2021年5月29日土曜日

5月30日(日)「三位一体の主日」

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ レイ神父】


いとも聖なる三位一体の厳粛さ

聖霊降臨後の第一主日-2021年5月30日

父と子と聖霊の名において私たちは祈ります。それらを一緒にした父と子と聖霊との名において祈るのではありません。神は論理的に唯一でなければなりません。人類にとって、ひとつの意思、ひとつの精神、ひとつの計画を持つ唯一の神を私たちは信じるのです。聖なる三位一体、キリスト教における神とは複雑です。それを理解するのには明確な言葉を使い、明瞭な考えを用いなければなりません。

この厳粛さにおいて、すべての教義のその教義を祝します。なぜなら教義が重要だからです。教会の神についての考え方は子供の遊びではありません。一度その考えを受け入れると、それは私たち自身のものになるからです。ある時から、私たちはもはや自分たちの考えを選べません。それらの考えが私たちを選択するのです。そのため私たちは神を正しく理解しなければなりません。結婚、家族、仕事、恋愛、戦争、金銭、哲学、ユーモア、宗教、楽しみ、スポーツ、などの全ての事柄を正しく理解することです。

教会は、その特質において神は唯一であり、そのペルソナは三体であると信じています。つまり、もしあなたが真っ暗な部屋にいるとして近くに何かの存在を感じると、最初に言うのは「何だろう、犬?、猫?、連れ合い、それとも風?」。もし暗闇にいるのが神であれば、その’何’という問いに対して「私は神である」と答えがあるでしょう。その存在が動物や風ではないとわかれば、次の問いは「あなたは誰ですか?」。それに対して神は三つの連続する声で答えるでしょう。「私は父であり、子であり、そして聖霊である」と。特性とは働きの源ですが、ひとつのペルソナが働きを成すのです。彫像にも目がありますが、それは見るためではありません。人間は卵を孵化させたり水中で息をしたりしません。鳥や魚の領分です。私たちの特質がどのような行動をとれるかという要因を決定します。ライオンの娘は雌ライオンで、それがすることをするのです。男の息子は男であり、男たちがすることをするのです。神の息子は神であり、神がするように、完璧に、知り、愛し、行動するのです。

私たちの三位一体の信仰は、神はひとつで存在するのではなく、愛の共同体の内にあることを意味します。神は自らの美しさや完全さにうぬぼれる自己陶酔のナルシストではありません。それよりも父の愛は永遠に子に向けられています。そして聖霊の愛は父と子の間を生き生きと巡っています。三位一体の三つのペルソナはその聖なる特質部分を分かち合うのではありません。完全にその特質を各々が持っているのです。この神学理論を更に進めると、人間は神の似姿で造られたので、その三位一体をモデルとして創造されており、神が内的生活でされるように、他者と共に、他者のために生きよということになります。神は三つのペルソナであるので、その完全さは、孤独な修道士より、家族のような地上の共同体によってもっと豊かに体現されるのです。

ひとつの神は三位一体として存在します。教会の神の考えと教会の三位一体の考えは同じところにあります。三位一体とは、私たちが理解しようとする信仰の頂点であるだけではなく、信仰の土台でもあります。聖なる三位一体の真実は早期に、そして度々学ぶものです。

我らの神、明確なるペルソナ、本質において唯一、威厳そのものは、洗礼の水が頭に注がれるとき、塗油の香油が掌に跡を残すとき、厳粛に呼び起こされます。そのすべての複雑さの内に、そのすべての簡潔さの内に、神よ、いつもこの世で、願わくば来たる世にも、われらと共にあらんことを。

Solemnity of the Most Holy Trinity 

First Sunday after Pentecost—Solemnity/ May 30, 2021

 We pray in the “name” of the Father, the Son, and the Holy Spirit, not in their “names.” God must logically be only one. We believe in one God with one will, one mind, and one plan for mankind.

The Holy Trinity, the God of Christianity, is complex. Clear language must be used and clear thinking deployed to grasp the Christian God.

On this solemnity, we celebrate the dogma of all dogmas because dogma matters. The Church’s thinking about God is not child’s play. Once we accept thoughts, they own us. At some point we no longer choose our thoughts, they choose us. So we must get God right so that we get everything else right—marriage, family, work, love, war, money, philosophy, humor, religion, fun, sports, etc.

The Church believes that God is one in His nature and three in His persons. This means that if you were in a pitch black room and sensed a presence nearby, your first question would be “What is that?” “Is it the dog or the cat, my spouse, or the wind?” If it were God in the darkness, He would answer the question of “what” by saying “I am God.” Satisfied that the presence was a person and not an animal or the wind, the next question would be “Who are you?” And to that question, God would reply in three successive voices: “I am the Father. I am the Son. I am the Holy Spirit.” A nature is the source of operations, but a person does them. A statue has eyes but it is not its nature to see. It is not man’s nature to lay eggs or to breath under water, but it is the nature of a bird or a fish to do so. Our nature sets the parameters for what actions are possible for us. The daughter of a lion is a lioness and does what lions do. The son of a man is a man and does what men do. And the Son of God is God and knows and loves and acts as God does—perfectly. 

Our Trinitarian belief means that God does not exist alone but in a community of love. God is not narcissistic, admiring his own beauty and perfection. Instead, the love of the Father is directed toward the Son for all eternity. And the love of the Holy Spirit animates, and passes between, the Father and the Son. The Trinity’s three persons do not share portions of the divine nature, they each possess it totally. This theology means, by extension, that because man is made in the image and likeness of God, every person is created in order to model the Trinity by living with, and for, another, just as God does in His inner life. Because God is a Trinity of persons, then, His perfection is more fully embodied by an earthly community, such as a family, rather than by a lone monk.

The one God exists as a Trinity. The Church’s belief in God and the Church’s belief in the Trinity stand and fall together. The Trinity is not just the summit of our faith, something we work toward understanding, but also our faith’s foundation. The truth of the Holy Trinity is learned early and often. Our God, distinct in His persons, one in His essence, and equal in His majesty, is solemnly invoked as the water spills on our heads at Baptism and as the oil is traced on our palms at our anointing. God, in all of His complexity and in all of His simplicity, is with us always in this world and, hopefully, in the world to come. 



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、

神のいのちの神秘を示してくださいました。

唯一の神を礼拝するわたしたちが、

三位の栄光をたたえることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 申命記 4章32~34、39~40節


あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代に

さかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。


これほど大いなることがかつて起こったであろうか。

あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか。

火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている、

あなたと同じような民があったであろうか。


あるいは、あなたたちの神、主がエジプトにおいて

あなたの目の前でなさったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、

戦いと力ある御手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって、

あえて一つの国民を他の国民の中から選び出し、

御自身のものとされた神があったであろうか。


あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、

ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、

今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。

そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、

あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。



第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章14~17節


神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、

神の子とする霊を受けたのです。

この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。


この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、

わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子供であれば、相続人でもあります。

神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。

キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。



福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節


さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、

イエスが指示しておかれた山に登った。

そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

イエスは、近寄って来て言われた。

「わたしは天と地の一切の権能(けんのう)を授かっている。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」



2021年5月22日土曜日

聖霊降臨の主日

 湯澤神父様の「福音への一言」を聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音への一言 湯澤神父】


2021年5月23日 聖霊降臨の主日


✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  『聖書と典礼』の裏表紙の「叙唱の味わい」の中で、聖霊降臨は過越の神秘の完成、復活節の五十日の締めくくりであると書かれています。洗礼を受けたキリストに注がれた聖霊が、キリストの業を受け継ぐ弟子たちにも注がれたことを記念し、そしてまた一つの信仰のうちに一つの共同体を作るとも書かれています。

  狭い意味での受洗者の初聖体の準備の期間であったものが、復活祭の洗礼の約束の更新の準備という理解にまで引き延ばされた四旬節までを視野に入れて全体を見通してみると、より深い世界が広がってきます。つまり、新な洗礼と洗礼の約束の更新を頂点にした前後の約五十日間ずつは、灰の水曜日から聖土曜日までの洗礼の準備の期間と復活祭から聖霊降臨までの新たな出発への準備の期間という二段階の準備の期間と理解できます。こうした意味合いでこの期間を意識して過ごそうとしましたが、今年もコロナのために中断せざるを得なくなってしまいました。

  しかし、こうした意味を踏まえて聖霊降臨の意味を見直すと、堅信の秘跡の意味の再確認につながるのではないでしょうか。聖霊を受けてキリストの復活の証人として派遣されていく、自分たちのキリスト者としての使命の再確認です。つまり、毎年灰の水曜日から始まるこの期間の終わりに、私たち自身も、使徒たちがこの世に派遣されたように、今日のこの世にキリストの復活の証人として派遣されているということを新たにするのです。その使命は、三つの朗読と叙唱にも表れています。私たちの共同体は、その始まりから御父である神を知らせ、キリストの復活を告げ知らせ(宣教する使命:ケリュグマ)、一つの信仰のうちに集まり、同じ信仰者を集め(共同体を作る使命;コイノニア)、キリストを通して具体的に示された在り方を生きる(仕える使命;ディアコニア)のです。

  この使命に生きるとき、忘れてはいけないことがあります。福音の中でキリストが述べているように、私たちには常に派遣された方が身近におられるということです。彼は、弁護者と言われていますが、私のそばに御父と御子によって派遣された方なのです。この方は、キリストが御父から受けたそのすべてを譲られている方です。真理の霊とも呼ばれる聖霊は、共にいてすべてを教えてくださいます。こうして私たちはいつどこにいてもどんな状況にあっても孤立していません。それは、この方が私たちにキリストの真の姿を見させてくださると同時にキリストを共にいさせてくださるからです。更に、そのキリストを通して御父である神とも共にいさせてくださいます。私たちはこれほど支えられているのですから、恐れることなくキリストから委ねられた使命に勇気をもって生きていきましょう。コロナの猛威に晒されている今、自分が生活しているこの困難な時代に。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


すべての人の父である神よ、

きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、

あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。

聖霊を世界にあまねく注いでください。

教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、

今も信じる民を通して続けられ、

豊かな実りをもたらしますように

   集会祈願より


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第1朗読 使徒言行録 2章1~11節


五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、

彼らが座っていた家中に響いた。


そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、

ほかの国々の言葉で話しだした。


さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、

信心深いユダヤ人が住んでいたが、


この物音に大勢の人が集まって来た。

そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、

あっけにとられてしまった。

人々は驚き怪しんで言った。


「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、

また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。

また、ローマから来て滞在中の者、

ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、

クレタ、アラビアから来た者もいるのに、

彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」



第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章16~25節


わたしが言いたいのは、こういうことです。

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、

決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。

肉と霊とが対立し合っているので、

あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。


しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

肉の業(わざ)は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、

このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。


これに対して、霊の結ぶ実は

愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

これらを禁じる掟(おきて)はありません。

キリスト・イエスのものとなった人たちは、

肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、

霊の導きに従ってまた前進しましょう。



福音朗読 ヨハネによる福音書 15章26~27、16章12~15節


<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている

弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、

その方がわたしについて証(あかし)しをなさるはずである。

あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。


言っておきたいことは、まだたくさんあるが、

今、あなたがたには理解できない。

しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、

あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、

また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。


その方はわたしに栄光を与える。

わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。

だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、

あなたがたに告げる』と言ったのである。」 

2021年5月15日土曜日

5月16日 「主の昇天」

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

主の昇天 福音のメッセージ

今日の福音の箇所(マルコ16:9~)は、マルコ福音書の福音記者が書いたものではないとされているが、それでも聖書に記載されることが許されているということは、また違う重要性も持つということなのだろう。そこで少し紐解いてみたい。

イエス・キリストの生涯を記す共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)はイエスの公生活を中心に置いた史実的視点から、その事実をもとにそれぞれの福音記者がイエスのメッセージを紐解いている。しかし、今日の箇所はイエスが確かに語っているものの、その力点は特に弟子が主人公となっているところ。つまり弟子を通して行われる教会の動きとその使命が、福音書に追記されたほど重要なものと理解されている。この箇所はたしかに古代の写本からは欠落されて記載が見つけられない。それでも歴代の教父たちは聖書として認めてきたことからも、追記者からの残された私たちへのイエスの強い意志の伝達が感じられる。それは共同体による福音宣教。今日の福音をのぞいてみると「全世界に行って」「新しい言葉を語る」「言葉は真実である」と語られる。その中でも「新しい言葉」とは何か?私たちは目から鱗が落ちる教えを何度もイエスのメッセージから聞いてきたのではないか。“人類への神の介入”、“イエスの社会の眺め方”、“イエスの思う関わりの優先順位”、“信仰による救い”、などなど人間では到達できない救いと主の平和を勝ち取る出来事を挙げればきりがないが、その中でも大切なことは私たちの日常生活で体験した神様との救われた関わりこそが、“真実味”となって、自信を込めて語れる言葉だろう。教えられた教科書を更に教えるのではなく、体験したことを自分の物にした生の声として届けること。それは他の人にとってそれが新しい言葉なのだろう。でも自分勝手に語るのではなく、まず咀嚼し、目の前の子どもでもわかるように提供することが大切なのだ。「至る所で宣教」するとは、「誰にでも」も含まれているからである。だからそれなりの私たち自身の積み荷の準備が必要。私たちはまず自分の心に一つ一つのイエスのメッセージを落とし込むことが必要となる。課題は大きい。まずはマルコ福音書16章8節まで書かれていることを土台にイエスの姿から救いを思い起こすこと。葬儀に参列した時には私たちは故人の功績を思い起こすでしょう。イエスについても同じ。

主の昇天は私たちへの遺産贈与の時。キリストが私たちに託し、私たちはキリストから託されたことを緊張感をもって受け止めていければと思う。背伸びするのではなく、私たちの中に既にあるイエスとの関わり事を語ることを多くの人が待っているはず。さぁ、イエスからいただいた恵の遺産で、人の目の鱗を取ってみようではないか。


【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

あなたは御ひとり子イエスを、

苦しみと死を通して栄光に高め、

新しい天と地を開いてくださいました。

主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。

キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、

ともに永遠のいのちに入らせてください。

   集会祈願より


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第1朗読 使徒言行録 1章1~11節


テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著(あらわ)して、

イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに

聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までの

すべてのことについて書き記しました。


イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、

数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって

彼らに現れ、神の国について話された。

そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、

父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、

あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」


さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために

国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった

時や時期は、あなたがたの知るところではない。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。

そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、

また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」


こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、

雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。

すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。

あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、

天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~13節


そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。

神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、

一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。

愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、

霊による一致を保つように努めなさい。


体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、

一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、

すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、

すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。


しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、

恵みが与えられています。

そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、

人々に賜物を分け与えられた」と言われています。

「昇った」というのですから、低い所、

地上に降りておられたのではないでしょうか。

この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、

もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。


そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、

ある人を牧者、教師とされたのです。

こうして、聖なる者たちは奉仕の業(わざ)に適した者とされ、

キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、

神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、

キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。



福音朗読 マルコによる福音書 16章15~20節


それから、イエスは<11人の弟子に現れて>言われた。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

信じる者には次のようなしるしが伴う。

彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、

病人に手を置けば治る。」

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。


一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。

主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、

それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

2021年5月8日土曜日

復活節第6主日

 ウルバン神父様の復活節第6主日 福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ from 】

復活節 第6主日 2021. 5. 9 ウルバン神父

“あなたがたは喜びに溢れるように”

私が30才の時でした。日本語学校が終わった頃、日本海の海岸にある羽幌町に新しい教会ができました。“安心しなさい。信徒はほとんどいないから、説教も要らないし、ゆっくりあたらしい生活と日本語の言葉に慣れればよい”と励まされて、そこへ送られました。それでも不安のうちにそこに着きました。

ところが3日後の朝、小さい聖堂は信者ではない若者に溢れていました。2、3人の信者の内に22か23歳ぐらいの女性、中学校の先生、がいました。遠い田舎から来たそうですが、まじめな顔でごミサに参加したが、そのあと、皆と交わらないで、間もなく消えてしまった。何週間が経った後、彼女は見当たりませんでした。あの先生はどうなっているのでしょうかと思って人に聞いたのですが、彼女はこう言ったそうです。“教会をやめた。もう行きません。あまり掟と決まりに縛られて、何もできないことになった。だから教会をやめた。それでやっと自由になった”。かわいそうな娘だなあ。むなしい生活があなたを待っている。

もう58年前も昔のことになったが、今まで彼女を忘れませんでした。自由と求めた幸せを見つけたのでしょうか? ある時洗礼を受けたが、厳しい神様だけで、自分を愛するイエス様に会えませんでした。主のほほえみを見たことがないでしょう。

古い公教要理に育てられたと思います。その十の掟を厳しい重荷と心の責めのように感じたのではないでしょうか。”父母を敬うべし、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽証するなかれ、など“。それは本当に厳しい神様の厳しい定めでしょうか。かえって神様はこう言うのではないでしょうか。”わが子、見よ、私の美しい宝をあなたの弱い手に入れる。家族、命、生、財産、真実か名誉を。それを受け取って喜んでほしい。大切にしなさい。多いに喜んでください。私の愛のプレセントなのです“。

実に、私たちが掟を守ることより、掟が私たちを守ってくれる。暖かい巣が小さい鳥の命を守っているように、雌鶏の翼が可愛いひよこを守って温めるように。巣は狭いものですが、命に溢れている。雌鶏の羽も責めるのではなく、かえってそこには安心感と自由がある、母のあたたかい腕の中のように。

 “掟”はいのちへの道しるべ、神様の愛の畑の花で、傷をつける茨ではない。“私の愛に留まりなさい、喜びに溢れるように”。それは主の最後の望み、最後の願いでした。わああ、夢のようなすごい話ではないでしょうか。確かに、どれほどの力を持っても、このような愛を自分の内から絞り出すことはできません。これは上からいただくものです。”間もなく、あなたがたは上からの力を得る“。

ペンテコステの日は近い。心を開き、多いに望みましょう。聖霊は愛するたまものを与える。

”私の喜びがあなたがたの内にあり、またあなたがたが喜びに溢れるように。“


【聖書朗読箇所】

いのちの源である神よ、

  わたしたちが愛に生きようとするとき、

  あなたはわたしたちとともにいてくださいます。

  週の初めの日に主キリストの復活を祝うわたしたちが、

  愛のおきてのうちにまことの喜びを見いだすことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 使徒言行録 10章25~26、34~35、44~48節


ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、

足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。

「お立ちください。わたしもただの人間です。」


そこで、ペトロは口を開きこう言った。

「神は人を分け隔(へだ)てなさらないことが、よく分かりました。

どんな国の人でも、神を畏(おそ)れて

正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」


ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、

御言葉(みことば)を聞いている一同の上に聖霊が降(くだ)った。

割礼(かつれい)を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、

聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。

異邦人が異言(いげん)を話し、また神を賛美しているのを、

聞いたからである。そこでペトロは、

「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、

水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」

と言った。そして、イエス・キリストの名によって

洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。

それから、コルネリウスたちは、ペトロに

なお数日滞在するようにと願った。



第2朗読 ヨハネの手紙一 4章7~10節


愛する者たち、互いに愛し合いましょう。

愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。

その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。

ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、

わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。



福音朗読 ヨハネによる福音書 15章9~17節


<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

わたしの愛にとどまりなさい。

わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、

あなたがたも、わたしの掟を守るなら、

わたしの愛にとどまっていることになる。


これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、

あなたがたの喜びが満たされるためである。


わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

これがわたしの掟である。

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。

僕は主人が何をしているか知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。


あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、

また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

わたしがあなたがたを任命したのである。

互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


2021年5月1日土曜日

復活節第5主日

 レイ神父様の復活節第5主日 福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

復活節第五主日(B年)

「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がそれにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ヨハネ15章5節

「わたしを離れてはあなたがたは何もできない」。これはなんと素晴らしい心に留めるべきことなのでしょう。こういわれると、はじめは自尊心が傷つけられ否定的に受け取るかもしれません。本当にそうなのでしょうか、神がいなければ何もできないのでしょうか?これに対する答えは明らかに、「その通り」です。イエスは嘘は言われません。神がおられなければこの世で何事も行えません。実際、もし神が私たちをいっときでも忘れたら、わたしたちは終わってしまいます。私たちの存在さえも神のご意志が続くことにかかっています。善き行いをする、影響を与える、創造的に生きる、などは神の恵なしにはできません。

最初このように聞くと難しく思うかもしれませんが、いつもこのことをよく考えましょう。思いをめぐらし、この真実を受け止めると心の中に2つのことが起こってきます。まず謙虚になるでしょう。謙虚さは私たちの成長に最も大切な美徳であり「すべての徳の母」と言われています。そこから全ての徳が生じるからです。謙虚さは私たちに、神は全てであり100%必要であることを気づかせてくれるのです。この謙虚な真実は、私たちがすべてにおいて神を求めるようにし、また人生の様々な場面に深く神を招き入れるのです。

神がいなければ何もできないと気づいたとき、次に起きることとは感謝の気持ちが生まれることです。神はすべてであり、そして常に私たちの人生に恵みを与えているとわかりはじめると、わたしたちの唯一ふさわしい返事とは「ありがとうございます」でしょう。すべての善きことは神からの贈りものだと感謝しましょう。

今日は、これらの真実である謙虚さと感謝の念を黙想し思いを巡らせましょう。そうしながら、これらの美徳があなたの命の内にもっと大きく実るようにしましょう。

主よ、あなたがおられなければ私は何もできないと信じます。さらに深い確信をとおして、謙虚さと感謝の気持ちが高まるよう、イエス、あなたに依り頼みます。


Fifth Sunday of Easter (Year B)
 

“I am the vine, you are the branches. Whoever remains in me and I in him will bear much fruit, because without me you can do nothing.”  John 15:5

What a great little reminder…“Without me you can do nothing.”

At first, hearing this may hurt.  It may hurt our pride, and we may react to this idea negatively.  Is it really true?  Can we really do nothing without God?  Obviously the answer to that is “Yes.”  Jesus does not lie.  We can do nothing without God in our lives.

In fact, if God were to forget us for one moment, we would cease to exist.  Even our very existence depends upon God continuing to will that we exist.  And as for doing good, making a difference, having a productive life, etc., we can do nothing good without God’s grace. 

Though this may be hard to hear at first, we should ponder it regularly.  And if we do ponder it and embrace this truth, two things will happen in our souls.  First, we will grow in humility.  Humility is the most important virtue in which we can grow.  It’s been referred to as “the mother of all virtues.”  This is because from this virtue, all other virtues flow.  Humility means we realize that God is everything and that we need Him with a 100% need.  This humble truth will enable us to seek God in all things and to invite Him deeply into every part of our lives. 

A second thing that will happen in our souls when we realize that we can do nothing without God is that we will grow in gratitude.  As we see that God is everything AND we begin to see that He provides us with constant grace in our lives, our only appropriate response will be “Thank you!”  We will be grateful to God for everything because we will realize that everything that is good is a gift from Him. 

Reflect, today, upon these truths of humility and gratitude and allow them to sink in.  As you do, allow these virtues to grow to greater fruition in your life.

Lord, I do believe that I can do nothing without You.  Help me to believe this with an even greater conviction and, as I do, help me to grow in humility and gratitude.  Jesus, I trust in You.


【聖書朗読箇所】

いのちの源である神よ、
  あなたは信じる者を見捨てることなく、養い育ててくださいます。
  キリストのからだとして一つに集められたわたしたちが、
  愛と一致のきずなを深めることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 9章26~31節

サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、
皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、
サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、
ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。
それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、
主の名によって恐れずに教えるようになった。

また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、
彼らはサウロを殺そうとねらっていた。
それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、
そこからタルソスへ出発させた。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で
平和を保ち、主を畏(おそ)れ、聖霊の慰めを受け、
基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。


第2朗読 ヨハネの手紙一 3章18~24節

子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、
神の御前(みまえ)で安心できます、心に責められることがあろうとも。
神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。

愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、
神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。
わたしたちが神の掟(おきて)を守り、
御心に適(かな)うことを行っているからです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、
この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。

神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、
神もその人の内にとどまってくださいます。
神がわたしたちの内にとどまってくださることは、
神が与えてくださった“霊”によって分かります。


福音朗読 ヨハネによる福音書 15章1~8節

<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、
父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、
いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、
自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、
わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人に
つながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、
枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

あなたがたがわたしにつながっており、
わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、
望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、
それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」