2022年3月3日木曜日

3月2日 灰の水曜日

 3月2日 午後6時30分から「灰の水曜日」ミサが、松村神父様、レイ神父様、桶田助祭様の共同司式で行われました。ミサの中ではウクライナの平和への願いも込めてお祈りが捧げられました。


【松村神父様のミサ説教】

 今から10年ほど前ですが、カンボジアに1ヶ月ほど滞在していたことがありました。向こうで生活をして久しぶりに日本に帰って来た時に、いろいろな風呂があるスーパー銭湯に行きました。カンボジアにはお湯がはった浴槽はありませんでした。シャワーがあれば良い方です。私がいたところは、さらに貧しい家でしたので雨水を貯めて身体を洗い流すような生活しか出来ませんでした。日本に帰ってきて湯船につかい気持ち良くなっていたとき、そこには「垢擦りコーナー」というものがありました。入ってみると、みるみる出てくるのです。私の垢擦りをしてくれるおじさんが「すごい出るね。」と言うのです。擦ってる音でも分かるのです。自分の身体からこんなに垢が出ると思いながら、後で体重計にのったら、汗も出たんでしょうけれど1キロも減っていました。垢というのは死んだ角質を擦ると垢になって落ちると言われています。

 私はこの「垢擦り」の話を回心と言ったときに良く思い出します。ボロボロ落ちる垢は私たちの罪ではないか。もちろん私たちの教会の教義、教えとは必ずしも一致はしないでしょうが。回心とは何か、罪とは何かと考えたときに、落ちていく垢は私たちの罪と考えるのです。日頃の生活している私たちの身体にはたくさんの罪が入ってくる。回心するとはどういうことか。私たちは人間性を変えなければと思うのですがそうではない。垢を擦って身体が綺麗になって、そのまま湯船に入ると熱さを感じます。薬草のようにヒリヒリとなる。私たちがすべての垢がとれたときに、私たちの皮膚はつるっとなっているし、ひじょうに敏感になるし、身体は軽くなるし、飛べるような感じで身体は変化していきます。生まれたての身体、神さまがくれた身体になったのではと思うくらいの、垢を落とした後の私たちの身体は非常に綺麗になっている。

 罪も私たちそのものに罪があるのではなく、洗礼を受けたとき私たちはすべての罪が赦され無垢な状態になっています。罪も何も無い状態になっている。ところが、日々生活していると、まるで私がカンボジアに行ったときのように、いろいろな中で生きるというのは、どうしても罪をつくり易い行動になっている。おのずと罪という垢が付着していきます。それは時には口から入り内臓にまで達することがあるでしょう。それによって私たちが不健康になっていくこともあるでしょう。その垢を一日もはやく洗い清め、擦り落として身ぎれいな身体にしていく。それは私たちの垢擦りの問題と罪を落としていくという作業と同じだと思います。

 人間性を欠いてしまうと、本来与えてくれた人間が無になってしまう。そうではなく、神さまから与えられた身体は素晴らしいもの。本当に純真無垢な身体、心になっているところ、そういうところに戻すことが回心になる。そう思うと私たちは垢が出やすいようにどうしたらいいか考えみると良いと思うのです。垢を出すためには湯船に入って身体をしっかり温めなければならない、そして垢が出るようにしっかり身体を擦らなければならない。だから準備と作業が必要となってきます。そうやって自分たちの肌の垢が出てくるのと同じように、私たちの回心も準備と実際に落とす作業が必要になってきます。

 今日は「灰の式」をもってそのかたちを表しますが、実際に回心は灰をかけたから身ぎれいになるのではなくて、私たち一人ひとりが悔い改める段に、心の中で罪を痛むことが大事だということです。そして、心を痛め灰をかけて、まさに私たちは罪人であり、この垢を落とさなければならない人間なんだと気づいたときに、私たちは一歩前に出て回心の道を進むことが出来るのだと思います。私たちについたたくさんの罪という垢を少しでも擦り落として、神さまが最初に与えてくれたこの「私という本質」をしっかりと生きていくことが出来るように、今日の灰の式の中でそれを思い起こしたいと思います。そして身ぎれいになった身体は、神さまのために働くものと変えていくことを願います。

 今日の御ミサの中で聖体を受けて派遣されていく私たちは、多くの人々とともに回心を待ち望もうと呼びかけていき、そして多くの人たちに綺麗な身体、綺麗な心、平和な心を広めていくことが出来ればと思います。

ウクライナの問題は遠い国の問題ではなくて、私たち一人ひとりの心の中にある悪が伝わっていったものである。だから、戦争を起こしている側は、私たちの罪とつながっているかもしれない。いつもそういうことを感じながら、多くの人たちの罪が神さまによって払われるに、今日のミサの中で祈り、回心していきたいと思います。