3年前の東日本大震災、被災地の各所に聖職者が近付けない遺体安置所がありました。
カトリック、プロテスタント、そして仏教、新興宗教の聖職者も近付けなかったのは、政教分離の問題が生じたからでした。死に対する思いは個人差こそあれ、民族、宗教、男女等による違いは無い筈です。
死者の日の今日、北一条教会ではこれまでの慣習を打ち破り、教会の信徒だけではなく、宗派、宗教、時間を超え、全ての逝去者への追悼をしました。死者の日のミサに与り、祈りを通じて、私たちが生かされていること、キリスト者共同体の結びつきを更に展延した一体感を覚醒した1日でした。
<後藤神父様のお説教の概要です>
ロザリオの月が終わり、死者の日になりました。毎年、死者の月になると40数年前の神学校時代の事を思い出します。神学校行事で府中墓地に墓参をした時、はっきりとした記憶ではありませんが、ある墓碑に「やあ、また来てくれましたね、~、あなたもいつの日かこうなるのですよ」とありました。墓参に行って「また来てくれましたね」と語りかけられる事が初めての体験だったので、大変衝撃的でした。そしてその墓碑との出会いによって、死ぬと言うこと、今生きているということ、そして私たちの信仰のことを深く考えるようになりました。情報化時代の現代、生きている人間同士のコミュニケーションが無くなってきていますが、死者の日の今日は、亡くなった人とのコミュニケーションについて考えてみたいと思います。
皆さんの中には、祖父母が亡くなられている方、若しくはご両親が亡くなられている方も居られると思いますが、私たちは、そうした先祖との繋がりの中で命を与えられています。私たちは、亡くなった人との様々な出会い、様々な繋がりを持って満たされているのです。
先日、札幌市内の合同墓参がありましたが、合同墓参はカトリック墓地に眠る身内、知人のためだけにではなく、全ての死者のために祈り、追悼をする精神を大切にして行われています。家族も無く、誰からも思い出される事のない、誰からも顧みられることのない魂が、亡くなられた方がいる事にも思いを寄せ、暖かい心からのお祈りをして欲しいと思います。世界中の教会が同じ思いで、同じ意向でミサを奉げます、教会の伝統の中で、全ての死者のために、今日一日を掛けて思いを巡らし祈ると言う事は大変素晴らしいことです。
父なる神は、はかり知れない慈しみと自由でもって、キリストを通して全ての人を救済しようとして居られます。私たちの先祖、両親もまた、聖人の列に加えられて天国で共に私たちを見守り祈りを奉げて下さっています。今日はその様な思いを強くし、私たちと死者との繋がりを考えながら祈りを奉げたいと思います。
「わたしのもっとも小さな兄弟のひとりにしたことは、私自身にしたことである」
「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を捨てるものはそれを受ける」
とイエスは語られています。
私たちの信仰、私たちの信仰の生き方も、そうしたキリストに向かって絶対なる信頼を持って生きている時、私たちの愛は惜しみなく実践されます。
時が来れば誰にでも死は確実に訪れます。死を免れたいと願っても人間の力では抵抗する事はできません。私たちはキリストに全信頼を置いて、悲しみの向こうに希望がある事を見据えて歩き続けるのです。
死者の日に、あらためて身近で亡くなられた人々を思い浮かべると同時に、全ての死者にも心を寄せて祈って欲しいと思います。私たちを天の国から見守って下さる諸聖人たち、そして先祖や全ての死者のために、わたしたちの暖かい真心の祈りを奉げる日でありたいと思います。