2019年4月29日月曜日

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

活祭から早くも一週間が過ぎ、復活節第2主日を迎えました。
来月から札幌教区は新しい司牧体制がスタートします。


この日は後藤神父様の主日最後のミサとなりました。
5年間、大変お世話になりました。
有難うございました。


『今日の「聖書と典礼」の最後のページに公式祈願の味わいの解説が掲載されています。今日の公式祈願の意向には復活祭に洗礼を受けた人とともに、信者の上にも信仰の恵みを願う意向が入っています。今日はそのことを特に意識して、今日のミサで祈りを捧げましょう。また、わたしにとっても北一条教会の主任司祭としての最後のミサとなりますが、これまでの皆さんから寄せられた数え切れない恵みと支え、そしてたくさんのお祈りに感謝して捧げます。復活祭が終わり、重い腰を上げてようやく引っ越しの荷物整理に心を向け始めるのですが、とはいえ、心も手もなかなか動かない日が続いていました。お別れの挨拶を受けながら、少しずつ背中を押される気持ちでしたがあと数日となりました。復活祭を迎えたのに、いっこうに新しい歩みに向かわない自分がいるのです。それでも、蓑島神父さんと小野幌教会へと二度程、出かけて役員の方々と打合せをしたり、住まいとなる部屋を 見せていただいたりしながら思い巡らすことも多くなってきました。

 今日、いただいたみことばは弟子たちにとって復活の主を知った安息日と一週間後の復活した主に出会う場面です。考えようによっては、今のわたしにも似た状況に思えてきます。
 復活を祝ったわたしたちですが、いつも悲しみとどまらず、新しく出会うすべての人に信仰の恵みを願い、新しい地に行って、主の復活と福音を告げなさいと言われているような気もします。二度三度と小野幌教会を車で往復する道すがら、レンギョウの鮮やかな黄 色い花が目に飛び込んできます。桜の花も咲き始め日本人の心に穏やかな 気持ちを醸してくれますが、レンギョウの鮮やかな黄色・その色合いは復活の輝かしい色とでも言えるでしょうか、わたしの心の中までも明るく照らしてくれるようでした。

 心のふるさとの火災に悲しみフランスや多くの人たちがいます。復活祭に喜び祈っていた兄弟姉妹がテロで多くのいのちを失いました。「あなたがたに平和があるように」とイエスのことばが響き「罪を憎み、あなたが たにゆるす心がなければ平和は実現しない」と言われている気がします。この世界に生きるわたしたちには理解できない矛盾があまりにも多いので すが、神の恵みと力で愛することと赦すことを学び、「憎しみ」の連鎖が 消えてゆきますようにと祈りましょう。
 そして、信じない者ではなく「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白したトマス のように、「信じてイエスの名によりいのちをいただくことができるため」にも、毎日が復活の主と出会う私たちひとり一人の信仰の日々が続いてゆきますようにと祈りましょう。

 この北一条教会の皆さんと共に過ごした日々に心より、感謝いたします。(拍手) 』

2019年4月21日日曜日

復活の主日

昨夜の徹夜祭から一夜明け復活祭の朝を迎えました。
改めまして「キリストの復活」おめでとうございます。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『キリストの復活、おめでとうございます! 復活祭の朝を迎えました。待ちに待ったうれしい復活祭の日曜日です。
そして、洗礼を受けられた5名のみなさん、長い準備をしてお恵みにあずかりました。心よりお祝いを申し上げます。わたしたち教会共同体にとっても「復活祭」と共に新しい兄弟姉妹を迎えられる喜びです。おめでとうございます。
昨日は、「洗礼の約束の更新」をしたわたしたちでもありますが、復活したキリストの恵みと希望に満ちたいのちの輝きが、受洗者と共にみなさんの上に豊かに注がれますように。

典礼に関わり奉仕してくださり、この一週間、準備に明け暮れ少し疲れもたまってきた人もいることでしょう。毎日、事前の打ち合わせや準備がありました。神父のわたしでも一年に一度の儀式ですので、典礼儀式の細かな流れを忘れていることが多いのです。歌やオルガンにしても、十字架崇敬や聖体の安置異動、火の祝福、復活ローソクの祝別にしても聖堂から離れた場所で厳かにすすめるとすれば、典礼奉仕者のみなさんの準備と支えがなければ出来ないことなのです。ありがとうございました。 きょう一日、喜びに心弾ませて頑張りましょう。
侍者の奉仕をしてくださった子どもたちにも感謝します。毎日学校もありましたが、夜遅い時間まで笑顔で休むことなく奉仕してくださいました。 「昨日、声をかける」と、「学校では疲れるけれど、教会の奉仕は疲れない」と嬉しいことばが帰ってきたのです。みなさん、教会の子どもたちは何とも頼もしいではありませんか? 子どもたちを大事にしてください。

喜びの日を迎えましたが、聖書のみことばをもう一度、振り返ってみましょう。
親しい人びとの力ではどうすることもできなかった、愛する人イエスへの裁きは、残忍な姿を人目にさらす十字架の死という結果でした。
せめて遺体を引き取ろうとしたにもかかわらず、墓に着くとその石が取りのけてありました。「どこに置かれているのか・・・」と戸惑う婦人たちには、遺体がないことだけが、ただ心配でありイエスが復活したことは想像さえできないことで、茫然と亜麻布が置かれているのを見つめていました。

聖書を読み、聖書から物事を見つめて、この不思議な意味を知ることになるのですが、復活という出来事を当時の人はすぐには理解出来なかったのです。
泣いているマリアの後ろから、「マリアよ!」と呼びかける声で、その声の方がイエスだとわかったのです。
このことは、わたしたちが信仰生活をしていくことで、イエスとわたしとの関係を大切にしておくことがとても大事なことだと教えてくれているのです。神と出会うのは、みな個人です。一人の人間として神の前に立たされるのです。一人になる時に初めて、神とその人との交わりが生まれてくるのです。マリアはその関係を大切にしていたからこそ、「マリアよ」と呼ぶ声に気づいたのです。その呼びかける声は、生きている時のイエスの声 そのものでした。疑いもなくイエスは生きていると信じる事が出来るマリアとイエスとの関係でした。

わたしたちも復活の主に出会っているのです。困難や苦しみの中に立たされていても、たとえ自分の立っているところが墓場のような夢も希望もない所だとしても、墓が破られる時があるという信仰にならなければと思います。イエス・キリストの復活のゆえに信じなければならないのです。
苦しみに閉じ込められることなく、立ち上がり、新しい出発があるのです。
主の復活を新しい仲間と祝うと共に、信仰と信頼を再び取り戻して、心から一致して歩んでゆきましょう。』


ミサの後、奉納されたイースターエッグを後藤神父様に祝福していただき、皆さんにお配りされました。子供たちには特別に神父様からイースターカードのプレゼントがありました。



その後、会場をカテドラルホールに移し、復活祭と5名の受洗者方々の祝賀会、そして5年間お世話になった後藤神父様の送別会が行われました。

2019年4月20日土曜日

聖土曜日 復活徹夜祭

4月20日(土)午後6:30から、後藤神父様、地主司教様の共同司式により「復活徹夜祭」が行われました。


復活徹夜祭は、「光の祭儀」、「ことばの祭儀」、「洗礼の典礼」、「感謝の典礼」の4部からなり2時間以上にも及ぶ、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。

「光の祭儀」
会衆は聖堂に隣接されたカテドラルホールに集まりました。
最初に、復活されたキリストのシンボルである「ローソクの祝福」が行われました。
司祭により祝福された火は「復活のローソク」にともされ、そこから信徒の持つローソクへと移されました。


一同は聖堂へと移動し、高らかに「復活の賛歌」が唄われました。







「洗礼の儀」では、新たに5名の方々が洗礼の恵みを受けました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『長い四旬節の旅が終わり、喜びあふれる復活祭へと辿り着きました。 終点に辿り着いたようでもありますが、信仰の世界では終わりは始まりと よく言われています。復活は新しいスタートでもあり主イエスの復活の喜びと希望を胸に歩み出したいものです。この一週間は、復活祭の今日を迎える忙しい日々でした。
聖週間を迎え、札幌教区で働く司祭たちが集まり「洗礼志願者の油」「病者の油」聖なる香油」が造られる祝福祝別の聖香油ミサがあり、木曜日から始まった聖なる三日間は、弟子たちの足を洗ったイエスの姿を思い起こす「主の晩さんのミサ」に始まりました。昨日の聖金曜日は、ミサとは違う雰囲気の中、どの御像も紫の布で覆われたまま祭壇の飾りも取り除かれたまま、イエスの受難と十字架の死を忍びながら、沈黙のうちに厳かな夜を過ごしました。
主の受難、十字架の奉献・キリストの犠牲にあわせて「わたしたちも 犠牲を捧げます」という神の子として謙虚な心で信仰に立ち帰る日々が求められた長い四旬節が終わりました。
「光の祭儀」で始まり、復活賛歌が歌われる今日の徹夜祭は「すべての聖なる徹夜祭の母」と聖アウグスチヌスが言うように、古来の教会の伝統やその重要性においても、また典礼の美しさにおいても最高峰にあるのが今日の徹夜祭といえるでしょう。
神のことばの朗読は、九つの朗読があり本来、復活徹夜祭の本質的な部 分でありますが、司牧的理由で数を少なくしています。神が人類の歴史と啓示をとおして、どのように神の民を救ったかは旧約聖書の朗読で語られ、時が満ちて新約の時代にはいると、神の子を救い主としてどのようにお遣わしになったかを黙想するようにみことばは告げられていました。
ルカの福音では、イエスの遺体を墓に納めたものの、律法の規定で安息日を迎えて何もできないままでいたこと。マリアの他、イエスと親しい人たちはイエスのことを気にしながら、自分たちも殺されるかも知れないという不安の中で三日間を過ごしていたのです。時にやさしく、弱々しく見える女性ですが男性よりも強くたくましく力を発揮する姿は、聖書の中でも語られています。
誰より先に墓に駆けつけたのは、弟子たちにも負けずイエスを慕い、イエスを愛する人びとでした。深い悲しみの中にあっても、暗闇に放り出されたようなときであっても、愛すること、愛の力が新しい力、大きな力を発揮するのです。
愛こそ、キリストによって与えられた光であり、揺るぎない希望であり信仰そのものでもあります。現代の不安の中でわたしたちが最も必要としている大切なものでもあります。
わたしたちも主の復活を祝いながら、聖なる婦人たちや弟子たちのように希望を持って新しい信仰生活にむかって歩みましょう。 この後、洗礼式がありますが、新しい仲間を教会の共同体に迎えて、一人ひとりが隣人と共に歌うアレルヤの喜びの声がいつまでも心の中に響きますように。また、春の司祭の異動で宣教司牧体制も少なからず変化することと思います。新しい心で互いに祈りましょう。』

4月19日(聖金曜日) 主の受難の祭儀

前日の聖木曜日のミサの後、祭壇から全てのものが取り除かれ、十字架や御像には紫布が掛けられました。


午後6時半から行われた「主の受難」の祭儀は、主イエスの受難と十字架上の死を記念するものです。ことばの典礼、十字架の崇敬、交わりの儀(聖体拝領)の3部で構成されます。


福音朗読ではヨハネ福音書の「受難の朗読」が読まれ、捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。

後藤神父様のお説教の後、「十字架の崇敬」が行われました。
「十字架の顕示」では、
十字架を持った司祭が「見よ、キリストの十字架 世の救い」と唱え、会衆が「ともに あがめたたえよう」とこたえました。


祭壇前に十字架が置かれた後、十字架の礼拝が行われました。


交わりの儀(聖体拝領)では、カテドラルホールに設置した仮祭壇の聖櫃に安置された御聖体を、後藤神父が聖堂へと運び、聖体拝領が行われました。


2019年4月18日木曜日

4月18日(木)主の晩餐の夕べのミサ

午後6時半から蓑島神父の主司式により、「最後の晩餐」を記念する「主の晩餐の夕べのミサ」が行われました。


ミサの中で洗足式が行われ、神父様が男性信徒の足を洗われました。


御ミサの最後に、聖体がカテドラルホールに設置した仮祭壇に安置されました。

ミサが終わった後、祭壇上の敷布、ローソクが外され、十字架、御像は紫の布で覆われました。

2019年4月14日日曜日

受難の主日(枝の主日)

今日から聖週間が始まりました。
棕櫚の枝を手にキリストのエルサレム入城を記念しました。


棕櫚の枝を手に持った信徒がカテドラルホールに集まり、蓑島神父から「枝の祝福」を受けました。



その後、行列は聖堂へと進みました。

福音朗読では、「ルカによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。
オリーブ山で、イエスを歓喜のうちに迎えた民衆は、その数日後に「十字架につけろ!」と激しく罵しりました。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『 「私の神よ、私の神よ、どうして私を見捨てられるのか。」答唱詩編の歌になっていました。今日の「枝の主日」、「受難の主日」から教会の典礼は、聖週間に入ります。 イエスの歩みは、今日私たちが聴いたように、その歩みは一直線に十字架に向かい、ナザレの田舎町出身のイエスの教えや神の業は人々の注目を集め、その噂は人々の心をかき立てるものでした。聖週間の典礼は「受難の主日」から始まり、エルサレムへの入城と主の受難という二つの出来事を記念しました。この日の典礼祭儀は、キリストの王としての「栄光の予告」と「受難の宣言」という、過ぎ越しの神秘の両面を含んだ祭儀が今、行われています。
 長い受難の朗読、それは主のエルサレム入城の記念として、約二千年前、ヘブライ人の子、イスラエルの民が「ホザンナ」と歌いながら主を迎えたことに倣い、荘厳な行列で今日も行われています。信徒一人ひとりがイエスのエルサレム入城をドラマチックに描くみ言葉に倣い、司祭から祝福を受けた枝を手に持って、荘厳な入城を心に留めながら私たちも聖堂に入って来ました。その後、みなさんが手にした枝は自宅に持ち帰り、キリストの復活を通した勝利の記念として一年間保存されることになります。

 教会は、受難と復活とを合わせて、これを「キリストの過越の秘儀」または「復活秘儀」と名付けています。なぜこの秘儀が重要かと言うと、これこそが神の救いのわざの中心であり、教会の存在自体もその秘儀に与っていると言われるからです。典礼憲章はすでに第5条で次のように宣言しています。「人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するこのみわざは、旧約の民のうちに神の偉業によってかたどられたが、主キリストは、主としてその幸いの受難と、死者の国よりの復活と、光栄ある昇天よりなる復活秘儀によってこれを成就され、この秘義によって『われわれの死を死によってうちこわし、生命を復活によって回復された。』十字架上に眠るキリストの脇より、たえなる秘跡である全教会が生じたのである」と述べているのです。
 したがって、全キリスト教的生活は、その復活の秘儀によって開始され、 一層、完全にそれにあずかることを目的としていたのです。イエスはエルサレムと全世界に平和をもたらす者として、人を犠牲にして、血と涙の代償として勝利を得たのではなく、自らの死をもって平和と正義をもたらすのです。しかし、イエスを「ホザンナ」と歓喜の声を上げて叫び歓迎した人々の多くは、やがて「キリストを十字架につけよ!」と叫んだのです。

 わたしたちの心の変化、人間の心の変化は、あっけなくも信頼から裏切りへと変わる人間の心理を見つめてしまいます。この受難の朗読を黙想すると、教会はキリスト復活の祝いの直前、一週間前の今日、何をわたしたちに何を訴えているのかと考えてしまいます。私たちはどんな思いで受難の朗読を聴いているでしょうか。あなたがたの信頼はいつまで続くのでしょうか?。私はそんな呼びかけを自分の中に感じています。あなたの信仰はそれで大丈夫ですかと……。
 そして、十字架の上から死を前にしても、なお「父よ、彼らをお赦しください」と嘆願されたイエスの心に、今日もまた、わたしたちの願いと祈りが繋がっているのだということも強く感じさせられています。この一週間、大切な日々を私たちは過ごしていきます。もう一度祈った言葉を噛みしめたいと思います「全能永遠の神よ、あなたは人類にへりくだりを教えるために、救い主が人となり、十字架を担うようにお定めになりました。わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。」と集会祈願に典礼的に祈りが示されていました。
  聖週間を迎え「聖なる三日間」を過ごす一週間となりました。火曜日には「聖香油ミサ」もありますが、今日は、み言葉を心に留めながら、受難のイエスに心を合わせ、主の祭壇の前でご一致に祈りましょう。』

2019年4月7日日曜日

四旬節第5主日

四旬節は自分の罪を自覚して、神とそして隣人と仲直りをする喜びの時でもあります。

この日は蓑島新司祭の北一条教会での初ミサでした。


ミサの中で、洗礼志願者の方への塗油が行われました。


蓑島神父様のお説教をご紹介します。


『子どもたち、昨日は午前中に侍者会、午後には黙想会とお疲れさまでした。
昨日はみんなで「けがれなき悪戯」というビデオを見ました。「パンとぶどう酒のマルセリーノ」という映画なのですが、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
12人の修道士がその子を愛情いっぱいに育てるという内容なのですが、マルセリーノはたくさんのやさしさと愛情をフランシスコ会の修道士からいっぱい受けて元気よく育っていきます。修道士の方もマルセリーノから笑顔と喜びをいっぱいもらっていく。
そんなマルセリーノですが、とてもわんぱくで悪戯好きでした。ある時、パンとぶどう酒が食堂からなくなります。実はマルセリーノが2階の聖堂にあるイエス様の像を見て、きっとお腹を空かしているに違いないとパンとぶどう酒を持って行くのです。とても優しい子供でした。そんなマルセリーノは天国にいるママに会いたいとイエス様に願いました。するとイエス様はその願いを聞き届けられて、マルセリーノを天国に導かれるという映画でした。
子どもたちは、昨日の黙想会を通じて、ぼくたち、わたしたちもマルセリーノのように、周りの人にいっぱいゆるされて、いっぱい支えられて、いっぱい愛されて、成長してきたことを黙想いたしました。決して当たり前ではない”ありがとう”の数々、それに気が付かなかったことを「ゆるしの秘跡」で、”ごめんなさい”と謝りました。そして”またよろしくね”と「主の祈り」と「アベ・マリアの祈り」を捧げたのでした。
どうか子どもたちには、いつまでも神様とみんなに愛されているということを忘れないでいて欲しいなと思います。元気に成長することを蓑島さんは祈っています。蓑島さんだけでなく、お父さんもお母さんも、おじさんもおばさんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、神様もみんな祈っていますので、これからも元気によろしくお願いしますね。

それでは、ここからは大人のお説教です。
今日の福音では、罪を犯してしまった女性と、罪は犯していないけれども悪意を持ってイエス様を陥れようとする律法学者とファリサイ派が登場します。この女性には罪の自覚はありますが、律法学者とファリサイ派の人々には罪の自覚がありません。律法に反していないので自分たちは正しい人間だと思い込んでいますが、心の中に悪意を抱いている時点で神から遠く離れた罪の状態にあります。罪とは律法を破ったかどうかではなく、神様の心と離れていくということです。
1週間前に読まれた「放蕩息子のたとえ」では、父の家から飛び出し放蕩の限りを尽くした弟が描かれていましたが、父の心から離れたことが弟の罪だったわけです。弟は父から離れていることの不幸を悟り帰ってきますが、お父さんは死んでいた息子が帰ってきたことを喜んだのでした。我が子が自分のもとに帰ってきた、ただそのことを喜んだのです。
罪の自覚は、神のみ心から離れてしまっていることに気が付くことです。律法学者やファリサイ派のように神から離れているという罪の自覚がなければ、回心することもゆるしを願うことも和解することもできません。神様と共に歩む喜びも、ゆるされることの喜びも知らずに生きることになります。

今日の福音ではまた、イエス様の不思議な行動が描かれていますが、イエス様はかがみ込んで地面に何かを書き始めました。実はこの地ユダヤを支配していたローマの裁判官は、無罪か有罪かという判決を下すときに、前もって必ず判決文を書いたのでした。それは誰もが知っている決まり事だったので、イエス様はローマの裁判官と同じやり方を示して、ご自身こそが真の裁判官であることを、唯一人間を裁くことができる神であることをお示しになっています。そのイエス様が、判決を言い渡しました。「あなたたちのなかで罪を犯したことがない者がまずこの女に石を投げなさい」と。
人を裁いたり誰かを悪意を持って陥れようとするのではなく、まず初めに自分自身の罪を自覚しなさい、と言ったのです。自分の心が神から離れていないかどうか、内省せよと促しています。
年長者から始まり全員が去っていきました。イエス様のことば、イエス様が下した判決を通じて、全員が”自分が神から離れている”ことに気付いたのです。誰もいなくなった時、イエス様は女に言いました。「皆があなたを罪に定めなかったように、わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。
ここに、人を殺すのではなく、生かそうとなさる神の姿が示されています。

さて、私たちの心はどうでしょうか?神様の心から離れていないでしょうか?悪意を持って隣にいる人の死刑判決文を書いていないでしょうか?人を殺すのではなく、生かそうとなさる神の心から離れてはいないでしょうか?

この四旬節は、和解する恵みの時です。神とそして隣人と仲直りをする喜びの時でもあります。それには罪の自覚が必要です。自分の心を見つめなおす恵みを与えて下さるように神に祈らなければなりません。
とはいっても、現実の私たちの心の中には、大なり小なり憎しみや怒り悪意が居座っています。そういう現実を前にしたとき、私たちはがっくり肩を落とすことがあるかもしれません。しかし、そこで私たちが大事にしなければならないのは肩を落とすことではなく、そういう私たちの現実を遥かに超えて全てを生かそうとなさる神に向かって祈ることです。自分の力ではできなくても、神が必ず私たちの心に和解の平安を取り戻してくださいます。

今日も神様は、私たちをご自分の許へと招き、一緒に歩むよう望んでおられます。私たちがどんなに神から離れようとしても、神ご自身が私たちをご自分の許へと連れ戻してくださいます。
第一朗読にも、「どんなに罪深いことがあっても、神はあなたの中で新しいことを行われる」とあります。第二朗読にも、「過去ではなく前を向いて、イエスとともに天におられる父に向かって、走り続けることが大切である」と語っています。
この一週間、天の”お父ちゃん”に全てを委ね、安心のうちに歩んでまいりましょう。』

ミサの後、カテドラルホールで蓑島神父様を囲んで歓談しました。
司祭を目指すようになったエピソード等をお話され、後藤神父様からは先輩としてのエールがありました。