2015年6月29日月曜日

年間第13主日




 今日の集会祈願で、私たちは「生きる喜びを新たにすることができますように」と祈ってこのミサに入りました。イエスに出会い、イエスに触れることによって、新しい恵みの道が開かれていきます。

後藤神父様のお説教をご紹介します。



『今日の集会祈願で、私たちはどんな祈りを捧げてこのミサに入ったでしょうか?覚えていますか?
私たちは「生きる喜びを新たにすることができますように」と祈ってこのミサに入ったのでした。
私たちはどんな時に生きる喜びを感じるでしょうか?
喜びよりも、悲しみ苦しみの方が、私たちの心を支配しているのではないかと感じますが、喜びのある生活は誰もが願っていることだと思います。でも私たちの日常の生活の中では、喜びとか平和な時間はそれほど多くはないのかもしれません。日々の生活の中では満たされない思いの方が私たちの心を支配しているのかもしれません。そして様々な思いに私たちは動かされているような気がします。人間関係に悩んだり、傷付いたり、家族の問題や病気のこと、また生活を支える経済のことなど、様々な思いが私たち一人一人の心を溢れさせているのだと思います。そのような中で、誰もが焦りを感じたり、痛みを感じたり、生きる喜びはほんの瞬間あったとしてもすぐに忘れてしまう、そんな日常が私たちの生活なのかもしれません。
私は昨日、ピアノのコンサートに伺うことができ、日常では感じられない喜びと平和なひと時を与えられたことに感謝しています。とても静かで心を平和にする調べがあったり、水が光り輝いてほとばしる噴水のような音色を堪能することができました。
今日のみ言葉では、二つの奇跡が語られています。そしてキリストがもたらす救いが何であるのかを私たちに考えさせて下さっています。
主キリストの命に触れようとする人の思い、その信仰が喜びや恵みにつながっていくということ、さらにイエスに近付く道となるということ。信仰というものが、その人の行動に結びついて恵みや救いの喜びとなるということを私たちに告げている、そんな感動を与えてくれるみ言葉です。
私たちに感動を与えてくれるものはどこから来るのでしょうか?
幸せな日々は誰もが夢見ること、誰もが願うこと。でも幸せは自分の思うように選べないものでもあります。思いもよらないところで、病気になってしまったり、怪我をしたり、悲しい別れがあったり、死というものに出会うこともあります。それが私たちの現実であり、私たちの生活です。
そのような中で、今日の2つの奇跡に登場するヤイロという人は会堂長であったと記されています。かわいい娘の死の危険にあっているヤイロ。もう一人は女性で12年間という長い年月、やがて死に至る血の難病で苦しみ続けていました。血の病気というのは聖書の中で深い意味を持っています。当時のイスラエルの人々にとって、血というものは命のシンボルでもありました。宗教的な深い意味を持っているのが血です。そして、病気の治癒は、キリストが命に関わる力を持つ方であるということを表しています。
最初のお話に登場した会堂長とは、社会的にも尊敬される身分を持った人で、現代でいうと村長さんとか町内会長さんとかそういう立場の人を指しているのでしょう。身分もあり、経済的にも恵まれており、見かけ上は幸せそのものであるはずの家庭生活がそこにあります。でも、自分の思うようにはいかなかったというのが、この会堂長ヤイロの人生でした。かわいい盛りの娘さんが死の危険に脅かされてしまう。身分があっても、周りから尊敬されていたとしても、かわいい娘の突然の病気の前にはなすすべも無く無力でした。ただ心配と不安が、心を過ぎるだけでした。人々を慰める立場にもあった会堂長でしたが、今はそれどころではなく自分の娘のことしか頭にはありません。今はただ自分の無力を告白し、神の前に祈り助けを求め叫ばざるをえないという心境ではなかったかと思います。
しきりにひれ伏して頼んでくるヤイロの姿を見て、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ、死を超える力がイエスの中にあることを分からせます。ヤイロは死を超えるイエスの神秘に触れて自分を変えられようとしています。信仰によってイエスに出会い、新しい人生を歩まれた人は、私たちの周りにもたくさんいるかと思います。
イエスに出会い、イエスに触れることによって、新しい恵みの道が開かれていきます。娘の上に手を置いてください、というヤイロもまた、後半のお話にあったイエスの着物に触れるだけでも治していただけると思った女性も、イエスに向かう心と信仰のすばらしさを私たちに見せつけています。
聖アウグスチヌスは、「信仰とはイエスに触れることだ」という言葉を残しています。
私たちも一人一人に与えられた信仰によって、イエスに触れることができるように、祈り、そして学んでいかなければと思います。
イエスの奇跡はいつも信仰が前提となって現れることが聖書の中で告げられています。イエスこそ病と死を命に変える方、絶望的な状況にあってもただ信じることのみを私たちに求めている。私たち一人一人もある時は、霊的に死の危険の状況に追いやられることがあります。神さえも疑ったり、教会から離れてしまおうと思ったりと。でも私たちはイエスに触れることによって、変えられて恵みが与えられる、そして新しい命が与えられるということを体験していかなければと思います。そのためにも私たちは常に、祈りのうちでイエスに触れていくことが大切ではないでしょうか?
「あなたの信仰があなたを救った」というイエスのこの一言、やさしい言葉を私たちも聞くことができるように、そしてイエスに触れる喜びを互いに分かち合うことができるように、そうありたいと思っています。』

2015年6月21日日曜日

6月21日(日) 年間第12主日

今日の福音は、神への信頼について語られています。私たちもしっかりとイエスに目を据えて、多少の嵐があったとしても揺らぐ事のない信仰を生きることができるように祈りましょう。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんは日々の生活の中で、どのような不安を感じておられるでしょうか?
この一ヶ月間の行事などをとおして会話したなかでは、国会で議論されている憲法改正や自衛隊派遣のことが影響しているのかもしれませんが、戦争体験の話や将来の国の姿などが共通の話題にのぼっており、何かしらの不安を感じている方もおられます。
不安に耐えられず、弱音を吐くと、時にそれは信仰が足りないということになるのでしょうか。
今日、私たちが聞いた聖書の話の中で、向こう岸へ渡ろうというイエスの言葉に従って、弟子たちが舟を出しました。イエスと共にいれば不安などは無いはずだと思っていたかもしれませんが、そうではありませんでした。安全を脅かすような風が吹き嵐が起こって、弟子たちは不安になって助けを求めました。
嵐にはどのような意味が込められて物語が記されたのでしょうか。
もしかするとイエスの時代、迫害が起ころうとしていた、いや既に起こっていたのでしょう。激しい迫害の中で信仰が更に求められることが、この嵐の話につながっているのかもしれません。
自分の負うべき十字架を私たちは背負っているだろうか?そんなことを私は考えています。現実の不安や苦しみ悲しみがあった時、それを受け止める前に投げ出そうとしたり、嘆いたり不安に怯えたり、その試練や苦しみを背負うことができるということは、おそらくより神への信頼が必要なことなのかもしれません。今日の聖書の言葉をとおして、私は今そのようなことを思い巡らせています。
今日の聖書の言葉も先週に続いて、共感福音書のそれぞれで描かれているお話です。
湖に吹き荒れる嵐をイエスは一言で鎮めていますが、今日のマルコの福音では三つの場面でそれを描いています。
ルカ福音書、マタイ福音書においても同じような場面が描かれていますが、微妙に表現が異なっています。まず最初の場面で弟子たちの危機的状況とイエスの静けさが対比され強調されていることを読み取ることができます。ルカの福音では、ただ「突風」という表現が使われ、マルコの福音では「激しい突風」と”激しい”という言葉が付け加わっています。そしてその突風によって波をかぶって水浸しになるほどであったと描かれているので、よほど強く激しい風が舟を襲っていたということが想像できます。
荒れ狂う海というのは、神の支配に対する悪の力と考えられていた古代の人の考え方を想像すると、イエスによって嵐を鎮めるという力は、悪に対する神の偉大な力、勝利というものを示すかのようにも考えることができます。しかし、弟子たちはそんなことを他所にして不安にかられています。一方イエスは、舟の艫(とも、舟の後の方)で枕して眠っていたと描かれています。艫の方には舟を操る舵が付いていることから、イエスが舟の命運を握っているということを暗示しているのかもしれません。
第2の場面は、弟子たちの取った行動とそれに対するイエスの行動についての描写になります。弟子たちは我慢の限界を超えて、じっとしていられなくなりました。イエスを起こして、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言い始めます。マタイの福音では「主よ助けてください、おぼれそうです」という記述です。またルカの福音では「先生、先生おぼれそうです」という記述になっています。似たような表現が使われていますが、微妙に違っています。でも舟に乗っている弟子たちは、もともと漁師で荒くれ男であったかもしれません。そんな漁師が揺れる船に乗って不安になり、イエスに助けを求めるというのは、命の危険を感じるほどの状況であったのかもしれません。
イエスはこうした弟子たちの叫びに対して目を覚まし、権威のある口調で風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と命じられました。「黙れ。静まれ」という記述は他の福音には書かれていません。風を叱るイエス。私たちは聖書のいくつかの場面で、イエスの叱る行為を見てきています。イエスは常に悪霊に向かうときに、このような態度を取っていたというようにも考えられます。イエスのこの行為により、風は止み、すっかり凪になった。風もまた霊に通じる心理的な力を表すものとしても考えられるようです。
第3の場面は、イエスの言葉と弟子たちの言葉が紹介されます。イエスは「なぜ怖がるのか」と弟子たちにこう言われました。聖書の中で”怖がるもの”という言葉は、臆病な心から出てくるそうした恐怖を意味しているときに使われます。聖書の黙示録の中でも同じ表現がありますが、それは、不信仰なものに向けられて使われているそうです。
これらの3つの場面で、私たちはどんなことを感じ取り、黙想することができるでしょうか?
イエスと共にいるということは、どんなに悪い状況にあっても、またどんなに悪の力の攻撃を受けているときであっても、揺るがない信頼の源となるということを私たちに伝えているのかもしれません。
現代の私たちの生活の中にある不安、悲しみ、どうしようもない出来事のなかで、私たちは一体、何に目を向け、何を信頼して歩めばよいのでしょうか?
今日のお話を黙想しながら、天の御父の力強さ、そしてイエスの中に生きている神秘を証する力を私たちに伝えているような気がします。
今日は父の日ということでありますが、私たちが本当に信頼を持って人に接するということは、とても大事なことです。特に父の日にあたって考えるとすれば、愛を持って子供や家族に力強さを示せるような父の姿が、何よりも今、求められているのかもしれません。そして、私たちもしっかりとイエスに目を据えて、多少の嵐があったとしても揺らぐ事のない信仰を生きることができるように、今日もまた心をあわせて祈りたいと思います。』

2015年6月15日月曜日

年間第11主日 『からし種の喩え』

典礼は年間の季節に移り、祭服の色が緑色に変わりました。

今日はミサの後、恒例の「春の大掃除」が行われ、外国人の信徒も参加し、聖堂のステンドグラスや照明をきれいにし、敷地内の清掃等を行いました。
大掃除の後は、D地区の皆さんが用意していただいた豚汁とおにぎりをいただきながら、談笑しました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は、日差しが降り注ぐ日曜日になりました。
札幌の街中は、YOSAKOIソーラン祭りで大変賑やかになっています。

さて、今日の聖書の言葉を皆さんはどのように聞いたでしょうか?
からし種の話。共観福音書それぞれに、この「からし種の話」が取り上げられておりますので、人々に大変受け入れられた話だったのだと思います。
「神の国は一粒のからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
キリスト教の文化圏では、からし種というのは、信仰心や真理を表す宗教的な言葉としても使われるようになっているといわれます。
インターネットで調べてみたところ、西洋の国では小型の豆本タイプの聖書を「からし種」と呼ぶのだそうです。
「からし種」は、小さいものを表す最少の単位を表し、その小さいものから大きな成果が育つことの喩えとして使われるそうです。
季節が年間に移りました。
弟子たちの宣教の姿が、この年間の季節のみ言葉の中では特に描かれています。
今日のお話もその一つになっています。
イエスと共に歩み続ける弟子たち。イエスの教えを学び歩む弟子たち。そこに弟子たちの信仰の成長もみていくことができ、今日のからし種の話も私たちとって意義深い話となってくるだろうと思います。
年間の季節を迎え、少しゆっくりとした歩みの中で、私たちはイエスの教えに心を開いて、より一層深く心に留めるように歩んでいきたいと考えます。
分かっているつもり、知っているつもりの神の心やイエスの教えも、いつの間にか自分の思いが強くなって、イエスの思いがいつの間にか自分の主張になっていることが、よくあることではないでしょうか?イエスから学んだことを考え話しているつもりが、イエスから離れ自分の思いになってしまい、それを主張し、人とぎこちない話をしてしまったりすることもあるかもしれません。自分の思いが自分の期待以上に私たちを導いて下さるのが神様のはず、ですから神様の教えをいつも自分の中心に置いておかなければと思います。自分の中心に神様の心よりも自分を置いてしまうと、強く自信に満ちた自分になって、ぎこちない関係を人ともつくってしまうことがあるような気がします。
農業の生活から素材を得た今日のイエスの喩え話は、土を耕し種を土の中に蒔くと、やがて成長し実を結ぶという誰にでもわかりやすい内容です。
イエスは、種そのものの成長する力を強調しているように思います。成長には、育って大きくなること、成熟すること、熟成するという意味を持っていると思います。
私たちは日々成長しているでしょうか?私たちの心は日々熟成するように育っているでしょうか?
また、自然におおらかに育つという視点でみると、私たちは人生に違った味わいを持つことができるかもしれません。
当時の生活環境は今と比べると大変厳しいものでしたから、神の国に描かれる世界は、大変すばらしいと誰もが憧れる世界でした。永遠の憩いの場所としての神の国、イエスはそこに一人一人を招き導くために来たということを強調しました。
イエスが招き導く場所はどんなところかということを人々に知ってもらうために、イエスは神の国についていろいろな喩えで話をされたわけです。
そして、神の国のことを知り、それを理解すれば、誰もがそれを憧れるようになります。私たちもきっとそうなのだと思います。神の国がすばらしいものであるならば、生きている今も、そして死んだ後も、神の国に導かれることがどれほど素晴らしく待ち遠しいことになるのではないでしょうか。
しかし、神の国は、其処彼処にあるというものではないという話をイエスはされてきました。ではどこに?といった時に、神の国はあなた方の間にあるのだ、という言い方もされました。少し戸惑ってしまいますが、イエスは、神の国は、その種は、あなたたちの心の中にもあるのだということを話されたわけです。
私たちの心の中に蒔かれたその種とは、時にはイエスのみ言葉でもあります。、
私たちは、その神のみ言葉を聞いて受け入れることで、豊かな実を結ぶことができるということをもっと深く信じなければなりません。
私たちの心に蒔かれた神のみ言葉を、私たちは受け入れ、味わい、大切にして、そこから大きな成長があるということをもっと深く信じてもいいのではないでしょうか。
そのことが私たちの信仰を強め、福音宣教につながるのではないかと思っています。
み言葉を生きることは決して簡単ではないことですが、誰にでも出来ることだと思います。今日のからし種のみ言葉を心に置いて、そのみ言葉から私たち自身が成長できるように、今日もそのことを願いながらイエスの前に近付いていきたいと思います。』

2015年6月7日日曜日

6月7(日) キリストの聖体

6月に入り、札幌は新緑の季節を迎えています。

教会の欅の木もご覧のとおり、木陰ができるまで緑に覆われています。

教会にいるとゆっくりとした時の流れを感じますが、今年も既に6月になり半年が過ぎようとしています。まさに光陰如箭です。
北一条教会では先月の教会総会で櫻谷新委員長が選出されました。櫻谷委員長は1ヶ月の間に献堂100周年記念事業実行委員会を立上げ、会衆に聖堂内の静謐を求め、運営委員会と地区集会の機能性向上、、、その他にも数多くの発信をされ、様々な要因により散逸しつつある北一条教会共同体の一致に、適切なスケジュール感でもって取り組んでいる様に思います。教会共同体の一致は後藤神父が説教や集会等の場で良く言葉にされますが、勝谷司教が言われる「出向いて行く教会」の大切なコンディションの一つでもあると思います。櫻谷委員長に北一条教会共同体の適切な舵取りを期待しますが、委員長任せではなく私たちも共に汗を流して新しい北一条教会共同体を作って行きたいと思います。


「キリストの聖体」の祝日を迎えています。

聖堂の天井には、聖体の祝日を表す「I.H.S」のアルファベット3文字が刻まれています。このI.H.Sは、イエス・キリストを表しています。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『キリストの聖体の祝日を迎え、かつて行っていた聖体大会を思い出します。今日の聖体の祝日に相応しいシンボルが聖堂にある事をご存知ですか?天井の前方に目を向けて下さい、イエスキリストを表すIHS(Ihsouz Xristoz)の文字と、その上方に十字架、下方に3本の鎖が刻まれたシンボルがあります。また、天井の中央にはイエスのみこころが刻まれています。私たちは聖堂に入ってきますと、こうしたシンボルや壁面の絵によって沢山の黙想に導かれます。
さて、先ほど私たちはみことばを聞きました。みことばの中で、イエスは賛美と感謝を奉げて祈り、これは私の体であると唱えて新しい契約を示されました。死を目前にしたイエスは、最後の日、最後の時を過ごす中で弟子たちと共に食事の席についていました。そして食事をしながらご聖体を制定なさり、それが、私たちが続けているミサに繋がっています。ミサの歴史はイエスの死と復活を記念する教会の歩みでもあります。
私たちは、イエスキリストの贖いによって神に近づくものとなり、そして日曜日ごとにミサに与り、ミサの中でご聖体を頂いていますが、私たちはご聖体に対しどれくらい積極的に意識しているでしょうか?ご聖体を頂き祈るとき、私たちの心はどの様に結ばれているでしょうか?あまりにも習慣になり過ぎ、ご聖体に対し積極的に心が動かないということも多いのではないでしょうか?信仰において大切なご聖体に向かっていても、ご聖体を頂いても、心のうちに何の感覚もなく過ぎていくなら信仰における危険が入り込んでくるかもしれません。私たちにとってご聖体とは何でしょうか?ご聖体に対する意識はどの様に動いていたでしょうか?ご聖体を拝領する事によって、私たちは主の体に実際に与っています。主との交わりによって、私たちは共同体相互の交わりも高められています。「パンはひとつだから、私たちは大勢でもひとつの体です」私たち共同体にとっての大切なパウロの言葉です。私たちはキリストの体に深く結ばれ一つの体に繋がっています。ブドウとあの枝のように。私たちはもともとキリストに繋がった共同体であり、一つの体であり、私たち一人ひとりはその一つの部分です。
キリストの聖体、私たちは聖体拝領をするとき「キリストの御からだ」という言葉で拝領しています、今日、キリストの聖体を記念する祝日を迎えたことは大切なことです、ご聖体を心に留めて黙想するということも大切です。
私たちは自分の日常生活の中で、「祈っていても神様から何の返事も貰えませんでした、沈黙だけでした」「祈っていても神様は答えてくれませんでした」と言う話をすることがあるように思います。日曜日ごとにキリストを頂いている私たちにとって、常に私たちとともに居て下さるのはキリストであるはずです。私たちが見えないとしても、声を聞けないとしても、キリストは私たちとともに居てくださると言うことを決して忘れてはなりません。旧約の過越しが神の定めとして命じられたように、イエスも私たちに命じられ、私たちを導いておられるのです。ミサの記念は過去の出来事を思い出させながら、現在を照らし、未来に向かって変えていく力を導くものです。それは、イエスが死に打ち勝って、今尚生きておられる、生きておられるイエスを、ご聖体を通して私たちは一つになっているからです。キリストを信じ信仰を生きる私たちにとって、ご聖体をかたどるパンは人間の心と体を養うものです。
今日もミサを通してご聖体のイエス様を頂こうとしています。イエス・キリストが私たち一人ひとりのうちに来てくださることを感謝しながら、ミサの中でご聖体を賛美し感謝したいと思います。』