昨夜の徹夜祭から一夜明け復活祭の朝を迎えました。
改めまして「キリストの復活」おめでとうございます。
この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『キリストの復活、おめでとうございます! 復活祭の朝を迎えました。待ちに待ったうれしい復活祭の日曜日です。
そして、洗礼を受けられた5名のみなさん、長い準備をしてお恵みにあずかりました。心よりお祝いを申し上げます。わたしたち教会共同体にとっても「復活祭」と共に新しい兄弟姉妹を迎えられる喜びです。おめでとうございます。
昨日は、「洗礼の約束の更新」をしたわたしたちでもありますが、復活したキリストの恵みと希望に満ちたいのちの輝きが、受洗者と共にみなさんの上に豊かに注がれますように。
典礼に関わり奉仕してくださり、この一週間、準備に明け暮れ少し疲れもたまってきた人もいることでしょう。毎日、事前の打ち合わせや準備がありました。神父のわたしでも一年に一度の儀式ですので、典礼儀式の細かな流れを忘れていることが多いのです。歌やオルガンにしても、十字架崇敬や聖体の安置異動、火の祝福、復活ローソクの祝別にしても聖堂から離れた場所で厳かにすすめるとすれば、典礼奉仕者のみなさんの準備と支えがなければ出来ないことなのです。ありがとうございました。 きょう一日、喜びに心弾ませて頑張りましょう。
侍者の奉仕をしてくださった子どもたちにも感謝します。毎日学校もありましたが、夜遅い時間まで笑顔で休むことなく奉仕してくださいました。 「昨日、声をかける」と、「学校では疲れるけれど、教会の奉仕は疲れない」と嬉しいことばが帰ってきたのです。みなさん、教会の子どもたちは何とも頼もしいではありませんか? 子どもたちを大事にしてください。
喜びの日を迎えましたが、聖書のみことばをもう一度、振り返ってみましょう。
親しい人びとの力ではどうすることもできなかった、愛する人イエスへの裁きは、残忍な姿を人目にさらす十字架の死という結果でした。
せめて遺体を引き取ろうとしたにもかかわらず、墓に着くとその石が取りのけてありました。「どこに置かれているのか・・・」と戸惑う婦人たちには、遺体がないことだけが、ただ心配でありイエスが復活したことは想像さえできないことで、茫然と亜麻布が置かれているのを見つめていました。
聖書を読み、聖書から物事を見つめて、この不思議な意味を知ることになるのですが、復活という出来事を当時の人はすぐには理解出来なかったのです。
泣いているマリアの後ろから、「マリアよ!」と呼びかける声で、その声の方がイエスだとわかったのです。
このことは、わたしたちが信仰生活をしていくことで、イエスとわたしとの関係を大切にしておくことがとても大事なことだと教えてくれているのです。神と出会うのは、みな個人です。一人の人間として神の前に立たされるのです。一人になる時に初めて、神とその人との交わりが生まれてくるのです。マリアはその関係を大切にしていたからこそ、「マリアよ」と呼ぶ声に気づいたのです。その呼びかける声は、生きている時のイエスの声 そのものでした。疑いもなくイエスは生きていると信じる事が出来るマリアとイエスとの関係でした。
わたしたちも復活の主に出会っているのです。困難や苦しみの中に立たされていても、たとえ自分の立っているところが墓場のような夢も希望もない所だとしても、墓が破られる時があるという信仰にならなければと思います。イエス・キリストの復活のゆえに信じなければならないのです。
苦しみに閉じ込められることなく、立ち上がり、新しい出発があるのです。
主の復活を新しい仲間と祝うと共に、信仰と信頼を再び取り戻して、心から一致して歩んでゆきましょう。』
ミサの後、奉納されたイースターエッグを後藤神父様に祝福していただき、皆さんにお配りされました。子供たちには特別に神父様からイースターカードのプレゼントがありました。
その後、会場をカテドラルホールに移し、復活祭と5名の受洗者方々の祝賀会、そして5年間お世話になった後藤神父様の送別会が行われました。