2022年8月31日水曜日

9月4日 年間第23主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】

イエスが言われることは全てにおいていつもそうですが、これは福音書全体の内容から読みとらなければなりません。思い出して下さい、最も大切な最初の命令は「心を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」とイエスは言われたのです。

 このことはもちろん家族も含みます。ですが、今日の福音でイエスは私たちに「神を愛するのに何であれ妨げとなるものがあれば、それは自分の生活から取りのぞかなければならない。それを憎まなければならない」と言われます。

 憎しみ、ここでいう意味は憎しみの罪のことではありません。私たちの心に沸きあがり抑えることができなくて、ひどいことを言ってしまうような怒りのことではありません。むしろここでの憎しみとは、神との関係で邪魔になるようなものからは喜んで距離をとってしまいなさいということです。

 それが富、名声、権力、肉欲、酒など何であれ、その邪魔ものを私たちの生活の中から追い払うべきなのです。時には驚くことですが、ある人たちは神との関係をいつも生きるため、自分たちは家族から離れるべきとすることです。しかし、このような場合でも、私たちは家族を愛し続けます。愛とは時には異なる形をとるものです。

 家族は平和、調和そして愛の場として計画されました。しかし多くの人が人生で経験する悲しい現実は、時として私たちの家族関係が神や他者との愛の妨げに直接なってしまう事です。このような場合には、神への愛のため別の方法をとるようにと言われるイエスに耳を傾けなければなりません。

 おそらくこの聖書の箇所は時に誤解され誤って使われるかもしれません。家族のものたち、また他人を軽蔑、残酷、恨み等で扱ったり、又、怒りの感情にまかせてしまう言い訳にしてはなりません。これは正義と真実に基づいて行動し、神の愛から私たちを遠ざけるものは拒否しなさいという神からの呼びかけなのです。

 今日は、神とあなたの関係で何がもっとも大きな妨げであるかを黙想しましょう。誰が、何が、あなたの心からの神への愛を引き裂いているのでしょうか。望むらくは、何も、誰もこの中にいないことですが、もしそうだとしたら、あなたが強められるように力づけ、何よりも生活の中で神を優先するように呼びかけるイエスの言葉を聞きましょう。


【聖書朗読箇所】

永遠の神である父よ、

  ひとり子イエスは、

  わたしたちの救いのために十字架を担ってくださいました。

  きょう、救いの神秘を祝うわたしたちに聖霊を注いでください。

  いつもあなたに心を開き、み旨に従うことができますように。

   集会祈願より



第1朗読 知恵の書 9章13~18節


 神の計画を知りうる者がいるでしょうか。

主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。

死すべき人間の考えは浅はかで、

わたしたちの思いは不確かです。

朽ちるべき体は魂の重荷となり、

地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。

地上のことでさえかろうじて推し量り、

手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、

まして天上のことをだれが探り出せましょう。

あなたが知恵をお与えにならなかったなら、

天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、

だれが御旨を知ることができたでしょうか。

こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、

人はあなたの望まれることを学ぶようになり、

知恵によって救われたのです。」



第2朗読 フィレモンへの手紙 9b~10、12~17節

(愛する者よ、)年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、 このパウロ(は、) 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、 頼みがあるのです。 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 本当は、わたしのもとに引き止めて、 福音のゆえに監禁されている間、 あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 あなたの承諾なしには何もしたくありません。 それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、 自発的になされるようにと思うからです。 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、 あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、 つまり愛する兄弟としてです。 オネシモは特にわたしにとってそうですが、 あなたにとってはなおさらのこと、 一人の人間としても、 主を信じる者としても、 愛する兄弟であるはずです。

 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、 オネシモをわたしと思って迎え入れてください。


福音朗読 ルカによる福音書 14章25~33節

(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、 イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、 父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、 これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、 だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、 造り上げるのに十分な費用があるかどうか、 まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、 見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』 と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、 二万の兵を率いて進軍して来る敵を、 自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、 まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、 敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、 和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」