四旬節は自分の罪を自覚して、神とそして隣人と仲直りをする喜びの時でもあります。
この日は蓑島新司祭の北一条教会での初ミサでした。
ミサの中で、洗礼志願者の方への塗油が行われました。
蓑島神父様のお説教をご紹介します。
『子どもたち、昨日は午前中に侍者会、午後には黙想会とお疲れさまでした。
昨日はみんなで「けがれなき悪戯」というビデオを見ました。「パンとぶどう酒のマルセリーノ」という映画なのですが、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
12人の修道士がその子を愛情いっぱいに育てるという内容なのですが、マルセリーノはたくさんのやさしさと愛情をフランシスコ会の修道士からいっぱい受けて元気よく育っていきます。修道士の方もマルセリーノから笑顔と喜びをいっぱいもらっていく。
そんなマルセリーノですが、とてもわんぱくで悪戯好きでした。ある時、パンとぶどう酒が食堂からなくなります。実はマルセリーノが2階の聖堂にあるイエス様の像を見て、きっとお腹を空かしているに違いないとパンとぶどう酒を持って行くのです。とても優しい子供でした。そんなマルセリーノは天国にいるママに会いたいとイエス様に願いました。するとイエス様はその願いを聞き届けられて、マルセリーノを天国に導かれるという映画でした。
子どもたちは、昨日の黙想会を通じて、ぼくたち、わたしたちもマルセリーノのように、周りの人にいっぱいゆるされて、いっぱい支えられて、いっぱい愛されて、成長してきたことを黙想いたしました。決して当たり前ではない”ありがとう”の数々、それに気が付かなかったことを「ゆるしの秘跡」で、”ごめんなさい”と謝りました。そして”またよろしくね”と「主の祈り」と「アベ・マリアの祈り」を捧げたのでした。
どうか子どもたちには、いつまでも神様とみんなに愛されているということを忘れないでいて欲しいなと思います。元気に成長することを蓑島さんは祈っています。蓑島さんだけでなく、お父さんもお母さんも、おじさんもおばさんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、神様もみんな祈っていますので、これからも元気によろしくお願いしますね。
それでは、ここからは大人のお説教です。
今日の福音では、罪を犯してしまった女性と、罪は犯していないけれども悪意を持ってイエス様を陥れようとする律法学者とファリサイ派が登場します。この女性には罪の自覚はありますが、律法学者とファリサイ派の人々には罪の自覚がありません。律法に反していないので自分たちは正しい人間だと思い込んでいますが、心の中に悪意を抱いている時点で神から遠く離れた罪の状態にあります。罪とは律法を破ったかどうかではなく、神様の心と離れていくということです。
1週間前に読まれた「放蕩息子のたとえ」では、父の家から飛び出し放蕩の限りを尽くした弟が描かれていましたが、父の心から離れたことが弟の罪だったわけです。弟は父から離れていることの不幸を悟り帰ってきますが、お父さんは死んでいた息子が帰ってきたことを喜んだのでした。我が子が自分のもとに帰ってきた、ただそのことを喜んだのです。
罪の自覚は、神のみ心から離れてしまっていることに気が付くことです。律法学者やファリサイ派のように神から離れているという罪の自覚がなければ、回心することもゆるしを願うことも和解することもできません。神様と共に歩む喜びも、ゆるされることの喜びも知らずに生きることになります。
今日の福音ではまた、イエス様の不思議な行動が描かれていますが、イエス様はかがみ込んで地面に何かを書き始めました。実はこの地ユダヤを支配していたローマの裁判官は、無罪か有罪かという判決を下すときに、前もって必ず判決文を書いたのでした。それは誰もが知っている決まり事だったので、イエス様はローマの裁判官と同じやり方を示して、ご自身こそが真の裁判官であることを、唯一人間を裁くことができる神であることをお示しになっています。そのイエス様が、判決を言い渡しました。「あなたたちのなかで罪を犯したことがない者がまずこの女に石を投げなさい」と。
人を裁いたり誰かを悪意を持って陥れようとするのではなく、まず初めに自分自身の罪を自覚しなさい、と言ったのです。自分の心が神から離れていないかどうか、内省せよと促しています。
年長者から始まり全員が去っていきました。イエス様のことば、イエス様が下した判決を通じて、全員が”自分が神から離れている”ことに気付いたのです。誰もいなくなった時、イエス様は女に言いました。「皆があなたを罪に定めなかったように、わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。
ここに、人を殺すのではなく、生かそうとなさる神の姿が示されています。
さて、私たちの心はどうでしょうか?神様の心から離れていないでしょうか?悪意を持って隣にいる人の死刑判決文を書いていないでしょうか?人を殺すのではなく、生かそうとなさる神の心から離れてはいないでしょうか?
この四旬節は、和解する恵みの時です。神とそして隣人と仲直りをする喜びの時でもあります。それには罪の自覚が必要です。自分の心を見つめなおす恵みを与えて下さるように神に祈らなければなりません。
とはいっても、現実の私たちの心の中には、大なり小なり憎しみや怒り悪意が居座っています。そういう現実を前にしたとき、私たちはがっくり肩を落とすことがあるかもしれません。しかし、そこで私たちが大事にしなければならないのは肩を落とすことではなく、そういう私たちの現実を遥かに超えて全てを生かそうとなさる神に向かって祈ることです。自分の力ではできなくても、神が必ず私たちの心に和解の平安を取り戻してくださいます。
今日も神様は、私たちをご自分の許へと招き、一緒に歩むよう望んでおられます。私たちがどんなに神から離れようとしても、神ご自身が私たちをご自分の許へと連れ戻してくださいます。
第一朗読にも、「どんなに罪深いことがあっても、神はあなたの中で新しいことを行われる」とあります。第二朗読にも、「過去ではなく前を向いて、イエスとともに天におられる父に向かって、走り続けることが大切である」と語っています。
この一週間、天の”お父ちゃん”に全てを委ね、安心のうちに歩んでまいりましょう。』
ミサの後、カテドラルホールで蓑島神父様を囲んで歓談しました。
司祭を目指すようになったエピソード等をお話され、後藤神父様からは先輩としてのエールがありました。