2015年6月21日日曜日

6月21日(日) 年間第12主日

今日の福音は、神への信頼について語られています。私たちもしっかりとイエスに目を据えて、多少の嵐があったとしても揺らぐ事のない信仰を生きることができるように祈りましょう。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんは日々の生活の中で、どのような不安を感じておられるでしょうか?
この一ヶ月間の行事などをとおして会話したなかでは、国会で議論されている憲法改正や自衛隊派遣のことが影響しているのかもしれませんが、戦争体験の話や将来の国の姿などが共通の話題にのぼっており、何かしらの不安を感じている方もおられます。
不安に耐えられず、弱音を吐くと、時にそれは信仰が足りないということになるのでしょうか。
今日、私たちが聞いた聖書の話の中で、向こう岸へ渡ろうというイエスの言葉に従って、弟子たちが舟を出しました。イエスと共にいれば不安などは無いはずだと思っていたかもしれませんが、そうではありませんでした。安全を脅かすような風が吹き嵐が起こって、弟子たちは不安になって助けを求めました。
嵐にはどのような意味が込められて物語が記されたのでしょうか。
もしかするとイエスの時代、迫害が起ころうとしていた、いや既に起こっていたのでしょう。激しい迫害の中で信仰が更に求められることが、この嵐の話につながっているのかもしれません。
自分の負うべき十字架を私たちは背負っているだろうか?そんなことを私は考えています。現実の不安や苦しみ悲しみがあった時、それを受け止める前に投げ出そうとしたり、嘆いたり不安に怯えたり、その試練や苦しみを背負うことができるということは、おそらくより神への信頼が必要なことなのかもしれません。今日の聖書の言葉をとおして、私は今そのようなことを思い巡らせています。
今日の聖書の言葉も先週に続いて、共感福音書のそれぞれで描かれているお話です。
湖に吹き荒れる嵐をイエスは一言で鎮めていますが、今日のマルコの福音では三つの場面でそれを描いています。
ルカ福音書、マタイ福音書においても同じような場面が描かれていますが、微妙に表現が異なっています。まず最初の場面で弟子たちの危機的状況とイエスの静けさが対比され強調されていることを読み取ることができます。ルカの福音では、ただ「突風」という表現が使われ、マルコの福音では「激しい突風」と”激しい”という言葉が付け加わっています。そしてその突風によって波をかぶって水浸しになるほどであったと描かれているので、よほど強く激しい風が舟を襲っていたということが想像できます。
荒れ狂う海というのは、神の支配に対する悪の力と考えられていた古代の人の考え方を想像すると、イエスによって嵐を鎮めるという力は、悪に対する神の偉大な力、勝利というものを示すかのようにも考えることができます。しかし、弟子たちはそんなことを他所にして不安にかられています。一方イエスは、舟の艫(とも、舟の後の方)で枕して眠っていたと描かれています。艫の方には舟を操る舵が付いていることから、イエスが舟の命運を握っているということを暗示しているのかもしれません。
第2の場面は、弟子たちの取った行動とそれに対するイエスの行動についての描写になります。弟子たちは我慢の限界を超えて、じっとしていられなくなりました。イエスを起こして、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言い始めます。マタイの福音では「主よ助けてください、おぼれそうです」という記述です。またルカの福音では「先生、先生おぼれそうです」という記述になっています。似たような表現が使われていますが、微妙に違っています。でも舟に乗っている弟子たちは、もともと漁師で荒くれ男であったかもしれません。そんな漁師が揺れる船に乗って不安になり、イエスに助けを求めるというのは、命の危険を感じるほどの状況であったのかもしれません。
イエスはこうした弟子たちの叫びに対して目を覚まし、権威のある口調で風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と命じられました。「黙れ。静まれ」という記述は他の福音には書かれていません。風を叱るイエス。私たちは聖書のいくつかの場面で、イエスの叱る行為を見てきています。イエスは常に悪霊に向かうときに、このような態度を取っていたというようにも考えられます。イエスのこの行為により、風は止み、すっかり凪になった。風もまた霊に通じる心理的な力を表すものとしても考えられるようです。
第3の場面は、イエスの言葉と弟子たちの言葉が紹介されます。イエスは「なぜ怖がるのか」と弟子たちにこう言われました。聖書の中で”怖がるもの”という言葉は、臆病な心から出てくるそうした恐怖を意味しているときに使われます。聖書の黙示録の中でも同じ表現がありますが、それは、不信仰なものに向けられて使われているそうです。
これらの3つの場面で、私たちはどんなことを感じ取り、黙想することができるでしょうか?
イエスと共にいるということは、どんなに悪い状況にあっても、またどんなに悪の力の攻撃を受けているときであっても、揺るがない信頼の源となるということを私たちに伝えているのかもしれません。
現代の私たちの生活の中にある不安、悲しみ、どうしようもない出来事のなかで、私たちは一体、何に目を向け、何を信頼して歩めばよいのでしょうか?
今日のお話を黙想しながら、天の御父の力強さ、そしてイエスの中に生きている神秘を証する力を私たちに伝えているような気がします。
今日は父の日ということでありますが、私たちが本当に信頼を持って人に接するということは、とても大事なことです。特に父の日にあたって考えるとすれば、愛を持って子供や家族に力強さを示せるような父の姿が、何よりも今、求められているのかもしれません。そして、私たちもしっかりとイエスに目を据えて、多少の嵐があったとしても揺らぐ事のない信仰を生きることができるように、今日もまた心をあわせて祈りたいと思います。』