2018年3月30日金曜日

3月30日(金)主の受難の祭儀

午後6時半から行われた「主の受難」の祭儀は、主イエスの受難と十字架上の死を記念するものです。ことばの典礼、十字架の崇敬、交わりの儀(聖体拝領)の3部で構成されます。

福音朗読ではヨハネ福音書の「受難の朗読」が読まれ、捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。

後藤神父様のお説教の後、「十字架の崇敬」が行われました。
「十字架の顕示」では、
十字架を持った司祭が「見よ、キリストの十字架 世の救い」と唱え、会衆が「ともに あがめたたえよう」とこたえました。


祭壇前に十字架が置かれた後、十字架の礼拝が行われました。



交わりの儀(聖体拝領)では、カテドラルホールに設置した仮祭壇の聖櫃に安置された御聖体を、蓑島助祭が聖堂へと運びました。





3月29日(木)主の晩餐の夕べのミサ

「最後の晩餐」を記念する「主の晩餐の夕べのミサ」が、午後6時半から後藤神父様の司式により行われました。


ミサの中で洗足式が行われ、神父様が12人の男性信徒の足を洗われました。

御ミサの最後に、聖体がカテドラルホールに設置した仮祭壇に安置されました。

ミサが終わった後、祭壇上の敷布、ローソクが外され、十字架、御像は紫の布で覆われました。

2018年3月25日日曜日

受難の主日(枝の主日)

聖週間に入りました。


イエスのエルサレム入城を記念し、司教から祝福を受けた会衆が手に棕櫚の枝を持ち聖堂に入堂しました。


イエスのエルサレム入城を多くの人々が賛美し迎えましたが、それは受難の道の始まりでもありました。

福音朗読では、「マルコによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『聖週間に入りました。聖木曜日からの聖なる3日間は、典礼の中心になります。
 (この後、司教様はたばこを控える犠牲を例に取り、愛が必要であることに触れます。)

 犠牲が何であれ、その行為が何に向かっているのか。それによって価値が違ってくることを私は言いたいのです。何のための犠牲か。禁煙であれ、私たちの行う断食であれ、ほかの何かであれ、それが達成出来たとしても、それが愛に開かれていなければ、自分の意思を貫徹したという価値しかありません。何故ならそれは聖書が言うように、その人は「報いを既に受けている。」(マタイ6:2)と言われるものです。教会は断食を私たちに勧めていますが、それを掟として捉えるか、あなたへの罰など強迫観念で行おうとしているのか、そういう思いがあるのではないでしょうか。私たちの自己犠牲は愛に向かっているときに本当に価値のあるものとなります。逆に、人を愛するということは、必ず何らかの自己犠牲を伴います。何故なら、人は誰かを愛するとき、その人を喜ばそう、あるいは幸せにしよう、自分を変えよう。自分を超えていく努力をするからです。さらに、愛する人のために成す苦労は、むしろ自分の喜びともなります。そして、相手との関わりをより深めるために、質的に高めるために、進んで耐え偲ぶことができるのです。教会が私たちに求めている自己犠牲というものは、このようなことです。そこには義務や掟もありません。愛するためにあるいは愛されていることに、相応しく応えようとするためにそうするのです。

 そして、その最も優れた完全な模範を示されたのが、わたしたちの主イエス・キリストです。第2朗読にもあるように、イエスは神でありながら、すなわち全能の父である神と、父という名称を除いてはまったく変わることがない方でありながら、私たちと同じ無力な人間となられました。それは神を私たちに示すためです。旧約の人々は、そしてギリシアの哲学者たちがその言葉をもって、どんなに神を表現しようとしても、表し尽くすことの出来ない、想像を超越した神が、天地を造られ永遠から永遠まで存在されている神が、私たちの目に見えるかたちで、そして手に触れることのできるかたちで、私たちの中に住まわれています。
  そして神は、私たちの言葉と想像をはるかに超えた存在であるのに、私たちにしてみればその栄光と真逆としか思えない極端なかたちで、ご自身を示されました。それが十字架上での姿です。しかし、そこにこそ神の本性が表れているのです。神が愛であるから。それは、ご自分の全存在をまったくおしみなく、すべて私たち一人ひとりに与え尽くそうとされる神の無限の愛こそが、私たちが本当に神の愛ある懐で交わりを保つことが出来るように、神自らが私たちのために自己犠牲してくださったのです。死ぬことがあり得ない神が、私たちと同じ死すべき人となり、私たちと同じように死を味わられたのです。

 信仰生活とは、これほどまでに私たちを愛しておられる神のその愛に、いかにして応えていくかということです。神からの愛の交わりへの呼びかけに具体的な答えを生きること、これは私たちにとっての本当の犠牲であり、信仰者として進むべき道ではないかと思います。』


2018年3月21日水曜日

司祭叙階・助祭叙階式

3月21日(水)春分の日
晴天に恵まれたこの日、当教会聖堂でパウロ三木 佐久間力助祭の司祭叙階と、ボナヴェントゥラ 蓑島克哉祭壇奉仕者の助祭叙階式が勝谷太治司教の司式で行われました。
叙階式には、38名の司教・司祭団と500名近い信徒・関係者が参列しました。



助祭に叙階される者の約束(蓑島克哉祭壇奉仕者)

司祭に叙階される者の約束(佐久間力助祭)

按手

叙階されたお二人への花束贈呈と挨拶

佐久間新司祭の御絵



2018年3月18日日曜日

四旬節第5主日 「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」

私たちが歩むべき道と、神が示される道が、本当に一つになったとき、何の迷いも苦しみもなく幸せそのものであるのかもしれません。

この日のミサは、3日後に叙階式を迎える佐久間助祭と箕島神学生のお二人が奉仕をされました。お二人のためにたくさんのお祈りを捧げましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日から3日後に、それぞれ司祭と助祭の叙階を受ける佐久間助祭と祭壇奉仕者の簑島神学生の二人が今日のミサの奉仕をしてくれています。
 今読まれた福音の中でも「わたしに仕えようとするものは」とあったように、誰よりも何よりも神様と教会に仕えようとしている二人の上に、どうぞたくさんのお祈りを捧げていただきたいと思います。
 私自身も叙階式の準備のために司式の確認をしていたところでしたが、私にとっても「仕える」という言葉はとても心に響いています。ですから、今日の福音を叙階式の前に黙想するような思いで見つめています。

 自分の使命、自分の役割を自覚し、その全てを果たすことが出来るとしたら、人はどのように考えるものでしょうか?ある人は「これ以上の幸せはない、もう十分だ」そんな想いで言い切ることができるでしょうか?自分の使命、自分の役割を果たすことが出来るならば、それは本当に幸せそのものであろうと思います。そしてその幸せをさらに保って、成長させて生き続けたいと思うのは誰しもの願いかもしれません。
 イエスのことば、「わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」叙階を前に二人は、”救ってください”という祈りをしているでしょうか?それとも大きな喜び、救いそのものの中で神に心を開いているでしょうか?

 人生振り返ると、様々なことが思い起こされます。苦しい時もたくさんあります。しかし、そのような時に、共に歩んでくれた仲間がいるということを思うと、大きな励まし、力がそこから見出されます。
 私たちにとって主であるキリストは、どのような存在でしょうか?私たちの励み、力でしょうか?人によっては怖い存在、恐ろしい存在であるかのように強く感じている人も多いような気がします。私たちにとって共に歩む主イエスでありたいと願います。

 神の子として託された自分の使命を考えるイエス。完全なまでに父なる神に従う子としての役割を今終えようとして弟子たちと語り合っています。
 だんだんと近づいてくる十字架の死。この世を去る自分が、どのように神の栄光を表そうとしているのか。イエスには十分に理解されていることでした。しかし、人間イエスとして、苦しみ痛み、そして人々の救いへの思いがたくさんあったかと思います。
 誰もが経験する神の思いと自分の思い・願い、そこに時折大きな隔たりを感じることもあるかと思います。そしてその選択に迷いながら、私たちの日々、人生があるような気がします。神が願う選択が、正しく理解できるだけに、いくら祈っても自分の願いからは程遠いものに歯がゆく思うこともあります。それはその時、自分の願いが捨て難いために、神の選択に全てを捧げることが出来ない自分がいるからです。
 自分が背負うべき十字架なのだろうか?これがこの世で自分の命を憎むということに繋がってくるのだろうか?その神が示された一つの道と、自分が描き続けてきたもう一つの道の間で人は大きく揺れ動きます。絶対的な確信に至ることが出来なければ、迷いがいつまでも続くということになりそうです。イエスの道は迷う道ではなかったでしょうけれど、私たちはイエスの道を思い浮かべながら自分が歩むべき道と重ねて少し迷ってしまうような気がします。
 自由は時に残酷なようでもあります。天からの声が聞こえた時、イエスは迷いなく進むべき道に向かっていきましたが、私たちが歩んでいる今の道は徹底的に、神から示された道ではないことに時折気付かされます。私たちが歩むべき道と、神が示される道が、本当に一つに融合されるならば、何の迷いも苦しみもなく幸せそのものであるかもしれません。イエスが弟子たちと語り十字架の道に向かって歩もうとしている時、私はそのようなイエスの姿、イエスの心の内に触れるように、少し思い悩むような気がします。憧れもありますが、どこかで迷いも抱えている自分がいます。

 イエスはこの世から父の元ヘ移る自分の時が来たと悟っています。自分の死を受け入れ、私たちのために十字架に向かうことを決断されます。そのことは私たち一人一人をこの地上から引き上げ、天の自分の元へ引き寄せるためであった。永遠の命へ私たちを導くためであった。
 私は聖書の中で時々出てくる「永遠の命へ導く」というイエスの使命の言葉を聞きながら、この世に生きる私たちの信仰は、それほど強く永遠の命を意識していないという思いが強くあります。皆さんはどうでしょうか?日々の信仰生活、そしてその祈りの中で、永遠の命を希望する思いが強くあるでしょうか?
 永遠の命へ導くために私たちの元へ来られ、私たちと共に天の父を示されたイエス・キリスト。私たちの信仰の中で、そして私たちの本当の目的をしっかりと見極め、永遠の命の意識をもう少し強く持ちたいと思う時があります。
 この世に生きる私たち、キリスト者の永遠の課題、イエスの後に従って生きるために、必要なら命さえも惜しみなく捨てるべき、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」ということばが残されています。このイエスのことばが、もしかすると私たちを悩ませているというのが現実かもしれません。

 この世に生きている間は、この世の救いが限られたものであると分かっていても、私たちは天の御国のことよりも、やはりまだ現実の世で生きているときの幸せを、ただひたすら願っているような気がします。
 イエスの、「わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」
 いつの間にかそのことばは、私自身のことばにもなっています。ルカの福音ではっきりと述べられている「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 自分を捨てるということは必ずしも命を捨てるということに繋がらないかもしれませんが、私たち一人一人はどうしても自分中心、利己的な考え方から抜け出すことが難しいようです。人間としての喜びや幸せを放棄することの難しさがそこにあるのかもしれません。
 でもそのような悩みを抱えながらイエスの呼びかけに「はい」と答えることが出来ることを、私たちは願います。イエスの死が価値あるものと知っているからこそ、そのような生き方、信仰、教えを私たちは大切にします。
 父なる神のみ旨に一歩でも近づくことが出来るように願いながら、今日も私たちの信仰の道を歩み続ける決心をいたしましょう。
 そして主のご聖体が私たちの元に近づき、私たちの元で一つになります。そのことも大きな恵みそのものです。主の祭壇を囲みながら、私たちの祈りを捧げましょう。』

2018年3月11日日曜日

四旬節第4主日「洗礼志願式」

先々週の洗礼入門式に続いて、ミサの中で「洗礼志願式」が行われました。

代父母と会衆が見守る中、9名の志願者の方々が洗礼の意思を表明されました。

続いて、一人一人にニケア・コンスタンチノープル信条が授与され、一緒に唱えました。


最後に、後藤神父様から志願者の額に聖香油が塗油されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『四旬節第4主日を迎えていますが、今日は典礼で言うと、少し特別な四旬節の第4主日になっています。「バラの主日」を聞いたことがあると思います。今日の四旬節第4主日をかつては「バラの主日」と言っていたそうです。少し調べてみましたが、バラ色…誰でも華やかな色を想像すると思いますが、喜びを表すことにも繋がっているようです。何故、今日が、「バラの主日」、喜びが含まれた主日なのでしょうか。お手元の聖書と典礼の入祭唱のところを見てください。
 「入祭唱(イザヤ66:10~11参照)   神の民よ、喜べ、   神の家を愛するすべての者よ、ともに集え。   悲しみに沈んでいた者よ、喜べ。   神は豊かな慰めで  あなたがたを満たしてくださる。」
 喜びという言葉が出てきます。ここに四旬節の中にあっても、少し特別なバラの主日、喜びが含まれている主日になるようです。紫色の祭服を今着ていますが、紫は償うと言う意味を含む色だそうですが、その償いの精神を少し弱めて、復活という荘厳な喜びが近づいて来たんだということも、少し強く意識するバラの主日ということのようです。
  今は昔と典礼も変わってきて、バラの主日を強調するような典礼では、なくなってきています。しかし、教会の典礼の規則、「ローマ・ミサ典礼書の総則」従来の308項では、バラの主日のことが今も伝えられています。
 「ローマ・ミサ典礼書の総則」(暫定版) 346〔=308〕祭服の色に関しては、伝統的な使い方を守るものとする。 すなわち、(略)   f) ばら色は、習慣のあるところでは待降節第3主日(ガウデーテの主日)および  四旬節第4主日(レターレの主日)に用いることができる。
 今日は典礼のお話しから始まりました。「レターレ」という言葉がこの日に使われているそうです。グレゴリアン聖歌が好きな方はレターレの歌詞を思い出すかもしれません。
♪ Regina coeli laetare, alleluia:(レジナ シェリ レタレ アレルヤ)♪  レタレ アレルヤ、これは四旬節が終わって、復活節に入って、そのときに歌われるレジナシェリです。レタレは歓喜せよ。喜べという言葉です。ですから、復活節に入ると、天の元后、喜びたまえ アレルヤ。日本語でこの歌はあります。この喜び、これが四旬節第4主日を「バラの主日」にしています。

 今日のみ言葉は、ヨハネによる福音です。ファリサイ派でユダヤの議員であったニコデモとイエスの話しから、今日のみ言葉が語られています。このニコデモという人はファリサイ派の人でしたが、イエスが神と共にあることをすでに知っています、見ています。そういうニコデモは、イエスの行う数々のしるしを不思議にも思っていたようです。奇跡を見たり、奇跡の話しを聞いたりしながら、確かにこのイエスという人は神と共にあると違いない、そんなふうにも考えていましたが、充分な理解が出来ず、少し戸惑いがあったかのようです。イエスに話しかけるニコデモですが、イエスはニコデモに新しく生まれることが大切だとお話しをしています。新しく生まれると聞いたニコデモは、そんなことが可能でしょうかという答え方をして、イエスと話しをしているのが、今日の聖書でのお話しです。
 
 その話しの後に、今日の旧約聖書の話しも出て来ます。
  イエスは新しく生まれることに関連させて、旧約聖書の「蛇の話」のことが語られました。旧約聖書の民数記(21章)で描かれているお話しです。それはどういうことかと言うと、エジプトからイスラエルの民が導き出されたことは私たちも良く知っています。モーセに導かれて苦しい奴隷のような生活からエジプトから離れ、旅する民となりました。最初はエジプトの苦しみから解放されて喜んでいた民かもしれません。が、旅が長く続くと食べ物も大変です。お腹もすくし、天候も厳しいし、砂だらけ泥まみれの生活の旅でしたから、不平不満がだんだん大きくなってきたようです。
  飢えや渇きの中で厳しい辛い生活をイスラエルの民は、モーセに感謝の言葉どころか、つぶやき始めた。そして、やがて神とモーセに対しても逆らうようになってしまう。まさに、救いの計画の中で罪を犯すイスラエルの民となってしまいました。そんな日々が続く中で、モーセもその現状に悩み苦しんだでしょう。それで神は、罰として燃える蛇を天からイスラエルの民に降らせます。蛇に噛まれると焼け付くような痛み、激しい熱もきっとでたのかもしれません。蛇は炎の蛇と呼ばれるようにもなりましたが、多くの民が亡くなります。そんな日々が続く中で、自分たちの罪を認めた民はモーセに助けを求めました。モーセは神に祈り、イスラエルの民の罪を償って救うために神から言葉をいただきます。神は青銅の蛇を造って、それを見るものは救われると話されました。神が遣わした蛇に噛まれた者は、そのモーセが造って掲げた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われたのです。
  この場面を黙想すると、神の約束を信じて見つめる者は救われる、そん思いが私の心の中にも見えてきます。神の約束を信じて 見つめる者は救われる。それは新約の出来事で、イエスの十字架の購いにも繋がっているように思われないでしょうか。神に逆らい、罪を犯し、そうした人々がイエスの購いによって救われる。私たちはこの四旬節、高く掲げられた十字架のイエスを仰ぎ見、死から復活する、闇から光へ導く救いというものを黙想しているのではないでしょうか。黙想し祈っているのではないでしょうか。
 四旬節を歩む私たちの信仰を見つめる絶好のテーマが今日のみ言葉にもあります。四旬節、
もう一度私たちは今日のみ言葉に照らして、私たちの信仰から本当に救いに、闇から光に向かう 信仰の歩みを続けられるように祈っていくことが大事です。

 今日、もうひとつ触れなければならない出来事が、私たちの日本人の中に含まれています。
2011年3月11日、午後2時46分に発生した東日本大震災。7年が過ぎたことが報道され続けて来ました。日本の社会が体験した忘れられない出来事です。この大地震は多くの人の生活を一変させ、特に東北地方を中心とした多くの町の姿を変えてしまいました。今日の朝刊でも、一番新しい死者の数が記事になっていました。今なお、2千500人を超える人が行方が分からない、7年経ってもそんな状態が続いています。あの時を忘れない。忘れてはならない。復興支援がずっと続いています。カトリック教会も日本の司教様たちと共にいっしょに 犠牲者や被害者のために祈り、その支援を続けてきています。大震災を忘れないということ、忘れてはならないことで、東日本大震災の祈りも今なお、私たちは唱え続けています。
  私たちに出来る復興支援、少し関心が薄れてきているかもしれません。札幌教区の支援もこの春で、大きく変わろうとしています。これまでボランティアを毎月派遣することが変わるようです。ただ、支援は続けなければならないとして、何かもう少しちがったかたちで出来る事を考えなければと思います。インターネットで被災の状況をいくつか見ていました。祈りも大切なことは当然なのですが、祈りだけでなく今の私たちひとりひとり、今の自分に出来る支援を考えていきたいと思います。今なお、支援を呼びかけるインターネットの文書の中には、祈りという言葉は見あたりませんが、参考になることはたくさん出てきます。「応援しよう東北」私はそのあとのいくつかの言葉に興味深く心に留まりました。「買って応援、旅して応援、参加して応援、寄附して応援」こんな支援のかたちがあることが分かりました。私たちが出来る祈りと支援、忘れてはならないと思います。今なお仮設住宅から出られない人がたくさんいます。出たくても、お年寄りの一人住まいの方は、また不安な状況が生まれると聞いています。東日本大震災やそのほかの大きな事件や事故がありましたが。悲しむ人はたくさんいますが、今日改めて3月11日ということで、私たちは祈りを続けていきたいと思います。

  最後に、今日の志願式について触れたいと思います。入門式を先日(2月25日)行いました。洗礼の準備、回心式の準備を進めている人がいます。洗礼の決意を固めての、求道者としての最後の準備を進めていこうとしています。そして、入信の秘跡によって教会に加わることをこの洗礼志願式で確認して、使徒たちが伝えた使徒信条、信仰宣言をこの志願式の中で授与することになります。
  今日のみ言葉。青銅の蛇を仰ぎ見ることよって救われた民のように、皆さんとともに四旬節の準備をして、私たち一人ひとりも新しく生まれ代わる恵みを祈りたいと思います。』

2018年3月4日日曜日

四旬節第3主日

この日、主任司祭の後藤神父様は円山教会での黙想会と主日ミサで出かけられました。
代わりに、ケン神父様(ケネス・スレイマン神父)がお出でになり、主日ミサを司式されました。


終始和やかで楽しい雰囲気のミサでした。

派遣の祝福の後、神父様からのサプライズがありました。
お説教の最後に「神様は私達の健康を望みます。これを一つの宿題としましょう。病気の理由は水を飲まないことです。残りの四旬節の中で十分な水を飲みましょう」
とお話されておりましたが、神父様から抽選に当たった方々へミネラルウォーターのプレゼントがありました。

ケン神父様のお説教をご紹介しましょう。

『皆さん、おはようございます。四旬節第一日曜日のテーマは「断食」についてでした。第ニ日曜日は「祈り」についてでした。今日の第三日曜日は「施し」についてです。施しは愛ですね。今日の第ー朗読はモーゼの十戒を表します。1.2.3は神様への愛についてです。そして4-10までは隣人愛についてです。私達は十戒を守れば、神様と隣人の間に平和的な雰囲気が生まれるはずです。 第ニ朗読は聖パウ口による手紙ですが、その内容はイエス様の十字架上での犠牲についてのことです。当時の人々は、メシアのイメージは権力のある人間だと思われていました。そして、敵を倒すことのできる人だと思われていました。しかし、イエス様は、 私達、世の人々のために愛を通して自分の命を捧げました。彼は、 何も悪いことはしていませんが、当時の口ーマ帝国のリーダーと、 ユダヤ教のリーダー達の嫉妬を買い、死刑を言い渡されました。 イエス様の愛の模範は、私達の勝利です。そして、福音の中でイエス様は、神様の神殿の意味を新たに教えました。素晴らしい金で飾った建物ではなく、素晴らしい愛を持っている人間だと教えました。この福音は、救いの歴史の中での分岐点(ターニングポイント)です。私達の命の中での似ている体験は、53年前のバチカン公会議の変化のようです。皆さん覚えていますか?1965年、 突然ミサとお御堂が大きな変化をしましたね。神父はミサの祭壇の前に立って壁に向かって祈りましたが、バチカン公会議の後で、 祭壇を反対側において、神父は祈りながら信者達の顔を見ました。 それだけではなく、ラテン語をやめ、その国の母国語で祈りました。もちろん、ミサの祈りの仕方も変わり、私にとってー番衝撃的だったことは、「平和の挨拶」でした。なぜなら、英語でその平和の挨拶は「Kiss of Peace」と翻訳します。なので、ミサの中で神父様は「平和の挨拶を交わしましよう」と言い、大人達はお互いにキスをしました。若いケンちゃんにとっては衝撃的でした。特に私は侍者でしたので、隣の侍者に絶対キスはしないで、 握手をしました。またもうーつの衝撃は、その時のシスター達の服装は変化し、シスター達の髪と足が見えるようになりました。

この背景で、今日の福音のイエス様の神殿の掃除を考えましょう。 今日の福音はヨハネによる福音です。この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの福音の中にも記録されていますが、彼らはイエス様の人生最後のところで出会ったと記されています。ヨハネだけイエス様の公的な生活を始めたときから出会っていたそうです。それは大切な役割があります。その意味は、イエス様を通して、歴史が新たに始まることを意味しています。この箇所で、イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言った意味は、イエス様の御復活についてのヒントでした。それは、 イエス様がこの世に来た目的です。この箇所はヨハネの有名な印です。ソロモンの王様が、建てた神殿は神様の存在の印でした。 皆さんご存知のように、ソロモンの神殿の中心の場所の中で、モーゼから頂いた「契約の箱」を保管しています。もちろん契約の箱の中に「十戒」がありました。カトリック教会は、神様の新しい神殿です。教会はイエス様の身体の形です。伝統的な教会は十字架の形に建築されました。その目的は、イエス様の犠牲を忘れないようにする為です。ソロモンの神殿の中で神様に罪を償う為に、動物を買って捧げました。その背景でイエス様は、神様の小羊と言うニックネームが生まれました。そして、その理由でイエス様は後の将来の自分自身の犠牲を理解しながら、当時の神殿の動物達を開放しました。やはり彼は、捧げる小羊でしたね。ソロモンの神殿を完全に造ったときに、世界中に知らせを送りました。 なぜなら、ソロモンは全ての人間が神様の息子、娘である事を信じていました。そのために、神殿を建築するときにー部は、ユダヤ人のためだけではない部分を作りました。その場所から、祈ることができました。本当にイエス様は、ソロモンの夢をかなえました。イエス様は全ての人間のために命を捧げました。四旬節の中で、私達の為に何の課題があるでしょうか?やはり、聖パウ口と聖ペト口はこの課題を理解する為に有名な発表がありました。 聖パウ口は私達は神様の神殿ですと言いました。聖ペト口は私達は、神殿の生きている石だと言いました。そのために、今日の福音の大切な宿題がありますね。私達がもっと美しい神様の存在を表す為に、愛ではない言葉、行いをやめて、代わりにイエス様の模範に従って、お互いを尊重することです。私達神様の神殿があったら、建築は二つの部分です。身体と魂です。通常、四旬節の中で私達の身体のケアについて考えませんが、神様が私達の健康を望みます。これをーつの宿題としましょう。残りの四旬節の中で十分な水を飲みましょう。病気の理由は、水を飲まないことです。ありがとうございます。』

2018年3月2日金曜日

コンサートのお知らせ

2002年に札幌コンサートホール「キタラ」の第5代専属オルガニストを務めておられましたモニカ・メルツォーヴァさんのオルガン・コンサートが、カトリック北1条教会聖堂にて下記のとおり開催されます。ぜひお越しください!

◉ 第22回 カテドラルコンサート 4月21日(土)午後3時開演


◉ パイプオルガンによる子供音楽会 4月22日(日)午後2時30分開演(入場無料)