松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ】
年間第21主日(8月21日)福音のメッセージ
イエス様の言葉は時に優しく、時に非常に厳しく語られる。「私の平和を与える」と言いながらも「むしろ分裂だ」とも言う。「罪びとを招くために」来たのだが、同時に「地上に火を投ずるため」とも言われる。あえて相対するこれらの言葉群を投げつける目的は、聖書学者によれば「知恵ある言葉」として与えられるイエスの思いであろうとのことだ。決して分離させてその文字だけを取り上げないようにしなければならないという意味だろう。実際私たちは悩んでいたわけである。
かつて「「一致」と「離散」はキリスト教の中で相対する言葉だが唯一それを成り立たせる言葉がある。」と神学生時代に授業で教えられた。矛盾しているようだが唯一それを完成する言葉は「愛」のみであるとのこと。確かに愛あれば「一致」を可能とし、また神の懐における「離散」も愛ゆえの出来事であろう。
これを前提で福音を読み進め、「狭い戸口」を考えた時、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の物語を思い出す。人間は罪深いものだが、それでもどんな人にでもわずかながらお釈迦様に認められる善い行いはあるもの。そこで重罪であったカンダタにも蜘蛛を助けたことから一本の糸が地獄へと投げ込まれる。しかしカンダタはその糸で登り始めると、下から他の罪人が糸を辿って登り始めた。重く糸が切れるかもしれない。そこで下からくる罪人を蹴落とし、自分だけが助かろうとした。その結果カンダタの持っていた糸が切れてしまった。
このお話はここで終わりだが、福音書から眺めてみよう。もしカンダタが他の罪人をこの場で救おうとしてらどうだろうか。私はきっと皆が助かったに違いないと思う。自分の手前で糸は切れるかもしれない。それでも最後に多くの人にも救いの道をともに歩みたいという思いがあれば、この物語はきっと皆を引き上げたのだろう。つまり、狭い戸口は、自ら狭くさせる必要があるのではないだろうか。どんなに大きな門であっても、多くの仲間を共にすればその門は全体からして狭くなってくる。一人で通るのはたやすいが、私たちの信仰の在り方は、一人で通る生き方を求めていない。常に神の民全体に目が向けられている。だからこそ一人でも多く手をつなぎ、神の救いの大きな門を狭くする行動が必要なのだ。手をつなぐ努力は一長一短ではできない。だからこそ今から一人、また一人と手をつなぐ作業を続けなければ、その時に「お前たちがどこの者か知らない」と門の前で言われるに違いない。カンダタの前で糸が切れたように。
今日の福音は、愛によって人を繋いできたイエスを振り返り、私たちもイエスに倣い歩む姿が見る。後の者が先になり、先の者が後になる心、すなわち謙虚さと人への尊敬の念が無ければ、この課題を乗り越えていけない。救われる者が多いか少ないかをイエスに質問するが、それは自分が救われたいという裏返しの質問ではないだろうか。しかし、数の問題を投げかけるその人に対し、イエスは質の在り方すなわち「知恵」で返答された。改めて、私たちも見えるものに惑わされず、見えないものに心を向けていきたいと思う。9月は「すべてのいのちを守る月間」であるが、見える命にとらわれず、見えないいのちにも目を向けられるよう、周りの日常の環境を黙想してはどうだろうか。
【聖書朗読箇所】
すべての人の父である神よ、
国籍や民族の異なるわたしたちを、
あなたはきょうも神の国のうたげに招いてくださいます。
呼び集められた喜びのうちに、
わたしたちが一つの心であなたをたたえることができますように。
集会祈願より
第1朗読 イザヤ書 66章18~21節
(主は言われる。)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、 すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。 彼らは来て、わたしの栄光を見る。 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、 彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。 すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、 更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。 彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、 馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、 あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。 それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、 主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章5~7、11~13節
(皆さん、あなたがたは、)子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、
力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、
鞭打たれるからである。」
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。 神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。 いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、 悲しいものと思われるのですが、 後になるとそれで鍛え上げられた人々に、 義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、 自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
福音朗読 ルカによる福音書 13章22~30節
(そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。 イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。 言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、 あなたがたが外に立って戸をたたき、 『御主人様、開けてください』と言っても、 『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、 『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、 また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』 と言いだすだろう。 しかし主人は、 『お前たちがどこの者か知らない。 不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや すべての預言者たちが神の国に入っているのに、 自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」