2023年2月25日土曜日

2月26日 四旬節第1主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 


四旬節第1主日A年2023年2月26日 ウルバン神父 “人はパンだけで生きるのではない”


ヨルダン川沿いに一人の男の方が歩いている。ゆっくり、よろよろしながら歩いている。何かに酔っているみたい。歩く所をちゃんと見ているでしょうか。目をほとんど閉じて一歩、一歩を進んでいます。確かに酔っていますが、密かに顔の表情を見ると、言葉で言い表せない深い体験と喜びに酔っている。ちょっと前に先駆者ヨハネは、この方の上に天が開き、神の偉大さ、聖霊が鳩の姿で降りて来るのを見た。その時この方が天に手を上げ、体が震えて、心が喜びに踊るのを見た。‘この方だよ、神の聖なるものだよ’と感動した時、‘お名前は’と聞こうとしたが、その方はもう行ってしまった。目で見送ったが、ヨハネの思いからその方はもう離れませんでした。

イエスは、死海の近くにある荒れ野、ユダヤの砂漠に着いた。この荒野は恐ろしいほど寂しい所で、動物の鳴き声も、水の流れる音もない。たまに崖から転がる石の音しかありません。ところが、この砂漠こそは聖なる所で、神の出会いの所です。イエスは疲れて、どこかの岩に座っていた。もう夕方になって、やっと涼しい風が増えてきた。段々暗くなると、美しい星空も見えてきた。イエスはヨルダン川での深い体験を抱いて、賑やかな群衆を避けて、荒れ野の静けさの中、深い星空の下で父と共に居たかった。心の中に、唇の上には常に祈りが住んでいた。‘アバ、アバ、お父ちゃん、わがお父ちゃん、私に何をして欲しいでしょう。教えてください。あなたのために何でもします’。イエスの荒れ野の中の姿を見ると、歌の言葉が浮かんでくる。‘谷川の水を求めて喘ぎさまよう鹿のように、神よ、私はあなたを慕う’。目を閉じて、心の目を開くと、イエスは荒れ野の中で歩き回って、何日もさまよう姿を見て、心の叫びを聞いているのではないでしょうか。‘アバ、アバ、我が道、救いの道を示してください。望むとおりにします、道を示してください’。

朝になって、また夜になった。何日も過ぎた後、イエスは飢えた。朝の汁をなめて、迷ったイナゴを食べたかもしれませんが、今は酷く飢えた。その時を敵が狙っていた。‘この者は俺に最高に危ない人物です。うまく滅ぼそう’。人が神様に近づこうとすると、聖霊が助けるだけではなく、敵も狙って来る。優れたインテリのある敵。飢えているイエスの優しい心を知って、飢えで泣いている人の姿を見せた。‘神の子なら、この石をパンにしたら、どうだい。パンあれば、助かるよ。必ずついて来るぞ’。何日も妄想のように飢えている人を見ていた。本当に狡猾な誘惑でした。その時、主の目が開き、人が互いにパンを奪い合って、激しく争っているのを見た。その時イエスの目の前に道は開かれた。‘サタン、退け。人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる’と。40日たった後、主は荒れ野から出て、確信をもって、道を歩き始めた。

私達も道を失って、荒野をさまよい、飢え渇いて歩む時もある。その時、望めば、私も、あなたも体験する。私は神の口から出る一つひとつの言葉によって生き、私は喜びに潤される。私達を愛している主は約束した。‘子よ、私について来る人はもう暗闇に歩まない、光の中に歩む’。



【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

  年ごとに行われる四旬節の典礼を通して、

  わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。

  日々、キリストのいのちに生きることができますように。

集会祈願より



第1朗読 創世記 (創世記2章7-9,3章1-7節)


主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、

自ら形づくった人をそこに置かれた。

主なる神は、見るからに好ましく、

食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、

また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。

蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。

でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、

触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。

それを食べると、目が開け、

神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、

目を引き付け、賢くなるように唆していた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、

二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ5章12-19節)


(皆さん、)一人の人によって罪が世に入り、

罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。

すべての人が罪を犯したからです。

律法が与えられる前にも罪は世にあったが、

律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。

しかし、アダムからモーセまでの間にも、

アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。

実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。

一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、

なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、

多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。

裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、

恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、

なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、

一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、

一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、

一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ4章1-11節)


(そのとき、)イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。

「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

すると、イエスは言われた。

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

2023年2月18日土曜日

2月19日 年間第7主日

 山谷神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ】 年間第7主日 A年 2023年2月19日 山谷神父

第一朗読のレビ記では、「あなたたちは聖なる者となりなさい」と言い、福音書ではそれを「あなたがたも完全な者となりなさい」と言い換えています。神様が聖なる者であり、完全な者だから、あなたがたも神様と同じようになれと言っているわけです。第二朗読のパウロも、コリント教会の人々を聖なる神殿にたとえています。そうした意味で今日の聖書は共通して聖なる者になるというテーマが流れています。

時々光明社のレジをしていると、買ったご絵やロザリオを祝別してくださいと頼まれることがあります。聖別とか祝別というのは、何を意味しているかというと神様のものになるということです。パウロの手紙の最後にも「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」と言っているように、聖なる者になるということは、神様のものになりなさいという意味です。

コリント教会の手紙は「キリスト・イエスと一致して神のものとされ、召されて聖なる人々へ」と書き出しています。この「聖なる人々」はいわゆる聖人のことではなく、一般のコリント教会の信者さんたちのことを「聖なる人々」と呼んでいます。パウロの手紙は一般の信者さんたちを聖性へと招く手紙であり、今日の福音のイエスも特別な聖人に向けてのメッセージではありません。

小さき花のテレジア、リジューのテレジアの子どもの頃のエピソードに、お姉さんがある日、リボンの入った綺麗な箱を開けて「どれか一つ選びなさい、あなたにあげましょう」と言われ、テレジアは「全部欲しい」と言ったそうです。意外と欲張りだったんですね。テレジアは聖人になりたいと本気で思っていて、修道院に入った後も、宣教師になりたい、司祭になりたい、聖人になるのならあらゆる者になりたいと望み、全ての召命を生きたいと思っていました。つまり、すべてのリボンを選んでいたわけです。そのために、ある意味で完璧主義の修道生活を送るわけです。小さな罪でも犯していないかと調べ、ありとあらゆる苦行を積極的に行い、完全な者になることを目指していました。ところがある日、Ⅰコリント書13章の有名な愛の讃歌を読んだとき、愛はすべての召命を含むことに気づきます。つまり、愛を選ぶことは全てを選ぶことだと気づくわけです。

聖なる者になる、神様のものになるというのは、人間の努力や力によって獲得して行くのではなく、愛である神様を選び、その信頼のうちに生きることだとテレジアは発見して行くわけです。それは、誰にでも聖人になる道が開かれているという発見でもありました。

律法を完成してくださるのはイエスです。不完全なわたしたちをイエスは完全な者としてくださるのです。一部の特別な人だけが聖なる者に招かれているのではなく、誰にでも聖性への道は開かれています。イエスに信頼してこの招きに応えて行きましょう。


【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

   わたしたちがいつも聖霊の光を求め、

   ことばと行いをもって

   み旨を果たすことができるように導いてください。

集会祈願より

第1朗読 レビ記 (レビ19章1-2,17-18節)

主はモーセに仰せになった。

イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。

あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。


心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。


第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント3章16-23節)

(皆さん、)あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。


だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。


「神は、知恵のある者たちを その悪賢さによって捕らえられる」

と書いてあり、また、

「主は知っておられる、 知恵のある者たちの論議がむなしいことを」


とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。


福音朗読 マタイによる福音 (マタイ5章38-48節)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」


「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

2023年2月10日金曜日

2月12日 年間第6主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。



【福音メッセージ】 年間第6主日 A年 2023年2月12日 松村神父

かつて学問の研究をしていた時、ある聖書学者の神父様からこんなことを言われました。「常に新しさを求めるように」と。新しさとは何だろうとしばらく考えていましたが、それは学問に向き合う姿勢である事と、信仰に対しても新たな局面を見出す事であると答えを導き出しました。もちろん信仰に新しさなどはありませんが、しかしヒントになるのは今日の福音ではないかと感じました。

今日の福音は旧約の律法に立ち戻ることを語りながら、人間が解釈した内容に留まり続ける事への危険性を訴えているのではないでしょうか。もちろん律法は間違ったことは言ってはいません。しかし完成されていなかったことをイエスは語ります。イエスの完成とは、律法に付さなければならないものがある。逆に言うと律法の運用に欠けていたものがあったということ示しています。それは愛の視点から運用を見直すこと。パウロが語るように「愛が無ければ無に等しい」ということでしょう。イエスの死後も、平和の宗教が各々信仰を守るという名目で争いが起こり、人は一致しない歴史をたどってきました。キリスト教の迫害、キリスト教の分裂はいつの時代にも起こってきました。「一致の霊である聖霊」はどこに行ってしまったのか。第二朗読はそのことを語っているように読めます。そして人間がその聖霊の識別を忘れてきた歴史ではないかとも思います。せっかくすばらしい信仰なのに分裂が起きる。愛の寛容さ、赦しの大切さ、謙虚な心がいつも私たちから遠ざかっています。イエスの目から見て特に律法学者、祭司長にその姿が堅調にうかがえたのではないかと思うと、私自身も反省しなければと思う今日この頃です。

さて、愛が欠けると掟がないがしろになります。結果、人が人を“裁き”“殺し”“姦淫し”“離縁し”“誓いを立てる”。信仰の主体が自分にしてしまうと、まるで神の右の座にいるように、他人よりも優位に立ってしまう。だから神の前で「はい」という言葉だけが重要であるということになるのではないでしょうか。

いつもいただく恵みに、謙虚に、そして固定した考え方から脱却して、過去から与えられた伝統に縛られず、愛を生きるために自分を変え、他者のために生きる道を選ぶことこそが、信仰の新しさ。固定された者からの解放。信仰の根本は○○(思い込み・しがらみ・罪・悲しみ等々)からの解放にあるということを今の自分の信仰に新たな見方として捉えてみましょう。


【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

   あなたは、正義を求める人、誠実な人と共におられます。

   わたしたちが、恵みに支えられて

   豊かな実りをもたらすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 シラ書 (シラ15章15-20節)


その意志さえあれば、お前は掟を守り、

しかも快く忠実にそれを行うことができる。

主は、お前の前に火と水を置かれた。

手を差し伸べて、欲しい方を取ればよい。

人間の前には、生と死が置かれている。

望んで選んだ道が、彼に与えられる。

主の知恵は豊かであり、

主の力は強く、すべてを見通される。

主は、御自分を畏れる人たちに目を注がれる。

人間の行いはすべて主に知られている。

主は、不信仰であれとは、

だれにも命じたことはなく、

罪を犯すことを、許されたこともなかった。


第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント2章6-10節)

 (皆さん、)わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」

と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。


福音朗読 マタイによる福音 (マタイ5章17-37節)

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

 《「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するため ではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない。」 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。

 《兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。》

 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。《もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。》

 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。

 《天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。》

 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」


2023年2月4日土曜日

2月5日 年間第5主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第5主日 A年 2023年2月5日


「あなたがたは世の光である」 レイナルド神父

光は空間や場所を照らし、それで私たちは見たり判断したり動くことができます。光がなければわたしたちは何も明らかにできません。

イエスが命じられたように世の光となるには、わたしたちはまずキリストの善を身につけ彼の教えを聞き、そして従うことです。次に、教えていただいた全ての善い行いを人々の前に示して良い手本となることです。

イエスは言われます。もし私たちの善い行いで、人々が神の栄光を讃えないなら、それは神の国にとっては何の意味もありません。塩気のなくなった塩のように役立たず、善い行いも人々を神に向かわせなければ、投げ捨てられ人々に踏みつけられるだけです。

ですから、私たちの善い行いを人々の前に見えるようにし、私たちの行いと愛を人々に示すことで天の父があがめられるようにいたしましょう。私たちが人々への良き手本となり、栄光と栄誉が全能の神にありますように。



【聖書朗読箇所】


信じる者の力である神よ、

  尽きることのないいつくしみのうちにわたしたちを守ってください。

  あなたの恵みを唯一の希望とするこの家族が、

  いつもあなたの力によって強められますように

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ58章7-10節)


(主は言われる。わたしの選ぶ断食とは)

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、

家のない貧しい人々を家に入れ、

裸の人を見て、これに着せ、

あなたの肉親の世話をすることではないか。


そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、

あなたの傷はすみやかにいやされる。

あなたの義はあなたの前に進み、

主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。


そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、

あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。

もし、あなたの中から、くびきを除き、

うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、


飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、

あなたの光は、やみの中に輝き上り、

あなたの暗やみは、真昼のようになる。



第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント2章1-5節)


兄弟たち、わたし(は)そちらに行ったとき、

神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。


なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、

それも十字架につけられたキリスト以外、

何も知るまいと心に決めていたからです。


そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、

恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。


わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、

“霊”と力の証明によるものでした。


それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、

神の力によって信じるようになるためでした。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ5章13-16節)


(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。


あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。


また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。


そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」