2015年6月7日日曜日

6月7(日) キリストの聖体

6月に入り、札幌は新緑の季節を迎えています。

教会の欅の木もご覧のとおり、木陰ができるまで緑に覆われています。

教会にいるとゆっくりとした時の流れを感じますが、今年も既に6月になり半年が過ぎようとしています。まさに光陰如箭です。
北一条教会では先月の教会総会で櫻谷新委員長が選出されました。櫻谷委員長は1ヶ月の間に献堂100周年記念事業実行委員会を立上げ、会衆に聖堂内の静謐を求め、運営委員会と地区集会の機能性向上、、、その他にも数多くの発信をされ、様々な要因により散逸しつつある北一条教会共同体の一致に、適切なスケジュール感でもって取り組んでいる様に思います。教会共同体の一致は後藤神父が説教や集会等の場で良く言葉にされますが、勝谷司教が言われる「出向いて行く教会」の大切なコンディションの一つでもあると思います。櫻谷委員長に北一条教会共同体の適切な舵取りを期待しますが、委員長任せではなく私たちも共に汗を流して新しい北一条教会共同体を作って行きたいと思います。


「キリストの聖体」の祝日を迎えています。

聖堂の天井には、聖体の祝日を表す「I.H.S」のアルファベット3文字が刻まれています。このI.H.Sは、イエス・キリストを表しています。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『キリストの聖体の祝日を迎え、かつて行っていた聖体大会を思い出します。今日の聖体の祝日に相応しいシンボルが聖堂にある事をご存知ですか?天井の前方に目を向けて下さい、イエスキリストを表すIHS(Ihsouz Xristoz)の文字と、その上方に十字架、下方に3本の鎖が刻まれたシンボルがあります。また、天井の中央にはイエスのみこころが刻まれています。私たちは聖堂に入ってきますと、こうしたシンボルや壁面の絵によって沢山の黙想に導かれます。
さて、先ほど私たちはみことばを聞きました。みことばの中で、イエスは賛美と感謝を奉げて祈り、これは私の体であると唱えて新しい契約を示されました。死を目前にしたイエスは、最後の日、最後の時を過ごす中で弟子たちと共に食事の席についていました。そして食事をしながらご聖体を制定なさり、それが、私たちが続けているミサに繋がっています。ミサの歴史はイエスの死と復活を記念する教会の歩みでもあります。
私たちは、イエスキリストの贖いによって神に近づくものとなり、そして日曜日ごとにミサに与り、ミサの中でご聖体を頂いていますが、私たちはご聖体に対しどれくらい積極的に意識しているでしょうか?ご聖体を頂き祈るとき、私たちの心はどの様に結ばれているでしょうか?あまりにも習慣になり過ぎ、ご聖体に対し積極的に心が動かないということも多いのではないでしょうか?信仰において大切なご聖体に向かっていても、ご聖体を頂いても、心のうちに何の感覚もなく過ぎていくなら信仰における危険が入り込んでくるかもしれません。私たちにとってご聖体とは何でしょうか?ご聖体に対する意識はどの様に動いていたでしょうか?ご聖体を拝領する事によって、私たちは主の体に実際に与っています。主との交わりによって、私たちは共同体相互の交わりも高められています。「パンはひとつだから、私たちは大勢でもひとつの体です」私たち共同体にとっての大切なパウロの言葉です。私たちはキリストの体に深く結ばれ一つの体に繋がっています。ブドウとあの枝のように。私たちはもともとキリストに繋がった共同体であり、一つの体であり、私たち一人ひとりはその一つの部分です。
キリストの聖体、私たちは聖体拝領をするとき「キリストの御からだ」という言葉で拝領しています、今日、キリストの聖体を記念する祝日を迎えたことは大切なことです、ご聖体を心に留めて黙想するということも大切です。
私たちは自分の日常生活の中で、「祈っていても神様から何の返事も貰えませんでした、沈黙だけでした」「祈っていても神様は答えてくれませんでした」と言う話をすることがあるように思います。日曜日ごとにキリストを頂いている私たちにとって、常に私たちとともに居て下さるのはキリストであるはずです。私たちが見えないとしても、声を聞けないとしても、キリストは私たちとともに居てくださると言うことを決して忘れてはなりません。旧約の過越しが神の定めとして命じられたように、イエスも私たちに命じられ、私たちを導いておられるのです。ミサの記念は過去の出来事を思い出させながら、現在を照らし、未来に向かって変えていく力を導くものです。それは、イエスが死に打ち勝って、今尚生きておられる、生きておられるイエスを、ご聖体を通して私たちは一つになっているからです。キリストを信じ信仰を生きる私たちにとって、ご聖体をかたどるパンは人間の心と体を養うものです。
今日もミサを通してご聖体のイエス様を頂こうとしています。イエス・キリストが私たち一人ひとりのうちに来てくださることを感謝しながら、ミサの中でご聖体を賛美し感謝したいと思います。』