2021年11月27日土曜日

11月28日 待降節第1主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】


2021年11月28日待降節第一の主日(ルカ21.25-28.34-36)

Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  教会は今日から新しい年(C年)になります。ところで、第二の到来を待つ「王であるキリストの主日」と第一の到来を待つ「待降節」は、「待つ」という共通の性格を持っています。そこで世の終わりについてのイエス様の言葉、黙示的な言葉を、教会はこの日の福音のために選んだのでしょう。ところがよく考えてみると、一回目の到来の出来事はとうの昔に既に終わっています。また第二の到来、世の終わりの到来についての出来事は、いかに恐ろしく語られても、その時立ち会うことのない人にとっては、単なるお話で終わってしまいます。では、なぜイエス様はほとんどの人に関係のない話をしたのでしょうか。

  そこで、「目を覚ましている」という言葉に注目してみたいと思います。別なところでは、夜中にやってくる泥棒の話や突然帰ってくる主人の話などで、「目を覚まして」いなければならないケースについて語っています。「目を覚ましている」とは、泥棒が来ないように一晩中寝ずに起きていることを意味しているのでしょうか。もしそうだとしたら、一晩や二晩は徹夜ができても、何日も毎晩徹夜していたらとても体がもちません。どうやら、イエス様の教えようとしている話の時間は、こうした時間とは違うようです。

  幸いギリシア語には時間を意味する二種類の言葉があります。時計で計れる「時」と時計で計れない特別な「時」です。私たちが慣れている「時」は、何年何月何日に何が起こったという計れる時間の出来事です。しかしこれとは違って、それがその時に起こったことに意味がある場合があります。たとえば、ある時のその出来事で人生が変わったというような「時」の出来事です。人との出会いなどはそういう「時」があります。そして、そういう「時」に起こったことに気が付かないで終わってしまうこともあります。

  しかし、それだけではなく、その「時」が特別な時であることに気づくことがあります。「そこにはいない何かが働いていた」と。時には、ずいぶん時間が経ってからそのことに気が付くこともあります。その時そこに人を超えた者(神様)の働きを感じることがあります。これにその「時」それに気づくには、かなり鋭い感覚が必要です。イエス様は、この鋭い感覚を「目覚めている」という言葉で表現しているのではないでしょうか。もちろんそれが本当かどうか、祈りの内に、聖霊の導きによって識別する必要である場合もあるでしょう。召命などはこれに属するかもしれません。

  こういう出来事を第三の到来ということができるのではないでしょうか。第一の到来はすでに歴史的には終り、第二の到来はまた来ていません。とすると、私たちにとって大切なのは、私たちの人生のある「時」に起こる第三の到来、神様の出来事ではないでしょうか。もし、イエス様の言う「目を覚ましている」という鋭い感覚を持つなら、だれでも第三の到来に立ち会うことができるかもしれません。            湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


正義といつくしみに満ちておられる神よ、

  救いの訪れを信じ、解放の時を待ち望むわたしたちの

  心を目覚めさせてください。

  希望の光であるキリストを見つめて、

  歩み続けることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 エレミア書 33章14~16節


 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、

 と主は言われる。

 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。

 彼は公平と正義をもってこの国を治める。

 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。

 その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。



第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 3章12~4章2節


 どうか、主があなたがたを、

 お互いの愛とすべての人への愛とで、

 豊かに満ちあふれさせてくださいますように、

 わたしたちがあなたがたを愛しているように。

 そして、わたしたちの主イエスが、

 御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、

 あなたがたの心を強め、

 わたしたちの父である神の御前で、

 聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。

 さて、兄弟たち、

 主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。

 あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、

 わたしたちから学びました。

 そして、現にそのように歩んでいますが、

 どうか、その歩みを今後も更に続けてください。

 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、

 あなたがたはよく知っているはずです。



福音朗読 ルカによる福音書 21章25~28、34~36節


 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。

 地上では海がどよめき荒れ狂うので、

 諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。

 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、

 恐ろしさのあまり気を失うだろう。

 天体が揺り動かされるからである。

 そのとき、

 人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

 このようなことが起こり始めたら、

 身を起こして頭を上げなさい。

 あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。

 さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。

 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。

 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、

 人の子の前に立つことができるように、

 いつも目を覚まして祈りなさい。」


2021年11月21日日曜日

11月21日 年間第34主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】


第34主日、 11月21日    “それでは、やはり王なのか”      ウルバン神父

何十年前のことでした。戦争が終わった後、私達家族が田舎から、何回も空爆された町ドルトムンドへ戻って来た。ある夜の時、私達何十人の若者は、空爆された教会の聖堂のガレキの中に作った大きな火を囲んで立っていた。周りに聖堂の残された壁、上に星空、真ん中に私たちの姿と顔を照らす炎。腕を組んで火を囲んで、燃える火をしばらくの間静かに眺めていた。その時の感動は、何十年後の今でも心の中に生きています。真中に燃えた火が、戦争に散らされて次々と故郷の教会に戻って来た私たちを照らし、体を温め、そのファイヤーは私達を一つに結んだ事。イエスは私たちの内にいると深く感じた。この神秘的な静けさのなかに、ギターの音また一人の静かな歌声が聞こえたが、もうすぐ二人、三人はともに歌って、最後には皆の声が一つになって、大波のように夜の中に響いていた。“Christus, mein König, Dir allein schwör ich die Liebe, lilienrein, bis in den Tod die Treue.「キリスト、わが王よ、あなたにのみ、百合のような汚れのない愛と忠実を誓う、死に至るまで」。12才であった私も皆と共に、胸を張って心から歌っていた。私達はその夜、悪、戦争と全ての暗闇に打ち勝つキリストに付いて行こうと、この感動的な雰囲気の中で心から望んでいた。

イエスは総督の前に連れ出された。ピラトはイエスを見た時、何を見たでしょうか。すべての悪に打ち勝つ偉大な光り輝く王でしょうか。そうではない。手が縛られて、疲れと飢え渇きで弱った人を。目が叩き潰され、鼻が折られ、血と唾に汚され、人に見放された人を。

ところが、このみすぼらしい姿から深い権威が現れ出た。それでピラトはイエスに聞いた。「お前はユダヤ人の王なのか」。イエスはピラトに答えた。「私は王であるが、私の国はこの世には属していない。真理に属するものは皆私の声を聞く」。そこでピラトが「それでは、やはり王なのか」と言ったが、ユダヤ人の責めを恐れて、イエスは死に渡された。

十字架に「ユダヤ人の王」と書いてあった。この世の王たちは自分のために多くの人を死なせるが、私達の王イエスは自分を逃げ捨てた友と私とあなたも守る為に、自分の命を自ら死に渡した。

小さい時、私は夏休みに何週間かを農家の叔父さんの所で過ごしました。その時の一つの出来事をまだ覚えています。ある小屋から鶏が出て来て、後ろから賑やかなヒヨコの群れがついてきた。雌鶏は美味しい食い物を見つけたら「ぐぐぐ」と子達を呼んで食べさせた。しばらくたった後、雨が降り始めた。小屋がだいぶん離れたので、雌鶏は急いで羽を広げながら「ぐぐぐ」と子達を呼び集めた。ヒヨコ達はササと羽の下に入った。雨が激しくなって、霰となったが、雌鶏はずっと静かに子達の上に座って、小さい者たちを温めていた。やっと雨が止んで天気が良くなった時、小さいヒヨコ達は次々と首とミニ羽を伸ばしながら母親の下から出て来て元気で遊んだが、雌鶏お母ちゃんは死んでいた。

イエス様は今日も私を、あなたも見ています、慈しんで見ています。「友よ、私の所へ来なさい。私にあなたを愛させてください。あなたを幸せにするのは私の喜びです。信頼をも って、恐れなしに来てください。私の翼の下に生きるのは素晴らしい。来て、いつでもあなたを待っています」との静かな促しを聞いているでしょうか。       ウルバン神父



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたはキリストを死者の中から復活させ、

いつくしみ深く万物を治める王としてくださいました。

招きにこたえて一つに集まるわたしたちを導き、

神の国のために働く力を授けてください。

   集会祈願より


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第1朗読 ダニエル書 7章13~14節


 夜の幻(まぼろし)をなお見ていると、

 見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り

 「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み

 権威、威光、王権を受けた。


 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え

 彼の支配はとこしえに続き

 その統治は滅びることがない。



第2朗読 ヨハネの黙示録 1章5~8節


 証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、

 地上の王たちの支配者、イエス・キリストから

 恵みと平和があなたがたにあるように。


 わたしたちを愛し、

 御自分の血によって罪から解放してくださった方に、

 わたしたちを王とし、

 御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、

 栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。


 見よ、その方が雲に乗って来られる。

 すべての人の目が彼を仰ぎ見る、

 ことに、彼を突き刺した者どもは。

 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。

 然り、アーメン。


 神である主、今おられ、かつておられ、

 やがて来られる方、全能者がこう言われる。

 「わたしはアルファであり、オメガである。」



福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節


 「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

 イエスはお答えになった。

 「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。

 それとも、ほかの者がわたしについて、

 あなたにそう言ったのですか。」


 ピラトは言い返した。

 「わたしはユダヤ人なのか。

 お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。

 いったい何をしたのか。」


 イエスはお答えになった。

 「わたしの国は、この世には属していない。

 もし、わたしの国がこの世に属していれば、

 わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。

 しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」


 そこでピラトが、

 「それでは、やはり王なのか」と言うと、


 イエスはお答えになった。

 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。

 わたしは真理について証しをするために生まれ、

 そのためにこの世に来た。

 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」


2021年11月13日土曜日

11月14日 年間第33主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない マルコ13章31節

正にその通りです。今ある天と地は滅びるでしょう。福音書と黙示録はこの真実を語ります。今年の典礼最終に近づくにあたりこのことが思い起こされます。

イエスが輝きと栄光に包まれて戻られ、全てを刷新されることを思い出します。私たちが知っている世界は新たにされ、天はこの新しい地上に結びつき、すべては一体となります。イエスは全ての栄光の王としてこの新しい世を統治されます。

ここで言われているのは、私たちはこの束の間の世界の事柄に過剰に愛着を持つべきではないということです。確かにこの世の富や所有物は一時的な満足を私たちの生活に与えますが、決して永久な満足にはなりません。時が経つとこの世のものは全て無くなります。ですからもし私たちがただ、この地上の富や所有物を積み上げても、そのうちそれらの全てのものはやがて滅び去り、私たちには何も残されないということを知るべきでしょう。

では永遠というのは何でしょうか?その答えは上記の一節に与えられています。イエスは私の言葉は決して滅びないと話されます。すなわち、それは真実であり、神の啓示の全ては永遠でしっかりとつかむ価値あるものです。このことは私たちにイエスの言葉は私たちが探し求める真の富であることを明らかにしてくれます。

イエスの言葉に従いそれを守り、入り込み、信じて、そして私たちの回心によって私たちはその永遠を自分のものにするのです。全ての永遠の為に持てるものを抱くのです。これは私たちが理解し生きるための大切な真実であります。


November 14, 2021 Sunday Mass

Thirty-third Sunday in Ordinary Time Year B

Heaven And Earth Will Pass Away But My Words Will Not – Mark 13:31

Yes, it is true. Heaven as it is now and Earth as it is now will pass away. The Gospels and the Book of Revelation speak to this truth. As we draw close to the end of this liturgical year, we are reminded of this fact.

We are reminded that Jesus will return in splendour and glory and will make all things new. The world as we know it will be made anew and Heaven will be joined to this new Earth and all will be one. Jesus will reign in this new world as the glorious King of all.

One thing this tells us is that we should not become overly attached to the things of this passing world. True, earthly wealth and possessions may offer a temporary satisfaction to our lives, but never a permanent satisfaction. In time, the things of this world will all disappear. So, if we work to build up only earthly wealth and possessions, we should know that all those things will eventually pass away and we would be left with nothing.

So what is it that is eternal? The answer is given in the passage above. Jesus says that His “words will not pass away.” Namely, all that is true and revealed by God as true is eternal and worth holding on to. This reveals to us that Jesus’ words are the true riches that we must seek.

By embracing His Word, clinging to it, entering into it, believing it and letting it change us, we are embracing the eternal. We are embracing that which we will have for all eternity. This is an important truth to understand and live.



【聖書朗読箇所】


唯一の神、

すべての人を一つに呼び集めてくださる方、

ここに集うわたしたちの心を照らしてください。

滅びることのないキリストのことばに、

いつも信頼を置くことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 ダニエル書 12章1~3節


 その時、大天使長ミカエルが立つ。

 彼はお前の民の子らを守護する。


 その時まで、苦難が続く

 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。


 しかし、その時には救われるであろう。

 お前の民、あの書に記された人々は。

 多くの者が地の塵(ちり)の中の眠りから目覚める。

 ある者は永遠の生命に入り

 ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。


 目覚めた人々は大空の光のように輝き

 多くの者の救いとなった人々は

 とこしえに星と輝く。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章11~14、18節


 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、

 決して罪を除くことのできない同じいけにえを、

 繰り返して献げます。


 しかしキリストは、

 罪のために唯一のいけにえを献げて、

 永遠に神の右の座に着き、

 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、

 待ち続けておられるのです。


 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、

 聖なる者とされた人たちを

 永遠に完全な者となさったからです。


 罪と不法の赦しがある以上、

 罪を贖うための供え物は、

 もはや必要ではありません。



福音朗読 マルコによる福音書 13章24~32節


 「それらの日には、このような苦難の後、

 太陽は暗くなり、

 月は光を放たず、

 星は空から落ち、

 天体は揺り動かされる。


 そのとき、

 人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、

 人々は見る。


 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、

 地の果てから天の果てまで、

 彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」


 「いちじくの木から教えを学びなさい。

 枝が柔らかくなり、葉が伸びると、

 夏の近づいたことが分かる。


 それと同じように、あなたがたは、

 これらのことが起こるのを見たら、

 人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。


 はっきり言っておく。

 これらのことがみな起こるまでは、

 この時代は決して滅びない。


 天地は滅びるが、

 わたしの言葉は決して滅びない。」

 「その日、その時は、だれも知らない。

 天使たちも子も知らない。  父だけがご存じである。

2021年11月5日金曜日

11月7日 年間第32主日

松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。





【福音メッセージ 松村神父】


年間第32主日 福音のメッセージ

広い神殿の境内で、一人のやもめの入れた献金を聞き分けたイエスの耳に注目してみたい。

当時の神殿の献金箱の投入口はラッパの口のようなものの形で、投げ入れれば音が鳴り、耳をすませば入れた賽銭の量はおおよそわかる。ただそれが金貨か銀貨か銅貨かまで識別できたかはわからないが、多少の音色の違いはあったかもしれない。やもめの献金の量をイエスはつぶさに把握していたという証拠はないが、彼女の献金を投げ入れる時の胸の音には敏感だったのではないか。おおよその賽銭の量と彼女の胸の内の声を聴くイエスの耳。それに対して律法学者の虚栄心と見せかけの賽銭と比べた時に、耳を傾ける先は明らかであった。

第一朗読では飢饉の中にあり、腹をすかせた人々と神に寄りすがる胸の内なる声に、神が応えようとする。エリヤが救いを宣べるこの言葉を、イエスは忠実に果たそうとしているのが今日の福音ではないか。ましてやもめは自らその立場に立ったのではなく、その生き方を余儀なくされたのである。血族を大切にしてきたイスラエルの民は、扶養家族であったものが離婚や死別によって、直系から排除されることもあり、財産相続を受けることができず、誰からも保護を受けることができなくなり、弱い立場に立たされる。追い出されると途端に生きる難しさを受けるのである。それはやもめだけではなく孤児も同じ。腹をすかせた声。神により頼む声。主に願い求める声にエリヤが救いの手を差し伸べたことからも、イエスは誰よりも耳を澄ませて社会の中で捨て置かれた人の声を聴こうとしていた。それが今日の福音の核心ではないだろうか。

選挙が終わったが、街角や街宣車で大きな声を聴いてきた。そんな時だからこそ小さな声に耳を傾けることができるだろうか。私たちは周りの声に流されていないだろうか。

コロナの制限解除により病者訪問が増えてきたが、か細い声、生き絶え絶えの声、神父の訪問を待ちわびた声に出会う機会が増えて、改めて聞こえない声に耳を傾けることの大切さに気が付かされた。

声を出せる人ではなく、出せない人の声を聴きたいというイエスの想いに、一人では対応不可能だからこそ、一人一人が置かれた場所で耳を澄ますことを期待したい。そしてそれを伝える役割となっていくのがキリスト者なのだろう。孤独者がいない社会を望む。宗教、特にキリスト教にこだわらず、またキリスト教の枠を超えても社会に証しできる私たちこそ本来の教会の使命なのだろう。



【聖書朗読箇所】


あわれみ深い父よ、

  あなたはより頼む者のひたむきな心をご存じです。

  希望を抱いて集うわたしたちを祝福してください。

  あなたのことばに励まされ、

  日々の生活をささげることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 列王記上 17章10~16節


 彼は立ってサレプタに行った。

 町の入り口まで来ると、

 一人のやもめが薪を拾っていた。

 エリヤはやもめに声をかけ、

 「器に少々水を持って来て、

 わたしに飲ませてください」

 と言った。

 

 彼女が取りに行こうとすると、

 エリヤは声をかけ、

 「パンも一切れ、

 手に持って来てください」

 と言った。

 

 彼女は答えた。

 「あなたの神、

 主は生きておられます。

 わたしには焼いたパンなどありません。

 ただ壺の中に一握りの小麦粉と、

 瓶の中にわずかな油があるだけです。

 わたしは二本の薪を拾って帰り、

 わたしと

 わたしの息子の食べ物を作るところです。

 わたしたちは、それを食べてしまえば、

 あとは死ぬのを待つばかりです。」

 

 エリヤは言った。

 「恐れてはならない。

 帰って、

 あなたの言ったとおりにしなさい。

 だが、まずそれでわたしのために

 小さいパン菓子を作って、

 わたしに持って来なさい。

 その後あなたと

 あなたの息子のために作りなさい。

 

 なぜならイスラエルの神、

 主はこう言われる。

 主が地の面に雨を降らせる日まで

 壺の粉は尽きることなく

 瓶の油はなくならない。」

 

 やもめは行って、

 エリヤの言葉どおりにした。

 こうして彼女もエリヤも、

 彼女の家の者も、

 幾日も食べ物に事欠かなかった。

 

 主がエリヤによって告げられた

 御言葉のとおり、

 壺の粉は尽きることなく、

 瓶の油もなくならなかった。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節


 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、

 人間の手で造られた聖所にではなく、

 天そのものに入り、

 今やわたしたちのために

 神の御前に現れてくださったからです。

 

 また、キリストがそうなさったのは、

 大祭司が年ごとに

 自分のものでない血を携えて聖所に入るように、

 度々御自身をお献げになるためではありません。

 

 もしそうだとすれば、

 天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。

 ところが実際は、世の終わりにただ一度、

 御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、

 現れてくださいました。

 

 また、人間にはただ一度死ぬことと、

 その後に裁きを受けることが定まっているように、

 

 キリストも、

 多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、

 二度目には、罪を負うためではなく、

 御自分を待望している人たちに、

 救いをもたらすために現れてくださるのです。



福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節


 イエスは教えの中でこう言われた。

 「律法学者に気をつけなさい。

 彼らは、

 長い衣をまとって歩き回ることや、

 広場で挨拶されること、


 会堂では上席、

 宴会では上座に座ることを望み、


 また、やもめの家を食い物にし、

 見せかけの長い祈りをする。

 このような者たちは、

 人一倍厳しい裁きを受けることになる。」


 イエスは賽銭箱の向かいに座って、

 群衆がそれに金を入れる様子を

 見ておられた。

 大勢の金持ちがたくさん入れていた。


 ところが、一人の貧しいやもめが来て、

 レプトン銅貨二枚、

 すなわち一クァドランスを入れた。


 イエスは、

 弟子たちを呼び寄せて言われた。

 「はっきり言っておく。

 この貧しいやもめは、

 賽銭箱に入れている人の中で、

 だれよりもたくさん入れた。


 皆は有り余る中から入れたが、

 この人は、乏しい中から

 自分の持っている物をすべて、

 生活費を全部入れたからである。」