2019年7月28日日曜日

年間第17主日 「主の祈り」

ルカ 11・1-13
この日の福音でイエスは弟子たちに「主の祈り」を教えました。
祈りというのは自分自身を見つめることでもあります。
自分の願いは何でしょうか?


この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の場面ではイエスがエルサレムへ行く旅の途中が続いています。 先週はマリアがイエスの足元で話を聞いていて、マルタがイエスに食事を出すために忙しく働いている場 面でした。 マルタはマリアの態度を見て自分の正当性を訴えられました。 イエスはマルタをさとされました。 それによってマルタの祈りは受け入れられたのです。 マルタが望んでいたようにではなく、神の望んでおられたことはこういうことだったとマルタは理解したと思います。

さて、今日の福音はイエスがあるところで祈っておられたという言葉から始まります。 弟子の一人がイエスにわたしたちにも祈りを教えてくださいと言います。 わたしたちにとっても祈り方というものは切実なものかもしれません。 神父様、こういう時にはどのように祈ればいいですか、と聞かれることがあります。 例えば、墓をしまってこちらに移したいのですがどう祈ればいいですかとか、ロザリオが壊れてしまいましたどうすればいいですかと聞かれることがあります。 こういう時に話すのは、「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と、感謝の気持ちを伝えて処分すればいいと伝えます。 土に埋める、あるいは燃やすのがいいと思いますが、今の世の中はなかなかそうもできませんので、通常のごみと一緒に捨ててもいいと伝えています。 すでに感謝の祈りをささげたなら目的を達成した物として処分できると思います。 もし捨てきれないというのであれば、直接司祭に持ってきてください。 司祭の権限で処分しますので安心していただければと思います。

今あえて「父よ、これまで利用させていただいてありがとうございました」と言いました。
この神への呼びかけとして「父よ」という言葉はもともとユダヤ人の祈りでは出て来ません。 旧約聖書では知恵の書、シラ書で神に願うときに、数回、出ているだけです。 この2つの書物は紀元前3世紀以降にギリシャ語を用いるユダヤ教徒が書いたものです。 ギリシャ語で書かれているけれども、カトリック教会ではユダヤ教徒が伝えた大切な聖書として扱っています。 ともかく、イエスは祈るときにはまず「父よ」という言葉から始めています。 これは当時とても新鮮だったと思います。 当時のユダヤ人の間では「父よ」というのは、子どもが「お父さん」と親しみをこめて呼びかける言葉でした。 逆に言えば、お父さんは子どもの呼びかけを聞いて「何だい?」と耳を傾けることになるでしょう。 そして、子どもの願いを聞き入れ、その願いをかなえてあげようとします。 それほどの親密な関係がわたしたちと神の間にはあるのだということです。
今日の福音の最後の部分、11節以降のたとえ話で父と子の関係に当てはめて、反語で強調しています。 反語というのは、言いたいことの反対の内容を疑問形で述べる表現のことを言います。
「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。 「卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」 「いや、いない」と答えるでしょう。
最近のニュースを見ていると自分の子供を虐待しているのをよく目にしますので、本当だろうかと揺らいでいる面もあるかと思います。 ただ、多くの親は、「自分の子供にはよいものを与えることを知っている」のです。 同じように、いやむしろ自分のお父さん以上に、神である父は求める者の願いを聞き入れてくださいます。

父である神に祈ることはわたしたちの基本的な姿勢です。 このミサもそうですし、日々の生活の中でも祈りはあると思います。 神はわたしたちの願いをすべてご存知です。 ですが、わたしたちが何を願いたいのかに気づいて、父である神に願うことがなければかなえられません。 ですから、祈りというのは自分自身を見つめることでもあるのです。 しばらく沈黙のうちに自分の願いを振り返り、感謝の祭儀を通して神の恵みを祈り求めてまいりましょう。 』

2019年7月21日日曜日

年間第16主日 「マルタとマリア」

この日の主日ミサは、佐藤神父様とレイ神父様の共同司式で行われました。


今日の福音は、ルカ福音書(10・38-42)の「マルタとマリア」の箇所が朗読されました。

このマルタとマリアのようなことは、私たちの家庭や職場でも起こりうるような出来事です。マルタの面白くない気持ちはよく理解できます。ではなぜ、イエス様はしっかり者のマルタの方を叱ったのでしょうか?

佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音を読んでみると、わたしはどうすればいいのだろうかと悩むかもしれません。 マルタとマリア、対照的に見えるこの姉妹の行動のどちらが正しいのかと思うかもしれません。 結論を言えば、どちらも間違っていないと言えます。
マルタもイエスをもてなしていましたから、アブラハムが行ったもてなし(創世記18・1~)のようにとてもいいことをしていると言えます。 マリアもイエスの話を熱心に聞いていましたから、アブラハムが旅人の言葉を聞いたようにとてもいいことをしていると言えます。 自分がやっていることを他人も同じようにやるべきだと考えないことです。
比較すべき問題ではありません。 マルタの言葉の中に「わたしだけに」という言葉があります。
「わたしだけにもてなしをさせて」という訴えを聞くと確かにそうだ、みんなでもてなそうと同意してしまいがちです。 イエスはそうは考えませんでした。 マルタの選んだこともマリアの選んだこともどちらも正しいことであるのは確かです。 しかし、イエスはマルタが自ら選んだことをマリアも同じように選ばなければならないという考えを戒めます。 今日の場面はイエスがエルサレムへ行く旅の途中です。 イエスは十字架につけられて自分が死ぬことを知っていました。 この親しい弟子であるベタニアのマルタとマリアとの最後の出会いであることもイエスは知っていました。 だからこそ、自分の話すことをよくよく聞いてほしいと願っていました。 マリアが選んだことはイエスとの時を過ごし、イエスの話をよく聞いておくことでした。 マルタが選んだのはイエスのために最高のもてなしをすることでした。 どちらも正しいことです。

しかし、マルタは訴えます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 イエスはマルタの名前を2回呼んで答えます。 目の前にいる人に向かって答えているので名前を呼ぶ必要がありませんが、それも2回呼んでいるというのは本当によく聞いてほしいということだと思います。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」 どのようなもてなしをしたらいいのかというところに心が向いてしまっていて、マリアも同じようにしてほしいと思っているマルタに呼びかけています。 イエスの答えは「必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。 それを取り上げてはならない。」 イエスは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのです。 みんなから多くのもてなしを受けることではなく、みんなに一つの福音を伝えるためにイエスは来たのです。
 もちろん、マルタが悪い方を選んだということではありません。 イエスの福音を聞くことが第一であるということです。 今日の福音はイエスのことばで終わっていますから、マルタがどう思ったかまではわかりません。 しかし、自分の願いを訴えることは祈りにつながっていくことが分かります。 どうすればいいのかわからないときに主に祈ることで解決につながっていきます。

 マルタがイエスに訴えたことによって、マルタはイエスから最も重要なことを教えられました。 イエスのことばを聞くこと、神の国を求めることが大切なことだと教えられました。 もしかしたらイエスのことばで、マルタは自分自身の凝り固まった考えを打ち破ることができたのかもしれません。 福音書はこのあと、主の祈りに続いていきますのでマルタの考えがどうなったかはわかりません。
 イエスはわたしたちが主の福音をよく聞いて歩むことを求めています。 わたしたちも福音を聞いてイエスが伝えたいことを理解し、この世に神の国を宣べ伝えていくことができるよう祈ってまいりましょう。』

【夕べの会】
7月20日(土)15:00から、教会の中庭で親睦会「夕べの会」を行いました。EMCの皆さん、佐藤神父様、レイ神父様、佐久間神父様も参加され、バーベキューと生ビールで親交を深めました。


2019年7月15日月曜日

年間第15主日「善きサマリア人のたとえ」

ルカによる福音書 10章25~37節
イエスは、「自分の隣人とは誰か?」とイエスを試す律法学者の質問に対して「善きサマリア人のたとえ」を話されました。この話はルカ福音書だけに記されています。
このたとえ話をとおして、イエスの言われる隣人とは?そして、人が陥りがちな偏見・差別について考えてみましょう。

この日のミサは、勝谷司教様の司式でした。


司教様のお説教の大要をご紹介します。

『数年前の話ですが、東京管区の司祭の集まりで、次のようなことが話題になりました。日本の西にある大きな教区では信者も多いのですが、そこでは日曜日のミサに参加する出席表などのようなものがあって、それの出席率が悪いと秘跡を受けることが出来なくなるシステムを採用している教会がある。これは事実かどうか確認をとっていませんが。その話題が出た時、そんなとんでもないことをしているのかという反応がでることを私は期待したのですが、管区のその集まりのある一定の神父様方は「我々もそうすべきだ。」という意見を持っていることに大変驚いたことを記憶しています。つまり普段、教会で信者としての務めを果たさない、(それは教会維持費を納めていないことを念頭にしていたのですが)普段、教会に来ていないのに結婚や葬儀の時だけは信者としての権利を主張してやってくる。これはとんでもないという発想らしいのですが。
 そもそもこの発想は何か勘違いしていないか。教会はサロンではないですね。会費を払っていれば必要なサービスを受けられるようなところではありません。そして、教会維持費にしろ、教会員の務めにしろ、信者がその信仰に基づいて神に対する自発的な喜捨。そこに大きな勘違いがあるのです。しかし、同じような発想が、つまり守るべき規定を守っていないから、私たちの正常な関わりからは除外されるべきだ。これは長い間教会で支配されてきた考え方です。
 以前、シノドスから帰ってきたとき、この場所から話したことですが、そこでテーマになっていたことはまさにこのことです。教会は永い間、裁く教会であったこと。教会の掟を守れない人を排除しようとする。ひとり一人、それぞれの事情があって、守りたくても守れない。確かにその人自身に責任があるかもしれない場合もありますが、それがどのようなケースであれ、ひとり一人の心の状態に耳を傾け、寄り添っていくべきである。これがシノドスで打ち出された新たな今後の教会の姿勢として示されたのです。しかし、私たちの中にこの裁く心は、ひじょうに深刻に巣くっていると感じられることが度々あります。

 今日の福音書は、善きサマリア人のたとえ話として何度も耳にしたことがあると思います。憐れに思うという言葉は「はらわた」という言葉で、深い共感を表す言葉として知っていると思います。しかし、この対局にある律法学者の姿はどこに問題があったのでしょうか。もっとも大切な教えは何であるかは、この律法学者もイエス様も意見を同じくしています。それをどう解釈し、実践するかはまったく違っていました。この律法学者は神様の起きては徹底的に命がけで守るべきと考えていました。そして掟に、隣人を自分のように愛すると書いてありますから、この掟を厳密に適用するには、隣人というものが誰であるかをきちんと定義しなければならない。そして、律法学者の考えによれば、まず神の民に属さない、今日の福音書に出てくるサマリア人などは、最も隣人から除外されるべき人種であったのです。さらに罪を犯していく人たち。徴税人や娼婦という人たちは真っ先に隣人リストから除外されるべき人たち。それを神の前で正しいことと信じていたのです。 しかし、イエス様の視点はそれとは全く異なる視点でした。むしろ掟を守れない、正しく生きようとしてもそれが出来ない、そういう弱さや矛盾を抱え人たちの心に寄り添っていくなかから、その人たちに救いに至る道筋を同伴しながら示していこうとする、これがイエス様の姿です。
 人ごとのようにして聞いているかもしれませんが、実は裁く教会の姿は札幌市内の教会で何度もいろいろなところから報告されています。一番多いのは、子供の時から教会から離れてしまっている。結婚を迎える時、教会で式を挙げたい。普段教会に来ていないのに虫がよすぎると拒否されるケースがいまだにあります。これも札幌教区で実際にあったケースですが、葬式を拒否する。
  そのような裁く教会。それが当然だと思う信徒がいるのも確かです。しかし、これは何か私たちに大きな勘違いをしているのではないか。私たちに必要なことは、まず掟を優先し、それに人を当てはめることではなくて、むしろその掟を守れない人の心に耳を傾ける姿勢、これがとても大切である。そういう人の心の痛みに少しでも共感できるならば、
けっしてその人を頭ごなしに裁くことは出来ない。少しでも私たちがその人の心の痛みに共感できるならば、そこにおこってくるものは裁きは排除され、共に歩んで行きたい、支えてあげたい。心にわきおこってくる自然の営みです。
  今日の第一朗読で、この教会の掟を、律法学者のいう何百もある掟を覚えを守ろうとする困難な道ではなくて、最後の行にある「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:14)。私たちは自分の心に呼びかけられる聖霊の働きに従っているならば、難しいことではない。

  最後に、私が司祭になって間もない頃体験したことを分かち合いたい。司祭になった頃、数年間、子供たちはたくさんいました。毎年、召命錬成会というものを行っていました。50人近い男子だけですが、今で言えば差別になる。ただ、男子だけというのは、召命は男子だけと考えていたわけではなくて、とても野蛮なサバイバル・キャンプをしていたわけです。テントを張ったり、かまどを作ったり、遠くまで水をくみに行き運んでこなければならない。こんな体験生活は今の子供たちはしていません。楽しい、大胆な体験をたくさんしました。
  この召命錬成会の準備が大変だったのです。ある年には積丹でやろうと下見に行きました。弁当を持たして、まる一日費やすオリエンテーリングというものも計画しました。地図とコンパスだけ持たせ出発させるのです。そのオリエンテーリングのコースを探すために出かけました。一日かけて、最後に夕方になってひじょうにきれいな丘陵地帯がありました。そこは歩けるのではないかと、道路を逸れて山道を車で見に行きました。途中、ゴツンという変な音がしたのですが、気にせず一番上に着いた時に、オイル缶に穴が空きオイルがジャーと漏れていました。車は動きません。人里離れた所で途方にくれていたところ、下から2台の車がやってくるのです。そして、降りてきた運転手は「やっぱり。」と言うのです。下から登る道路があるのですが、逸れて上がっていくところで、オイルの跡がずっと続いているのを発見したのですね。その運転手さんは千葉から来たトラックの運転手さんでした。休暇をとってふたつの家族が旅行をしていたのです。この先に難儀をしている車があるに違いないという運転手の直感です。それでわざわざ登って来てくれたのです。そして、やっぱりいたと言ったわけです。それで私の車を牽引して小樽の工場まで運んでくれました。着いたのは夜8時。小樽のどこか旅館を予約していて、すでに家族で楽しんでいるはずの時間に、付き合わせてしまったのです。私は後でお礼をと思い名前や住所を聞いても教えてくれないのです。職業だけは分かっていたのですが。困った私はお金を包んで渡そうとしたのです。当然ですが受け取ろうとしないのです。その時、最後に何を言われたかというと「今度はあなたが道で困っている人を見つけたら、その人に返してくれ。」。びっくりしました。その言葉を聞いて、私は神父ですとはとても言えませんでした。信者以上に信者の心を理解する人でした。これは私にとって本当に善きサマリア人でした。私がその時にお礼をしたならば、そのことは完結したのだと思います。
 「次にそのお礼は別な人に返してくれ」という、最近そのような運動がどこかにあると聴いたことがありますが、その当時はそのような社会的な運動とか、ましてやインターネットのような情報が広がっていることもなかった時です。ですから、その運転手さんの自発的な心の現れだったと思うのです。もっとも福音の心を理解している人だと私は感じ取りました。まさに福音書のように「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)、この言葉を自分に投げつけられたと感じています。
 福音書は難しい理屈ではなくて、自分や人に対しての痛みを共感出来る、その心に従って行動するときに、私たちの愛の世界は広がっていくものだと切に感じました。』

2019年7月7日日曜日

7月7日(日)年間第14主日

私たちは一人一人が福音を述べ伝えるためキリストから遣わされています。

今日のルカ福音書(10・1-12、17-20)では、72人を任命し、宣教に遣わされました。


湯澤神父神父様のお説教の大要をご紹介します。

『イエスが12人の弟子たちを宣教に遣わすという出来事については、共観福音書すべてに記述されていますが、ルカだけが72人を任命して派遣するという、もう一つの出来事を収録しているわけです。
この72人を任命して派遣するという背景には恐らく、モーセの出来事が前提になっていただろうと思われます。ユダヤ民族がエジプトから脱出してカナンに向かう途中、モーセの仕事があまりにも多かったので、誰かアシスタントをつくってはどうだろうかという話になり、70人を選んでモーセの前に集めたわけです。この70人がモーセの仕事を分担して、負担を減らしたという形になりましたが、どういう訳かそこに集められなかった人の中から、二人の人の上に霊が下って同じように予言を始めました。そして、その二人も加えた72人がモーセの手伝いをするようにったという出来事でした。
今日の福音朗読にあるイエスに任命された72人は、12人の弟子という特別な人たちだけではなく、もっと参集範囲を拡げているわけです。この意味するところは、宣教は12人だけの務めではなく、いわゆる全てのキリスト者がこの任命を受けているということと理解してよいかと思います。

この派遣にあたっては、「二人ずつ先に遣わされた」とあります。二人ずつというのは「一人ではない」ということです。これは、ある意味で共同体の宣教ということが前提とされているということです。宣教活動というのは個人プレーではない、共同体として宣教活動をするということです。それが「二人ずつ」ということに象徴されています。

さらに、宣教に遣わされる人たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」と話され、必要性が開かれているということを伝えています。

それから宣教活動というものは、そう楽なものではないということも話されています。狼の中にエサを撒くようなものだと喩え、それだけ大変なものだということでしょう。それ故、共同体として宣教を行うということだと思います。

同時に、「財布も袋も履物も持つな」と話され、宣教にあたって、個人の能力とか、才能とか、地位とか、そういうものには頼らないように、ということです。宣教というものは、そういうものでやるわけではない、神が宣教するのであって、個人の能力に頼るのではなく、神だけを信頼するように、ということです。逆に言うこと、「私のような能力のない人間には出来ません」ということではありません。却って能力のない方が、相応しいのかもしれません。
「心の貧しい人は幸い」と言うように、神しか信頼できなければ、それだけ神を頼ることになるし、下手な能力があれば却って自分の能力を信用して神様を信頼しなくなる訳ですから、能力のない方がむしろいいのかもしれません。

「途中でだれにも挨拶をするな」とありますが、これは別に、しかめっ面して誰とも触れ合わないでということではなくて、目的が宣教に行くことにあるのだから余計なことをするわけにはいかない、という意味あいです。お喋りしたり、親しくなったり、することが目的ではないということです。

そして、どこかの家に入ったら「平和があるように」と。そこで実現するのが平和だというわけです。ただこの平和は、人間が作る平和ではなく、復活したキリストから来る平和です。所謂「主の平和」のことです。そこで集まっている共同体の中に、神の平和が実現するようにという意味であって、世界平和を祈っているわけではありません。この平和は人間が実現させる平和ではない、だから受け入れなければ戻ってくると言っているわけです。もし人間が作るものであれば、成功するか失敗するか、そんな程度のものです。

今日の福音朗読では、このように宣教というものを表現しているわけです。
私たちは、そこで、自分たちはどうしているだろうか?というところまで考えなければなりません。
内側を向いていて閉じ籠もって、お御堂の中にだけいて外にでない、漏らさない、というのはキリストの意向に沿ってはいません。
「行きましょう」と言われているわけですから、福音を伝えるために出ていくことが目的なわけです。そしてまた集まってくるというのが重要なのです。集まるために出て行って、出て行くために集まるわけですから。
常にこのようにして、福音を伝えるために私たちは毎週、派遣されているようなものです。

私たちは一人一人がキリストから遣わされているということを自覚しないといけないと思います。堅信を受けた人は全ての人が、この使命を受けている、キリストの共通祭司職に与っているわけですから、常にキリストによって遣わされている、そして共同体として遣わされているということを心に留めながら私たちの使命を自覚していかなければならないと思います。』

2019年7月1日月曜日

6月30日(日)年間第13主日

今日の聖書朗読では、神が望まれる道を歩むことが最も優先されることとして示されています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


(ルカによる福音書 9章51~62節)
『キリストに従う人たちの心構えについてキリストが語っている箇所ですが、文字面をみると非常に非人間的な感じがしないではないですが、この情況を見るときにそれは、もっとはっきり分かるのでしょう。「イエスが天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ9:51)。いよいよエルサレムに行って十字架に架けられる、天の父の意思を実行する。それに応える、その方向に向かって歩み始める。 そのときの弟子たちに対する望みをイエスは弟子たちに語っているわけです。

 ここの言葉を理解するために第二朗読のパウロのガラテヤの教会にあてた手紙を参考にすると少しは分かりやすいと思います。パウロ独特の霊と肉という対立で語っています。「あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)。肉という言葉を往々にして道徳的に捉えたり、欲望という意味で捉えると、意味がひじょうに狭くなってしまうと思います。肉と霊はそういう対立ではない。神と関係のない人間の普通のあり方を「肉」と呼ぶわけです。神の意思に応えて生きる道を「霊」といってパウロは分けるわけです。
 肉に罪を犯させる機会はけっして道徳的に悪いことをしたり、そういう欲望に振り回されたりすることを意味するわけでなくて、時には非常に良いボランティアもこれに含まれてくるわけですね。一見外側から見ていると非常に良いことをしているように見えても、それが神の意思にそっていないことがあり得るわけですね。皆さんもご存じのバベルの塔の話があります。人間が力をあわせて塔をつくる。ひじょうに人間の持っている能力を十分に発揮した素晴らしい事業です。けっして神はそれを妬んで破壊したわけではないのです。神の意思に沿ってないので壊したわけです。どんなに良いことをしても、神の意思に沿っていなければ、神はそれを注意したり破壊したりするわけです。そういう意味で肉というのは、良いことをしていても、肉ということはあり得るわけです。
 そういうところからキリストの言葉を見ると「まず私に従いなさい。」(ルカ9:59)。そうするとその人は「父を葬りに行かせてください。」(ルカ9:59)。キリストは「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい。」(ルカ9:60)と言うわけです。
 この福音を伝えるという使命を受け、それに応えたこの人は、もうすでにそういう人間的な考え方に従った生き方をしてはならないことです。それが良い悪いではない。そのやるべき使命を果たしなさいということですね。キリスト自身もエルサレムに向かう、その使命を果たすために歩き始めている中での言葉ですから、そういう意味で全体の流れに沿って理解しなければならないわけです。

  このエリシャは、エリヤからマント(外套)を投げつけられて、自分の使命というものを、初めて神の召命を感じとって従っていこうとするわけです。  が、その家族との別れ、あるいは神とは関係ない生活を良いか悪いかは別問題、そういうものから決別するわけです。そして、決してそれを忘れないようにエリヤは言うわけです。「わたしがあなたに何をしたと言うわけですか。」(第一朗読、列王記上19:19、20)。そういう意味ですね。決して神から呼ばれたことを忘れてはならないといことです。

 私たちは往々にしてこの区別をしなくなっています。カトリック教会は罪というものを
ひじょうに道徳的に捉えすぎていて、本来の罪の意味を偏って狭くなっています。どんなに良いことをしていても、神の意思に沿っていなければ、それは極端に言えば罪です。立派なことをしているから罪ではないということではない。キリストが十字架に架かっていくときに、全能の父の意思を実現するために応えるためにいくわけです。その応えは、十字架に架かって死ぬことであり、降りてくることではない。人々は降りてきたら信じるかもしれない。しかし、それは父の意思には沿っていない。キリストはそれが父の意思に沿わなければ、それがどんなに効果的なことであったとしてもしないわけです。

 そういう意味で私たちも考えてみなければなりません。私たちはキリストの呼びかけに応えて、キリスト者として歩み始めたわけですから、何が大切なことなのか、それが分かるはずです。「『主よ、主よ』と言う者が皆、主の国に入れるわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)とキリストも言うわけです。私たちは常に神、キリストの呼びかけを聴いて、何が神の意思なのか、そしてそれを探してそれに応えていく、この姿勢を常に忘れてはならないと思います。』