2022年3月26日土曜日

3月27日 四旬節第4主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 松村神父】


私は今から6年前に、大阪教会管区、すなわち名古屋・京都・大阪・高松・広島の5つの教区の司教と青年を集めた、『司教と青年たちは出合い、そしてWaiWai語る』という会を主催し、その集いのテーマソングの詩も提供したことがあった。テーマは「いつくしみ うけいれ ゆるす」。放蕩息子を扱ったテーマだった。今やその曲もお蔵入りしたものと思うが、大会当日にはこの詩に対しての講話も行い、青年たちは「目から鱗が落ちたわぁ。そんなふうに考えたこと無かってん」とか、司教様からは、「ぜひ全国で歌ってもらえたらええのになぁ」とお褒めの言葉を頂いた。ただ、未だに流行していないことを考えると、産みだした貴重な歌が、今や自ら“放蕩”しているのだろうと、我ながら苦笑している。

さて、その曲の中でサビとなる部分の詩の内容は次の通り。「回心できたかは関係ない、ただただあなたを赦したいだけ」と言う息子を待つ父親の立場の詩。そこで今日読まれた放蕩息子の聖書の個所をもう一度読みなおしてもらいたい。多くの人は息子の回心を見て父親が受け入れたように考えている人が多い事だろう。確かに放蕩の限りを尽くした息子は「我に返って」とか「罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。」「雇い人の一人にしてください」と語る。しかし、どこにも“回心”したとか“反省”したとか描かれておらず、事実だけが記されている。「息子は空腹に対する欲求を貫くための画策であるにすぎない」という穿った見方の方が今日の聖書は納得いく。つまり、放蕩息子のたとえ話は、先に述べたテーマ「いつくしみ うけいれ ゆるす」父の愛のたとえ話であり、私たちのいたらなさなど神にとっては大した話ではないという事。ただただ私たちを引き寄せ、愛し、抱きしめる。しかも自ら駆け寄り、財産をはたいて宴会を催す神の仕草を、私たちはイエスの受難に見ることができるという事。私たちが回心できたから赦される、十分な回心だから認められるという度合いの話ではない。人の評価とは違う次元で語られた話として、改めて深い父の愛を感じるたとえ話として受け入れたい。ただし、これはゆるしの秘跡を語っているのではないので、そこはしっかりと分けて考えた方がよいだろう。要は神の愛を伝えたいという福音記者の発想から出たものであろうと推測される。


四旬節は確かに「回心して福音を信じなさい」という、灰の水曜日から始まる回心の時であるのは間違いない。しかしこれほど人類を救うために“いつくしみを注ぐ父なる神、私たちに対して命を懸けるに値すると、自ら死を”うけいれ“た子であるイエス。そしてすべてを無条件に“ゆるす”ことを選択した神の愛に、私たちも気づかなければならない。回心には同時に赦してくださる神の姿を見出しながら、向き合っていくことが求められることだろう。そして喜びをもって何かを返したい、返さなければならないと思う私たちは、神の悲しむ罪から一人ずつ解放されていくことだろう。放蕩息子の様にはならずに、本当の思いで父の広げた手の中に、胸を張って入って行けるようにしたいものだ。もう一度父の愛をじっくり味わい、自分を見つめなおして行ける時をこの四旬節に持ちたいと思う。



【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い父よ、

  あなたは限りない愛をもってご自分に立ち返るすべての者を

  迎え入れてくださいます。

  回心の道を歩むわたしたちに、

  神の子としてのあらたないのちを与えてください。

   集会祈願より




第1朗読 ヨシュア記 5章9a、10~12節


主はヨシュアに言われた。

「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」


イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、

その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。


過越祭の翌日、

その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。


彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、

イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。

彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。




第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章17~21節


キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。


これらはすべて神から出ることであって、

神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、

また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。


つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、

人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。


ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、

わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。


罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。

わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです




福音朗読 ルカによる福音書 15章1~3、11~32節


徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。


すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、

「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

と不平を言いだした。


そこで、イエスは次のたとえを話された。


また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。


弟の方が父親に、

『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。

それで、父親は財産を二人に分けてやった。


何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、

そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。


何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、

彼は食べるにも困り始めた。


それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、

その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。


彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、

食べ物をくれる人はだれもいなかった。


そこで、彼は我に返って言った。

『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、

有り余るほどパンがあるのに、

わたしはここで飢え死にしそうだ。


ここをたち、父のところに行って言おう。

「お父さん、わたしは天に対しても、

またお父さんに対しても罪を犯しました。


もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』


そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、

走り寄って首を抱き、接吻した。


息子は言った。

『お父さん、わたしは天に対しても、

またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。』


しかし、父親は僕たちに言った。

『急いでいちばん良い服を持って来て、

この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。


それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。


この息子は、死んでいたのに生き返り、

いなくなっていたのに見つかったからだ。』

そして、祝宴を始めた。


ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、

音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。


そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。


僕は言った。

『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、

お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』


兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。


しかし、兄は父親に言った。

『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。

言いつけに背いたことは一度もありません。

それなのに、わたしが友達と宴会をするために、

子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。


ところが、あなたのあの息子が、

娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、

肥えた子牛を屠っておやりになる。』


すると、父親は言った。

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。

わたしのものは全部お前のものだ。


だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。

いなくなっていたのに見つかったのだ。

祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」



2022年3月21日月曜日

3月21日(月)祭壇奉仕者選任式ミサ

 札幌教区 ペトロ千葉 充(みつる)神学生の祭壇奉仕者選任式ミサが、3月21日(月)午前11時から、勝谷司教様と司祭約20名の共同司式により、札幌教区カテドラル・カトリック北一条教会で行われました。感染防止のため、参列者は親族と小樽教会関係者など約50名でした。





勝谷司教様の訓話をご紹介します。 

「祭壇奉仕者に選任されるあなたは、教会の奉仕者の務めの中で特別な役割を 受け

持つことになります。

 ところで、教会、すなわち神の民は感謝の祭儀を頂点として集まり、そこにいのち

の源を見いだします。あなたには、教会の司牧責任者の指導、監督のもとに、司祭や

助祭の仕事に協力し、また奉仕者として、病人も含めて信者に聖体を授ける務めが託

されます。このような尊い奉仕の務めをゆだねられるあなたは、聖体の秘跡にいっそ

う深く結ばれるよう努め、自分の役割の深い霊的な意味を悟るように心がけてくださ

い。こうして日々、キリストをとおして自分自身を父である神にささげるよう努力し

てください。

 聖パウロが教えているように、兄弟たちと一つのパンを分かち合うあなたは、すべ

ての兄弟とともに一つのからだを作っています。したがって、 キリストのからだで

ある神の民の中で、弱い人や小さい人をとくに大切にし、キリストの愛の教えを実行

するよう心がけてください。

 皆さん、祭壇奉仕者に選ばれたこの兄弟が、神の祝福を豊かに受けて、 教会共同

体に忠実に奉仕することができるように祈りましょう。

 いつくしみ深い神よ、あなたは御ひとり子によって、いのちのパンを教会にお与え

になりました。 祭壇奉仕者の任務に選ばれるこの人を祝福 + してください。祭壇の

奉仕に励み、いのちの糧を兄弟姉妹に配り、信仰と愛を深めることによって、教会の

発展に奉仕することができますように。 わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。

感謝の祭儀のためのパンとカリスを授与します。 

主の食卓と教会の奉仕にふさわしい人となってください。 アーメン。」


2022年3月19日土曜日

3月20日 四旬節第3主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】

“神様は罪を罰する神ではない”      ウルバン神父

ある時何人かの人がイエスの所へ走り寄って、興奮しながら伝えた:「大変だ。ガリラヤ人が神殿でいけにえを捧げた時、ピラトが軍を送って、彼らの血を流した。大騒ぎだった。神殿は汚されて血だらけになった」。主は何と答えたでしょうか。「そのガリラヤ人が皆よりも罪深い者だったからだと思うのか。消してそうではない」と。

イスラエル人は長い歴史の中で異邦人と乱れた民族に囲まれたので、イスラエルを守るために“神様は報いと罰を与える神だ”と厳しく教えられた。ですから、元気で幸せに生きる人は良い人で、神に愛されている人ですが、貧しくて、あらゆる不幸に出会う人は罪だらけな人、神に捨てられた人だと皆が思い込んでいた。ところがイエスは答えた:「決してそうではない」。

弟子達が主と共に旅をした時、道端に目の不自由な乞食が座っているのを見た時、イエスに聞いた。「誰が罪を犯したでしょうか。彼か、その親か」。「彼も親も、罪を犯した事はない。彼の生活の中に神の栄光が現れるために」とイエスは答えた。神様は決して罰する神ではない。主は喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いていた。愛する都エルサレムの滅びについて話した時に、イエスは泣いていた。私達の心の中に得と損、報いと罰の考えが隠れているのではないか。

ある日、小さいヘルマンちゃん、今はウルバンと呼ばれている子は、クリスマスにちょっと古いローラースケートのプレセントを頂いた。嬉しくて、台所の中で試そうとした時、母親は「ダメ。下に住んでいる人が怒る。ヘルマン、やめなさい」と怒ったが、ボウヤは止めなかった。突然テーブルの角にぶつかって、転んで、大きな声で叫んだ時、親は何と言ったでしょうか:「見て、もう神様は罰を与えた」。やはり、あの優しい神様は本当におっかない神様だと思って、神様を愛せなくて、恐れるようになった。

神様の事を知りたいと思えば、いつもイエスを見なければならない。それで今、イエスと共にエルサレムにあるべテスタの池へ行きましょう。その池の周りに多くの病人が横たわっていた。その中の一人はもう38年、水に入れてくれる人を待っていたが、誰もいなかった。彼は毎日癒される人を見ていながら絶望に沈んでいた。イエスはすぐその人のそばに行って、「お前は皆の中の一番ひどい罪人だから、人にも、神にも捨てられた。お前はもうだめだ」と言ったでしょうか。いえ。イエスは汚い所に座って、彼を撫でて、優しい目で見て抱きはじめられた。病人はイエスを知らなかったが、抱いてくれる人の顔を見た時、深い絶望は解けて、「僕はごみではない、僕はもう一人ではない」と、生まれて初めて愛されるように感じた。これは私達が信じるイエス、私たちが愛する神の姿です。

何十年前に、信者の5歳の女の子は入院しました。脳のがんで頭は次第に膨らんできた。私が子供を撫でながら祈った時、信者ではない母はいつも泣いていた。どうして神様がうちの子にこの痛みを許すでしょうか、と悩んでいた母心を慰める言葉はなかった。子供は亡くなりましたが、母は何年間も神様に近づきませんでした。ある時、洗礼を受けたことを私は聞いた。

母親は十字架につけられ、傷つけられたイエスを見つめながら、慰められて、心の怒りと痛みが次第に消えた後、洗礼を望んだ。弱い者であっても、愛されている事を知って、また平安に生きるようになった。やはり、神様は罰する神でなく、私を愛する神である。神に賛美。


【聖書朗読箇所】

全能の神、

いのちの源である神よ、

  わたしたちの心があなたから離れてしまうとき、

  あなたはひとり子イエスをとおしてわたしたちを呼び戻してくださいます。

  回心の道を歩むわたしたちに、

  あなたを賛美し、

  感謝する心を与えてください。

   集会祈願より



第1朗読 出エジプト記 3章1~8a、13~15節


モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、 あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。


そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。

彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。


モーセは言った。

「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。

どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」


主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。

神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。

彼が、「はい」と答えると、


神が言われた。

「ここに近づいてはならない。

足から履物を脱ぎなさい。

あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」


神は続けて言われた。

「わたしはあなたの父の神である。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。


主は言われた。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、

追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、

その痛みを知った。


それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、

この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、

カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。


モーセは神に尋ねた。

「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。

彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、

彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。

彼らに何と答えるべきでしょうか。」


神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、

また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。

『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」


神は、更に続けてモーセに命じられた。

「イスラエルの人々にこう言うがよい。

あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が

わたしをあなたたちのもとに遣わされた。

これこそ、とこしえにわたしの名

これこそ、世々にわたしの呼び名。」




第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章1~6、10~12節


兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。

わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、


皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、


皆、同じ霊的な食物を食べ、


皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。

彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、

この岩こそキリストだったのです。


しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、

荒れ野で滅ぼされてしまいました。


これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。

彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。


彼らの中には不平を言う者がいたが、

あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。

不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。


これらのことは前例として彼らに起こったのです。

それが書き伝えられているのは、

時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。


だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい




福音朗読 ルカによる福音書 13章1~9節


ちょうどそのとき、何人かの人が来て、

ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。


イエスはお答えになった。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、

ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。


決してそうではない。

言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、

皆同じように滅びる。


また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、

エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、

罪深い者だったと思うのか。


決してそうではない。

言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、

皆同じように滅びる。」


そして、イエスは次のたとえを話された。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、

実を探しに来たが見つからなかった。


そこで、園丁に言った。

『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、

見つけたためしがない。

だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』


園丁は答えた。

『御主人様、今年もこのままにしておいてください。

木の周りを掘って、肥やしをやってみます。


そうすれば、来年は実がなるかもしれません。

もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

2022年3月11日金曜日

3月13日 四旬節第2主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】

2022年3月13日 四旬節第二主日(ルカ、9章28~36節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆さん、

今日、四旬節第二の主日の福音は、主の御変容の箇所です。『聖書と典礼』にあるように、受難の予告に続いて「受難を通しての栄光の姿を弟子たちにかいま見させる」出来事と理解されています。

最初、最も新しい翻訳である聖書協会共同訳で読んだとき、驚きを感じました。「ペトロと仲間は、眠りこけていたが、目を覚ますと」イエス様の他に二人の人がいて、立ち去ろうとしていた、と言う訳になっていました。マルコもマタイも寝ていないのに、なぜルカは三人が寝ていたと書いたのだろう、という疑問が起こりました。しかし、『聖書と典礼』では寝ていません。「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると」と訳されており、他の二つの福音書との整合性を保っています。

どちらが正しいかは、専門家ではないのでわかりませんが、第一朗読のアブラム(アブラハム)も大切な場面で寝てしまっています。神様だけが裂かれた動物の間を通り、契約の履行義務が生じますが、寝ていたアブラムにはない。ですから、この契約自体が神様のお恵みそのものです。

もう一つ頭に浮かぶのは、ゲッセマネの場面です。ここでもこの三人は寝てしまっています。イエス様の引き受ける十字架のお恵みを知ることなく。

このことを思い巡らせていて、フッと思いました。神様の溢れるようなお恵みのときに、私は、あたかも眠っている人であるかのような者なのではないのか、と。そして、今の季節を考えるとき、四旬節は、イエス様の死と復活という大きなお恵みに想いを寄せるときなのでは無いでしょうか。あたかも眠っていた弟子たちのような私たちに、洗礼を通してこのお恵みに与らせて下さった神様に心を向ける回心のときではないでしょうか。

湯澤民夫


【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  あなたはひとり子イエスを、

  受難をとおして栄光に導かれました。

  十字架の道を歩まれたキリストに従うことができるよう

  わたしたちの希望と勇気を強めてください。

   集会祈願より



第1朗読 創世記 15章5~12、17~18節


主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」


アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。


主は言われた。

「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。

わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」


アブラムは尋ねた。

「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、

何によって知ることができましょうか。」


主は言われた。

「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを

わたしのもとに持って来なさい。」


アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、

それぞれを互いに向かい合わせて置いた。

ただ、鳥は切り裂かなかった。


禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。


日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。

すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。


日が沈み、暗闇に覆われたころ、

突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。


その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。

「あなたの子孫にこの土地を与える。

エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで。」



第2朗読 フィリピの信徒への手紙一3章17~4章1節


兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。

また、あなたがたと同じように、

わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。


何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、

キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。


彼らの行き着くところは滅びです。

彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、

この世のことしか考えていません。


しかし、わたしたちの本国は天にあります。

そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、

わたしたちは待っています。


キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、

わたしたちの卑しい体を、

御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。


だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、

わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、

このように主によってしっかりと立ちなさい。



福音朗読 ルカによる福音書 9章28b~36節


イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。


祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。


見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。

モーセとエリヤである。


二人は栄光に包まれて現れ、

イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。


ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、

栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。


その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。

仮小屋を三つ建てましょう。

一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。


ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。

彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。


すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」

と言う声が雲の中から聞こえた。


その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。

弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。


2022年3月5日土曜日

3月6日 四旬節第1主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】


3月6日、2022年

四旬節第一主日

ルカによる福音書 4章1節―13節

イエスの誘惑の話を軽く受けとってはいけません。神のご意思からさ迷い出れば私たちの人生は破滅するかもしれないという警告なのです。一見すると、何の悪意もない良い願いです。飢えを満たすために神の力になぜ頼らないのか。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」誘惑者は言いました。イエスの答えは驚くものでした。「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」 私たちはいつも神の意志を何をおいても求めなければなりません。どの瞬間にも神の言葉に耳を傾けなければならず、神のご意思を求めましょう。

私たちに在る深い欲求とは物質的な食べ物や飲み物を満たす事ではありません。人間はさらに精神的な食べ物を求めるのです。飢えや悲惨さから人々を救う助けとなるためには、正義と一致への願いを私たちの良心の内に目覚めさせる父なる神に耳を澄ませる必要があります。

ことによると今日、私たちにとっての大きな誘惑は「パンへとものごとをかえてしまう」ということ、触れるもの、消費できるものに望みを下げてしまうということでしょう。無差別な消費主義は私たちの周りに満ちており、それは進歩や解放への道ではありません。消費主義社会は虚しさ、不満へと導いて行きます。なぜ自殺者の数は増え続けるのでしょう。なぜ門で閉ざした街で自分たちを守り、飢えた人々と富を分かち合わず、平和を乱されないようにと壁や柵を建てるのでしょうか?

イエスは、人はパンだけで生きるのではない、と私たちに気づいて欲しいのです。精神に滋養を注ぎ、愛、友情を理解し、苦しんでいる人たちとの連帯を育て、良心に耳を澄ませ、究極の分かち合いの神秘に心を開き、そしてそうすることが神と私たちを結びつけるのです。


March 6, 2022

First Sunday of Lent Year C

Gospel: Luke 4:1-13

The story of Jesus’ temptations is not to be taken lightly. It’s a warning that we can ruin our lives if we stray from the path God wills for us. The first temptation was decisively important.  On the surface it is a desire for something innocent and good: why not call on God power to satisfy our hunger. “If you are the Son of God, command that these stones become loaves of bread,”  the tempter says to Jesus. His reply is surprising: “One does not live on bread alone, but on every word that comes forth from the mouth of God.” We must always seek God’s will above all. At every moment we must listen to God’s Word, seek God’s will.。

Our deepest needs are not met by physical food and drink. Human beings need and yearn for more, for spiritual nurture. To help save other people from hunger and misery, we need to listen to God our Father, who awakens in our conscience a hunger for justice and solidarity.

Perhaps our great temptation today is to “change things into bread”, to reduce our desires to what is tangible and consumable. Indiscriminate consumerism is all around us, but it is hardly the way to progress and liberation. A consumerist society leads to emptiness and discontent. Why do the number of suicides keep growing? Why do we barricade ourselves  in  gated communities, and build walls and barriers to stop hungry people from sharing our prosperity and disturbing our peace?

Jesus wants us to be aware that human beings do not live on bread alone. We also need to nurture the spirit, know love and friendship, develop solidarity with those who suffer, listen to our conscience, open to the ultimate Mystery of sharing, that joins us with God.



【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

  ひとり子イエスは、あらゆる誘惑に打ち勝ち、

  十字架の死に至るまであなたに従う道を歩まれました。

  四旬節を迎えたわたしたちが、

  復活への信仰と希望を新たにし、

  主とともに歩むことができるよう強めてください。

   集会祈願より



第1朗読 申命記 26章4~10節


祭司はあなたの手から籠を受け取って、

あなたの神、主の祭壇の前に供える。


あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。

「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、

わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。

しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。


エジプト人はこのわたしたちを虐げ、

苦しめ、重労働を課しました。


わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、

主はわたしたちの声を聞き、

わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、


力ある御手と御腕を伸ばし、

大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって

わたしたちをエジプトから導き出し、


この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。


わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、

今、ここに持って参りました。」

あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、

あなたの神、主の前にひれ伏し〔なさい。〕



第2朗読 ローマの信徒への手紙 10章8~13節


では、何と言われているのだろうか。

「御言葉はあなたの近くにあり、

あなたの口、あなたの心にある。」

これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。


口でイエスは主であると公に言い表し、

心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

あなたは救われるからです。


実に、人は心で信じて義とされ、

口で公に言い表して救われるのです。


聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。


ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、

すべての人に同じ主がおられ、

御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。


「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。



福音朗読 ルカによる福音書 4章1~13節


さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。

そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、


四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。

その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。


そこで、悪魔はイエスに言った。

「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」


イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」

とお答えになった。


更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、

一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。


そして悪魔は言った。

「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。

それはわたしに任されていて、

これと思う人に与えることができるからだ。


だから、もしわたしを拝むなら、

みんなあなたのものになる。」


イエスはお答えになった。

「『あなたの神である主を拝み、

ただ主に仕えよ』

と書いてある。」


そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、

神殿の屋根の端に立たせて言った。

「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。


というのは、こう書いてあるからだ。

『神はあなたのために天使たちに命じて、

あなたをしっかり守らせる。』


また、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、

天使たちは手であなたを支える。』」


イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」

とお答えになった。


悪魔はあらゆる誘惑を終えて、

時が来るまでイエスを離れた。


2022年3月3日木曜日

3月2日 灰の水曜日

 3月2日 午後6時30分から「灰の水曜日」ミサが、松村神父様、レイ神父様、桶田助祭様の共同司式で行われました。ミサの中ではウクライナの平和への願いも込めてお祈りが捧げられました。


【松村神父様のミサ説教】

 今から10年ほど前ですが、カンボジアに1ヶ月ほど滞在していたことがありました。向こうで生活をして久しぶりに日本に帰って来た時に、いろいろな風呂があるスーパー銭湯に行きました。カンボジアにはお湯がはった浴槽はありませんでした。シャワーがあれば良い方です。私がいたところは、さらに貧しい家でしたので雨水を貯めて身体を洗い流すような生活しか出来ませんでした。日本に帰ってきて湯船につかい気持ち良くなっていたとき、そこには「垢擦りコーナー」というものがありました。入ってみると、みるみる出てくるのです。私の垢擦りをしてくれるおじさんが「すごい出るね。」と言うのです。擦ってる音でも分かるのです。自分の身体からこんなに垢が出ると思いながら、後で体重計にのったら、汗も出たんでしょうけれど1キロも減っていました。垢というのは死んだ角質を擦ると垢になって落ちると言われています。

 私はこの「垢擦り」の話を回心と言ったときに良く思い出します。ボロボロ落ちる垢は私たちの罪ではないか。もちろん私たちの教会の教義、教えとは必ずしも一致はしないでしょうが。回心とは何か、罪とは何かと考えたときに、落ちていく垢は私たちの罪と考えるのです。日頃の生活している私たちの身体にはたくさんの罪が入ってくる。回心するとはどういうことか。私たちは人間性を変えなければと思うのですがそうではない。垢を擦って身体が綺麗になって、そのまま湯船に入ると熱さを感じます。薬草のようにヒリヒリとなる。私たちがすべての垢がとれたときに、私たちの皮膚はつるっとなっているし、ひじょうに敏感になるし、身体は軽くなるし、飛べるような感じで身体は変化していきます。生まれたての身体、神さまがくれた身体になったのではと思うくらいの、垢を落とした後の私たちの身体は非常に綺麗になっている。

 罪も私たちそのものに罪があるのではなく、洗礼を受けたとき私たちはすべての罪が赦され無垢な状態になっています。罪も何も無い状態になっている。ところが、日々生活していると、まるで私がカンボジアに行ったときのように、いろいろな中で生きるというのは、どうしても罪をつくり易い行動になっている。おのずと罪という垢が付着していきます。それは時には口から入り内臓にまで達することがあるでしょう。それによって私たちが不健康になっていくこともあるでしょう。その垢を一日もはやく洗い清め、擦り落として身ぎれいな身体にしていく。それは私たちの垢擦りの問題と罪を落としていくという作業と同じだと思います。

 人間性を欠いてしまうと、本来与えてくれた人間が無になってしまう。そうではなく、神さまから与えられた身体は素晴らしいもの。本当に純真無垢な身体、心になっているところ、そういうところに戻すことが回心になる。そう思うと私たちは垢が出やすいようにどうしたらいいか考えみると良いと思うのです。垢を出すためには湯船に入って身体をしっかり温めなければならない、そして垢が出るようにしっかり身体を擦らなければならない。だから準備と作業が必要となってきます。そうやって自分たちの肌の垢が出てくるのと同じように、私たちの回心も準備と実際に落とす作業が必要になってきます。

 今日は「灰の式」をもってそのかたちを表しますが、実際に回心は灰をかけたから身ぎれいになるのではなくて、私たち一人ひとりが悔い改める段に、心の中で罪を痛むことが大事だということです。そして、心を痛め灰をかけて、まさに私たちは罪人であり、この垢を落とさなければならない人間なんだと気づいたときに、私たちは一歩前に出て回心の道を進むことが出来るのだと思います。私たちについたたくさんの罪という垢を少しでも擦り落として、神さまが最初に与えてくれたこの「私という本質」をしっかりと生きていくことが出来るように、今日の灰の式の中でそれを思い起こしたいと思います。そして身ぎれいになった身体は、神さまのために働くものと変えていくことを願います。

 今日の御ミサの中で聖体を受けて派遣されていく私たちは、多くの人々とともに回心を待ち望もうと呼びかけていき、そして多くの人たちに綺麗な身体、綺麗な心、平和な心を広めていくことが出来ればと思います。

ウクライナの問題は遠い国の問題ではなくて、私たち一人ひとりの心の中にある悪が伝わっていったものである。だから、戦争を起こしている側は、私たちの罪とつながっているかもしれない。いつもそういうことを感じながら、多くの人たちの罪が神さまによって払われるに、今日のミサの中で祈り、回心していきたいと思います。