2021年10月27日水曜日

10月31日 年間第31主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】


第31主日 10月31日

申命記6章2-6,ヘブライ人への手紙7章23-28 マルコ12章28-34

世の中は法律で満ちていますが全てが同じように重要というわけではありません。このようなことは、イエスの時代ユダヤ人のモーゼ613の戒律についてもありました。律法学者の間では当たり前のように、どの掟が最も重要であるかというのが議論の中心でした。興味深いのは、あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうかと尋ねられたとき、イエスは二つの掟を答えました。見たところイエスはこれらは離すことはできず、一つとして扱うものと教えているようです。

旧約聖書において、心、魂、精神、力の全てを捧げ尽くすのを要求する夫や妻の嫉妬のように妬む神について話しています。聖アウグスティヌスは簡潔にラテン語で有名な言葉、amor meus, pondus meus 「私の愛は私の重さ」と言いました。周りにいる人のことを考えてみてください。彼らにとって何が大切なのか、何が彼らを引き付けているのかを知る迄そんなに長くかかりません。何を考え、語り、何に時間、エネルギーそしてお金を使うかということです。

聖アウグスティヌスは私たちの無秩序な情熱を究明し、どうやって私たちの愛を正しく順序づけるかを示しました。完全な不滅の善へと導くために部分的で束の間の善を求め歩くのです。ここで私たちは本物の隣人愛の意味することを知ります。愛とは他の人の長所を探すことです。ですから神は私たちに悪意、不正、貪欲、嫉み、好色を遠ざけるように命じます。それらは隣人への、そして自分自身への善に反するからです。

さらに道徳的に善いことでも間違って命じられることがあります。私たちは神や神に関することにたいそう無関心である時代に生きています。家族、友人、芸術、スポーツ、趣味、創造的な仕事でいつも生活は占められています。ですがもし、それらの善き事が最も重要なことにおいて探し求めたり楽しめなかったりしたらどうでしょうか?もし、神の愛、隣人愛が一つの掟であるとするなら、神の愛なくして隣人愛を持つことができるでしょうか。私たちが服従している私たち自身よりもっと高位の真実やと善を認識せずに文明的な生活を送ることができるでしょうか?祭儀なくして文化があるでしょうか。

キリストはこの世の光として来られました。私たちは十戒と教会の道徳的な教義に従う時、神と隣人を愛します。そうすることによって、キリストの光をいつもそれを必要とする世に照らします。世がそれを無視し妨害する時にでもそうです。神を愛すること、隣人を愛することは二つの掟です。この二つは本質的に結びついており、片方を満足させないで、もう一方の掟を充分に実行することはできないのです。


Thirty-first Sunday in Ordinary Time – October 31, 2021

Readings: Dt 6:2–6 • Ps 18:2–3, 3–4, 47, 51 • Heb 7:23–28 • Mk 12:28b–34 

Our world is full of laws, and they obviously can’t all be of equal importance. Such was the case for the Jews in the time of Jesus concerning the 613 precepts of the law of Moses. It was naturally a subject of debate among the rabbis as to which of these laws is the most important. Curiously, when asked to weigh in on which one law is the greatest, Jesus answers with two commands. Seemingly Jesus is teaching that these two are inseparably connected and so can be treated as one.

The Old Testament speaks of God as jealous, like the jealousy of a husband or wife who demands the spouse’s full devotion — demanding the spouse to love him or her with all one’s heart, soul, mind, and strength. St. Augustine, in concise Latin phrasing, famously said: amor meus, pondus meus, “my love is my gravity.” Think of the people you associate with. You don’t have to be around them too long to know what’s important to them — it’s what pulls them. It’s what they think about and talk about, spend their time, energy, and money on.

It was St. Augustine who diagnosed well our disordered passions and showed us how to order our loves rightly. Partial and passing goods are to be sought as they lead to the perfect and imperishable good. Here we see what authentic love of neighbor means. Love means seeking the good of the other. Hence, God commands us to put away malice, dishonesty, greed, envy, and lust because they are contrary to my neighbor’s good, and to my own.

Moreover, even morally good things can be wrongly ordered. We live in a time when God and the things of God are largely a matter of indifference. We’re occupied with family and friends, arts, sports, hobbies, and constructive work. But what if those good things are not sought and enjoyed in relation to what is ultimate? If love of God and love of neighbor are one commandment, can we have love of neighbor without love of God? Can we have civilized life without recognizing the truth and goodness higher than ourselves to which we are subject? Can we have culture without cult?

Christ came into the world as its light. We love God and neighbor when we follow the ten commandments and the moral teachings of the Church. In doing so we reflect Christ’s light in a world that is always in need of that light, even when the world disregards or obstructs it. To love God and to love our neighbor are two commandments, but they are essentially joined, since we can’t adequately fulfill one commandment without fulfilling the other.



【聖書朗読箇所】


愛の源である神よ、

ひとり子イエスは、いのちに至る道を、

ことばと行いによって示してくださいました。

真実の生き方を求めて集まるわたしたちの心に、

キリストのことばが力強く響きますように。

   集会祈願より


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第1朗読 申命記 6章2~6節


 あなたもあなたの子孫も生きている限り、

 あなたの神、主を畏れ、

 わたしが命じるすべての掟と戒めを守って

 長く生きるためである。

 

 イスラエルよ、

 あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。

 そうすれば、あなたは幸いを得、

 父祖の神、主が約束されたとおり、

 乳と蜜の流れる土地で大いに増える。

 

 聞け、イスラエルよ。

 我らの神、主は唯一の主である。

 

 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、

 力を尽くして、

 あなたの神、主を愛しなさい。

 

 今日わたしが命じる

 これらの言葉を心に留め


 

第2朗読 ヘブライ人への手紙 7章23~28節


 また、レビの系統の祭司たちの場合には、

 死というものがあるので、

 務めをいつまでも続けることができず、

 多くの人たちが祭司に任命されました。

 

 しかし、イエスは永遠に生きているので、

 変わることのない祭司職を持っておられるのです。

 

 それでまた、この方は常に生きていて、

 人々のために執り成しておられるので、

 御自分を通して神に近づく人たちを、

 完全に救うことがおできになります。

 

 このように聖であり、罪なく、汚れなく、

 罪人から離され、

 もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、

 わたしたちにとって必要な方なのです。

 

 この方は、ほかの大祭司たちのように、

 まず自分の罪のため、

 次に民の罪のために

 毎日いけにえを献げる必要はありません。

 というのは、このいけにえはただ一度、

 御自身を献げることによって、

 成し遂げられたからです。

 

 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、

 律法の後になされた誓いの御言葉は、

 永遠に完全な者とされておられる御子を

 大祭司としたのです。



福音朗読 マルコによる福音書 12章28b~34節


 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

 

 イエスはお答えになった。

 「第一の掟は、これである。

 『イスラエルよ、聞け、

 わたしたちの神である主は、唯一の主である。

 

 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、

 力を尽くして、

 あなたの神である主を愛しなさい。』

 

 第二の掟は、これである。

 『隣人を自分のように愛しなさい。』

 この二つにまさる掟はほかにない。」

 

 律法学者はイエスに言った。

 「先生、おっしゃるとおりです。

 『神は唯一である。ほかに神はない』

 とおっしゃったのは、本当です。

 

 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、

 力を尽くして神を愛し、

 また隣人を自分のように愛する』ということは、

 どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

 

 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、

 「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。

 もはや、あえて質問する者はなかった。

2021年10月23日土曜日

10月24日 年間第30主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ ウルバン神父】

第30主日 10月24日 “私を憐れんでください” ウルバン神父

ある日の事でした。バルティマイと言う盲人が道端に座って物乞いをしていた。生まれた日から暗闇の中で生きていた。いつも、昼も夜も、暗闇。目を開けても暗闇。太陽の光、空の星、道端に咲いている花、遊んでいる子供達も、自分の父母の顔さえも見たことがない。人の笑いを聞いても、共に喜ぶことができない。子供に虐められて、度々物乞いの鍋の中に石だけ投げ入れられた。友もないあの盲人の孤独を想像もできない。それだけでしょうか。暗闇は心の中まで深く入り込んだ。何の罪のために罰されているでしょうかと神に聞いても、返事はない。神様に見捨てられた者だと思われたので、人に軽蔑され、無視された。「神様、あなたはどこにいるのか、僕を捨てたのか」と叫んでも、返事はない。

ところが、ある朝“暗闇の中に座る人は大きな光を見る”と書いてあるように、彼も光を見た。

「ホラ、足音だ、大群衆だ」と分かった。聞いたら、「ナザレの預言者のお通りだ」と教えられた。イエスを知らなかったが、噂を聞いた事があります。その時、盲人の心は飛び上がって、大きな声で「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めたが、道を通る群衆のノイズの中で彼の声が消えてしまった。人は彼に怒った。「黙れ、あの偉い方はお前のような人を相手にするわけがない」と叱ったが、何と言われても、彼は益々大きな声で叫び続けた。「ナザレのイエスよ、ナザレのイエエエース」と。その時、声がイエスに届いた。イエスは足を止めて、「あの男を呼んできなさい」と。幸いに彼が叫び続けたのだ。もし諦め、叫ぶ事をやめたら、イエスにいつまでも会えなかったでしょう。

彼は飛び上がって、手で道を探し、躍りながらイエスに近づいた。躍りながら、バルティマイは自分の溢れる喜び、イエスを信じる心を現しました。彼は暗闇の中に、大きな光を見た。彼は今の私達に呼び掛ける。「闇に沈んだら、黙ってはいけない。叫びなさい。イエスを信じて、叫び続けなさい。彼は泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶのだ。見えない人に視力、圧迫されている人に自由を与えるために来たのはないでしょうか。信じたら、あなたにも言う“あなたの信仰があなたを救った”」。

主は盲人が来るのを見た時、大群衆より彼の事をどんなに喜んだでしょう。人を助ける事は今でも主の喜びです。人の不幸と涙を喜びません。「私は仕えられるためにではなく、仕えるために来た」と言ったのではないでしょうか。今でもあなたに聞いています「何をしてほしいのか、私に言ってください」。主は頼まれるのを待っています。ただ、条件が一つある。それは全くの疑いのない信頼と信仰です。ちょっとの疑いがあっても、主の手が縛られて、もう働けなくなり、救えなくなります。私達が喜びに溢れるように。これは主の心の望み。頼む事、叫び続ける事と期待する信仰、もう頂く前に既に感謝する事には大きな力があります。

暗い夜に野原の中で迷った子羊が恐れで叫ばなかったら、羊飼いは倒れて震えた羊を見つけなかったでしょうが、見つけた小羊を大喜びで抱きながら帰っていた。泣いてよかった。あなたも心から呼んだら、この小羊のように持ち上げられて抱かれる。

「御覧なさい、私はあなたの門の前に立ってノックしている。もし門を開ければ、私は入って来て、あなたと共に食卓に座る」。



【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い神よ、

苦しみや悲しみの中から救いを求める声に、

耳を傾けてください。

あなたにより頼むわたしたちが、

この集いをとおして

主の導きを

確かに受けとめることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 エレミヤ書 31章7~9節


 主はこう言われる。

 ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。

 諸国民の頭のために叫びをあげよ。

 声を響かせ、賛美せよ。そして言え。

 「主よ、あなたの民をお救いください

 イスラエルの残りの者を。」


 見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し

 地の果てから呼び集める。

 その中には目の見えない人も、歩けない人も

 身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。


 彼らは大いなる会衆となって帰って来る。

 彼らは泣きながら帰って来る。

 わたしは彼らを慰めながら導き

 流れに沿って行かせる。

 彼らはまっすぐな道を行き、

 つまずくことはない。


 わたしはイスラエルの父となり

 エフライムはわたしの長子となる。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章1~6節


 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、

 罪のための供え物やいけにえを献げるよう、

 人々のために

 神に仕える職に任命されています。


 大祭司は、

 自分自身も弱さを身にまとっているので、

 無知な人、

 迷っている人を思いやることができるのです。

 また、その弱さのゆえに、

 民のためだけでなく、

 自分自身のためにも、

 罪の贖いのために

 供え物を献げねばなりません。


 また、この光栄ある任務を、

 だれも自分で得るのではなく、

 アロンもそうであったように、

 神から召されて受けるのです。


 同じようにキリストも、

 大祭司となる栄誉を

 御自分で得たのではなく、

 「あなたはわたしの子、

 わたしは今日、あなたを産んだ」

 と言われた方が、

 それをお与えになったのです。


 また、神は他の個所で、

 「あなたこそ永遠に、

 メルキゼデクと同じような祭司である」

 と言われています。



福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節


 一行はエリコの町に着いた。

 イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、

 エリコを出て行こうとされたとき、

 ティマイの子で、

 バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。

 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、

 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

 と言い始めた。

 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、

 彼はますます、

 「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」

 と叫び続けた。


 イエスは立ち止まって、

 「あの男を呼んで来なさい」と言われた。

 人々は盲人を呼んで言った。

 「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

 盲人は上着を脱ぎ捨て、

 躍(おど)り上がってイエスのところに来た。


 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。

 盲人は、

 「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。


 そこで、イエスは言われた。

 「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 盲人は、すぐ見えるようになり、

 なお道を進まれるイエスに従った。 

2021年10月16日土曜日

10月17日 年間第29主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】

2021年10月17日 年間第29主日(マルコ、10.42-45)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音の箇所は、『マルコ福音書』における三回目の「受難の予告と弟子の在り方」についての教えに当たります。相変わらず弟子たちは、王であるメシア(キリスト)と見なしているイエス様の後継者争いをしています。ユダヤ教では、メシアは最後の時の勝利者、王と信じられていたからでしょう。しかし、イエス様が弟子たちの求めたのは、仕える者の在り方でした。その最後の言葉である「身代金」は、非常に多くのことを語りかけ、色々と想像させ、連想をさせてくれます。

  イエス様は、「身代金として自分の命を捧げるために来た」と言っています。身代金は、『聖書と典礼』の脚注にあるように、もともと奴隷の開放のために支払う代金を意味しています。そして、贖うものができた時に、その贖いの必要性から発生するもので、最初からあるものではありません。そして、支払われるとなくなる(命を失う)ものです。イエス様はそれがあってこの世に来られたのです。ですから、この世を贖う必要がなければこの世に来られなかった、とも考えられます。

  ところで、贖われるべきものは人間だけなのでしょうか。罪は、狭い意味での個人の信仰的道徳的なことに限定する必要があるのでしょうか。たとえば、社会が生み出す、個人にはどうしようもない罪もあるのではないでしょうか。また、贖いは人間だけの特権なのでしょうか。人間がこの世に生まれたのは、この世の歴史の長さから見たらほんの一瞬の事でしょう。それまでにこの世に存在したものは、人間が救われるための付け足しなのでしょうか。すべてが神によって創造されたものであれば、どれにも同じように贖われる価値があり、神の国の完成に与ってもいいのではないでしょうか。イエス様は、この世の始まりから終わりまでのあらゆるものの贖いのためにこの世に来られた、と考えるとき、神様の慈しみの広さを感じませんか。

  イエス様は「仕える者になりなさい」という文脈でこの最後の言葉を語っていますから、弟子(私たち)の在り方と無関係ではありません。とすると、「仕える」とは贖われるもの「のために」を意味しています。イエス様は、十字架を通して神様の姿を現しました。そして、私たちが神様の似姿として造られたとしたら、イエス様に倣うのは自然なことでしょう。自分の十字架を担ってキリストに従うこと(第一の予告)、「仕える」あり方(第二の予告)、誰か(何か)のためにという神様の在り方に倣うように(第三の予告)。

  こうして一つの言葉から、多くの想像の連鎖が生まれ、連想が膨らみます。それ自体で楽しいことではないでしょうか。皆さんも、「身代金」というイエス様の言葉から、色々想像しみてはいかがでしょうか。聖人たちの模範の中にその在り方を見たり、自分の在り方を振り返ったり。それを誰かと分かちえたら、楽しいかもしれません。  湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


恵み豊かな神よ、

ひとり子イエスは、すべての人の救いのために

自らのいのちをおささげになりました。

わたしたちが苦しみや試練の中にあっても、

主の十字架のうちに

希望を見いだすことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 53章10~11節


 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

 彼は自らを償いの献げ物とした。

 彼は、子孫が末永く続くのを見る。


 主の望まれることは

 彼の手によって成し遂げられる。

 彼は自らの苦しみの実りを見

 それを知って満足する。


 わたしの僕は、

 多くの人が正しい者とされるために

 彼らの罪を自ら負った。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節


 わたしたちには、

 もろもろの天を通過された偉大な大祭司、

 神の子イエスが与えられているのですから、

 わたしたちの公に言い表している信仰を

 しっかり保とうではありませんか。


 この大祭司は、

 わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、

 罪を犯されなかったが、あらゆる点において、

 わたしたちと同様に試練に遭われたのです。


 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、

 時宜にかなった助けをいただくために、

 大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。



福音朗読 マルコによる福音書 10章35~45節


 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。


 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

 二人は言った。

 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、

 もう一人を左に座らせてください。」


 イエスは言われた。

 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。

 このわたしが飲む杯を飲み、

 このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。

 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、

 わたしが受ける洗礼を受けることになる。

 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、

 わたしの決めることではない。

 それは、定められた人々に許されるのだ。」


 ほかの十人の者はこれを聞いて、

 ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。


 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。

 「あなたがたも知っているように、

 異邦人の間では、

 支配者と見なされている人々が民を支配し、

 偉い人たちが権力を振るっている。

 しかし、あなたがたの間では、そうではない。

 あなたがたの中で偉くなりたい者は、

 皆に仕える者になり、

 いちばん上になりたい者は、

 すべての人の僕になりなさい。

 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、

 また、多くの人の身代金として

 自分の命を献げるために来たのである。」

2021年10月7日木曜日

10月10日 年間第28主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

いくつかの学校に宗教講師として回ったときに、複数の先生からこんな質問を受けた。「私たちは生徒にエリートになるよう教育してはいけませんか?」「生徒に幸せになるために、お金持ちになるよう努力してもらうことはダメなのでしょうか?」と。カトリックミッションを持つ学校の先生にとって、特に未洗者の先生にとっては、進学校となるよう努力をするよう指示されながらも、キリスト教の精神との間で板挟みになって、悩んでいるようだった。一方では「背に腹替えられないのでは?」と。あきらめる声も聞こえてきた。その時点でカトリックミッションはなくなるのであろう。でもきっとその意見は生徒の保護者も同じなのだろうと推測する。今日の福音書には「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と描かれていることに、躓く人が多くいることに気づかされる。そこで私は次のように応えている。「どんどんエリートを作ってください。どんどんお金持ちになるように教育してください。」と。これを聞くと「なんという神父だ!」とおしかりを受けるかもしれない。しかし、更に私は次のように付け加えることにしている。「世の中で勝利者とされるひとは、弱い人、貧しい人を助ける義務がついて来ます。自ら得た知恵と知識、財産や富は愛する者のために使うのであって、自分のために蓄えることを拒否し、手放し与えるということを必ず付け加えてください。」と。結局、棺桶にお金も知恵も入れることはできないのだから。この世のものはこの世にあるうちに使うためのものであり、愛する者のために惜しみなく与え尽くすことにカトリックミッションは意義をもち向かっているのである。しかし多くの人は持っている量を他人と比べ、勝った負けたで権力にしがみつこうとしている。そこで他者と争い、嫉妬と妬みに陥り、苦しみに巻き込まれ、いつも奪われることへの緊張と恐れにその身を渡しているが、実は手放したときに私たちはその呪縛から解き放たれ自由になるのであるが、人類にとってこのことは高い壁であろう。富そのものが悪なのではなく、富を持ってしまった人の心から悪が生じることが今日の大切なポイントなのではないか。かつて偶像崇拝していたものに対してモーセの十戒が与えられたように、富の偶像化は気をつけなければならない。大きな誘惑、甘い蜜だからである。

しかし解き放たれるためには愛する相手が必要であること、このことをイエスは金持ちの青年に伝えたかったのではないか。何よりもイエスがすべてから自ら解き放たれており、十字架に向けてご自身がもっているすべてを差し出したからにほかならない。イエスは愚かな金持ちの青年の前に立った時ですら、慈しみの眼差しで見て、愛そうとして神の知恵を惜しみなく示した。青年もこの優しいイエスに出会い、我に返り、受け止めることにつらさを感じ、イエスの前に立っていることができなくなった。

私の神学生時代の恩師は、「山で流れる小川のせせらぎを見なさい。わずかな水であるが清く美しく、そして素晴らしい美味さを感じる。しかし一度石などで川をせき止めてみなさい。途端に水はよどみ、溜まった水は飲めなくなり、生態系までも変わる。お金の流れと一緒なのだ!」と。清く正しく美しくという言葉が昭和時代に流行ったが、そのためには保つのではなく流し続けることに本来の意味を見出したい。

存分に冨を蓄えても構わない。でもそれを“無償で使う”ことが大前提になければ、金持ちの青年と同じように、落胆させられるのだろう。神の計画では、富も財産も、すべてのものは、それ自体が称えられるべきものではなく偶像であり、愛に仕えなければならないと教えるからである。針の穴とラクダの大小は、神の創造のわざが始まったときから、すでに決まっている法則。富と愛の関係も神の法則で決められている。常に神の愛、神の教えに優位性があることを忘れないようにしたい。


【聖書朗読箇所】


すべてにまさる知恵を与えてくださる神よ、

あなたのことばはいつの時代にも力強く働いています。

わたしたちの心を福音の光で照らし、

目先のものへの執着から解き放ってください。

   集会祈願より


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第1朗読 知恵の書 7章7~11節


 わたしは祈った。すると悟りが与えられ、

 願うと、知恵の霊が訪れた。


 わたしは知恵を王笏(おうしゃく)や王座よりも尊び、

 知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。


 どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。

 知恵の前では金も砂粒にすぎず、

 知恵と比べれば銀も泥に等しい。


 わたしは健康や容姿の美しさ以上に知恵を愛し、

 光よりも知恵を選んだ。


 知恵の輝きは消えることがないからだ。

 知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。

 知恵の手の中には量り難い富がある。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章12~13節


 神の言葉は生きており、力を発揮し、

 どんな両刃の剣よりも鋭く、

 精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、

 心の思いや考えを見分けることができるからです。


 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、

 すべてのものが神の目には裸であり、

 さらけ出されているのです。


 この神に対して、

 わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。



福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節


 イエスが旅に出ようとされると、

 ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。

 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」


 イエスは言われた。

 「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。

 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。


 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』

 という掟をあなたは知っているはずだ。」


 すると彼は、

 「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。


 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。

 「あなたに欠けているものが一つある。

 行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

 そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」


 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。

 たくさんの財産を持っていたからである。


 イエスは弟子たちを見回して言われた。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」


 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。

 イエスは更に言葉を続けられた。

 「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」


 弟子たちはますます驚いて、

 「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。


 イエスは彼らを見つめて言われた。

 「人間にできることではないが、神にはできる。

 神は何でもできるからだ。」


2021年10月2日土曜日

10月3日 年間第27主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

年間第27主日 10月3日

神が男を造られたとき、男には男の強さをお与えになり、女を造られたときには別の強さをお与えになりました。ですから神は,それぞれの力を用い男と女は一緒になり互いに補い合う強い結びつきの家族を望まれました。

この家族において、神は可能な限り最高の創造をされようとしました。両親がいる家庭では子供たちは恵まれた支援をうけ健全に成長します。しかし片親、または両親ともいない場合、子どもたちはある一種の道徳的、心理的な不足をもって成長し、それが神の最高の仕事をする遅れになるかもしれません。

イエスは言われます。人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。つまり結婚の結びつきとは二人が常に一体であり、一人の人間の別の部分のように働くと考えます。夫婦は異なる能力や育ちに関わらず調和して暮らすのです。頭は首なくして、首は頭なくしては機能しないように、結婚生活において男女もそのようであります。

イエスははっきりと結婚は人によってではなく、神によって造りだされたものであると宣言されました。ですから男女が結ばれようと決心するときには神からの祝福をまず求め、教会において主がおられる中、最終的に厳粛のうちに婚姻の式を執り行われねばなりません。イエスは又、神が結び合わせてくださったものを人は離してはならないと戒められます。どの男にも女にも壊すことをさせないようにしましょう。ですから故意に悪意をもって正当な婚姻を潰そうとする、その男、もしくは女は神の怒りに直面するでしょう。

それが神からの制度でありますので、私たちは力を尽くして聖なる結婚制度を守りましょう。神はあなたの妻、夫と結婚生活の中で主が命じられた仕事をしながら伴に生涯暮らすことを求められます。

結婚生活において多くの難題に直面している夫婦に主の祝福がある事を祈りましょう。結婚制度は今、多方面から悪の力による攻撃を受けています。彼らがこれらの難題に打ち勝つための強さと、そして結婚がゆるぎないものになるよう、主よあなたの慈しみをお与えください。

Homily for October 3, 2021

27th Sunday in Ordinary Time Year B

When God created Man, He gave him the strengths of man and when He created the woman, she was given her different strengths too. So, with each one’s strength, God intended a man and a woman to come together and complement and supplement each other and make one very strong institution of a family.

It is in this family, that God intends to bring up His creation in the best way possible. When the father and mother are present in the family the children tend to grow wholesomely with the best support. But when one parent is absent or even all, the children grow up with some sort of moral and psychological deficiency which may hinder them from doing God’s work in the best way possible.

Jesus says that the man shall leave his father and mother and be joined to his wife and become one flesh, He means that the institution of marriage is supposed to be in congruency all the time, it is supposed to work like the different body organs in a human being. The husband and the wife are supposed to live in harmony despite their different strengths and upbringing. Just the same way the head cannot function without the neck and the neck without the head, so is man and woman in the institution of marriage.

Jesus rubber-stamps the fact that marriage is not an institution invented by man, but an institution invented by God. So when man and woman decide to get married, they have to first seek blessings from God and finally solemnize the marriage in the presence of the Lord, in the Church.

Jesus also warns us that whatever God has put together in marriage, let no man or woman ruin it. So, anybody who intends to deliberately and maliciously put asunder any lawful marriage union, then he/she will face the full wrath of God.

Let us safeguard the institution of holy marriage with all our might and strength as it is a God sent institution. God intends that you may live together with your wife and husband all the days of your lives doing God’s work that He has assigned to you inside the marriage.

Let us pray that the Lord God will bless the couples who are facing so much challenges in their marriage. The institution of marriage is being attacked from all corners by the forces of the evil one. Give them Your Graces and strength to overcome all these challenges and may their marriages stand. Amen.



【聖書朗読箇所】


いのちの与え主である神よ、

あなたは人が孤独のうちに生きるのではなく、

互いに支え合い、助け合って生きることをお望みになりました。

きょう、キリストのもとに集められたわたしたちに、

あなたの満ちあふれる愛を注いでください。

   集会祈願より


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第1朗読 創世記 2章18~24節


 主なる神は言われた。

 「人が独りでいるのは良くない。

 彼に合う助ける者を造ろう。」


 主なる神は、野のあらゆる獣、

 空のあらゆる鳥を土で形づくり、

 人のところへ持って来て、

 人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。


 人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。

 人はあらゆる家畜、空の鳥、

 野のあらゆる獣に名を付けたが、

 自分に合う助ける者は見つけることができなかった。


 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。

 人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、

 その跡を肉でふさがれた。

 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

 主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、

 人は言った。

 「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。

 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう

 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、

 二人は一体となる。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 2章9~11節


 「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、

 死の苦しみのゆえに、

 「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。


 神の恵みによって、

 すべての人のために死んでくださったのです。

 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、

 彼らの救いの創始者を

 数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、

 万物の目標であり源である方に、

 ふさわしいことであったからです。


 事実、人を聖なる者となさる方も、

 聖なる者とされる人たちも、

 すべて一つの源から出ているのです。

 それで、イエスは彼らを

 兄弟と呼ぶことを恥とされないのです。



福音朗読 マルコによる福音書 10章2~16節


 ファリサイ派の人々が近寄って、

 「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」

 と尋ねた。

 イエスを試そうとしたのである。


 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」

 と問い返された。

 彼らは、

 「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」

 と言った。


 イエスは言われた。

 「あなたたちの心が頑固なので、

 このような掟をモーセは書いたのだ。

 しかし、天地創造の初めから、

 神は人を男と女とにお造りになった。

 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

 二人は一体となる。

 だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

 従って、神が結び合わせてくださったものを、

 人は離してはならない。」


 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。


 イエスは言われた。

 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、

 妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

 夫を離縁して他の男を夫にする者も、

 姦通の罪を犯すことになる。」


 イエスに触れていただくために、

 人々が子供たちを連れて来た。

 弟子たちはこの人々を叱った。


 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。

 妨げてはならない。

 神の国はこのような者たちのものである。


 はっきり言っておく。

 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、

 決してそこに入ることはできない。」

 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。