2022年3月26日土曜日

3月27日 四旬節第4主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 松村神父】


私は今から6年前に、大阪教会管区、すなわち名古屋・京都・大阪・高松・広島の5つの教区の司教と青年を集めた、『司教と青年たちは出合い、そしてWaiWai語る』という会を主催し、その集いのテーマソングの詩も提供したことがあった。テーマは「いつくしみ うけいれ ゆるす」。放蕩息子を扱ったテーマだった。今やその曲もお蔵入りしたものと思うが、大会当日にはこの詩に対しての講話も行い、青年たちは「目から鱗が落ちたわぁ。そんなふうに考えたこと無かってん」とか、司教様からは、「ぜひ全国で歌ってもらえたらええのになぁ」とお褒めの言葉を頂いた。ただ、未だに流行していないことを考えると、産みだした貴重な歌が、今や自ら“放蕩”しているのだろうと、我ながら苦笑している。

さて、その曲の中でサビとなる部分の詩の内容は次の通り。「回心できたかは関係ない、ただただあなたを赦したいだけ」と言う息子を待つ父親の立場の詩。そこで今日読まれた放蕩息子の聖書の個所をもう一度読みなおしてもらいたい。多くの人は息子の回心を見て父親が受け入れたように考えている人が多い事だろう。確かに放蕩の限りを尽くした息子は「我に返って」とか「罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。」「雇い人の一人にしてください」と語る。しかし、どこにも“回心”したとか“反省”したとか描かれておらず、事実だけが記されている。「息子は空腹に対する欲求を貫くための画策であるにすぎない」という穿った見方の方が今日の聖書は納得いく。つまり、放蕩息子のたとえ話は、先に述べたテーマ「いつくしみ うけいれ ゆるす」父の愛のたとえ話であり、私たちのいたらなさなど神にとっては大した話ではないという事。ただただ私たちを引き寄せ、愛し、抱きしめる。しかも自ら駆け寄り、財産をはたいて宴会を催す神の仕草を、私たちはイエスの受難に見ることができるという事。私たちが回心できたから赦される、十分な回心だから認められるという度合いの話ではない。人の評価とは違う次元で語られた話として、改めて深い父の愛を感じるたとえ話として受け入れたい。ただし、これはゆるしの秘跡を語っているのではないので、そこはしっかりと分けて考えた方がよいだろう。要は神の愛を伝えたいという福音記者の発想から出たものであろうと推測される。


四旬節は確かに「回心して福音を信じなさい」という、灰の水曜日から始まる回心の時であるのは間違いない。しかしこれほど人類を救うために“いつくしみを注ぐ父なる神、私たちに対して命を懸けるに値すると、自ら死を”うけいれ“た子であるイエス。そしてすべてを無条件に“ゆるす”ことを選択した神の愛に、私たちも気づかなければならない。回心には同時に赦してくださる神の姿を見出しながら、向き合っていくことが求められることだろう。そして喜びをもって何かを返したい、返さなければならないと思う私たちは、神の悲しむ罪から一人ずつ解放されていくことだろう。放蕩息子の様にはならずに、本当の思いで父の広げた手の中に、胸を張って入って行けるようにしたいものだ。もう一度父の愛をじっくり味わい、自分を見つめなおして行ける時をこの四旬節に持ちたいと思う。



【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い父よ、

  あなたは限りない愛をもってご自分に立ち返るすべての者を

  迎え入れてくださいます。

  回心の道を歩むわたしたちに、

  神の子としてのあらたないのちを与えてください。

   集会祈願より




第1朗読 ヨシュア記 5章9a、10~12節


主はヨシュアに言われた。

「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」


イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、

その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。


過越祭の翌日、

その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。


彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、

イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。

彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。




第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章17~21節


キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。


これらはすべて神から出ることであって、

神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、

また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。


つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、

人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。


ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、

わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。


罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。

わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです




福音朗読 ルカによる福音書 15章1~3、11~32節


徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。


すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、

「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

と不平を言いだした。


そこで、イエスは次のたとえを話された。


また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。


弟の方が父親に、

『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。

それで、父親は財産を二人に分けてやった。


何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、

そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。


何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、

彼は食べるにも困り始めた。


それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、

その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。


彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、

食べ物をくれる人はだれもいなかった。


そこで、彼は我に返って言った。

『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、

有り余るほどパンがあるのに、

わたしはここで飢え死にしそうだ。


ここをたち、父のところに行って言おう。

「お父さん、わたしは天に対しても、

またお父さんに対しても罪を犯しました。


もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』


そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、

走り寄って首を抱き、接吻した。


息子は言った。

『お父さん、わたしは天に対しても、

またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。』


しかし、父親は僕たちに言った。

『急いでいちばん良い服を持って来て、

この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。


それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。


この息子は、死んでいたのに生き返り、

いなくなっていたのに見つかったからだ。』

そして、祝宴を始めた。


ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、

音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。


そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。


僕は言った。

『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、

お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』


兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。


しかし、兄は父親に言った。

『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。

言いつけに背いたことは一度もありません。

それなのに、わたしが友達と宴会をするために、

子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。


ところが、あなたのあの息子が、

娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、

肥えた子牛を屠っておやりになる。』


すると、父親は言った。

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。

わたしのものは全部お前のものだ。


だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。

いなくなっていたのに見つかったのだ。

祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」