2021年11月5日金曜日

11月7日 年間第32主日

松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。





【福音メッセージ 松村神父】


年間第32主日 福音のメッセージ

広い神殿の境内で、一人のやもめの入れた献金を聞き分けたイエスの耳に注目してみたい。

当時の神殿の献金箱の投入口はラッパの口のようなものの形で、投げ入れれば音が鳴り、耳をすませば入れた賽銭の量はおおよそわかる。ただそれが金貨か銀貨か銅貨かまで識別できたかはわからないが、多少の音色の違いはあったかもしれない。やもめの献金の量をイエスはつぶさに把握していたという証拠はないが、彼女の献金を投げ入れる時の胸の音には敏感だったのではないか。おおよその賽銭の量と彼女の胸の内の声を聴くイエスの耳。それに対して律法学者の虚栄心と見せかけの賽銭と比べた時に、耳を傾ける先は明らかであった。

第一朗読では飢饉の中にあり、腹をすかせた人々と神に寄りすがる胸の内なる声に、神が応えようとする。エリヤが救いを宣べるこの言葉を、イエスは忠実に果たそうとしているのが今日の福音ではないか。ましてやもめは自らその立場に立ったのではなく、その生き方を余儀なくされたのである。血族を大切にしてきたイスラエルの民は、扶養家族であったものが離婚や死別によって、直系から排除されることもあり、財産相続を受けることができず、誰からも保護を受けることができなくなり、弱い立場に立たされる。追い出されると途端に生きる難しさを受けるのである。それはやもめだけではなく孤児も同じ。腹をすかせた声。神により頼む声。主に願い求める声にエリヤが救いの手を差し伸べたことからも、イエスは誰よりも耳を澄ませて社会の中で捨て置かれた人の声を聴こうとしていた。それが今日の福音の核心ではないだろうか。

選挙が終わったが、街角や街宣車で大きな声を聴いてきた。そんな時だからこそ小さな声に耳を傾けることができるだろうか。私たちは周りの声に流されていないだろうか。

コロナの制限解除により病者訪問が増えてきたが、か細い声、生き絶え絶えの声、神父の訪問を待ちわびた声に出会う機会が増えて、改めて聞こえない声に耳を傾けることの大切さに気が付かされた。

声を出せる人ではなく、出せない人の声を聴きたいというイエスの想いに、一人では対応不可能だからこそ、一人一人が置かれた場所で耳を澄ますことを期待したい。そしてそれを伝える役割となっていくのがキリスト者なのだろう。孤独者がいない社会を望む。宗教、特にキリスト教にこだわらず、またキリスト教の枠を超えても社会に証しできる私たちこそ本来の教会の使命なのだろう。



【聖書朗読箇所】


あわれみ深い父よ、

  あなたはより頼む者のひたむきな心をご存じです。

  希望を抱いて集うわたしたちを祝福してください。

  あなたのことばに励まされ、

  日々の生活をささげることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 列王記上 17章10~16節


 彼は立ってサレプタに行った。

 町の入り口まで来ると、

 一人のやもめが薪を拾っていた。

 エリヤはやもめに声をかけ、

 「器に少々水を持って来て、

 わたしに飲ませてください」

 と言った。

 

 彼女が取りに行こうとすると、

 エリヤは声をかけ、

 「パンも一切れ、

 手に持って来てください」

 と言った。

 

 彼女は答えた。

 「あなたの神、

 主は生きておられます。

 わたしには焼いたパンなどありません。

 ただ壺の中に一握りの小麦粉と、

 瓶の中にわずかな油があるだけです。

 わたしは二本の薪を拾って帰り、

 わたしと

 わたしの息子の食べ物を作るところです。

 わたしたちは、それを食べてしまえば、

 あとは死ぬのを待つばかりです。」

 

 エリヤは言った。

 「恐れてはならない。

 帰って、

 あなたの言ったとおりにしなさい。

 だが、まずそれでわたしのために

 小さいパン菓子を作って、

 わたしに持って来なさい。

 その後あなたと

 あなたの息子のために作りなさい。

 

 なぜならイスラエルの神、

 主はこう言われる。

 主が地の面に雨を降らせる日まで

 壺の粉は尽きることなく

 瓶の油はなくならない。」

 

 やもめは行って、

 エリヤの言葉どおりにした。

 こうして彼女もエリヤも、

 彼女の家の者も、

 幾日も食べ物に事欠かなかった。

 

 主がエリヤによって告げられた

 御言葉のとおり、

 壺の粉は尽きることなく、

 瓶の油もなくならなかった。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節


 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、

 人間の手で造られた聖所にではなく、

 天そのものに入り、

 今やわたしたちのために

 神の御前に現れてくださったからです。

 

 また、キリストがそうなさったのは、

 大祭司が年ごとに

 自分のものでない血を携えて聖所に入るように、

 度々御自身をお献げになるためではありません。

 

 もしそうだとすれば、

 天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。

 ところが実際は、世の終わりにただ一度、

 御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、

 現れてくださいました。

 

 また、人間にはただ一度死ぬことと、

 その後に裁きを受けることが定まっているように、

 

 キリストも、

 多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、

 二度目には、罪を負うためではなく、

 御自分を待望している人たちに、

 救いをもたらすために現れてくださるのです。



福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節


 イエスは教えの中でこう言われた。

 「律法学者に気をつけなさい。

 彼らは、

 長い衣をまとって歩き回ることや、

 広場で挨拶されること、


 会堂では上席、

 宴会では上座に座ることを望み、


 また、やもめの家を食い物にし、

 見せかけの長い祈りをする。

 このような者たちは、

 人一倍厳しい裁きを受けることになる。」


 イエスは賽銭箱の向かいに座って、

 群衆がそれに金を入れる様子を

 見ておられた。

 大勢の金持ちがたくさん入れていた。


 ところが、一人の貧しいやもめが来て、

 レプトン銅貨二枚、

 すなわち一クァドランスを入れた。


 イエスは、

 弟子たちを呼び寄せて言われた。

 「はっきり言っておく。

 この貧しいやもめは、

 賽銭箱に入れている人の中で、

 だれよりもたくさん入れた。


 皆は有り余る中から入れたが、

 この人は、乏しい中から

 自分の持っている物をすべて、

 生活費を全部入れたからである。」