2023年2月10日金曜日

2月12日 年間第6主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。



【福音メッセージ】 年間第6主日 A年 2023年2月12日 松村神父

かつて学問の研究をしていた時、ある聖書学者の神父様からこんなことを言われました。「常に新しさを求めるように」と。新しさとは何だろうとしばらく考えていましたが、それは学問に向き合う姿勢である事と、信仰に対しても新たな局面を見出す事であると答えを導き出しました。もちろん信仰に新しさなどはありませんが、しかしヒントになるのは今日の福音ではないかと感じました。

今日の福音は旧約の律法に立ち戻ることを語りながら、人間が解釈した内容に留まり続ける事への危険性を訴えているのではないでしょうか。もちろん律法は間違ったことは言ってはいません。しかし完成されていなかったことをイエスは語ります。イエスの完成とは、律法に付さなければならないものがある。逆に言うと律法の運用に欠けていたものがあったということ示しています。それは愛の視点から運用を見直すこと。パウロが語るように「愛が無ければ無に等しい」ということでしょう。イエスの死後も、平和の宗教が各々信仰を守るという名目で争いが起こり、人は一致しない歴史をたどってきました。キリスト教の迫害、キリスト教の分裂はいつの時代にも起こってきました。「一致の霊である聖霊」はどこに行ってしまったのか。第二朗読はそのことを語っているように読めます。そして人間がその聖霊の識別を忘れてきた歴史ではないかとも思います。せっかくすばらしい信仰なのに分裂が起きる。愛の寛容さ、赦しの大切さ、謙虚な心がいつも私たちから遠ざかっています。イエスの目から見て特に律法学者、祭司長にその姿が堅調にうかがえたのではないかと思うと、私自身も反省しなければと思う今日この頃です。

さて、愛が欠けると掟がないがしろになります。結果、人が人を“裁き”“殺し”“姦淫し”“離縁し”“誓いを立てる”。信仰の主体が自分にしてしまうと、まるで神の右の座にいるように、他人よりも優位に立ってしまう。だから神の前で「はい」という言葉だけが重要であるということになるのではないでしょうか。

いつもいただく恵みに、謙虚に、そして固定した考え方から脱却して、過去から与えられた伝統に縛られず、愛を生きるために自分を変え、他者のために生きる道を選ぶことこそが、信仰の新しさ。固定された者からの解放。信仰の根本は○○(思い込み・しがらみ・罪・悲しみ等々)からの解放にあるということを今の自分の信仰に新たな見方として捉えてみましょう。


【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

   あなたは、正義を求める人、誠実な人と共におられます。

   わたしたちが、恵みに支えられて

   豊かな実りをもたらすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 シラ書 (シラ15章15-20節)


その意志さえあれば、お前は掟を守り、

しかも快く忠実にそれを行うことができる。

主は、お前の前に火と水を置かれた。

手を差し伸べて、欲しい方を取ればよい。

人間の前には、生と死が置かれている。

望んで選んだ道が、彼に与えられる。

主の知恵は豊かであり、

主の力は強く、すべてを見通される。

主は、御自分を畏れる人たちに目を注がれる。

人間の行いはすべて主に知られている。

主は、不信仰であれとは、

だれにも命じたことはなく、

罪を犯すことを、許されたこともなかった。


第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント2章6-10節)

 (皆さん、)わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」

と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。


福音朗読 マタイによる福音 (マタイ5章17-37節)

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

 《「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するため ではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない。」 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。

 《兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。》

 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。《もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。》

 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。

 《天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。》

 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」