2019年4月14日日曜日

受難の主日(枝の主日)

今日から聖週間が始まりました。
棕櫚の枝を手にキリストのエルサレム入城を記念しました。


棕櫚の枝を手に持った信徒がカテドラルホールに集まり、蓑島神父から「枝の祝福」を受けました。



その後、行列は聖堂へと進みました。

福音朗読では、「ルカによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。
オリーブ山で、イエスを歓喜のうちに迎えた民衆は、その数日後に「十字架につけろ!」と激しく罵しりました。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『 「私の神よ、私の神よ、どうして私を見捨てられるのか。」答唱詩編の歌になっていました。今日の「枝の主日」、「受難の主日」から教会の典礼は、聖週間に入ります。 イエスの歩みは、今日私たちが聴いたように、その歩みは一直線に十字架に向かい、ナザレの田舎町出身のイエスの教えや神の業は人々の注目を集め、その噂は人々の心をかき立てるものでした。聖週間の典礼は「受難の主日」から始まり、エルサレムへの入城と主の受難という二つの出来事を記念しました。この日の典礼祭儀は、キリストの王としての「栄光の予告」と「受難の宣言」という、過ぎ越しの神秘の両面を含んだ祭儀が今、行われています。
 長い受難の朗読、それは主のエルサレム入城の記念として、約二千年前、ヘブライ人の子、イスラエルの民が「ホザンナ」と歌いながら主を迎えたことに倣い、荘厳な行列で今日も行われています。信徒一人ひとりがイエスのエルサレム入城をドラマチックに描くみ言葉に倣い、司祭から祝福を受けた枝を手に持って、荘厳な入城を心に留めながら私たちも聖堂に入って来ました。その後、みなさんが手にした枝は自宅に持ち帰り、キリストの復活を通した勝利の記念として一年間保存されることになります。

 教会は、受難と復活とを合わせて、これを「キリストの過越の秘儀」または「復活秘儀」と名付けています。なぜこの秘儀が重要かと言うと、これこそが神の救いのわざの中心であり、教会の存在自体もその秘儀に与っていると言われるからです。典礼憲章はすでに第5条で次のように宣言しています。「人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するこのみわざは、旧約の民のうちに神の偉業によってかたどられたが、主キリストは、主としてその幸いの受難と、死者の国よりの復活と、光栄ある昇天よりなる復活秘儀によってこれを成就され、この秘義によって『われわれの死を死によってうちこわし、生命を復活によって回復された。』十字架上に眠るキリストの脇より、たえなる秘跡である全教会が生じたのである」と述べているのです。
 したがって、全キリスト教的生活は、その復活の秘儀によって開始され、 一層、完全にそれにあずかることを目的としていたのです。イエスはエルサレムと全世界に平和をもたらす者として、人を犠牲にして、血と涙の代償として勝利を得たのではなく、自らの死をもって平和と正義をもたらすのです。しかし、イエスを「ホザンナ」と歓喜の声を上げて叫び歓迎した人々の多くは、やがて「キリストを十字架につけよ!」と叫んだのです。

 わたしたちの心の変化、人間の心の変化は、あっけなくも信頼から裏切りへと変わる人間の心理を見つめてしまいます。この受難の朗読を黙想すると、教会はキリスト復活の祝いの直前、一週間前の今日、何をわたしたちに何を訴えているのかと考えてしまいます。私たちはどんな思いで受難の朗読を聴いているでしょうか。あなたがたの信頼はいつまで続くのでしょうか?。私はそんな呼びかけを自分の中に感じています。あなたの信仰はそれで大丈夫ですかと……。
 そして、十字架の上から死を前にしても、なお「父よ、彼らをお赦しください」と嘆願されたイエスの心に、今日もまた、わたしたちの願いと祈りが繋がっているのだということも強く感じさせられています。この一週間、大切な日々を私たちは過ごしていきます。もう一度祈った言葉を噛みしめたいと思います「全能永遠の神よ、あなたは人類にへりくだりを教えるために、救い主が人となり、十字架を担うようにお定めになりました。わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。」と集会祈願に典礼的に祈りが示されていました。
  聖週間を迎え「聖なる三日間」を過ごす一週間となりました。火曜日には「聖香油ミサ」もありますが、今日は、み言葉を心に留めながら、受難のイエスに心を合わせ、主の祭壇の前でご一致に祈りましょう。』