2022年8月31日水曜日

9月4日 年間第23主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】

イエスが言われることは全てにおいていつもそうですが、これは福音書全体の内容から読みとらなければなりません。思い出して下さい、最も大切な最初の命令は「心を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」とイエスは言われたのです。

 このことはもちろん家族も含みます。ですが、今日の福音でイエスは私たちに「神を愛するのに何であれ妨げとなるものがあれば、それは自分の生活から取りのぞかなければならない。それを憎まなければならない」と言われます。

 憎しみ、ここでいう意味は憎しみの罪のことではありません。私たちの心に沸きあがり抑えることができなくて、ひどいことを言ってしまうような怒りのことではありません。むしろここでの憎しみとは、神との関係で邪魔になるようなものからは喜んで距離をとってしまいなさいということです。

 それが富、名声、権力、肉欲、酒など何であれ、その邪魔ものを私たちの生活の中から追い払うべきなのです。時には驚くことですが、ある人たちは神との関係をいつも生きるため、自分たちは家族から離れるべきとすることです。しかし、このような場合でも、私たちは家族を愛し続けます。愛とは時には異なる形をとるものです。

 家族は平和、調和そして愛の場として計画されました。しかし多くの人が人生で経験する悲しい現実は、時として私たちの家族関係が神や他者との愛の妨げに直接なってしまう事です。このような場合には、神への愛のため別の方法をとるようにと言われるイエスに耳を傾けなければなりません。

 おそらくこの聖書の箇所は時に誤解され誤って使われるかもしれません。家族のものたち、また他人を軽蔑、残酷、恨み等で扱ったり、又、怒りの感情にまかせてしまう言い訳にしてはなりません。これは正義と真実に基づいて行動し、神の愛から私たちを遠ざけるものは拒否しなさいという神からの呼びかけなのです。

 今日は、神とあなたの関係で何がもっとも大きな妨げであるかを黙想しましょう。誰が、何が、あなたの心からの神への愛を引き裂いているのでしょうか。望むらくは、何も、誰もこの中にいないことですが、もしそうだとしたら、あなたが強められるように力づけ、何よりも生活の中で神を優先するように呼びかけるイエスの言葉を聞きましょう。


【聖書朗読箇所】

永遠の神である父よ、

  ひとり子イエスは、

  わたしたちの救いのために十字架を担ってくださいました。

  きょう、救いの神秘を祝うわたしたちに聖霊を注いでください。

  いつもあなたに心を開き、み旨に従うことができますように。

   集会祈願より



第1朗読 知恵の書 9章13~18節


 神の計画を知りうる者がいるでしょうか。

主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。

死すべき人間の考えは浅はかで、

わたしたちの思いは不確かです。

朽ちるべき体は魂の重荷となり、

地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。

地上のことでさえかろうじて推し量り、

手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、

まして天上のことをだれが探り出せましょう。

あなたが知恵をお与えにならなかったなら、

天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、

だれが御旨を知ることができたでしょうか。

こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、

人はあなたの望まれることを学ぶようになり、

知恵によって救われたのです。」



第2朗読 フィレモンへの手紙 9b~10、12~17節

(愛する者よ、)年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、 このパウロ(は、) 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、 頼みがあるのです。 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 本当は、わたしのもとに引き止めて、 福音のゆえに監禁されている間、 あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 あなたの承諾なしには何もしたくありません。 それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、 自発的になされるようにと思うからです。 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、 あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、 つまり愛する兄弟としてです。 オネシモは特にわたしにとってそうですが、 あなたにとってはなおさらのこと、 一人の人間としても、 主を信じる者としても、 愛する兄弟であるはずです。

 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、 オネシモをわたしと思って迎え入れてください。


福音朗読 ルカによる福音書 14章25~33節

(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、 イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、 父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、 これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、 だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、 造り上げるのに十分な費用があるかどうか、 まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、 見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』 と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、 二万の兵を率いて進軍して来る敵を、 自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、 まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、 敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、 和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

2022年8月27日土曜日

8月28日 年間第22主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 “もしあなたは招待されたら。” ウルバン神父

イエスが食事のためにファリサイ派のある議員の家に呼ばれた時、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気が付いた。それでイエスが言われた。「もし招待されたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、招いた人が来て、さあ、友よ、もっと上に進んでください、と言うだろう」。

皆さんは、宴会の時の悩みを知っているでしょう。誰をどこに座らせようか、誰に挨拶をさせようか、誰かを”先生“と呼ぼうか、と心は悩みにいっぱいです。もし間違ったら、大変ですよ。私が末席に座って無視されたら、素直に喜んで皆と共に祝う事が出来るでしょうか。できる人もいますが、みんなはそうではない。自分はどうでしょうか。もし、忘れられて、「もうちょっと上のほうに進みなさい」と呼んでくる人がいなかったら、まあ、大変だ。心は傷つけられて、怒りと暗闇に満ちているだろう。この傷は癒しがたい。長い、長い間、忘れられなく、許せないでしょう。

イエスの弟子でさえも、素直に末席を喜ばなかった。自分達の中で誰が一番偉いのだろうかと、よく話し合って、争っていた。最後の晩さんまで、イエスのそばの席を狙っていた。二階の階段を上った時、大騒ぎだったと思う。やっと座った時、きつい顔で互いを見つめあったでしょう。暗い雰囲気でした。その時、イエスは一人ひとりの前で床の上に座って、足を洗って接吻した。足元に座って、小さくなったイエスの姿は一人ひとりの心に触れた。

何十年も前に留萌という町に住んでいた。ある時、家のゴミを車に乗せて、ゴミ捨て場へ持っていた。ボロ服を着て、長靴を履いて、雨でドロドロになった臭い所で自分のゴミを降ろした時、ちょうどそこにいた人達が走って来て叫んだ。「先生、それはいかん。こんな汚い所で、こんな事をするなんて」。自分の偉い園長先生のボロ姿を見た時、びっくりした。ところが、うちの親は貧しくて、私は土と泥に慣れていた。偉い者だと感じなく、汚くなるのは恐れなかった。

何週間か前に話したように、ガールスカウトと共に韓国のあるライ病村へ行った事があります。あるガレージみたいな物置に近づいたら、数人の患者さんが立っているのが見えた。何だろうと思って近くに行ったら、そこに病人が座って、いたずらの顔をしながら、自分のライで腐った足の残りを皆の前で伸ばしていた。足の様子はひどかった。血とうみが流れ出た。彼の前に一人の神父さんが土の上に座って、優しく丁寧に、すごく良い顔をして、その足を洗って世話をした。その患者さんは不思議な王様のように、嬉しそうにそこで座っていた。本当にかわいそうな姿であったのに、まったく悲しまなかった。どうしてでしょうか。自分の足元にいた方の顔を見て、その優しい手を感じた時、とても愛されているのを知った。忘れられない時でした。末席より低い所に座って、血とうみが流れる足を触れるのを見たら、私たちの心はすごく動かされて、イエスの姿を見ていた。この体験は、私たちの心のなかに長く響いていた。


【聖書朗読箇所】


信じる者の救いである神よ、

  あなたは高ぶる者を退け、へりくだる者に目を留めてくださいます。

  わたしたちが神の前に皆等しく貧しいことを悟り、

  キリストのことばに希望を見いだすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 シラ書 3章17-18 , 20 , 28-29節


子よ、何事をなすにも柔和であれ。

そうすれば、施しをする人にもまして愛される。

偉くなればなるほど、自らへりくだれ。

そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。

主の威光は壮大。

主はへりくだる人によってあがめられる。

高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。

彼の中には悪が深く根を下ろしている。

賢者の心は、格言を思い巡らし、

知者の耳は、格言を熱心に聴く。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章18-19 , 22-24a節


 (皆さん、)あなたがたは手で触れることができるものや、 燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、 更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、 近づいたのではありません。 しかし、あなたがたが近づいたのは、 シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、 無数の天使たちの祝いの集まり、 天に登録されている長子たちの集会、 すべての人の審判者である神、 完全なものとされた正しい人たちの霊、 新しい契約の仲介者イエス(なのです。)



福音朗読 ルカによる福音 14章1 , 7-14節


 安息日のことだった。 イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、 人々はイエスの様子をうかがっていた。

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、 彼らにたとえを話された。 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。 あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、 『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。 そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。 そうすると、あなたを招いた人が来て、 『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。 そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。 「昼食や夕食の会を催すときには、 友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。 その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、 足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。 正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

2022年8月17日水曜日

8月21日 年間第21主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】

年間第21主日(8月21日)福音のメッセージ

 イエス様の言葉は時に優しく、時に非常に厳しく語られる。「私の平和を与える」と言いながらも「むしろ分裂だ」とも言う。「罪びとを招くために」来たのだが、同時に「地上に火を投ずるため」とも言われる。あえて相対するこれらの言葉群を投げつける目的は、聖書学者によれば「知恵ある言葉」として与えられるイエスの思いであろうとのことだ。決して分離させてその文字だけを取り上げないようにしなければならないという意味だろう。実際私たちは悩んでいたわけである。

 かつて「「一致」と「離散」はキリスト教の中で相対する言葉だが唯一それを成り立たせる言葉がある。」と神学生時代に授業で教えられた。矛盾しているようだが唯一それを完成する言葉は「愛」のみであるとのこと。確かに愛あれば「一致」を可能とし、また神の懐における「離散」も愛ゆえの出来事であろう。

 これを前提で福音を読み進め、「狭い戸口」を考えた時、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の物語を思い出す。人間は罪深いものだが、それでもどんな人にでもわずかながらお釈迦様に認められる善い行いはあるもの。そこで重罪であったカンダタにも蜘蛛を助けたことから一本の糸が地獄へと投げ込まれる。しかしカンダタはその糸で登り始めると、下から他の罪人が糸を辿って登り始めた。重く糸が切れるかもしれない。そこで下からくる罪人を蹴落とし、自分だけが助かろうとした。その結果カンダタの持っていた糸が切れてしまった。

 このお話はここで終わりだが、福音書から眺めてみよう。もしカンダタが他の罪人をこの場で救おうとしてらどうだろうか。私はきっと皆が助かったに違いないと思う。自分の手前で糸は切れるかもしれない。それでも最後に多くの人にも救いの道をともに歩みたいという思いがあれば、この物語はきっと皆を引き上げたのだろう。つまり、狭い戸口は、自ら狭くさせる必要があるのではないだろうか。どんなに大きな門であっても、多くの仲間を共にすればその門は全体からして狭くなってくる。一人で通るのはたやすいが、私たちの信仰の在り方は、一人で通る生き方を求めていない。常に神の民全体に目が向けられている。だからこそ一人でも多く手をつなぎ、神の救いの大きな門を狭くする行動が必要なのだ。手をつなぐ努力は一長一短ではできない。だからこそ今から一人、また一人と手をつなぐ作業を続けなければ、その時に「お前たちがどこの者か知らない」と門の前で言われるに違いない。カンダタの前で糸が切れたように。

 今日の福音は、愛によって人を繋いできたイエスを振り返り、私たちもイエスに倣い歩む姿が見る。後の者が先になり、先の者が後になる心、すなわち謙虚さと人への尊敬の念が無ければ、この課題を乗り越えていけない。救われる者が多いか少ないかをイエスに質問するが、それは自分が救われたいという裏返しの質問ではないだろうか。しかし、数の問題を投げかけるその人に対し、イエスは質の在り方すなわち「知恵」で返答された。改めて、私たちも見えるものに惑わされず、見えないものに心を向けていきたいと思う。9月は「すべてのいのちを守る月間」であるが、見える命にとらわれず、見えないいのちにも目を向けられるよう、周りの日常の環境を黙想してはどうだろうか。



【聖書朗読箇所】


すべての人の父である神よ、

  国籍や民族の異なるわたしたちを、

  あなたはきょうも神の国のうたげに招いてくださいます。

  呼び集められた喜びのうちに、

  わたしたちが一つの心であなたをたたえることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 イザヤ書 66章18~21節


 (主は言われる。)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、 すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。 彼らは来て、わたしの栄光を見る。 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、 彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。 すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、 更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。 彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、 馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、 あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。 それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、 主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章5~7、11~13節


 (皆さん、あなたがたは、)子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

 主から懲らしめられても、

   力を落としてはいけない。

 なぜなら、主は愛する者を鍛え、

 子として受け入れる者を皆、

   鞭打たれるからである。」

 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。 神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。 いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、 悲しいものと思われるのですが、 後になるとそれで鍛え上げられた人々に、 義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、 自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。



福音朗読 ルカによる福音書 13章22~30節


 (そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。 イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。 言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、 あなたがたが外に立って戸をたたき、 『御主人様、開けてください』と言っても、 『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、 『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、 また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』 と言いだすだろう。 しかし主人は、 『お前たちがどこの者か知らない。 不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや すべての預言者たちが神の国に入っているのに、 自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

2022年8月11日木曜日

8月14日 年間第20主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第20主日 C年 2022年8月14日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音で、イエス様は突然弟子たちを驚かせるようなことを言い出します。「地上に火を投ずるために来た。その火が既に燃えていたら……。」イエス様は、文字通りに、この世界が火に焼きつくされていること、或いは、この世界が炎で燃え盛っていることを望んだのでしょうか。

  キリスト教が広まったヘレニズムの世界では、世の終わりには火が全世界を焼き尽くし、世界が新しくなるという考え方がありました。これがきちんとした思想になるのは、ルカが福音書を書く少し後のことですが。こうした思想があったことを考える時、イエス様の言葉が世の終わりの裁きについてのこうした考え方に結び付いたとしても不思議ではありません。

  しかし、今日の福音は別の理解と結びついてもよいようです。今日のこの福音を選んだ教会は、その別の意味で捉えているようです。集会祈願を見てみましょう。「あなた(御父である神)はすべての人の救いのために、御ひとり子を遣わしてくださいました。ここに集う私たちを聖霊によって清めてください。」つまり、教会は、この火を世の終わりに降ってくる裁きの火の意味ではなく、聖霊の意味で理解している、と捉えていることができます。父である神は、世を救うために御子をお遣わしになり、救いを全うされました。御子は、十字架の死を通して弟子たちに聖霊を派遣しました。ルカは、このことを『使徒言行録』で詳しく説明しています。ペンテコステの日、弟子たちが集まっていると、激しい音がして、天から炎のような舌が現れ、弟子たちの上に留まります。聖霊降臨の出来事です。弟子たちは新しい命に生かされ、その使命に生きる者となりました。

  イエス様は、その前に苦しみの洗礼を受けると予告しています。ルカは、他の福音書を書いた人たち以上に具体的にイエス様の十字架の苦しみを描いています。それは、私たちが聖霊に生かされるためです。イエス様が来るまでに、既に弟子たちが聖霊に生かされていたらどれだけよかっただろうに。イエス様の気持ちがうかがい知れます。

  ただし、弟子たちがこの使命に生きることは、さほど容易なことではないようです。イエス様は、誕生物語で、シメオンが預言しているように、異邦人の光であり、イスラエルの栄光ですが、同時に逆らうを受けるしるしともなるからです。この救いのための決断の厳しさは、聖母マリアでさえ例外扱いされませんでした。その使命に生きることの厳しさは、ここでは家庭の不和をもってたとえられています。

  私たちも、集会祈願にあるように、聖霊に清められ、聖霊に生かされて、キリストに従って生きる喜びを味わえたらと思います。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】

いつくしみ深い神よ、

  あなたはすべての人の救いのために 御ひとり子を遣わしてくださいました。

  ここに集う私たちを聖霊によって清めてください。

  キリストに従っていきる喜びが 一人ひとりのうちに満ちあふれますように。

集会祈願より

第1朗読 エレミヤの預言 38章4-6 ,8-10節

 (その日、役人たちはエレミヤについて)王に言った。

「どうか、この男を死刑にしてください。 あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。 この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」

ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。 王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」

 そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。 水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。

 エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた。

 「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。 彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。 もう都にはパンがなくなりましたから。」

 王はクシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」と命じた。


第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章1-4節

 (皆さん、わたしたちは、)このようにおびただしい証人の群れに 囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、 恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、 神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、 御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。


福音朗読 ルカによる福音 12章49-53節

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。 その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。 それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。 そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、 二人は三人と対立して分かれるからである。

 父は子と、子は父と、

 母は娘と、娘は母と、

 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、 対立して分かれる。」

2022年8月6日土曜日

8月7日 年間第19主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】

8月7日 説教 レイ神父

イエスは弟子たちに言われた。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」ルカ12章32節。 このイエスからの短い言葉は3つの事を私たちに示します。

まずイエスは、恐れが私たちの生活を支配するのを許してはならないという、よく知られている事を思い出させます。人生には恐れ、悩み、心配などを生じさせる様々な事があります。恐怖を克服するというのは謙虚さの問題です。その謙虚さが自分自身や直面する問題から私たちの主へと目を向けさせるのです。主に目を向けるとき、恐怖は消え、そして信頼に取りかわります。

次に、これもまたイエスからのたいへん優しい言葉です。その中でイエスは彼の弟子たち、そして私たちをイエスの”小さな群れ”と呼ばれます。これは愛情ある言葉で、主の優しく思いやりのある心を表しています。この愛ある言葉は私たちが主に属すというだけでなく私たちへのイエスの愛が親密で心からのものであることを表します。もし私たちがこのイエスの愛を理解するなら、同じく深い思いをもってイエスに愛をお返しするしかありません。

最後にこの行(言葉)は天におられる父なる神の国を私たちに指し示しています。私たちが信頼し、親密な関係を持つべき父なる神は、私たちを最も栄光ある王国において、分かち合うようにと招いておられます。神の王国は私たちものとなり、その呼びかけがなんと素晴らしいものであるかとわかれば、それを追い求めるとき私たちは希望と興奮に包まれることでしょう。

今日は、思いやり深いイエスの心からの招きを、神の王国に目を向けるために黙想しましょう。そうするとき、この啓示によってあなたは人生から恐れを取り去り、その重荷に打ち勝つ強さを得て行く事でしょう。あなたの信頼を神に置き、神にあなたを変えていただきましょう。



【聖書朗読箇所】


希望の源である神よ、

  あなたは深いはからいによって、

  世界に救いをもたらしてくださいます。

  あなたの民の集いに聖霊を注いでください。

  神の国の実現を信じるわたしたちの心が、

  希望のうちに一つになりますように。、

   集会祈願より



第1朗読 知恵の書 18章6~9節


あの夜のことは、我々の先祖たちに

   前もって知らされており、

彼らはあなたの約束を知って

  それを信じていたので、   動揺することなく安心していられた。

神に従う人々の救いと、敵どもの滅びを、

あなたの民は待っていた。

あなたは、反対者への罰に用いたその出来事で、 わたしたちを招き、光栄を与えてくださった。 善き民の清い子らは、ひそかにいけにえを献げ、 神聖な掟を守ることを全員一致で取り決めた。 それは、聖なる民が、順境も逆境も

  心を合わせて受け止めるということである。 そのとき彼らは先祖たちの賛歌をうたっていた。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 11章1~2、8~19節(または、11章1~2、8~12節


 (皆さん)信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に 出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、 同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を 待望していたからです。 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに 子をもうける力を得ました。 約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、 また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

 (この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、 自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを 明らかに表しているのです。 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、 戻るのに良い機会もあったかもしれません。 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。 だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。 神は、彼らのために都を準備されていたからです。 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。 つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、 「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。 それで彼は、イサクを返してもらいましたが、 それは死者の中から返してもらったも同然です。)




福音朗読 ルカによる福音書 12章32~48節(または 12章35~40節)


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

 (「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 自分の持ち物を売り払って施しなさい。 擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。 そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、 すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、 そばに来て給仕してくれる。 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、 目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 このことをわきまえていなさい。 家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、 自分の家に押し入らせはしないだろう。 あなたがたも用意していなさい。 人の子は思いがけない時に来るからである。」

 (そこでペトロが、 「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。 それとも、みんなのためですか」と言うと、 主は言われた。 「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした 忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、 下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、 彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。 主人の思いを知りながら何も準備せず、 あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。 すべて多く与えられた者は、多く求められ、 多く任された者は、更に多く要求される。」)