ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ ウルバン神父】
第30主日 10月24日 “私を憐れんでください” ウルバン神父
ある日の事でした。バルティマイと言う盲人が道端に座って物乞いをしていた。生まれた日から暗闇の中で生きていた。いつも、昼も夜も、暗闇。目を開けても暗闇。太陽の光、空の星、道端に咲いている花、遊んでいる子供達も、自分の父母の顔さえも見たことがない。人の笑いを聞いても、共に喜ぶことができない。子供に虐められて、度々物乞いの鍋の中に石だけ投げ入れられた。友もないあの盲人の孤独を想像もできない。それだけでしょうか。暗闇は心の中まで深く入り込んだ。何の罪のために罰されているでしょうかと神に聞いても、返事はない。神様に見捨てられた者だと思われたので、人に軽蔑され、無視された。「神様、あなたはどこにいるのか、僕を捨てたのか」と叫んでも、返事はない。
ところが、ある朝“暗闇の中に座る人は大きな光を見る”と書いてあるように、彼も光を見た。
「ホラ、足音だ、大群衆だ」と分かった。聞いたら、「ナザレの預言者のお通りだ」と教えられた。イエスを知らなかったが、噂を聞いた事があります。その時、盲人の心は飛び上がって、大きな声で「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めたが、道を通る群衆のノイズの中で彼の声が消えてしまった。人は彼に怒った。「黙れ、あの偉い方はお前のような人を相手にするわけがない」と叱ったが、何と言われても、彼は益々大きな声で叫び続けた。「ナザレのイエスよ、ナザレのイエエエース」と。その時、声がイエスに届いた。イエスは足を止めて、「あの男を呼んできなさい」と。幸いに彼が叫び続けたのだ。もし諦め、叫ぶ事をやめたら、イエスにいつまでも会えなかったでしょう。
彼は飛び上がって、手で道を探し、躍りながらイエスに近づいた。躍りながら、バルティマイは自分の溢れる喜び、イエスを信じる心を現しました。彼は暗闇の中に、大きな光を見た。彼は今の私達に呼び掛ける。「闇に沈んだら、黙ってはいけない。叫びなさい。イエスを信じて、叫び続けなさい。彼は泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶのだ。見えない人に視力、圧迫されている人に自由を与えるために来たのはないでしょうか。信じたら、あなたにも言う“あなたの信仰があなたを救った”」。
主は盲人が来るのを見た時、大群衆より彼の事をどんなに喜んだでしょう。人を助ける事は今でも主の喜びです。人の不幸と涙を喜びません。「私は仕えられるためにではなく、仕えるために来た」と言ったのではないでしょうか。今でもあなたに聞いています「何をしてほしいのか、私に言ってください」。主は頼まれるのを待っています。ただ、条件が一つある。それは全くの疑いのない信頼と信仰です。ちょっとの疑いがあっても、主の手が縛られて、もう働けなくなり、救えなくなります。私達が喜びに溢れるように。これは主の心の望み。頼む事、叫び続ける事と期待する信仰、もう頂く前に既に感謝する事には大きな力があります。
暗い夜に野原の中で迷った子羊が恐れで叫ばなかったら、羊飼いは倒れて震えた羊を見つけなかったでしょうが、見つけた小羊を大喜びで抱きながら帰っていた。泣いてよかった。あなたも心から呼んだら、この小羊のように持ち上げられて抱かれる。
「御覧なさい、私はあなたの門の前に立ってノックしている。もし門を開ければ、私は入って来て、あなたと共に食卓に座る」。
【聖書朗読箇所】
いつくしみ深い神よ、
苦しみや悲しみの中から救いを求める声に、
耳を傾けてください。
あなたにより頼むわたしたちが、
この集いをとおして
主の導きを
確かに受けとめることができますように。
集会祈願より
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
第1朗読 エレミヤ書 31章7~9節
主はこう言われる。
ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。
諸国民の頭のために叫びをあげよ。
声を響かせ、賛美せよ。そして言え。
「主よ、あなたの民をお救いください
イスラエルの残りの者を。」
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し
地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き
流れに沿って行かせる。
彼らはまっすぐな道を行き、
つまずくことはない。
わたしはイスラエルの父となり
エフライムはわたしの長子となる。
第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章1~6節
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、
罪のための供え物やいけにえを献げるよう、
人々のために
神に仕える職に任命されています。
大祭司は、
自分自身も弱さを身にまとっているので、
無知な人、
迷っている人を思いやることができるのです。
また、その弱さのゆえに、
民のためだけでなく、
自分自身のためにも、
罪の贖いのために
供え物を献げねばなりません。
また、この光栄ある任務を、
だれも自分で得るのではなく、
アロンもそうであったように、
神から召されて受けるのです。
同じようにキリストも、
大祭司となる栄誉を
御自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われた方が、
それをお与えになったのです。
また、神は他の個所で、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と言われています。
福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節
一行はエリコの町に着いた。
イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、
エリコを出て行こうとされたとき、
ティマイの子で、
バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」
と言い始めた。
多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、
彼はますます、
「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」
と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、
「あの男を呼んで来なさい」と言われた。
人々は盲人を呼んで言った。
「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
盲人は上着を脱ぎ捨て、
躍(おど)り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。
盲人は、
「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
盲人は、すぐ見えるようになり、
なお道を進まれるイエスに従った。