても差し上げたいのです。」やはり多くの味方がある事を、イエス様に感謝しよう。



【聖書朗読箇所】


信じる者の希望である神よ、

あなたはわたしたちに聖霊を注ぎ、

一つの民としてくださいました。

ここに集まるわたしたちが、

互いを受け入れ合い、

心を一つにして賛美をささげることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 民数記 11章25~29節


 主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、

 モーセに授けられている霊の一部を取って、

 七十人の長老にも授けられた。


 霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、

 続くことはなかった。


 宿営に残っていた人が二人あった。

 一人はエルダド、もう一人はメダドといい、

 長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。

 霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。


 一人の若者がモーセのもとに走って行き、

 エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。


 若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、

 「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。


 モーセは彼に言った。

 「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。

 わたしは、主が霊を授けて、

 主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」



第2朗読 ヤコブの手紙 5章1~6節


 富んでいる人たち、よく聞きなさい。

 自分にふりかかってくる不幸を思って、

 泣きわめきなさい。


 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、

 金銀もさびてしまいます。


 このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、

 あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。

 あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。


 御覧なさい。

 畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、

 叫び声をあげています。

 刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。


 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、

 屠られる日に備え、自分の心を太らせ、

 正しい人を罪に定めて、殺した。

 その人は、あなたがたに抵抗していません。



福音朗読 マルコによる福音書 9章38~43、45、47~48節


 ヨハネがイエスに言った。

 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、

 わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」


 イエスは言われた。

 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、

 そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。

 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。


 はっきり言っておく。

 キリストの弟子だという理由で、

 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、

 必ずその報いを受ける。」


 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、

 大きな石臼を首に懸けられて、

 海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。


 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、

 切り捨ててしまいなさい。

 両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、

 片手になっても命にあずかる方がよい。


 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、

 切り捨ててしまいなさい。

 両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、

 片足になっても命にあずかる方がよい。


 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、

 えぐり出しなさい。

 両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、

 一つの目になっても神の国に入る方がよい。


 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

2021年9月18日土曜日

9月19日 年間第25主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】


2021年9月19日 年間第25主日(マルコ、9章30-37節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音の箇所は、『マルコ福音書』における三回の「受難の予告と弟子の在り方についての教え」の第二回目に当たります。第一回目では、イエス様は、自分の考えや思いではなく、神様の思いを受け入れ、神様が与える自分自身の十字架をになう、キリストの在り様に倣うよう求めています。第二回目のケースは、第一回目の場合と異なり、弟子たちの口論から始まります。イエス様は受難の予告をしたために人目を避けて旅をしなければなりませんでした。他方、わけのわからない弟子たちは、質問するのも恐れ多くて尋ねる勇気もありませんでした。それでも、もし文字通り自分たちの先生が殺されるとしたら、だれが後継者になるのかと、言い争いを始めました。ですからイエス様に、何を言い争っていたのかと問われ、答えることができませんでした。

  イエス様は、第一回目の話を、第二回目の話で更に説明しようとします。自分を捨て自分の十字架をになってイエス様に従う場合、自分で十字架を決めて自分勝手に従うわけではないということです。イエス様が父である神様の意志に沿って十字架を引き受けたように、弟子たちはそれを模範としなければならないと教えたのです。

  イエス様は、具体的な例として幼子を示して、この幼子を受け入れるようにしなければならないと教えたのです。幼子というと可愛らしい、小さく、弱く、素直な存在と思いがちですが、そうでもありません。「泣く子と地頭とには勝てぬ」という諺があるように、逆に無視できない強力な力を持っています。説得したり、道理を尽くして話しても通用しない、頑強さです。幼子ですから、もちろん無視したり、力でねじ伏せたり、抹殺したり、極端な話、殺すことで黙らせることはできます。

  イエス様は、この弱い小さい者が持っているような力とは何かについては、ここでははっきり話していません。しかし、それは第三番目の「受難の予告と弟子の在り方についての話」から、イエス様に十字架を背負わせた御父の願いではないかと推察することができます。イエス様はそれを自分の十字架として引き受けました。その父である神様の求めていることは、幼子の要求のように、交渉の余地がありません。私たちにあるのは、受け入れるのか、拒むのかの自由だけです。この自由は全き自由で、何ものにも犯すことのできないものです。自分で決めて答えるほかありません。だからこそ、イエス様は、父である神様の意向を受け入れることを求めているのです。つまり、御父の意志を受け止め、イエス様が十字架に生きたように、与えられた父である神様の意向を受け止め、その人に呼びかけられた使命を生きることです。あなたは、父である神様の意志をイエス様のように受け止め、生きられますか。この問いは、今のこの現実の状況の中にいる私たち一人ひとりに向けられています。自分に問いかけてみましょう。           湯澤民夫




【聖書朗読箇所】


豊かな恵みを注いでくださる神よ、

あなたは御ひとり子を、

世に救い主としてお与えになりました。

自分を低くして仕える者となられたキリストに、

わたしたちが、この集いをとおして

近づくことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 知恵の書 2章12、17~20節


 「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。

 我々のすることに反対し、

 律法に背くといって我々をとがめ、

 教訓に反するといって非難するのだから。


 それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。

 生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。


 本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。

 敵の手から救い出されるはずだ。


 暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。

 その寛容ぶりを知るために。

 悪への忍耐ぶりを試みるために。


 彼を不名誉な死に追いやろう。

 彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」



第2朗読 ヤコブの手紙 3章16~4章3節


 ねたみや利己心のあるところには、

 混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。


 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、

 更に、温和で、優しく、従順なものです。

 憐れみと良い実に満ちています。

 偏見はなく、偽善的でもありません。

 義の実は、平和を実現する人たちによって、

 平和のうちに蒔かれるのです。


 何が原因で、

 あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。

 あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、

 その原因ではありませんか。


 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。

 また、熱望しても手に入れることができず、

 争ったり戦ったりします。


 得られないのは、願い求めないからで、

 願い求めても、与えられないのは、

 自分の楽しみのために使おうと、

 間違った動機で願い求めるからです。



福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節


 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。

 

 しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。

 それは弟子たちに、

 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。

 殺されて三日の後に復活する」

 と言っておられたからである。

 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、

 怖くて尋ねられなかった。

 

 一行はカファルナウムに来た。

 家に着いてから、イエスは弟子たちに、

 「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

 彼らは黙っていた。

 途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

 

 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、

 すべての人に仕える者になりなさい。」

 

 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、

 抱き上げて言われた。

 

 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、

 わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、

 わたしではなくて、

 わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

2021年9月11日土曜日

9月12日 年間第24主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

年間24主日 9月12日

インドのヴァルダマーナが始めたジャイナ教の寓話の中に「群盲象を評す」というお話があります。

その話は次のようなものです。

ある王の前に6人の盲人がいました。そこに一匹の象を連れてきて一人ひとりに触らせ感想を聞きました。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」この話の教訓の結論は、今日の福音が語りたいものとは少し違うのですが、ただ「メシア」と答えたペトロの信仰告白は、あくまでも自分の過去の知識や感覚だけに偏った「メシア」理解であって、例えば「木の枝のよう」と答えたペトロは、その木の枝の役割しか答えられず、また木の枝の可能性しか信じていませんでした。しかしそれはイエスの「メシア」を示す回答とは全く違います。

今日の福音のこのイエスとペトロとの問答までには、本当に「メシア」と知っていたのは敵対する悪霊のみでした。宣教活動のなかで出会った人々の理解を見てきた答えがペトロに凝縮され誤った信仰告白であったことが今日の私たちへの信仰の捉えなおさなければならない分岐点かも知れません。

このことはイエスが受難を受けることに対してペトロが諫めたことでその本性が現われます。私たちの神は人類の勝利者になる、いや、そうならなければ救いはないと信じていたからです。でもイエスは人の目には負けと見える受難と死を提示し、それでも信じるかと問い詰められます。人の目には不思議な光景です。なぜなら私たちも歴史上で活躍してきた人々を思うと、戦に負けた時点で英雄にはなれども勝利者にはならないと理解してきたからです。しかしイエスはそこに天の父が働き、救いの道を示すことをお示しになります。

私たちの発想では敗者が神になるという意識は、どう頑張っても生まれてこないでしょう。改めて、私たちが今まで見てきたことは何なのでしょうか。受難と死を超える希望を私たちの信仰の確信にできるのだろうか、それともこの世にとどまり誰の目から見ても勝利者となる方を望むのか。今日のヒントとして信仰の視点は、“私たちの感性の外”にある。神様は“私たちの視界の外から”やって来るということに目を向けたいと思います。現代の生活では私に不幸が押し寄せるこの状況を救いと呼べるのか?といつも悩むことが多いでしょう。しかし目の前の出来事に捕われるのは、ペトロの域を脱せない私たちの限界かも知れません。

私たちは象の一部を触って満足し、それを信じています。場合によっては確信まで高めてしまっています。確信を得た人はそこである意味盲目になってしまい「柱のようです」と考える人にとって、象という発想は意識の外で固定されてしまいます。ある意味私たちの信仰もそうなのかもしれないと自分を戒め、改めてイエスを追い求めていきたいと思います。不幸と感じられるその外に視点を移せるのか?神を求める心は何よりも固定概念を壊し、イエスを自由に受け入れることでしか「メシア」と答えられないからではないでしょうか。でもそういわれても難しいことには違いありませんが。


【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  ひとり子イエスは、十字架の苦しみをとおして、

  あなたに従う道を示してくださいました。

  イエスを救い主と信じるわたしたちを、

  みことばによって照らしてください。

  やみに迷うことなく、あなたへの道を歩むことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節


 主なる神はわたしの耳を開かれた。

 わたしは逆らわず、退かなかった。

 

 打とうとする者には背中をまかせ

 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

 

 主なる神が助けてくださるから

 わたしはそれを嘲りとは思わない。

 わたしは顔を硬い石のようにする。

 

 わたしは知っている

 わたしが辱められることはない、と。

 

 わたしの正しさを認める方は近くいます。

 誰がわたしと共に争ってくれるのか

 われわれは共に立とう。

 

 誰がわたしを訴えるのか

 わたしに向かって来るがよい。

 見よ、主なる神が助けてくださる。

 誰がわたしを罪に定めえよう。



第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節


 わたしの兄弟たち、

 

 自分は信仰を持っていると言う者がいても、

 行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。

 そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

 

 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、

 その日の食べ物にも事欠いているとき、

 あなたがたのだれかが、彼らに、

 「安心して行きなさい。温まりなさい。

 満腹するまで食べなさい」と言うだけで、

 体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

 

 信仰もこれと同じです。

 行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 

 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」

 と言う人がいるかもしれません。

 行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。

 

 そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。



福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節


 イエスは、弟子たちと

 フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。

 

 その途中、弟子たちに、

 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

 

 弟子たちは言った。

 「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。

 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『

 預言者の一人だ』と言う人もいます。」

 

 そこでイエスがお尋ねになった。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 

 ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

 

 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと

 弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、

 長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、

 三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

 

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。

 「サタン、引き下がれ。

 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」


 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、

 わたしに従いなさい。

 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

 わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

2021年9月1日水曜日

9月5日 年間第23主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

年間第23主日 2021年9月5日

「エッファタ 開け」イエスのこの言葉を何度耳にしますか?又、イエスが権威をもって語られるのをあなた方はどれくらい聞かれますか?イエスはこの耳の聞こえない男をただ癒したいのでこのように言われたのでしょうか?それとも、もっと大切なことがあるのでしょうか。音が聞こえないこの男を癒すことによって、イエスは私たちのために何かしたいと望まれたことについて示されたのです。イエスはこの癒しによって明らかに深いメッセージを私たちに与えて下さいます。この一節から得ることはたくさんありますがその一つを見てみましょう。

その教えはイエスの命令「開け」にあります。これは行動を命ずる力強い言葉です。選択できる言葉ではありません。それは明快であり決定的なのです。「開け」は質問でも誘いでもなく、それは命令です。これは重大なことです。

この短い言葉でイエスは実行すると決めたことがわかります。これには少しの躊躇もなかったのがわかります。心を決め、ご自分の意思を話されます。イエスご自身からのこの行動が重要なのです。神が語るときにあいまいさはありません。ためらいも疑いもありません。彼は完全で明らかなのです。

これがわかると私たちにとっては大きな安らぎです。それはイエスが力強い権威を実行する用意と意思があるという意味だからです。全ての力を持たれ、そうされたいときには権威を恐れず使われます。一番大切なことは、私たちの生活に最善をもたらすそのときにお使いになるのです。

この全能の神は万能であり、支配者であるということを信じることができるなら、私たちはおおきな安らぎを得られるらでしょう。もしイエスが現実の世界(体の聴覚)をも支配しておられるのならば、精神世界もそうであることは確かです。すべての良きことがお出来になるのです。

全能であるだけでなく、全てを愛し全てを慈しむ方の存在の内に私たちがいるとわかったとき、私たちは大きく安堵の息をし、その方に絶対的な信頼を寄せるでしょう。そして人はよろこんで委ねるることができるでしょう。

この短い言葉を黙想しましょう。イエスのこの聖なる神々しい権威にあなた方の命をゆだねましょう。イエスに任せましょう。イエスの言葉は完璧な愛であり憐れみです。それはあなた方を最善に導く言葉です。そしてこの全能の神はあなた方の全ての信頼にふさわしい方です。


23rd Sunday in Ordianry Time B September 5, 2021

How often do you hear Jesus say this to you? “Ephphatha! Be opened!” Or how often do you hear Him speak to you with such authority?

Did Jesus say this only because this man was physically deaf and He wanted to physically cure him? Or is there a deeper significance? By healing this man unable to hear physical sounds, Jesus was revealing something to us about what He wants to do for us. Jesus is giving us a clear and deeper message in this healing. Certainly there are many messages we can take from this passage. Let’s look at one.

The message is in Jesus’ command: “Be opened!” These are powerful words commanding action. They are not optional words. They are clear and definitive. “Be opened” is not a question, not an invitation, it is a command. This is significant!

These two little words reveal the fact that Jesus has made up His mind to act. They reveal that He is not hesitant in the least in this choice. He has made up His mind and has spoken His will. And this action, on His part, is what makes a difference. These two little words reveal that God is not indecisive when He speaks. He is not shy or uncertain. He is absolute and clear.

This understanding should give us great comfort. Comfort in the sense that Jesus is ready and willing to exercise His all-powerful authority. He does have all-power and He is not afraid to exercise this authority when He wants to. Most importantly, He wants to exercise His authority when it will bring about the greatest good in our lives.

It should give us great comfort in the sense that we can trust that this all-powerful God is all-powerful and is in control. If He is even in control of the natural world (physical hearing), then He is most certainly in control of the spiritual world, too. He is able to do all things good.

When we find that we are in the presence of one who is not only all-powerful, but also all-loving and all-merciful, we should be able to breathe a huge sigh of relief and turn our absolute trust over to Him. He is able and fully willing to be in control.

Reflect, today, upon these two little words. Let this holy and divine authority of Jesus take control over your life. Let Him command you. His commands are perfect love and mercy. They are words that will direct you to your ultimate good. And this all-powerful God is worthy of all your trust.


【聖書朗読箇所】


すべての人の希望である神よ、

あなたはひとり子イエスを遣わし、

人々を悩みや苦しみから解放してくださいました。

きょう、わたしたちの耳を開き、

救いのことばを聞かせてください。

また、わたしたちの口を開き、

あなたへの賛美を歌わせてください。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 35章4~7a節


 心おののく人々に言え。

 

 「雄々しくあれ、恐れるな。

 見よ、あなたたちの神を。

 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

 神は来て、あなたたちを救われる。」

 

 そのとき、見えない人の目が開き

 聞こえない人の耳が開く。

 

 そのとき

 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

 

 口の利けなかった人が喜び歌う。

 荒れ野に水が湧きいで

 荒れ地に川が流れる。

 

 熱した砂地は湖となり

 乾いた地は水の湧くところとなる



第2朗読 ヤコブの手紙 2章1~5節


 わたしの兄弟たち、

 栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、

 人を分け隔てしてはなりません。

 

 あなたがたの集まりに、

 金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、

 また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。

 

 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、

 「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、

 

 貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、

 わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、

 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、

 誤った考えに基づいて

 判断を下したことになるのではありませんか。

 

 わたしの愛する兄弟たち、

 よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、

 信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、

 受け継ぐ者となさったではありませんか。



福音朗読 マルコによる福音書 7章31~37節


 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、

 シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、

 ガリラヤ湖へやって来られた。

 

 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、

 その上に手を置いてくださるようにと願った。

 

 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、

 指をその両耳に差し入れ、

 それから唾をつけてその舌に触れられた。

 

 そして、天を仰いで深く息をつき、

 その人に向かって、「エッファタ」と言われた。

 これは、「開け」という意味である。

 

 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、

 はっきり話すことができるようになった。

 

 イエスは人々に、

 だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。

 しかし、イエスが口止めをされればされるほど、

 人々はかえってますます言い広めた。

 

 そして、すっかり驚いて言った。

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。

 耳の聞こえない人を聞こえるようにし、

 口の利けない人を話せるようにしてくださる。」