2020年10月25日日曜日

年間第30主日

 レイ神父様からいただきました年間第30主日の福音メッセージをご紹介します。



年間第30主日A年
2020年10月25日

物事の本質

世の中はますます複雑になってきています。私たちは物事の本質を精査拡大し、多次元から捉えることのできる人々を評価します。そのような人たちは私たちが‛木を見て森を見ず’ということを防いでくれるのです。何がほんとうに重要であるか、重要ではないか、を仕分けするのにすぐれています。大事でないものに気を取られず、本当に価値あるものに私たちのエネルギーを使うよう仕向けてくれます。

イエスは物事の本質のとらえ方を知っている方でした。ある時、ある人が家族内相続のいざこざの仲裁をイエスに頼みました。問題を具体的にお答えになる代わりに、その人に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(ルカ12章13-15節)と言われました。本当の問題はその特定の事例の詳細ではなく、いざこざの底流にある貧欲であると見抜かれたのです。

このイエスの物事の本質がわかる能力は、今日の福音朗読でファリサイ派の一人から発せられた質問の答えに明確に表れています。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスの時代にはユダヤの律法には613の掟があったと知られています。

ここで‛木を見て森を見ず’という可能性は大いにありました。細かな規則を優先させることは、何が本当に大切なのかを見落とす結果になり得ます。例えば、「ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる(マタイ23章24節)」とあるようにです。イエスはそのファリサイ派の質問に、ユダヤの律法の核心に真直ぐに入ってお答えになりました。どの掟が最も重要であるかと尋ねられた時、イエスはまた、第二の大切な掟も挙げました。最初の掟、「心を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛せよ」は隣人を自分のように愛するという掟から離れることはできないからです。イエスにとって、神が私たちに何ものにもまして望まれるものは愛だからです。私たちの隣人への愛なくして神の真の愛はありません。隣人愛は、さらに、健全な自己愛、自分は本来的に善であると正しく認識することが前提です。なぜなら私は神の似姿として創造されているからです。


30th Sunday in Ordinary Time Year A

October 25, 2020

The heart of the matter

Life is becoming increasingly complex. We value people who have the gift of getting beyond the multiple dimensions of an issue so as to zoom in on the heart of the matter. Such people prevent us from missing the wood for the trees. They are good at separating out what really matters from the things that are less important. They encourage us to invest our energies in what is really worthwhile, rather than allowing them to be dissipated by what is not significant.

Jesus was a person who knew how to go to the heart of the matter. On one occasion someone asked him to intervene in a family dispute about inheritance. In his reply, he ignored the concrete issue and, instead, he called on the person who approached him to “Be on your guard against all kinds of greed” (Lk 12:13-15). He saw that the real issue was not the details of the particular case but the greed which underlay the dispute.

This capacity of Jesus to get to the heart of the matter is clear from his response to the question put to him by one of the Pharisees in today’s gospel reading, “Master, which is the greatest commandment of the Law?” In the time of Jesus there were known to be 613 commandments in the Jewish Law. 

The potential here to miss the wood for the trees was enormous. Preoccupation with the detail of regulations could result in people ignoring what really matters, like straining out a gnat but swallowing a camel (Mt 23:24). Jesus answered the Pharisee’s question by going straight to the heart of the Jewish law. He was asked if there is one “greatest” commandment, but in reply he named the second greatest commandment as well. For the first commandment, loving the Lord your God with all our heart and soul, is inseparable from the conjoined commandment, of loving my neighbour as myself. For Jesus, what God wants from us above all else is love. There is no genuine love of God unless it finds expression in love of our neighbour. Love of neighbour, in turn, presupposes a healthy self-love, recognizing and appreciating myself as fundamentally good, because I am created in the image and likeness of God.



2020年10月18日日曜日

年間第29主日 「世界宣教の日」

 湯澤神父様から年間第29主日の「福音への一言」をいただきましたのでご紹介します。



『2020年10月18日 年間第29主日(マタイ、22章15~21節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の聖書と典礼の脚注を見ると、「納税を認めなければ、ローマ帝国への反逆者となり、認めればユダヤ民衆の信望を失うことになる。どちらにしてもイエスを陥れることになる」とあります。こういう論法をジレンマ(両刀論法)と言います。「真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方」とほめていますが、実は逃げ道をすべて塞いでいるのです。しかも、納税を好ましく思っているヘロデ党の人と好ましく思わないファリサイ派の人が一緒になって、目の前で質問しています。

また他の訳では、「納税は許されていますか」という質問を、ここでは「律法に適いますか」と訳し、脚注のように十戒の第一の戒めと関連付けています。確かに、「デナリ銀貨を神殿に捧げることは偶像崇拝に当たる」という伝承もありますから十戒と関連付けてもいいのでしょう。銀貨には、「ティベリウス・カエサル、神聖なアウグストゥスの子、最高の大祭司」と刻まれていたでしょうから。しかし、神の土地であるユダヤの土地を簒奪し、税を要求する律法的に許せないという解釈もあります。

しかし、イエス様は律法問題として捉えません。ユーモアでしょうか。デナリ銀貨を持ち出させます。上に記したように刻まれていたとしたら、持っていただけで皇帝を神聖な大祭司と認めていることになりかねません。その上で、所有者の名が刻まれているものはその名の人の所有物ですから、その人に返せばよいのではないかと答えたのです。

それは、政治と宗教を分離する根拠となった「皇帝のものは皇帝に」という有名な言葉でした。しかし、イエス様はそこで終わりにしていません。「神のものは神に」。ファリサイ派の人たちならすぐに分かったでしょう。すべては神に造られたものですから、すべては神のものです。そこで、皇帝か神かという二者択一は成り立ちません。イエス様は、一見皇帝と神を並べて、皇帝のものは皇帝に、神様のものは神様にと分けて考える考え方を教えているように見えますが、そうではないのです。「この世の富と神と両方に仕えることはできない」とかつて教えています。最終的には、神様だけが残るのです。

私たちはどうでしょう。「自分のものは自分に、神様のものは神様に」と分けていないでしょうか。神様と何か自分に都合の良いものを天秤にかけていないでしょうか。都合の良い場合だけではなく、正しさ、正義だとしても、正義の名のもとに何かと神様を天秤にかけるなら、それはイエス様の言う「神様のものは神様に」にはならないでしょう。こうした比較を成しかねない現実の日常生活においてこそ、「すべては神様の造られたもの、だからすべてを神様にお返ししましょう」というイエス様の言葉は、常に私たちの心に留めておく必要があるのではないでしょうか。                湯澤民夫』


今日は「世界宣教の日」です。教皇メッセージがカトリック中央協議会ホームページに掲載されています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/10/01/21120/

2020年10月11日日曜日

年間第28主日

 松村神父様からいただきました年間第28主日の福音メッセージをご紹介します。



『年間第28主日 福音のメッセージ

フランシスコの平和を求める祈りの前半には次のように描かれています。

『わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを・・・』と。

ここに私たちの世界が平和になるためのおいしい食事の材料が描かれています。それは「愛・ゆるし・一致・信仰・真理・希望・光・喜び」です。しかし何故かおいしくない料理、すなわち「憎しみ・いさかい・分裂・疑惑・誤り・絶望・闇・悲しみ」という素材を選びがちです。わかっているのに前者の美味しい方を選択できません。なぜならば後者の素材は選ぶのにとても楽だからで、前者は努力し、誰かと味わわなければならないものだからです。私たちは一人の方が楽と考える存在で、自分に必要な時だけ他者に頼るように創られたのです。

今日の福音は王によって招かれる王子のための婚宴の席です。皆で王子の婚宴を喜び、会食する喜びを王自ら共有したかったのですが、皆は自分の世界に閉じこもっていきました。ここに人と喜びを共有することの難しさが現われています。知り合いであっても、平気に友を裏切る存在。人間の持つ危うさが示されています。王はそんな関係性を超えて人々を招き始めます。それほど供することの大切さを訴えます。ですから招いた最初に潤びとの後に呼ばれたのは身内ではなく、声をかけ呼び込まなければ王や王子に近づくことが出来ない人々でした。イエスの時代の世界では罪びとや病を持った方、貧しいものや虐げられた人々を指すのでしょう。このように今日の福音の前半部では、この共に喜び合うことが強く強調されるほど神様の恵みは美味しくすばらしいものであることが示されています。

しかし、後半部では、それでも気を引き締めていなければ追い出されることをも同時に指摘しています。どんな人でも感謝をもって近づく必要性が求められています。どの立場であっても、いただいたものに対する感謝の念と、謙虚さが無ければ最後まで王や王子のそばにいる事が許されていないということです。呼ばれたことに満足するだけでは足りません。与えられすぎると忘れてしまう弱さにも指摘されているとみてもよいのでしょう。

私たちは総じて、神様に呼ばれたものとしてふさわしい存在に磨きをかけていくことが今日のテーマです。洋服だって汚い部分を擦って洗うのは当たり前。常にきれいな服、“キリストを着る”者でなければならない使命を受けていることを忘れてはならないのです。まずはフランシスコの平和の祈りを読み返し、一つ一つチェックしてみてください。汚れた部分を洗う作業。呼ばれた私たちが、さらに神の国に入る権利を得るための働きなのだからです。』

2020年10月6日火曜日

年間第27主日

 年間第27主日の福音メッセージをレイ神父様からいただきましたので聖書朗読箇所と併せてお送りします。


【レイ神父様メッセージ】

今日の朗読では、ぶどう畑の話が繰り返して語られています。これは神の民を象徴的に表すのに用いられます。教会の成員として、私たちは主のぶどう畑の一部分です。

 イザヤの第一朗読ではぶどう畑の持ち主(神)がぶどう畑(イスラエル)をどのように世話をしたのかが語られています。愛をもってあらゆることをして育て茂らせた。「わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、よいぶどうを植えた」。神のぶどう畑で象徴されている民とは神のよいぶどうの事です。しかしこの愛をこめた世話にもかかわらず、そのぶどう畑は酸っぱいぶどう(罪)を実らす。ぶどう畑を注意深く作り耕した持主のように、神は私たち一人一人が生まれるのを愛し世話を続け、神との友情がさらに深まるように招かれます。私たちは神の模範に従うときに神に近づき、神が私たちを愛されるようにお互いを愛し合います。しかし、あまりにもしばしば、私たちは神が私たちをそのように作られた価値に背きながら、お互いを扱います。神に従わず、背を向けたとき、私たちは罪の酸っぱいぶどうを作ります。しかし詩編の作者はイスラエルに救いと悔い改めを思い出させます。私たちは神に属し、めぐみと癒しはいつでも可能であると。詩編は神の優しい愛と保護を思わせます。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、ほかの民を追い出して、これを植えられました」。詩人は神の保護を求めます。「すべてを治める神よ、あなたの目を注いで、またこのぶどうの木を顧みてください。あなたの右の御手で植えられた苗を守って下さい」。そして最後に詩人は神に還ることを約束します。「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。万軍の神、主よ、私たちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、私たちをお救い下さい」。同じように、主は私たちが背くとき赦しを求めるよう、優しい恵を受けるよう招かれます。主は私たちに新たな命を与えることを望まれます。

 第二朗読では次のように教えます。神の民として、真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めること、そうすれば私たちは選び抜かれたぶどうとなり豊かな実りとなるでしょう。このことを実行する一つの方法はキリストが私たちを愛するように互いを愛するのです。特にもっとも助けを必要としている人々を助けるのです。10月は“すべてのいのちを守るための月間”で、今日10月4日はその主日にあたります。毎年この時期、教会は私たちに立ち止まり、もっと深く人間の神聖な命の贈り物について考え、兄弟姉妹の命を迎え、大切に慈しみ守っていく役目について、黙想するように呼びかけます。今年、アシジの聖フランシスコの記念日はこの典礼主日に譲られます。今年は又、教皇ヨハネパウロⅡ世の回勅、“いのちの福音”(Evangelium vitae) の25周年を祝います。教皇さまはこの回勅で現代社会における教会の悦ばしい教えを示し、再確認をするために書かれましたが、それは今日でも重要です。今年のテーマはまさに相応しい“福音の生活を生きなさい”です。これはどういう意味でしょうか?イエスは地上での生涯で、私たちがどのように隣人を愛し福音の呼びかけを生き切るか、完全な見本を示されました。「はっきり言っておく。わたしのきょうだいであるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)。言いかえると、聖ヨハネⅡ世が私たちに思い起させるように、イエスは私たち一人一人に“神が私たちに責任を託された者として他者を助けるよう”(英語版87)と呼びかけられる。私たちの助けと配慮を最も必要としている人とは、あたかも彼らの命は取るに足らないものと扱われている人々です。悲しいことに、人間の命はその最初の時と最後の時に、たびたび特別な脅威にさらされます。ほんとうは保護がいちばん必要な時にです。例えば堕胎や自殺幇助は、人間の命は常に愛を向け慈しみ、守られるべきものであるという真実を悲劇的に拒んでいます。今日のアレルヤ唱の言葉を思い出しましょう。「あなたがたを世から選んだのは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るためである」。私たちは、自分のことを語れない者、自分の生活が価値のない者と感じている人々の命を守るため、辛抱強く働かなければなりません。何が出来るのか、どのように応えたら良いのか、自分自身に次のように問うてみましょう。

 私は共同体において、寄りかかる肩や手を差し伸べるのが必要な妊婦や育児中の母親を助けるだろうか。愛するものが死を目前にしておのれの命を敬う手助けを、どのようにすればいいかを私は知っているだろうか。私は自分自身が教会の教えを知らせ、まず、キリストに従うものとして市井で振る舞えるだろうか。私は人間の命を守り擁護する法律や政策を支持し、主張するだろうか。主に従い良い実りを結ぼうと努力するとき、困難に出会うかもしれない。それは手入れされず、踏みつけられ、打ち捨てられたぶどう畑のように感じるかもしれない。しかし、主は私たちを見捨はしないと知れば、力と慰めを見いだすことができます。ぶどう畑の持主は彼の大切にしていた木を忘れない(第一朗読)。今日の福音書は神の信義を明示します。神はご自分の御一人子をわたしたちの罪の償いの為に遣わされました。イエスは自らの命を、私たちがイエスと一緒に居ることが出来るようにと差し出されました。私たちはどうやってそれに答えられるでしょうか、そんなにも私たちを愛された方には愛をもってより他にありません。

 ぶどう畑で、主は良き実をもたらすと信頼して仕事に励みましょう。この“すべてのいのちを守るめの月間”にイエスのたどった道を従うように、どのようにしてあなたが特に呼ばれたのか、イエスにたずねてみましょう。あなたの隣人の命、特に最も弱い者のためにどのようにしてイエスはあなたに呼びかけたでしょうか。祈りと請願により私たちの願いが神の知るところとなるよう歩み続けましょう(第二朗読)。そこで私たちがうながされているように「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」。主に頼みましょう、流れ出る恩恵、ことに英知の恵み、謙虚さ、勇気、又、開かれた寛大な心を、そして、私たちが福音に従った生活をするようにとの主の呼びかけに答えられますように。 


27th Sunday in Ordinary Time Year A, October 4, 2020

In the Lectionary readings, we are presented with the recurrent theme of the vineyard, which is used to symbolize the people of God. As members of the Church, we are part of the Lord’s vineyard.

The First Reading from Isaiah describes how the vineyard owner (God) cared for his vineyard (Israel), doing everything he could to help it grow and flourish in his love: My friend had a vineyard on a fertile hillside; / he spaded it, cleared it of stones, / and planted the choicest vines. The people symbolized by God’s vineyard are his cherished plant. But despite this loving care, the vineyard only produces wild grapes (sin).Like the owner who took such great care in the creation and cultivation of his vineyard, God loved each of us into existence and continues caring for us, inviting us ever deeper into his friendship. We draw closer to him when we follow his example and love one another as he loves us. But, all too often, we fail to treat one another according to the dignity with which he made us. When we don’t follow God, and instead turn away from him, we produce the wild grapes of sin. Yet, as the Psalmist reminds Israel of its need for salvation and repentance, we are reminded that we belong to God, and that mercy and healing is always possible. The Psalmist recalls God’s tender love and care: A vine from Egypt you transplanted; / you drove away the nations and planted it. The Psalmist seeks God’s protection: Once again, O LORD of hosts, / look down from heaven, and see; / take care of this vine, / and protect what your right hand has planted. And finally, the Psalmist promises a return to God: Then we will no more withdraw from you; / give us new life, and we will call upon your name. / O LORD, God of hosts, restore us; / if your face shine upon us, then we shall be saved. Similarly, the Lord invites us to seek forgiveness whenever we turn from him, and to receive his tender mercy. He wants to give us new life.

The Second Reading tells us that, as God’s people, we are called to seek what is true, honorable, just, pure, lovely and gracious, so that we can be the choicest vines, producing an abundant harvest. One of the ways we do this is by loving one another as Christ loves us, especially by caring for those who are most in need. October is Respect Life Month, and today (October 4) is Respect Life Sunday. Each year at this time, the Church calls us to pause and reflect more deeply on the sacred gift of human life and our role in welcoming, cherishing, and protecting the lives of our brothers and sisters.

This year, the feast of St. Francis of Assisi gives way to this Sunday’s liturgical celebration. This year we’re also celebrating the 25th anniversary of Pope Saint John Paul II’s encyclical The Gospel of Life(Evangelium vitae). Our Holy Father wrote this document to reaffirm and present the Church’s joyful teaching on human life within the context of modern times, and it remains relevant today. This year’s theme is appropriately," Live the Gospel of Life.” What does it mean to live the Gospel of life? In his earthly life, Jesus provided the perfect model for how we are to love our neighbor and live out the Gospel call: “Truly, I say to you, as you did it to one of the least of these my brethren, you did it to me” (Mt. 25:40). In other words, as Saint John Paul II reminds us, Jesus calls each of us to "care for the other as a person for whom God has made us responsible” (EV 87). Some of those who most need of our care and attention are those whose lives are treated as if they don’t matter. Sadly, human life often faces particular threats at its beginning and end—precisely when it is most in need of protection. For example, practices such as abortion and assisted suicide tragically reject the truth that human life is always to be cherished and defended with loving concern. Let us recall the words of today’s Gospel acclamation: I have chosen you from the world, says the Lord, to go and bear fruit that will remain. We must persevere and work to protect the lives of those who cannot speak for themselves or who feel as if their lives are not worth living. What can we do? How do we respond? Here are some questions we can ask ourselves…

Do I help pregnant and parenting mothers in my community who need a shoulder to lean on or a helping hand? Do I know how to support a loved one nearing death in a way that respects the gift of his or her life? Do I inform myself of the Church’s teachings and engage in the civic arena as first a follower of Christ? Do I support and advocate for laws and policies that protect and defend human life. In our efforts to follow the Lord and bear good fruit, there may be times when it is difficult. It may feel like the vineyard has been neglected, trampled, and laid to waste. But we can find strength and comfort in knowing the Lord has not abandoned us. The keeper of the vineyard has not forgotten his cherished plant (First Reading). Today’s Gospel demonstrates God’s faithfulness. God sent his own Son for the sake of our redemption. Jesus gave his own life in order for us to be able to be with him. How else can we respond, except with love for the one who has loved us so much? Let us be encouraged to labor in the vineyard, trusting that the Lord will bring forth good fruit. During this Respect Life Month, ask Jesus how he is specifically calling you to follow in his footsteps. How is he calling you to care for the lives of your neighbors, especially those who are most vulnerable? Let us continue, by prayer and petition, to make our requests known to God(Second Reading). As the Second Reading encourages us: Keep on doing what you have learned and received and heard and seen in me. Let us ask the Lord for an outpouring of grace, especially the graces of wisdom, humility, and courage, as well as open and generous hearts, that we may respond to his call to Live the Gospel of life.