2014年11月30日日曜日

待降節第1主日

今日から典礼暦では新しい1年がスタートします。
待降節を迎え、クリスマスまでの4週間に悔い改め回心し、幼子を迎える準備をします。

アドベントクランツの4本のローソクのうち1本に火が点されました。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。


『新しい年を迎えるにあたり、大きく変わる出来事についてお話します。
日本カトリック司教協議会では、この度「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」を発効しました。この指針は、ミサの中で聖体を受けるときの方法や動作を通して、聖体拝領の意義や聖体に対する信仰と尊厳がしるしとして示されることを明らかにするとともに、信者が不安や混乱なく聖体を拝領することができるようにすることを目的としています。概要は「かてどらるの鐘」でもご紹介していますが、聖体を授与するときのことばが、「キリストの御からだ」に統一されます。拝領の所作についても具体的に示されています。来週の主日ミサの後、30分ほど勉強会をしたいと考えています。
もう一つは、教皇様は2015年を「奉献生活の年」とすることを発表しました。期間は今日(2014年11月30日)から2016年2月2日までとなります。この1年は、奉献生活における希望を新たにし、福音の預言的あかしを奉献生活により深く浸透させるために費やされます。
さて、今日は待降節第一主日で、アドベントクランツのローソクにも1本火が点されました。今日からクリスマスまでの4週間は、私たちにとってどのような意味があるのか考えてみましょう。待降節の期間、私たちは神様がマリア様をとおしてお遣わしになる救い主である幼子を迎える準備をします。悔い改め、回心し、心の準備をします。今日の第一朗読(イザヤ63・19b)にある「どうか天を裂いて降ってください。」は主の降誕と結びついており、救い主への期待と希望へと繋がっています。
私たちは、ただ待つのではなく、期待して希望して待つことが大切です。』

御ミサの後、聖堂には馬小屋、玄関前にはクリスマスツリーを、そしてリースが飾り付けられました。



玄関の上に飾られているリースを作ってくださった西村さんが本日帰天されました。
主の御許で安らかに憩われますようお祈りいたします。


2014年11月23日日曜日

11月23日(日) 王であるキリスト(祭日)

教会の典礼暦では今日が年間最後の主日になります。今日の福音(マタイ25・31-46)は私たちに愛の奉仕の大切さを教えてくれます。

来週からは、新しい一年、待降節が始まります。
降誕祭を迎えるために、今日の福音と神父様のお説教をヒントに、心から出た愛の奉仕について黙想しましょう。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『皆さんが季節の変わり目を感じるのはどういう時でしょうか?
春ですと進級や就職など、そして、今この時期ですとクリスマス商戦でしょうか。
教会も新しい季節を迎えようとしています。
典礼暦では、今日の「王であるキリスト」の祭日が年間の最終主日になります。
そして、今日のみ言葉(マタイ25・31-46)は、終末を迎えるときのキリスト者としての私たちへ、愛の奉仕がいかに大切なことなのかというメッセージが込められています。
当時のパレスチナでは、羊や山羊がいたる所で飼われており大変身近な存在だったようです。羊と山羊は日中は一緒に放牧されていたようですが、夜になると分けられました。今日のみ言葉では、このことをたとえに使っています。
人々は神の前に集められたとき、右と左に分けられました。なぜ分けられたのか?それは、その人が行った愛の奉仕によるものです。キリストは王であることを宣言し、裁きの座に着き最後の審判を下します。
私は聖書を読むとき、その中に自分を置いてみることがあります。私は山羊だろうか、羊だろうかと、そんなことを考えると怖くもなります。しかし、王であるキリストの前で、自分自身の行いについて黙想し振り返ることによって気付かされることがあります。これはとても大切なことです。
キリストは言われます「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。神様に祝福された人、それは純粋な心で無意識のうちに”小さい者”に手を差し伸べる人々のことです。反対に呪われた者とは、「もし目の前にイエス様が現れたなら跪いて捧げものをするのに、それが貧しい人や汚い身なりの人であったら、気付かない振りをして通り過ぎてしまう」そのような人たちのことでしょう。
私たちも祝福された人になるように変わらなければ、裁きの日にどのようになってしまうのでしょうか?
主の降誕が近づく中で、私たちの身近にもいる貧しい人、小さな人々、悲しみを心の中に抱えている人々と共に、本当の平和を歩むことが出来るように、共に祈り、そして新しい一年に向かっていきたいと思います。』


前田さん、今朝も寒い中、有難うございます!
いつも主日ミサの前には、教会の駐車場の整理をしてくださっており、一人一人の信者さんに声をかけてくれます。


御ミサの後、カテドラルホールで「DVDを観る会」が行われました。
今年の8月29日に放送されたNHK BS1スペシャル「憎しみとゆるし~マニラ市街戦 その後~」
昭和28年、当時のキリノ大統領は恩赦を決意し、BC級戦犯全員の日本への帰国を認めました。
大統領の家族をはじめ、多くの人々が日本軍の手によって犠牲になったのにも関わらず。
「憎しみを忘れなさい。憎しみにとらわれてしまうと、子供にも憎しみが受け継がれてしまうから」
戦争の悲惨さ、平和の尊さ、人間の尊厳とは、キリスト者としての生きかたとは?
多くを語りかけてくれる内容でした。
見逃した方は、宣教養成部 石井さんからDVDをお借りすることができます。


2014年11月16日日曜日

年間第33主日 -タラントンのたとえ-

札幌では数日前から寒気が入り込み例年よりも一足早い積雪となりました。
教会の裏庭も雪で覆われました。
教会暦では来週で一年の典礼が終わり、再来週から待降節を迎えます。


今日の福音(マタイ25・14-30)は「タラントンのたとえ」です。私たちは神様から授かった賜物を活かしているでしょうか?
今日から聖書週間が始まります。聖書に少しでも親しむようにしましょう。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『本題に入る前に、聖書週間のお話をします。
今日から聖書週間が始まります。
聖書は私たちにとって、とても大切なものですが、自分の家の聖書はどうなってますか?埃をかぶってはいませんか?
私たちは聖書を大事に思ってますが、頻繁に手に取ることは難しいことです。そのような現実から、聖書に少しでも親しむようにということで、聖書週間が設けられています。
聖書がいくつの書物から成っているかご存知ですか?
一般的には、旧約聖書が39、新約聖書が27で、併せて66になります。
カトリック教会では旧約聖書に7つ加えて、全部で73という数になります。
どうか、この聖書週間をきっかけに、聖書に少しでも親しんで、新しい年を迎えて欲しいと思います。

教会の暦では来週で1年が終わり、つぎの週の待降節から新しい年が始まります。
待降節が近づくと今日の福音のように終末を思い起こさせる話が多くなっていきます。
今日の福音(マタイ25・14-30)は「タラントンのたとえ」です。
タラントンはギリシアの貨幣単位であり、約20年分の賃金に相当する高額な価値になります。英語読みではタレント、つまり才能や技量を意味します。
主人からタラントンという高額な財産を預けられた僕というのは、神様から授けられた賜物(能力、才能)を持つ私たち一人一人のことを指し示しています。そして神様の恵みは何と大きいものなのかということが例えられています。
私たちは、神様が授けてくださった賜物を、喜んで預かり良いことに使っているでしょうか?福音の中で1タラントン預かった僕のように、せっかくの賜物をしまい込んでいないでしょうか?罪を犯すことを恐れて何もしないでいることは、罪を避けることはできても神様からは、「怠け者」と言われるかもしれません。
神様から授かった賜物を眠らせたままにするのではなく、それを活かし、神様と一緒に喜びを共にし、幸いな人を呼ばれるようにしましょう。』

聖園幼稚園の旧園舎が取り壊されました。やはり寂しいですね。





2014年11月9日日曜日

11月9日(日) ラテラン教会の献堂(祝日)

今日の主日ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。

共同祈願では、ラテラン教会の献堂の日にちなんで、2年後に控えた当教会の献堂100周年に向けた祈りが捧げられました。





勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。
『今日は、神殿とはいったい何であるのかということを考えてみたいと思います。福音朗読(ヨハネ2・13-22)で、イエス様はエルサレムの神殿から、いけにえとして捧げられる動物を売る商人たち、両替商を追い出しました。祈りの場とはどういうものなのかをはっきり示すための行為だと思いますが、旧約時代の神殿そのものを大切なものと考えたうえでのことではなかったようです。そもそも神殿とは、ヨハネ福音書の最初の方にあるように「人となったみ言葉は私たちの内に住まわれる」という意味を持ち「神がともにいてくださる」という象徴だったわけです。
「神がここにおられる」というのが神殿であるならば、神ご自身が人となって人間の中に住まわれる、つまりイエス様ご自身が神殿そのものであるという意味なのです。
このことは旧約時代の神殿の終わりを告げるものでもあったわけです。
第2朗読でもパウロが「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と語っています。
では、この建物としての教会は何を意味するものなのでしょうか?
神を信じる人々の集いを意味するものなのです。』

勝谷司教様は月1回程度、この司教座聖堂で主日ミサを司式される予定となっています。
次回の予定は、12月14日(日)です。

御ミサの後、恒例行事の「秋の大掃除」を行いました。
大掃除の後、D地区の皆さんがご用意いただいたあったかーい豚汁をいただきました。
皆さま大変お疲れ様でした。

2014年11月3日月曜日

「死者の日」

3年前の東日本大震災、被災地の各所に聖職者が近付けない遺体安置所がありました。
カトリック、プロテスタント、そして仏教、新興宗教の聖職者も近付けなかったのは、政教分離の問題が生じたからでした。死に対する思いは個人差こそあれ、民族、宗教、男女等による違いは無い筈です。
死者の日の今日、北一条教会ではこれまでの慣習を打ち破り、教会の信徒だけではなく、宗派、宗教、時間を超え、全ての逝去者への追悼をしました。死者の日のミサに与り、祈りを通じて、私たちが生かされていること、キリスト者共同体の結びつきを更に展延した一体感を覚醒した1日でした。



<後藤神父様のお説教の概要です>
ロザリオの月が終わり、死者の日になりました。毎年、死者の月になると40数年前の神学校時代の事を思い出します。神学校行事で府中墓地に墓参をした時、はっきりとした記憶ではありませんが、ある墓碑に「やあ、また来てくれましたね、~、あなたもいつの日かこうなるのですよ」とありました。墓参に行って「また来てくれましたね」と語りかけられる事が初めての体験だったので、大変衝撃的でした。そしてその墓碑との出会いによって、死ぬと言うこと、今生きているということ、そして私たちの信仰のことを深く考えるようになりました。情報化時代の現代、生きている人間同士のコミュニケーションが無くなってきていますが、死者の日の今日は、亡くなった人とのコミュニケーションについて考えてみたいと思います。
皆さんの中には、祖父母が亡くなられている方、若しくはご両親が亡くなられている方も居られると思いますが、私たちは、そうした先祖との繋がりの中で命を与えられています。私たちは、亡くなった人との様々な出会い、様々な繋がりを持って満たされているのです。
先日、札幌市内の合同墓参がありましたが、合同墓参はカトリック墓地に眠る身内、知人のためだけにではなく、全ての死者のために祈り、追悼をする精神を大切にして行われています。家族も無く、誰からも思い出される事のない、誰からも顧みられることのない魂が、亡くなられた方がいる事にも思いを寄せ、暖かい心からのお祈りをして欲しいと思います。世界中の教会が同じ思いで、同じ意向でミサを奉げます、教会の伝統の中で、全ての死者のために、今日一日を掛けて思いを巡らし祈ると言う事は大変素晴らしいことです。
父なる神は、はかり知れない慈しみと自由でもって、キリストを通して全ての人を救済しようとして居られます。私たちの先祖、両親もまた、聖人の列に加えられて天国で共に私たちを見守り祈りを奉げて下さっています。今日はその様な思いを強くし、私たちと死者との繋がりを考えながら祈りを奉げたいと思います。
「わたしのもっとも小さな兄弟のひとりにしたことは、私自身にしたことである」
「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を捨てるものはそれを受ける」
とイエスは語られています。
私たちの信仰、私たちの信仰の生き方も、そうしたキリストに向かって絶対なる信頼を持って生きている時、私たちの愛は惜しみなく実践されます。
時が来れば誰にでも死は確実に訪れます。死を免れたいと願っても人間の力では抵抗する事はできません。私たちはキリストに全信頼を置いて、悲しみの向こうに希望がある事を見据えて歩き続けるのです。
死者の日に、あらためて身近で亡くなられた人々を思い浮かべると同時に、全ての死者にも心を寄せて祈って欲しいと思います。私たちを天の国から見守って下さる諸聖人たち、そして先祖や全ての死者のために、わたしたちの暖かい真心の祈りを奉げる日でありたいと思います。