2021年10月16日土曜日

10月17日 年間第29主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】

2021年10月17日 年間第29主日(マルコ、10.42-45)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音の箇所は、『マルコ福音書』における三回目の「受難の予告と弟子の在り方」についての教えに当たります。相変わらず弟子たちは、王であるメシア(キリスト)と見なしているイエス様の後継者争いをしています。ユダヤ教では、メシアは最後の時の勝利者、王と信じられていたからでしょう。しかし、イエス様が弟子たちの求めたのは、仕える者の在り方でした。その最後の言葉である「身代金」は、非常に多くのことを語りかけ、色々と想像させ、連想をさせてくれます。

  イエス様は、「身代金として自分の命を捧げるために来た」と言っています。身代金は、『聖書と典礼』の脚注にあるように、もともと奴隷の開放のために支払う代金を意味しています。そして、贖うものができた時に、その贖いの必要性から発生するもので、最初からあるものではありません。そして、支払われるとなくなる(命を失う)ものです。イエス様はそれがあってこの世に来られたのです。ですから、この世を贖う必要がなければこの世に来られなかった、とも考えられます。

  ところで、贖われるべきものは人間だけなのでしょうか。罪は、狭い意味での個人の信仰的道徳的なことに限定する必要があるのでしょうか。たとえば、社会が生み出す、個人にはどうしようもない罪もあるのではないでしょうか。また、贖いは人間だけの特権なのでしょうか。人間がこの世に生まれたのは、この世の歴史の長さから見たらほんの一瞬の事でしょう。それまでにこの世に存在したものは、人間が救われるための付け足しなのでしょうか。すべてが神によって創造されたものであれば、どれにも同じように贖われる価値があり、神の国の完成に与ってもいいのではないでしょうか。イエス様は、この世の始まりから終わりまでのあらゆるものの贖いのためにこの世に来られた、と考えるとき、神様の慈しみの広さを感じませんか。

  イエス様は「仕える者になりなさい」という文脈でこの最後の言葉を語っていますから、弟子(私たち)の在り方と無関係ではありません。とすると、「仕える」とは贖われるもの「のために」を意味しています。イエス様は、十字架を通して神様の姿を現しました。そして、私たちが神様の似姿として造られたとしたら、イエス様に倣うのは自然なことでしょう。自分の十字架を担ってキリストに従うこと(第一の予告)、「仕える」あり方(第二の予告)、誰か(何か)のためにという神様の在り方に倣うように(第三の予告)。

  こうして一つの言葉から、多くの想像の連鎖が生まれ、連想が膨らみます。それ自体で楽しいことではないでしょうか。皆さんも、「身代金」というイエス様の言葉から、色々想像しみてはいかがでしょうか。聖人たちの模範の中にその在り方を見たり、自分の在り方を振り返ったり。それを誰かと分かちえたら、楽しいかもしれません。  湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


恵み豊かな神よ、

ひとり子イエスは、すべての人の救いのために

自らのいのちをおささげになりました。

わたしたちが苦しみや試練の中にあっても、

主の十字架のうちに

希望を見いだすことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 53章10~11節


 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

 彼は自らを償いの献げ物とした。

 彼は、子孫が末永く続くのを見る。


 主の望まれることは

 彼の手によって成し遂げられる。

 彼は自らの苦しみの実りを見

 それを知って満足する。


 わたしの僕は、

 多くの人が正しい者とされるために

 彼らの罪を自ら負った。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節


 わたしたちには、

 もろもろの天を通過された偉大な大祭司、

 神の子イエスが与えられているのですから、

 わたしたちの公に言い表している信仰を

 しっかり保とうではありませんか。


 この大祭司は、

 わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、

 罪を犯されなかったが、あらゆる点において、

 わたしたちと同様に試練に遭われたのです。


 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、

 時宜にかなった助けをいただくために、

 大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。



福音朗読 マルコによる福音書 10章35~45節


 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。


 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

 二人は言った。

 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、

 もう一人を左に座らせてください。」


 イエスは言われた。

 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。

 このわたしが飲む杯を飲み、

 このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。

 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、

 わたしが受ける洗礼を受けることになる。

 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、

 わたしの決めることではない。

 それは、定められた人々に許されるのだ。」


 ほかの十人の者はこれを聞いて、

 ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。


 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。

 「あなたがたも知っているように、

 異邦人の間では、

 支配者と見なされている人々が民を支配し、

 偉い人たちが権力を振るっている。

 しかし、あなたがたの間では、そうではない。

 あなたがたの中で偉くなりたい者は、

 皆に仕える者になり、

 いちばん上になりたい者は、

 すべての人の僕になりなさい。

 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、

 また、多くの人の身代金として

 自分の命を献げるために来たのである。」