松村神父様からいただきました年間第28主日の福音メッセージをご紹介します。
『年間第28主日 福音のメッセージ
フランシスコの平和を求める祈りの前半には次のように描かれています。
『わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを・・・』と。
ここに私たちの世界が平和になるためのおいしい食事の材料が描かれています。それは「愛・ゆるし・一致・信仰・真理・希望・光・喜び」です。しかし何故かおいしくない料理、すなわち「憎しみ・いさかい・分裂・疑惑・誤り・絶望・闇・悲しみ」という素材を選びがちです。わかっているのに前者の美味しい方を選択できません。なぜならば後者の素材は選ぶのにとても楽だからで、前者は努力し、誰かと味わわなければならないものだからです。私たちは一人の方が楽と考える存在で、自分に必要な時だけ他者に頼るように創られたのです。
今日の福音は王によって招かれる王子のための婚宴の席です。皆で王子の婚宴を喜び、会食する喜びを王自ら共有したかったのですが、皆は自分の世界に閉じこもっていきました。ここに人と喜びを共有することの難しさが現われています。知り合いであっても、平気に友を裏切る存在。人間の持つ危うさが示されています。王はそんな関係性を超えて人々を招き始めます。それほど供することの大切さを訴えます。ですから招いた最初に潤びとの後に呼ばれたのは身内ではなく、声をかけ呼び込まなければ王や王子に近づくことが出来ない人々でした。イエスの時代の世界では罪びとや病を持った方、貧しいものや虐げられた人々を指すのでしょう。このように今日の福音の前半部では、この共に喜び合うことが強く強調されるほど神様の恵みは美味しくすばらしいものであることが示されています。
しかし、後半部では、それでも気を引き締めていなければ追い出されることをも同時に指摘しています。どんな人でも感謝をもって近づく必要性が求められています。どの立場であっても、いただいたものに対する感謝の念と、謙虚さが無ければ最後まで王や王子のそばにいる事が許されていないということです。呼ばれたことに満足するだけでは足りません。与えられすぎると忘れてしまう弱さにも指摘されているとみてもよいのでしょう。
私たちは総じて、神様に呼ばれたものとしてふさわしい存在に磨きをかけていくことが今日のテーマです。洋服だって汚い部分を擦って洗うのは当たり前。常にきれいな服、“キリストを着る”者でなければならない使命を受けていることを忘れてはならないのです。まずはフランシスコの平和の祈りを読み返し、一つ一つチェックしてみてください。汚れた部分を洗う作業。呼ばれた私たちが、さらに神の国に入る権利を得るための働きなのだからです。』